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フッサール

Edmund Husserl·1859–1938·オーストリア/ドイツ·

「知っているつもり」をぜんぶ止めたとき、 目の前には何が現れるだろう?

「事象そのものへ」と呼びかけ、現象学を20世紀哲学の方法として打ち立てたモラヴィアの数学者=哲学者

  • 現象学
  • エポケー
  • 志向性
  • 生活世界
  • 厳密学としての哲学
科学がすべてを説明できると信じられた時代。その足元で、二つの大戦が人の生きる世界を揺るがしていた。 — ひらく

時代の空気

1859年生まれの彼が育ったオーストリア帝国領メーレンは多民族・多言語の旧大陸で、ユダヤ系商家もドイツ語文化に同化していた。19世紀末ベルリンではワイエルシュトラスが解析学を厳密化し、ウィーンではかつて司祭だったブレンターノの記述心理学が哲学を再建していた。1916年、彼がフライブルクに移った年、第一次大戦のヴェルダンで次男ヴォルフガングが戦死し、戦争が思索に影を落とす。1933年ナチス政権成立とともにユダヤ系教授資格は停止され、教え子ハイデガーは同年5月に総長就任、NSDAPに入党した。1938年4月の彼の死は、ナチス下フライブルクで大学葬すら許されないなかで訪れた。

01四万ページを残して

1938年4月27日、ドイツ南部の町フライブルク。その郊外の自宅で、一人の老哲学者が息を引き取った。エドムント・フッサール、79歳。死因は胸膜炎きょうまくえんだった。

彼は長くこの町の大学で教えた人だった。それなのに、大学としての葬儀は許されなかった。当時のドイツはナチスの支配下にあった。ユダヤ系の家に生まれた彼は、大学から締め出されていたのだ。埋葬に立ち会ったのは、ごく少数の友人だけだった。

家には、約4万ページの手稿(手書きの原稿)が残された。速記そっきという特殊な文字で埋められた、思索のノートの山である。ナチスの下では、いつ焼かれてもおかしくないものだった。

そこに、一人の修道士が現れる。ベルギーの町ルーヴェンから来た、フランシスコ会のヘルマン・ファン・ブレダHermann van Breda神父である。神父は危険を冒して、この4万ページを国外へ救い出した。

なぜ神父は、そこまでしたのか。追放された老人のノートに、何が書かれていたのか。時は、79年前に戻る。

02数の世界に生きた青年

1859年4月8日、彼はプロスニッツという小さな町に生まれた。今のチェコにあたる、オーストリア帝国領メーレン(モラヴィア)の一角である。父アドルフは反物(織物)の商いをしていた。ユダヤ系だがドイツ語の文化になじんだ、比較的裕福で自由な考えの家庭だった。

少年はオロモウツの町のギムナジウム(中学と高校にあたる学校)に通った。夢中になったのは、数学と天文学だった。

1876年、17歳でライプツィヒ大学に進む。数学、物理、天文学、そして哲学を学んだ。2年後にはベルリン大学へ移った。そこには、ヨーロッパ数学の最前線に立つカール・ワイエルシュトラスKarl Weierstrassがいた。あいまいさを許さず、数学を土台から厳密に組み直した人である。

「厳密であること」。フッサールの生涯を貫くこの情熱は、の講義から生まれた。1881年にウィーン大学へ移り、1883年、変分法という数学の分野の論文で博士号を取る。数学者としての道が、目の前に開けていた。

だがウィーンで、彼は一つの講義に出会ってしまう。

03人生を変えた講義

1884年から、彼はフランツ・ブレンターノFranz Brentanoの哲学講義に通いはじめた。ブレンターノは、かつてカトリックの司祭だった人である。アリストテレスや(中世ヨーロッパの教会の学問)の伝統を受けつぎ、「記述心理学」を説いていた。心の中で起きていることを、ありのままに書きとめる学問である。

その教えの核心に、志向性しこうせいという考えがあった。意識は、いつも「何かについての」意識である。見るときは何かを見て、恐れるときは何かを恐れている。フッサールはこの考えを、師からの最大の贈り物として受け取った。

1886年、彼は決断する。数学者としての道をいったん捨て、哲学に専念することにしたのだ。同じ年、プロテスタントの福音ルーテル派に改宗した。翌1887年には、ウィーン時代に出会ったマルヴィーネと結婚する。彼女もまた前年に改宗していた。マルヴィーネは生涯、原稿の整理や口述筆記で夫を支え続けた。

