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ニーチェ

Friedrich Nietzsche·1844–1900·ドイツ·

神なき世界で、 どう生きる?

孤独と狂気の果てに、生の肯定を叫んだ思想家

  • 超人
  • 永劫回帰
  • 力への意志
科学が神への信仰を揺さぶり、人々が心の支えを見失いはじめた19世紀のヨーロッパ — ひらく

時代の空気

19世紀後半のヨーロッパは、1871年のドイツ統一とビスマルクの帝国経営、産業化と都市化、ダーウィン進化論と聖書高等批評による信仰の動揺が同時に進んだ時代だった。普仏戦争(1870-71)の勝利後のドイツは大学と古典文献学を国家の権威として整備、バーゼル大学のような独語圏スイスもこの学術圏にあった。バイロイト祝祭劇場(1876)に象徴されるワーグナー芸術の隆盛、産業労働者と社会主義の台頭、反ユダヤ主義の地下水脈が並走する。ニーチェはこの空気のなかで山と海辺の安宿を渡り歩いた。

01トリノの広場、馬を抱いた男

1889年1月3日、北イタリアの街トリノ、カルロ・アルベルト広場。一台の馬車の御者ぎょしゃが、馬をむちで打っていた。そのとき、一人の男が馬に駆け寄った。男は馬の首を抱きしめ、声を上げて泣いた。

「兄弟よ、すまなかった」。そうつぶやいたと伝えられる(真偽は確かでない)。警察が男を下宿へ連れ帰った。下宿の主人は、男の友人に電報を打った。「至急来られたし」。

男の名はフリードリヒ・ニーチェ、44歳。人間の強さを説き、あわれみを疑い続けた哲学者である。その人が、鞭打たれる馬を抱いて泣いた。そしてこの日を境に、理性を失った。残りの11年、彼が思想を語ることは二度となかった。

なぜ、強さの哲学者は馬を抱いて泣いたのか。その答えを探すために、時を45年、巻き戻そう。

02牧師館の子

1844年、プロイセン(今のドイツ)の小さな村レッケンに生まれた。父カール・ルートヴィヒは、村のルター派(キリスト教の一派)の牧師。生まれた日は、たまたま国王の誕生日と同じだった。それで少年は王の名をもらう。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。

その父が、彼が4歳のとき脳の病気で死んだ。半年後、弟ヨーゼフも2歳で世を去った。母と祖母と叔母たちの家に、男の子は彼ひとりが残された。女たちは彼を「小さな牧師」と呼んだ。教会で聖書を涙ながらに読む少年は、村の評判だった。

母フランツィスカは信心深い人だった。息子も父のように牧師になると信じて疑わなかった。妹は、兄を神に仕える人として深く愛した。この愛が後に何をもたらすかは、まだ誰も知らない。

少年は14歳で名門校に進んだ。そこで古典ギリシャ語とラテン語に出会う。ホメロスの詩、ギリシャ悲劇、プラトンの対話。ギリシャ人の世界は、聖書の世界と根本から違っていた。運命に立ち向かい、滅びの中でも美しくある人間たち。そこには罪も、赦しもなかった。

ボン大学、続いてライプツィヒ大学。神学(神について学ぶ学問)に入ったが、一学期で辞めた。移った先は、古代の文章を研究する古典文献学。母は深く悲しんだ。牧師館の子は、教会から静かに歩み去りはじめていた。この小さな一歩が、やがてヨーロッパの神そのものを揺さぶることになる。

0324歳の教授と、父のような音楽家

1869年、24歳のニーチェはスイスのバーゼル大学の教授になった。博士号も、教員の資格試験も、まだ持っていなかった。師リッチュルの強い推薦による、異例の人事だった。ライプツィヒ大学は慌てて、審査なしで博士号を授けた。

同じころ、彼は作曲家と出会う。壮大なオペラでヨーロッパを沸かせていた、55歳の大芸術家である。父のいない青年と、父親のような芸術家。二人の間に、激しい友情が始まった。

ワーグナーの家で過ごす週末、ニーチェは新しい考えをつかんでいく。古代ギリシャの悲劇は、人が生きることを肯定する力を持っていた。現代にも、それに代わる新しい神話が必要ではないか。ワーグナーの音楽こそ、その担い手ではないか。

1872年、最初の本『』を出した。秩序と形式を重んじる、なもの。陶酔とうすいと生命の力に満ちた、なもの。この二つの緊張から、ギリシャ悲劇は生まれた ― そう論じた。だが学界の反応は冷笑だった。論文としては文学的すぎ、音楽論としては学問的すぎた。

講義に集まる学生は、数人にまで減っていった。ニーチェは気にしなかった。彼の思考は、教室の外で育ちはじめていた。そしてワーグナーとの蜜月にも、終わりが近づいていた。

