カール・グスタフ・ユング
心のいちばん奥に、人類みんなに共通する層はあるのか? 「自分を生きる」とは、何を生きることなのか?
集合的無意識・元型・個性化・共時性を軸に、心理学を神話と東洋思想に接続した分析心理学の創始者
- 分析心理学
- 集合的無意識
- 元型
- 個性化
- 共時性
科学が心まで測りはじめた時代。それでも心のいちばん奥だけは、誰にも説明できずに残っていた。 — ひらく
時代の空気
19世紀末のスイス・トゥールガウは改革派教会の牧師館が地方の精神生活を律する地帯で、医学生のユングはバーゼルでクラフト=エビング『精神医学教科書』に出会った。1900年に助手となったチューリヒのブルクヘルツリでは、上司ブロイラーが統合失調症を命名する精神医学の最前線だった。1907年フロイトとの初対面は精神分析が国際運動になる入り口で、1909年にはクラーク大学で米国へ渡る。1913年のフロイト決裂と前後して「世界大戦の前兆」を幻視し、危機の年月を経て1923年から自ら石を積み始めたボリンゲンの塔と、1948年設立のC.G.ユング研究所が晩年の拠点となった。
01鍵のかかった赤い本
1913年、カール・グスタフ・ユングは38歳だった。スイスの精神科医として、名声は頂点にあった。国際的なの組織を率いる、心の医学の若き中心人物である。その彼が、この年、すべてを手放しはじめる。
師フロイトと決別した。病院の職も、大学で教える職も、すでに降りていた。そして、幻を見はじめた。圧倒的なイメージと、どこからか届く声。ヨーロッパが血に沈む光景を見た、それは世界大戦の前兆だったとも、自分は精神の病の入口に立ったとも、彼はのちに書いている。
ふつうなら、逃げる。医者なら、治そうとする。だがユングは逆を選んだ。夜ごと現れるイメージから目をそらさず、その一つひとつと対話したのだ。見たものは、まず黒い革の日誌に書きとめた。のちにその記録を、赤い革で装丁された大きな本へ清書していく。金の文字。中世の写本のような飾り絵。何年もかけた、たった一冊の手書きの本である。
彼はこの本を、生きているあいだ一度も世に出さなかった。存在を知っていたのは家族だけだった。世界的に知られた心理学者が、なぜ幻から逃げなかったのか。なぜその記録を、隠し続けたのか。
答えを探すには、時を38年前に戻す必要がある。スイスの小さな村の、牧師の家まで。
を意識化しない限り、それは我々の人生を方向づけ、そして我々はそれを運命と呼ぶだろう
02二人の自分――牧師の家から精神病院へ
1875年7月26日、スイス北部トゥールガウ州の村ケスヴィルに、男の子が生まれた。父パウルはスイス改革派教会の牧師。母エミーリエは、バーゼルの教会史の学者の家系の出だった。
幼いユングは、自分の中に二人の自分を感じていた。ひとつは、日常を生きるふつうの「第一の人格」。もうひとつは、古風で重々しい「第二の人格」。この奇妙な感覚が、のちの無意識の研究の原風景になる。
1895年、バーゼル大学の医学部に入学した。最初は外科医を目指していた。だが、精神科医の『精神医学教科書』に出会い、進路を変える。「ここに、客観的自然と精神の内的事実とが交差する唯一の場所がある」と感じた、と自伝『思い出・夢・思想』に記している。
1900年、チューリヒのブルクヘルツリ精神病院で助手となった。上司は、統合失調症という病名を生んだ。ここでユングは語連想実験に打ち込む。相手に単語を聞かせ、頭に浮かんだ言葉と、答えるまでの時間を測る実験だ。答えが不自然に遅れる単語の奥には、本人も気づかない心のしこりが隠れている。彼はそれを「複合(Komplex)」と名づけ、1904年に発表した。
1903年には、実業家の娘エンマ・ラウシェンバッハと結婚し、五人の子をもうけた。エンマは生涯、いちばん近くで彼の仕事を支える協力者であり続ける。
そのころウィーンには、同じく無意識を追う、もう一人の医師がいた。『』の著者、ジークムント・フロイトである。