1887年、ハレ大学で教授資格を取り、教壇に立つ。ここでの14年間、彼は数学の基礎と意識の分析のあいだを行き来した。数を数えるとき、心の中では何が起きているのか。この地味な問いが、やがて大きな転換を生む。

04事象そのものへ

1900年から1901年にかけて、41歳のフッサールは『論理学研究ろんりがくけんきゅう』全二巻を世に出した。第一巻が狙ったのは、当時の学問界を支配していた「」である。心理主義とは、論理の法則を、人間の心のクセにすぎないとする考え方だ。

彼は真っ向から反対した。2+2=4は、頭の中の傾向ではない。誰が考えようと、それ自体で成り立つ関係である。論理と心理をはっきり分けるこの一撃が、その後のすべての土台になった。

第二巻では、意識の仕組みを具体的に描いていった。ここで初めて「現象学」という言葉が、彼独自の方法の名前として登場する。合言葉は一つ。事象そのものへ(Zu den Sachen selbst!)。理屈や理論で覆ってしまう手前で、目の前に現れているものを、現れているままに見ること。

1901年、彼はゲッティンゲン大学の員外教授いんがいきょうじゅ(定員外の教授職)に招かれた。『』は若い世代に火を付けた。、ラインハッハ、ら、「ゲッティンゲン現象学サークル」と呼ばれる仲間が集まってくる。現象学は、一人の方法から、一つの運動へ広がろうとしていた。

事象そのものへ(Zu den Sachen selbst!)

『論理学研究』第2巻・序論(1901)。現象学の出発点で掲げられた合言葉

05当たり前を括弧に入れる

1913年、54歳。彼は『純粋現象学および現象学的哲学のための諸構想じゅんすいげんしょうがくおよびげんしょうがくてきてつがくのためのしょこうそう』、通称『 I』を刊行する。ここで現象学は、大きく一歩踏み込んだ。

鍵になるのは現象学的還元げんしょうがくてきかんげん、別の名をという操作である。エポケーは古代ギリシア語で「判断中止」。外の世界についての思い込みを、いったん全部「括弧に入れる」。世界が無いと疑うのではない。「ある」という当たり前を一度停止して、意識に現れているものへ目を向け直すのだ。

すると、何が残るか。意識の働き(ノエシス)と、そこに現れる意味(ノエマ)。この二つの組み合わせの構造が残る、と彼は答えた。

だがこの一歩は、仲間たちを戸惑わせた。弟子たちの多くは、「超越論的自我ちょうえつろんてきじが」へ向かうこの道を、観念論(すべては心の中だとする立場)への後戻りと見た。師のブレンターノでさえ、この方向を認めなかった。現象学は、生まれて十年あまりで最初の分裂を迎える。それでも彼は歩みを止めない。次の町が、彼を待っていた。

06最愛の弟子

1916年、57歳でフライブルク大学の正教授に招かれた。前任は、の重鎮ハインリッヒ・リッカート。以後の22年間を、彼はこの町で過ごすことになる。

同じ年、悲報が届く。第一次世界大戦の激戦地ヴェルダンで、次男ヴォルフガングが戦死した。長男ゲルハルトも重傷を負った。戦争の影は、以後の思索に少しずつ濃く落ちてゆく。

1919年、一人の若者が助手になった。マルティン・ハイデガーMartin Heideggerである。フッサールは深い期待を寄せた。「現象学は私とハイデガーのものだ」と同僚に語った時期もある。だが弟子は、心の中で師の枠組みを離れつつあった。

1927年、ハイデガーの『存在と時間』が、フッサール編集の年報に載る。献辞には「敬愛と友情をこめて」とあった。しかし精読したフッサールは、深い失望を覚える。現象学の土台が、自分の考えとは別のもの ― 歴史の中を生きる現存在げんそんざい ― に置き換えられていたからだ。

それでも1928年の定年退職のとき、彼は後任にハイデガーを推した。師弟の関係は、表面上は続いた。だが哲学の上での別れは、静かに深まっていった。この別れが五年後にどんな形で現れるか、まだ誰も知らない。

07パリで開いた扉

1929年、パリのソルボンヌ大学に招かれ、四日間の講演を行なった。題は「超越論的現象学入門」。これをふくらませた本が『デカルト的省察デカルトてきせいさつ』である(1931年にフランス語版が出た)。

デカルトは「我思う」から近代の哲学を始めた人だ。フッサールはその歩みを、もう一度たどり直す。ただし、「我」の孤独の中に閉じこもらないために。本の後半で彼が挑んだのは、「他者」の問題だった。

