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ジークムント・フロイト

Sigmund Freud·1856–1939·オーストリア·

言いまちがい、忘れられない夢、なぜかくり返す失敗―― あなたを動かしているのは、本当に「あなた」だろうか?

無意識を「発見」し、夢・抑圧・エディプスを通じて人間理解を書き換えた精神分析の創始者

  • 精神分析
  • 無意識
  • 夢解釈
  • リビドー
  • エディプス
帝国の都ウィーンに学問と芸術が花開き、そのすぐ隣で、ユダヤ人への憎しみが静かにふくらんでいた。 — ひらく

時代の空気

19世紀後半から20世紀前半のウィーンは、ハプスブルク帝国の首都として多民族・多言語の知識人が集まり、シャルコーらの神経学、医学、文学、絵画が同時に栄えた都市文化の中心だった。ユダヤ系市民は法的解放を経て中産層を担ったが、反ユダヤ主義の波も繰り返し押し寄せた。第一次世界大戦の戦争神経症、戦後の経済混乱、1933年ベルリンでの焚書、1938年ナチスドイツのオーストリア併合により、フロイト一家はロンドンへ亡命を余儀なくされた。

01最後の約束――1939年9月23日

1939年9月23日、ロンドン郊外のハムステッド。83歳のジークムント・フロイトは、死の床にあった。口蓋こうがい(口の中の上あご)の癌と闘って16年。受けた手術は33回に及んでいた。

その日、彼は主治医のマックス・シュールに求めた。前から二人で合意していた、最後の約束を果たすことを。苦しみを終わらせるモルヒネの投与である。医師は約束を守り、フロイトはその日のうちに亡くなった。

不思議に思わないだろうか。彼は生涯をかけて、「は自分の家の主人ではない」と説いた人だった。人は自分で自分を動かしているつもりで、じつは心の奥の見えない力に動かされている、と。その彼が、人生の最後の一歩だけは、はっきりと自分で決めた。

なぜ彼は、心の奥に「見えない力」があると考えるようになったのか。その考えは、なぜ世界を揺さぶったのか。時は83年前にさかのぼる。

02黄金のジーギ――フライベルクからウィーンへ

1856年5月6日、フロイトはオーストリア帝国モラヴィア地方の町フライベルク(現在のチェコ・プシーボル)に生まれた。父ヤーコプは毛織物を商う人。母アマリアは父の三番目の妻で、父より21歳も年下だった。幼い彼は「黄金のジーギ」と呼ばれ、母の愛を一身に受けて育つ。のちに彼は「母に絶対的に愛された男は生涯、征服者の感情を持ち続ける」と書いた。

1860年、暮らしに行きづまった一家はウィーンへ移った。フロイトはこの街に、1938年まで住み続けることになる。学校では首席を通し、1873年、17歳でウィーン大学医学部に入学した。生理学者エルンスト・ブリュッケの研究室で、ザリガニの神経細胞を調べる日々。8年かけて、1881年に医学博士号を取った。

しかし、研究だけでは暮らしが立たない。1882年にマルタ・ベルナイスと婚約したこともあり、彼は純粋な研究をあきらめ、患者を診る医師に転じた。

1885年の秋、彼はパリへ留学する。サルペトリエール病院の神経学者のもとで、彼は驚くべき光景を見た。――体に異常が見つからないのに、まひや発作が起きる病。その患者が、催眠術によって症状を再現してみせるのだ。体の故障ではなく、心が受けた傷(心的外傷しんてきがいしょう)が体の症状を生むのではないか。この発想が、フロイトの出発点になった。

1886年、ウィーンで開業し、同じ年にマルタと結婚。六人の子に恵まれた(末の娘アンナは、のちに児童の母と呼ばれる)。診察室に来るのは、パリで見たような患者たちだった。目に見えない心の傷に、どうやって手を届かせればいいのか。

03煙突掃除と名づけられた治療

手がかりは、同じウィーンの内科医が持っていた。1880年代のはじめ、彼は「」と呼ばれる患者(本名ベルタ・パッペンハイム)を診ていた。催眠のもとで自由に語らせると、症状が軽くなるのだ。患者自身がこの治療を「談話療法(talking cure)」、また「煙突掃除(chimney sweeping)」と名づけた。心にたまったすすを、言葉で掃き出すのである。