03皇太子と呼ばれて――フロイトとの蜜月と決裂
1906年、ユングは『夢判断』を読み、フロイトに手紙を送った。翌1907年2月、ウィーンで初対面。二人は13時間ぶっ通しで話し込んだと、両者とも書き残している。フロイトは19歳年上だった。彼はこのチューリヒの若い医師を「皇太子(Kronprinz)」と呼んだ。
1909年、二人はそろってアメリカのクラーク大学に招かれる。心理学者G.S.ホールの主催で講義を行った。ヨーロッパの外で、精神分析が初めて公に認められた場だった。1910年には国際精神分析協会が生まれ、ユングが初代会長に就く。34歳だった。
だが蜜月は長く続かない。フロイトは――心を動かす根本のエネルギー――を、性のそのものと考えた。ユングには、それだけでは説明できないものが見えていた。1912年、彼は『リビドーの変容と象徴』を出し、リビドーをもっと広い心のエネルギーとして描き直す。フロイトはこれを、性欲論への裏切りと受け取った。
すれ違いは理論だけではなかった。ユングは1909年ブレーメンと1912年ミュンヘンで、フロイトの前で二度気を失っている。フロイトはこれを「息子による父殺し願望」と解釈した。ユングには、その解釈こそ上からの決めつけに思えた。「父と息子」の関係そのものが、限界に来ていたのである。
1913年、ミュンヘンの学会で二人は公然と対立した。手紙のやりとりは、その年のうちに途絶える。翌1914年、ユングは会長を辞め、協会そのものからも去った。
師も、地位も、居場所も失った38歳。物語はここで、あの赤い本の入口に戻ってくる。
04内側への降下――『赤の書』の年月
1913年から1917年まで、ユングは深い心の危機の中にいた。押し寄せる幻。声。だが彼は、それを病として片づけなかった。自分の内側のイメージと対話することに、時間を費やしたのだ。
その対話の記録が、のちに『』(Liber Novus)と呼ばれる本になる。黒い日誌(のちに Black Books と呼ばれる)に書きとめた素材を、赤い革の大判の本へ、中世写本ふうに清書し、飾りつけていった。治療の記録でも、哲学書でもない。幻との対話の記録である。世に出たのは、ずっとのちのことになる。
この年月のイメージから、彼の主要な考えが形になっていった。――個人の経験をこえて、人類に共通する心の古い層。(Archetypus)――その層からくり返し立ち現れるイメージの型。(自分が認めたくない側面)、アニマ/アニムス(心の内にある異性の像)、老賢者、そして心全体の中心である(Selbst)。これらは概念であると同時に、夜ごと現れる対話相手だった。
1921年、危機の中で練り上げた考えを『』にまとめる。心の向きを内向と外向に分け、思考・感情・感覚・直観という四つの働きと組み合わせて、八つの型を示した本だ。
長い危機は、こうして終わった。彼は内側の世界から、生涯分の素材を抱えて戻ってきた。次に向かう先は外の世界――遠い土地の神話である。
外を見る者は夢みる、内を見る者は目覚める。
05石を積む人――塔と共時性と晩年
1920年代から1940年代にかけて、ユングは世界各地の神話と象徴を訪ね歩いた。1925年から26年にはアフリカ・エルゴン山のふもとに滞在。1938年にはインドへ。アメリカではプエブロ・インディアンの土地、アリゾナのタオスも訪ねた。どの文化にも同じ元型がくり返し現れることを、確かめる旅だった。
同じころ、彼はに深入りしていく。ふつうの金属を金に変えようとした、中世の技術である。ユングはその古い文献を、心の奥のイメージが映し出された記録として読み直した。そこから、(Individuation)という考えが育っていく。人生の前半の仕事が社会に適応することなら、後半の仕事は内へ向かうこと。自分の中の深い層に下り、しかし呑み込まれずに戻ってくること。ひとことで言えば、自己を生きるプロセスである。
東洋の古典にも近づいた。『易経』や禅の本に序文を寄せ、西洋の道と東洋の道を注意深く並べた。ただし、安易に混ぜ合わせることは戒め続けた。