私はどうやって、他人にも心があると知るのか。彼の答えの鍵は間主観性かんしゅかんせいである。他者の体は、私の体と「対になるもの」として現れる。そこから、他者の心もともに与えられる。世界は私一人の世界ではなく、「我々」がともに作り上げる世界として開かれる。

この講演の聴衆に、若きエマニュエル・レヴィナスEmmanuel Levinasがいた。彼は帰国後、フッサール現象学についての博士論文をフランス語で書く(1930)。それを読んだジャン=ポール・サルトルが、現象学に目を開かれた。フランス現象学の扉は、このパリの四日間から開いたのである。

だが故国ドイツでは、逆に扉が閉ざされようとしていた。

08旗の下で、書き続ける

1933年、ナチスが政権を握った。ユダヤ系であるフッサールは、フライブルク大学の教授資格を停止される。大学図書館を使う権利まで奪われた。

追い打ちのような知らせが続く。かつての弟子ハイデガーが、同じ年の5月、フライブルク大学の総長に就任した。そしてナチス党(NSDAP)に入党した。師を公然とかばうことは、なかった。フッサール夫妻は、玄関の前にナチスの旗が立つのを見ながら、静かに孤立してゆく。

それでも、彼は書くことをやめなかった。1935年、プラハとウィーンで講演を行なう。これが最後の主著『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学ヨーロッパしょがくのききとちょうえつろんてきげんしょうがく』、通称『危機』の出発点になった。1936年、その第一部と第二部が、ベオグラードの亡命誌に載る。残りは未完の遺稿となった。

『危機』の中心にあるのが生活世界Lebensweltという言葉だ。近代の科学は、世界を数式で描くことに成功した。だがその成功の陰で、私たちが日々じかに生きている世界 ― 陽の光、地平、体の動き、人との出会い ― を忘れてしまった。科学の危機とは、この忘却のことだ、と彼は診断した。事実を集めるだけでは、人が生きる意味の問いに答えられない。

単なる事実学は、ただ事実人を作るにすぎない

最後の主著『危機』(1936)。科学の繁栄の陰で、生の意味への問いが置き去りにされていると診断した一節

大学から追われた老人は、なぜ最後の最後まで書き続けたのか。その答えは、彼の死の後に形になる。

09四万ページの行方

1937年の夏、フッサールは体調を崩した。翌1938年4月27日、フライブルク近郊の自宅で息を引き取る。79歳。冒頭の、あの場面である。大学葬は許されなかった。ごく少数の友人だけが、ギュンタータールGünterstalのカトリック共同墓地への埋葬に立ち会った。妻マルヴィーネは夫の残したものを守りながら、戦後までを生きた。

残されたのが、あの約4万ページの手稿だった。ガーベルスベルガー式速記で埋めつくされた、思索のノートである。ナチスの焚書ふんしょ(思想を統制するための本の焼却)の危険のなか、フランシスコ会の神父がこれを救い出した。手稿はベルギーのルーヴェン・カトリック大学に運び込まれる。「フッサール文庫」の誕生である。

神父が守ったのは、ただの紙の束ではない。思い込みをいったん括弧に入れ、現れているものを自分の目で見直す ― 誰にでも開かれた、その方法そのものだった。戦後、手稿は『フッサリアーナ』全集として刊行が始まり、今も続いている。本人は死んでも、文字は残った。

では、あなたはどうだろう。今日、目の前にあるものを、説明や知識で覆う手前で、そのまま見つめたことがあるだろうか。

10分析 ― 現象学という方法の解剖

フッサールの企ての全体は「厳密学(strenge Wissenschaft)としての哲学」という標語に要約できる。出発点は『論理学研究』第一巻『純粋論理学序説』の心理主義批判である。論理法則を心理過程の経験的一般化に還元するなら、2+2=4の妥当性は人類の心的体質に相対化され、懐疑主義に帰着する。これに対して彼は、論理法則が理念的(ideal)に、それ自体として妥当することを示し、この区別によってその後のあらゆる意識分析の土台を据えた。第二巻『認識の現象学と理論のための研究』の六篇は、志向的体験、カテゴリー的直観、意味と表現、部分と全体を扱い、意識構造の記述という現象学の実質を確立する。個々の体験例を手がかりに不変の本質構造を取り出す方法は、ないしイデー化()と呼ばれ、事象の本質を直観する第一哲学の中核となった。