04決別、そして放浪へ

1876年、ワーグナーの夢の劇場、が開場した。大作『指環』四部作の記念すべき初演である。だがその祝祭のさなか、ニーチェは体調を崩した。彼は逃げるように山にこもった。ワーグナー芸術の勝利の日に、喝采の輪の中にいられなかったのだ。

翌1877年、新作オペラ『』の草稿を読む。ニーチェは絶望した。それは十字架の前にひざまずく、キリスト教の救いの物語だった。かつて共に夢見た新しい神話は、古い信仰へと帰っていく。

ニーチェは沈黙を選んだ。1878年、『人間的、あまりに人間的』を出す。短い言葉を連ねた、過去の師たちへの別れの書だった。本を受け取ったワーグナーは、返礼に『パルジファル』の台本を送ってきた。二人はその後、二度と言葉を交わさなかった。

1879年、頭痛と目の痛みは限界に達した。ニーチェはバーゼル大学を辞める。34歳。年金は、当時の労働者一家の食費ほどの額だった。以後は定職を持たず、ヨーロッパ各地の安宿を渡り歩いて生きる。

彼はすべてを失ったように見えた。父を、神を、師を、職を。だが本人は後に、この決別を自由の始まりと呼ぶ。安宿と山道で、いったい何が始まったのか。

深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗く。

『善悪の彼岸』146(1886年) ― 定住を捨て、独りで思索した放浪の日々に書きつけた警句

05山を歩き、書く

。スイス・アルプスの高地、標高1,800メートルの村。1881年の夏、ニーチェはこの村に宿をとった。以後10年、夏をここで過ごすことになる。

1881年8月、湖のほとりを歩いていたときのこと。同じ人生が無限に繰り返すという考え、が、稲妻のように降りてきた ― と後に書く。「同じ人生が、同じ瞬間が、無限に繰り返される。受け入れられるか?」。この問いが、次の本の背骨になった。

』。山に10年こもった賢者ツァラトゥストラが、人間たちに教えを伝えに下りてくる。そんな架空の預言者を語り手に、ニーチェは書きに書いた。聖書をまねた文体で書かれた、聖書に代わる本の試みだった。

人間とは、克服されねばならない何ものかである。君たちは人間を克服するために何をしたか

『ツァラトゥストラはかく語りき』第一部 序説(1883年) ― 山を下りたツァラトゥストラが、広場の群衆に初めて語りかける場面

だが出版社は嫌がり、ニーチェは自費で出した。第一部の読者は60人ほど。第四部は40部刷って、ほとんど配られなかった。孤独の中で書かれた本は、孤独の中で読まれずにいた。

冬は南の海辺の町々、夏はシルス=マリア。独り身で、食は細く、目は弱り、頭痛は日に数時間に及んだ。それでも彼は書き続けた。『善悪の彼岸』、『道徳の』。そして1888年には、一年だけで5冊を書き上げた。『偶像の黄昏』『反キリスト者』『この人を見よ』。ペンは異様な速さで走っていた。その先に何が待っているのかも、知らないままに。

06価値の逆転 ― ハンマーを持って哲学する

ニーチェの思想の中核は、簡単な言葉では掴めない。しかし彼自身が与えた比喩を使うなら、こう言える ― 彼はハンマーで哲学した。偶像を打ち壊すために。

最大の偶像ぐうぞうはキリスト教道徳だった。「謙遜」「あわれみ」「平等」「」「来世」。ニーチェの見立てでは、これらはすべて弱者が強者への恨みから作り上げた毒である。強く誇り高く生きる古代ギリシャ・ローマのに対し、ユダヤ=キリスト教はを持ち込んだ。復讐ふくしゅうの代わりに許し、勝利の代わりに謙虚、生の代わりに来世。「神」はこの毒の最終兵器である。

しかし問題は、神がすでに死んでいたことだ。「。われわれが殺した」(『よろこばしき知識』125)。近代科学と啓蒙が、信仰の土台を切り崩した。しかし近代人は、神を失ってなお奴隷道徳を引きずっていた。神なき平等、神なき憐れみ、神なき来世(=社会主義のユートピア)。道徳の根が腐っているのに、枝葉だけ残っている状態。

ニーチェはこれをと呼んだ。最高の価値が無価値化する時代。ここで二つの道がある。

一つは諦め。「どうせ無意味だ」と肩を落とす。 もう一つは創造。価値が無ければ、自ら創り出す。(Übermensch)とは、自分の生の価値を自分で立てる者のことだ。その者は永劫回帰に耐えられる ― 同じ人生を無限に繰り返せと言われて、「然り!」と答えられる者。