1923年、チューリヒ湖畔のボリンゲンで、彼は自分の手で石を積みはじめる。以後数十年かけて増築される、石造りの塔である。電気も水道も引かない。薪で暖を取り、石に彫刻を刻み、夢を記録した。「ここで私は、自分の人生の中心に最も近い」と彼は書く。
1948年にはチューリヒにC.G.ユング研究所が生まれ、彼の心理学を学ぶ拠点となった。1952年には物理学者との共著で、(Synchronizität)という考えを世に問う。原因と結果では結べない二つの出来事が、意味でつながって起こる現象――夢で見た人物が翌朝ふと電話をかけてくる、というような偶然のことだ。
1955年、妻エンマが亡くなる。静けさの中で、彼は自伝『思い出・夢・思想』の口述を進めた(Aniela Jaffé 編、刊行は1962年)。1959年、BBCのインタビュー「Face to Face」(聞き手 John Freeman)で「神を信じるか」と問われ、こう答えている。「信じる、とは言わない。私は知っている(I know)」。
1961年6月6日、キュスナハトの自宅で死去。85歳だった。いまはキュスナハト教会墓地に眠る。
そして、あの赤い革の本。彼は最後までそれを公にしなかった。本が世に出たのは死から48年後の2009年、孫の承諾によってである。なぜ彼は幻から逃げなかったのか。なぜ記録を隠し続けたのか。ここまで歩いてきたあなたなら、もう自分の答えを持っているはずだ。最後に、問いがひとつだけ残る。あなたが「運命」と呼んで済ませているものの中に、まだ目を向けていないあなた自身はいないだろうか。
06思想の見取り図――複合から共時性へ
ブルクヘルツリ時代の語連想実験は、特定の刺激語に対する反応時間の遅延・生理変化から、意識下に抱えられた情動的な観念の集まりを検出する方法だった。ユングはこれを「複合(Komplex)」と名付け、1904年の『診断的語連想研究』で発表する。客観的に測定可能な形で無意識の痕跡を捉える装置として、フロイト自身がこの仕事を高く評価した。
フロイトとの理論的対立の核心はリビドー概念にある。フロイトはリビドー=性的欲動という一元論を譲らなかったが、ユングは1912年『リビドーの変容と象徴』(Wandlungen und Symbole der Libido、のち大幅に改訂されて『変容の象徴』Symbole der Wandlungとなる)で、リビドーをより一般的な心的エネルギーとして再定義し、神話や宗教像をその象徴的変換と読んだ。
『心理学的類型』(Psychologische Typen、1921)の類型論は単なる性格分類ではなく、フロイト派とアドラー派との方法論的対立(リビドーの性欲解釈 vs. 権力への意志)そのものを、分析家自身の類型的偏向として位置づけ直す試みだった。類型論の序章でユングは、思想史上の敵対――ルターとツヴィングリ、プラトンとアリストテレス――を、主観=外向/内向と機能の偏りから再読する。のちのマイヤーズ=ブリッグス式指標(MBTI)はこの類型論を土台にブリッグス母娘が発展させたものだが、ユング自身は類型を診断ラベルとして固定することに生涯警告を発し続けた。
一見、中世の疑似科学にしか見えない錬金術文献を、ユングは投影された無意識の象徴体系として読み直した。『』(1944)、『アイオーン』(1951)、『結合の神秘』(1955-56)の三部作で、錬金術の「卑金属から金へ」という過程を、心理学的な個性化――すなわち自己を生きるプロセス――のアレゴリーとして再構成したのである。
個性化とは、エゴが自己(Selbst)と出会う過程である。影を引き受け、アニマ/アニムスと関係を結び、自分の中の集合的な層に下り、しかし呑み込まれずに戻ってくる。人生の後半、とくに40歳以降の課題。若さの仕事が社会への適応だとすれば、後半の仕事は内への適応である、と『心の構造と力動』で彼は書く。東洋思想への接近もこの文脈にある。リヒャルト・ヴィルヘルム訳『黄金の華の秘密』序文(1929)、『易経』への序文(1949、カリー=ベインズ英訳)、鈴木大拙『禅仏教入門』への序文(1939)。西洋の個性化の道と、禅・道教の悟りの道を注意深く並置し、しかし安易な合体を戒めた。