『イデーン I』(1913)の転回点は、=エポケーの導入である。ギリシア懐疑主義の語 ἐποχή(判断中止)を借りて、自然的態度に含まれる世界定立の妥当要求を「括弧に入れる」。残るのは、志向的体験の働き(ノエシス)と、そこに構成される意味対象(ノエマ)との相関構造である。この操作により現象学は記述心理学から超越論的現象学へ深化し、あらゆる対象性を構成する超越論的自我()の分析となった。ミュンヘン=ゲッティンゲンの現実主義的現象学者たちがここに観念論への傾斜を見て警戒し、師ブレンターノもこの方向を認めなかったことは、転回の重さを示す最初の内的分裂である。

『デカルト的』第五省察の(Intersubjektivität)分析は、超越論的観念論に向けられる独我論の嫌疑への応答である。他者の身体は私の身体の「対になるもの」(Paarung)として受動的綜合のうちに現れ、他者の心的生は直接与えられず「付帯現前」(Appräsentation)として共に与えられる。この他者経験(Fremderfahrung)の構造を通じて、客観世界は「間主観的世界」― 我々によって構成される世界 ― として確保される。

晩年の『危機』は、この構成分析を歴史の次元へ拡張した。ガリレオ以降の近代科学は自然を数学的に理念化し、一種の「理念の衣」で ― 直接経験における陽の光、地平、身体の動き、他者との出会いの土壌 ― をおおい、忘却した。諸学の危機とは方法の欠陥である以上に、この忘却された生活世界からの遊離そのものである、というのが彼の診断である。超越論的現象学の最終課題は、科学と哲学をこの意味の発生源たる土壌へ差し戻すことに置かれた。

11主要な出来事と著作

  1. オーストリア帝国領メーレン・プロスニッツ(現チェコ)のユダヤ系商家に誕生
  2. ライプツィヒ・ベルリン・ウィーン大学で数学を学ぶ。ワイエルシュトラスに師事
  3. ウィーン大学で変分法論文により数学博士号取得
  4. ウィーンでブレンターノの哲学講義を受講、哲学への転回
  5. プロテスタント(福音ルーテル派)に改宗、マルヴィーネと結婚
  6. ハレ大学で教授資格取得、以後14年間ハレで教える
  7. 『論理学研究』全二巻刊行。心理主義批判と現象学の出発
  8. ゲッティンゲン大学員外教授、1906年に正教授。現象学サークル形成
  9. 『イデーン I』刊行。超越論的現象学とエポケーの提示
  10. フライブルク大学正教授に就任。次男ヴォルフガングがヴェルダンで戦死
  11. ハイデガーが助手となる。1923年までフライブルクで現象学を共に探究
  12. ハイデガー『存在と時間』が『年報』第8号に掲載される
  13. 定年退職、後任としてハイデガーを推薦
  14. パリ・ソルボンヌで『デカルト的省察』の基となる四日間の講演
  15. 『デカルト的省察』仏訳刊(独語版は死後1950年)
  16. ナチス政権成立、教授資格を停止され大学から排除される
  17. プラハ・ウィーン講演、『危機』第一・第二部を亡命誌に発表
  18. 4月27日、フライブルクで死去。79歳。ギュンタータール共同墓地に埋葬
  19. ファン・ブレダ神父が手稿を救出、ルーヴェンにフッサール文庫設立

残した思想の輪郭

  • 事象そのものへ ― 概念や理論で世界を覆う手前で、体験に現れている現れ自体を精密に記述する
  • ― 意識は常に「何ものかについての意識」であり、ノエシス(働き)とノエマ(意味対象)の相関として分析される
  • 現象学的還元 / エポケー ― 自然的態度の妥当要求を括弧に入れ、純粋な現象の場へ視線を戻す方法
  • 厳密学としての哲学 ― 経験主義でも心理主義でもなく、事象の本質を直観する第一哲学を目指した
  • 間主観性 ― 他者の身体経験から間主観的世界が構成される。独我論を避け「我々」の地平を開く
  • 生活世界(Lebenswelt) ― 数学的に理念化された科学の世界の手前にある、身体と地平の直接経験の土壌
1938年4月27日、フライブルクで胸膜炎のため死去。79歳。ナチス政権下で大学から排除されたまま、カトリック共同墓地(Günterstal)に静かに葬られた。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

フッサールの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

フッサールが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • フッサール文書館(ルーヴェン)所属

    ルーヴェン, ベルギー

    1938年にナチスの迫害から救出された遺稿を保管する世界的研究拠点

さらに辿るならExternal References

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