1895年、ブロイアーとフロイトは共著『ヒステリー研究』を出版した。「ヒステリー患者はもっぱら回想に苦しむ」――思い出が人を病ませるという有名な言葉は、この本のものだ。

だがフロイトは、まもなく催眠をやめる。催眠は暗示に頼るため、治療の効果がもろい。それより、頭に浮かんだ言葉を、良い悪いを選ばずすべて話してもらうほうがいい。この方法をという。寝椅子(カウチ)に患者が横たわり、分析家は見えない背後に座る。話したくない気持ち()を回り道しながら、言葉は少しずつ心の奥へ降りていく。

彼の考えは、こうだった。人の心は、つらい記憶や認めたくない願いを奥へ押し込める。これをという。押し込められたものは消えず、意識の外――――にたまり、症状や夢の形で戻ってくる。

1896年、彼は「精神分析」という言葉を初めて論文に使った。同じころ、父ヤーコプが亡くなる。40歳のフロイトは、今度は自分自身を分析にかけた。材料は自分の夢、幼い日の記憶、言いまちがいなどのしくじり(失錯行為しっさくこうい)。数年がかりの掘り下げの果てに、彼は思いがけないものに行き当たった。幼い子どもにも性的な欲望があること。そして自分の中にあった、母への愛と父への敵意である。この発見はのちに、ギリシャ悲劇の王の名を借りて「」と呼ばれる。

自分の心を掘って得たものを、彼は一冊の本にまとめようとしていた。夢についての本である。

04夢は願いの変装である

1899年11月、『』が出版された(奥付おくづけの年は1900年)。扉には、古代ローマの詩人ウェルギリウスの一句が掲げられた。「上を動かし得ずば、下を揺さぶらん」。天の神々を動かせないなら、黄泉よみの川を揺さぶろう。意識の下にある無意識という水脈へ向かう、宣言の言葉だった。

本の主張は、単純にして深い。夢は、願いがかなえられた姿である。ただし、そのままの姿ではない。認めたくない願いは、心の検閲をすり抜けるため、姿を変えて夢に現れる。分析家の仕事は、自由連想の助けを借りて、この変装を逆向きに解くことだ。

夢の解釈こそ、無意識の活動を知るための王道である

『夢判断』(1900)。夢の解釈を精神分析の中心方法に据えた宣言(要旨訳)

売れ行きは、ひどかった。初版600部が売り切れるまで8年かかった。それでも、この本を軸に人が集まり始める。1902年、「水曜心理学会」が開かれた。アルフレッド・アドラー、ヴィルヘルム・シュテーケル、マックス・カハネ、ルドルフ・ライトラーの4人から始まる集まりである(のちのウィーン精神分析協会)。

本も続いた。『日常生活の精神病理学』(1901)は言いまちがいを論じた。『性理論三篇』(1905)は幼児の性と、(性の欲動よくどう)の育ちを描いた。『ドーラ症例』(1905)は治療の場で起きるを、『機知とその無意識との関係』(1905)は笑いを扱った。10年で、精神分析は一つの思想になった。

1906年、スイスの精神科医カール・グスタフ・ユングが加わる。1908年にはザルツブルクで第1回国際精神分析学会が開かれた。1910年に国際精神分析協会が生まれ、ユングが初代会長に就いた。フロイトには、「息子」と呼びたい後継者ができていた。だが、この「父と息子」は長く続かない。

05別れ、戦争、心の地図

1911年、アドラーが去った。人を動かすのは性のではなく、と社会的関心だ――そう唱えて彼はウィーン協会を離れ、を打ち立てた。1913年にはユングが『変容の象徴』を出版する。リビドーをすべての中心に置くフロイトの考えを拒み、決定的に決裂した。「父殺し」という精神分析のテーマは、理論の中だけでなく、運動そのものの現実になった。

第一次世界大戦は、フロイトの理論を暗い方向へ押した。戦場から帰った兵士たちの戦争神経症(今でいうPTSD)を、彼は目の当たりにした。人は、快を求めるだけの生き物ではない。苦しい体験を、なぜかくり返してしまう。1920年の『快感原則の彼岸』で、彼は死の欲動(のちに「」とも呼ばれる)を導入する。生の欲動と並ぶ、第二の根源としてである。