共時性(Synchronizität)は、因果関係で結べない二つの出来事が「意味」において接続して起こる現象を指す。患者が黄金の甲虫の夢を語っているとコガネムシが窓に飛び込む、という診察室の逸話が知られる。1952年、ヴォルフガング・パウリ(量子力学のノーベル賞物理学者)との共著『自然現象と心の構造』(Naturerklärung und Psyche)で正式に提示された。ユングとパウリは1930年代から十数年の往復書簡を重ねた――物理学者が内的イメージの分析を受け、心理学者が量子力学の非局所性に耳を傾ける稀有な対話である。
07主要な出来事と残した思索の輪郭
- 7月26日、スイス・ケスヴィルの牧師館で誕生
- バーゼル大学医学部、精神医学へ転向
- チューリヒ・ブルクヘルツリ精神病院、ブロイラーに師事
- エンマ・ラウシェンバッハと結婚
- 語連想実験、複合(Komplex)概念を確立
- ウィーンでフロイト初対面、13時間の対話
- フロイトとクラーク大学講演、米国で精神分析公認
- 国際精神分析協会初代会長、34歳
- 『リビドーの変容と象徴』でフロイトと理論的決裂
- 国際精神分析協会会長職辞任、協会からも脱退
- 「死者との対面」の危機、『赤の書』の幻視期
- 『心理学的類型』、内向/外向と四機能
- ボリンゲンの塔、着工(以後数十年自身で増築)
- ヴィルヘルム訳『黄金の華の秘密』序文、東洋思想との本格対話
- 錬金術三部作、個性化の象徴論
- チューリヒにC.G.ユング研究所設立
- パウリと共著『自然現象と心の構造』、共時性
- BBC「Face to Face」──「私は知っている」
- 6月6日、キュスナハトで死去、85歳
残した思索の輪郭
- 複合(Komplex) ― 測定可能な無意識痕跡の発見、精神分析の初期貢献
- 集合的無意識と元型 ― 個人史を超える心的古層、神話との体系的対話
- 個性化(Individuation) ― エゴが自己と出会う人生後半の課題
- 影・アニマ/アニムス・老賢者・自己 ― 内的対話の相手としての元型群
- 心理学的類型論 ― 内向/外向と四機能、現代の性格類型論の源流
- 共時性(Synchronizität) ― 因果なき意味連関、パウリとの物理学=心理学対話
- 東洋思想との対話 ― 易経・禅・道教への序文群、安易な合体を戒める越境
つながり
- ニーチェ
先駆 — ユングが10年かけて講義し続けた『ツァラトゥストラ』。その書き手の物語へ。
- ジークムント・フロイト
先駆 — ユングが「父」と仰ぎ、やがて決別した人。裂け目はリビドー一元論だった。
- 西田幾多郎
同時代 — 同じ交流の場のこちら側で、「絶対無」の形而上学を築いた哲学者がいた。
- ゴータマ・シッダールタ
共鳴 — ユングが「自己」の元型の象徴として読み直した、目覚めた人。
さらに読むならFurther Reading
カール・グスタフ・ユングの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
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生きた跡を辿るPlaces
カール・グスタフ・ユングが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ユング博物館(ボーリンゲンの塔 ではなくキュスナハトの家)住居
キュスナハト, スイス
ユングが生涯の大半を過ごした邸宅、保存されて公開
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