「然り」と言うこと。生を肯定すること。それがニーチェの究極の問いだった。

では、「然り」を説いた当人は、その生をどう生き終えたのか。トリノの広場に戻ろう。

07トリノの馬、ふたたび

1889年1月3日、カルロ・アルベルト広場。馬の首を抱いて泣き崩れた男を、私たちはもう知っている。憐れみを疑い抜いた哲学者が、憐れみそのもののような姿で倒れた。そのとき彼の中で何が起きていたのか。確かめるすべは、もう残されていなかった。

電報を受けた友人オーヴァーベックがトリノに着くと、ニーチェは別人になっていた。自分を神ディオニュソスと名乗り、ビスマルク宛ての手紙を書き、踊り、歌っていた。彼はバーゼルを経て、イエナの精神病院に運ばれた。診断は「進行麻痺」。現代の医学では、梅毒による脳の病、または父と同じ遺伝性の病と推測されている。

以後、11年の沈黙が続く。母フランツィスカが彼を引き取り、故郷ナウムブルクで看病した。ニーチェは椅子に座って庭を眺め、時々ピアノを弾いた。まれに微笑み、客の前でおかしそうに笑ったという。思考は、もう戻らなかった。

1897年、母が死に、看病は妹エリーザベトに移った。南米にドイツ人だけの国を作ろうとして失敗した、あの信心深い妹である。彼女は兄の遺稿いこう(残された原稿)の管理を引き受けた。そして断片的なメモを編集し、反ユダヤ主義とドイツ国粋主義の色付けを加えた。『』の題で世に出たその本は、兄の真意とは正反対だった。当時の世界は、この歪められたニーチェを受け取った。のちにナチスは、彼をゲルマン神話の先駆者として利用した。

1900年8月25日、ナウムブルクで死去。55歳、死因は肺炎だった。生の肯定を説いた男は、最後の11年を、何も語れないまま生きた。

なぜ、強さの哲学者は馬を抱いて泣いたのか。病の始まりだったことは、確かだろう。だが、それだけだったのか。誰にも分からない。分かっているのは、彼の書物が死後100年を超えて、今も読む者を目覚めさせ続けていることだ。そして、彼が最後まで手放さなかったのは、答えではなく問いだったことだ。同じ人生を、同じ瞬間を、無限に繰り返せと言われたら ― あなたは「然り」と言えるだろうか。

08主要な出来事と著作

  1. プロイセンの小村レッケンに誕生
  2. 父カール・ルートヴィヒ、脳の病で死去(4歳)
  3. シュールプフォルタ卒業、ボン大学入学(神学→古典文献学に転向)
  4. 24歳、バーゼル大学古典文献学教授に就任。ワーグナーと出会う
  5. 『悲劇の誕生』刊行 ― アポロン的/ディオニュソス的
  6. 『人間的、あまりに人間的』。ワーグナーとの訣別
  7. バーゼル大学辞職、年金生活へ
  8. シルス=マリアで永劫回帰の思想に触れる
  9. 『ツァラトゥストラはかく語りき』全四部刊行
  10. 『善悪の彼岸』刊行
  11. 『道徳の系譜学』刊行 ― 奴隷道徳の批判
  12. 一年で5冊を書く ― 『偶像の黄昏』『反キリスト者』『この人を見よ』ほか
  13. トリノで発狂、以後11年の沈黙
  14. ナウムブルクにて死去、享年55

残した思想の輪郭

  • 神は死んだ ― 近代科学と啓蒙が信仰の土台を切り崩した後の時代診断
  • 奴隷道徳への批判 ― キリスト教的「謙遜・憐れみ」は、弱者が強者への恨みから作り上げた価値観
  • ニヒリズム ― 最高の価値が無価値化する時代。直面すべきもの、乗り越えるべきもの
  • 超人(Übermensch) ― 既成の価値に頼らず、自分の生の価値を自分で立てる者
  • 永劫回帰 ― 同じ人生を無限に繰り返すことに「然り」と言えるか、という生の肯定の試金石
  • 力への意志 ― 生の根本にある自己超出の衝動
1889年トリノの街角で発狂。以後11年、母と妹に看取られ沈黙のうちに生きた。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

ニーチェが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ニーチェ・ハウス記念館

    ジルス・マリア, スイス — Nietzsche-Haus

    永劫回帰の着想を得た夏の住居。書斎と散策路がそのまま残る

  • ニーチェ文書館 (ヴァイマル)記念館

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    最晩年を過ごした家。遺稿と妹エリーザベトによる編纂の歴史的現場

  • レッケン生家 (ニーチェ・ドクメンテーションセンター)生誕

    レッケン, ドイツ — Nietzsche-Gedenkstätte Röcken

    1844 年に生まれた牧師館。両親と並ぶ墓所も同じ敷地内

さらに辿るならExternal References

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