1923年、『自我と』で心の新しい地図を描いた。心は三つの部分からなる。エス――欲動がうずまく無意識のタンク。――心の中に住みついた、親と社会の「〜するな」という声。そして自我――エスと超自我と外の現実、三方の間で板ばさみになりながら調停する係である。

自我は自分の家の主人ではない。

『精神分析入門』(1917)。意識は心の主人ではないと聴衆に告げた、精神分析の核心宣言

同じ1923年、口の中に癌が見つかった。以後16年、33回の手術を受けながら、フロイトは書くことも患者を診ることもやめなかった。そして彼のまなざしは、個人の心を越えて、文明そのものへ向かっていく。

06燃やされた本、去った街

後期のフロイトは、文明そのものを診察台に載せた。『トーテムとタブー』(1913)は、太古に息子たちが父を殺したという想定(原父殺しげんぷごろし)から、宗教と社会の始まりを論じた。『集団心理学と自我分析』(1921)は、リーダーへの同一化として集団を説明した。『ある幻想の未来』(1927)は、宗教を神経症的な幻想と呼んだ。

1930年の『』は、晩年の到達点である。人間は幸福を求める。だが文明は、欲動をあきらめることと罪悪感を人に強いる。エロスとタナトスの闘いは、個人の心だけでなく、文化の歴史そのものを動かしている――。この年、彼はゲーテ賞を受けた。その3年後の1933年、ベルリンの広場で、フロイトの本はナチスに焚書ふんしょ(焼き捨て)にされた。

1938年3月、ナチスドイツがオーストリアを併合する。フロイトはゲシュタポ(秘密警察)の尋問を受け、娘アンナが丸一日連行される事件も起きた。国際精神分析協会と、マリー・ボナパルト王女の奔走で、一家はロンドンへ亡命する。82歳だった。出国のとき、ゲシュタポは「扱いに不満なし」という宣言書への署名を求めた。フロイトはそこに、「ゲシュタポはすべての人に推薦できる」と皮肉を書き添えたと伝えられる。ウィーンに残った四人の姉妹は、のちにアウシュヴィッツなどで命を落とした。

ロンドン北郊ハムステッドの家(20 Maresfield Gardens、現在のフロイト博物館)で、彼は最後の本『モーセと一神教』(1939)を書き上げた。そして1939年9月23日――冒頭の場面である。彼は主治医シュールに、前からの合意どおりモルヒネの投与を求め、亡くなった。遺言のとおり、書斎の古代美術品コレクションと寝椅子はロンドンに残り、博物館として今も来訪者を迎えている。

「自我は自分の家の主人ではない」と言い続けた人は、最後の扉だけは自分の手で閉めた。では、あなたはどうだろう。今日あなたがした小さな選択は、本当に「あなた」が選んだのだろうか。

07考証と論点――フロイトをどう読むか

『夢判断』の理論的核心は、夢の機制の記述にある。扉にウェルギリウス『アエネーイス』の句(Flectere si nequeo superos, Acheronta movebo)を掲げたこの書は、夢を願望の(変装した)充足と定義し、潜在内容せんざいないようが圧縮・置き換え・視覚化・二次加工という夢作業を経て顕在内容けんざいないようへ変形されると論じた。分析は自由連想によってこの変形を逆行的に解読する。夢が「無意識への王道」とされたのは、この方法的な逆行可能性ゆえである。催眠から自由連想への切り替えは、暗示への依存が治療効果を脆くすることに加え、患者の抵抗を迂回できるという利点によるが、それは同時に「無意識は方法的にアクセス可能である」という前提を確立し、精神分析を治療技法から一個の認識装置へと押し上げた。

同時代、パリのサルペトリエール派にはがおり、「潜在意識せんざいいしき subconscient」という競合概念を展開していた。フロイトは後年、無意識論の発見者は誰かをめぐるジャネとの優先権争いに繰り返し言及するが、ジャネが解離かいり(dissociation)を記述の中心にしたのに対し、フロイトは抑圧(Verdrängung)を選んだ。同じ地平を巡る二つの別の道が、20世紀心理療法の起点で分岐した。

1890年代の理論的転回として決定的だったのが、誘惑理論ゆうわくりろん(Verführungstheorie)の放棄である。当初フロイトはヒステリー症状の原因を現実の幼児期性的外傷と見ていたが、1897年9月21日、フリースへの手紙で「もはや私の「neurotica」を信じない」と告白する。以後、現実の外傷ではなく幻想(Phantasie)と欲望を中心に理論を組み直した。この転回は後年しばしば「フロイトは被害者の告発を封じた」と批判されるが、無意識的幻想と欲動を中核に据える精神分析の基本骨格は、ここで確立された。

分析の進行で繰り返し現れる転移(Übertragung)――患者が分析家に、幼少期の対象(典型的には親)への感情を再現する現象――を、フロイトは1905年の『ドーラ症例』で治療の妨げではなく治療の不可欠な媒体として再定位した。治療関係そのものが分析の素材になる、という発見である。

1923年の構造論において、自我は三つの主人――エス、超自我、外的現実――に仕える窮屈な下僕である。「自我は自分の家の主人ではない」という告知は、デカルトの「我思う」に対する20世紀の返答となった。心を意識/無意識の層ではなく三項の力学で記述するこの転回は、後の自我心理学から対象関係論に至る展開の座標軸を与えた。

最後の書『モーセと一神教』は、モーセをエジプト人として読み直し、ユダヤ教そのものの起源を原父殺しの反復と見る。亡命知識人の自己と民族への問いの極北である。戦間期ヨーロッパのただ中で書かれた『文明への不満』の診断――欲動断念と罪悪感を強いる文明、エロスとタナトスの闘争を文化史の原動力とする見立て――がナチスの台頭と共鳴したことと併せ、後期フロイトの文明論は、個人の臨床を超えた歴史診断として今も読み直され続けている。

08主要な出来事と残した思索の輪郭

  1. 5月6日、モラヴィア・フライベルクで誕生
  2. 一家でウィーンへ移住、以後1938年まで住み続ける
  3. ウィーン大学医学博士号取得
  4. パリ留学、シャルコーのもとでヒステリーを学ぶ
  5. ウィーンで神経科医として開業、マルタと結婚
  6. ブロイアーと『ヒステリー研究』共著、談話療法の原点
  7. 『夢判断』刊行(奥付1900)、無意識への王道
  8. 水曜心理学会発足、アドラー・シュテーケルら参加
  9. 『性理論三篇』でリビドーと幼児性欲を理論化
  10. 第1回国際学会ザルツブルク、国際精神分析協会創設、ユング初代会長
  11. アドラー離脱、個人心理学創始
  12. ユング決裂、『トーテムとタブー』で原父殺し仮説
  13. 『快感原則の彼岸』で死の欲動(後にタナトスとも呼称)を導入
  14. 『自我とエス』で構造論、口蓋癌と診断、以後33回手術
  15. 『文明への不満』刊行、ゲーテ賞受賞
  16. ナチス併合、ロンドンへ亡命、『モーセと一神教』執筆
  17. 9月23日、モルヒネ投与により死去、83歳

残した思索の輪郭

  • 無意識の方法的定位 ― 自由連想と夢解釈で意識の外を読む技法化
  • 幼児性欲とエディプス・コンプレックス ― 大人の心を子どもの生へ繋ぎ直す歴史的視座
  • 転移と抵抗 ― 治療関係そのものが分析の素材になるという発見
  • エス/自我/超自我 ― 心の地形図、自我を家の主人から下僕へ
  • エロスとタナトス ― 生と死の欲動で文化全体を診断する射程
  • 文明批評 ― 宗教・集団・戦争を精神分析の言語で読む試み、20世紀人文学への遺産
1939年9月23日、亡命先のロンドン・ハムステッドで主治医シュールの安楽死的モルヒネ投与により死去、83歳。遺灰はゴルダーズ・グリーン火葬場に安置。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

ジークムント・フロイトの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

ジークムント・フロイトが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ジークムント・フロイト博物館(ウィーン)記念館

    ウィーン, オーストリア

    ベルクガッセ19番地、1891-1938年に家族とここに住み『夢判断』等を執筆した住居。1971年博物館化

  • フロイト博物館(ロンドン)記念館

    ロンドン, イギリス

    1938年の亡命後、没年までの最後の1年を暮らした家。有名な長椅子とコレクションが当時のまま残る

さらに辿るならExternal References

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