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ハイデガー

Martin Heidegger·1889–1976·ドイツ·

「ある」とは、 どういうことだろう?

「存在」そのものを問い直し、現存在の時間性を描いた20世紀哲学の巨人

  • 存在と時間
  • 現存在
  • 世界内存在
二つの世界大戦が、ヨーロッパの自信と言葉を根こそぎ揺さぶった時代 — ひらく

時代の空気

1889年、ドイツ南西部バーデン地方の小村メスキルヒに教会守兼樽職人の子として生まれる。教会奨学金で神学から1909年フライブルク大学に進み、第一次大戦中は気象観測兵として動員。1919年からフッサールの助手として現象学を学び、ワイマール期マールブルクで1924年18歳のユダヤ系学生ハンナ・アーレントと出会う。1933年4月ナチス政権成立3ヶ月後にフライブルク大学総長就任・5月1日NSDAP入党、戦後1945-49年フランス占領当局により教職停止。黒い森のトートナウベルクの山小屋が思索の砦となった。

01山小屋の沈黙

ドイツ南西部、黒い森の山の中。標高1150メートルの尾根に、小さな山小屋が立っている。哲学者マルティン・ハイデガーが、長年思索の場にしてきた小屋だ。1967年、ここに一人の詩人が訪ねてきた。

というユダヤ人詩人である。彼は両親をホロコースト(ナチスによるユダヤ人大量虐殺)で失っていた。そしてハイデガーは、かつてナチスの党員だった。詩人は哲学者から、悔悟かいごの言葉を待っていた――後年、そう読まれている。

だが、その言葉はついに語られなかった。ツェランは沈黙のあとに、「トートナウベルク」という詩を書いた。「希望、今日、/一つの思索する者の/到来する/言葉への/心の中で」。詩人はのちに、自ら命を絶つ。

「存在とは何か」を生涯問い続けた哲学者。その人はなぜナチスの党員になり、なぜ最後まで悔いを語らなかったのか。この問いに近づくために、時は78年前に戻る。

02鐘の音と黒い森

1889年9月26日、マルティン・ハイデガーは生まれた。場所はドイツ南西部、バーデン地方の小さな村メスキルヒ。父フリードリヒは、聖マルティン教会の教会守きょうかいもり(Mesner)と樽職人を兼ねていた。母ヨハンナは、信心深いカトリックの信徒だった。

家の裏には教会の鐘楼が立っていた。少年は毎朝、鐘の音で目を覚ました。弟のフリッツはのちに、兄を「樽職人の息子の哲学者」と呼んだ。貧しいが、整った家庭だった。

マルティンは教会の奨学金で神学校に入った。コンスタンツとフライブルクのギムナジウム(ドイツの中高一貫校)を経て、1909年にフライブルク大学へ入学する。最初は神学生だった。中世の神学者トマス・アクィナスと、(中世ヨーロッパの教会の学問)を学んだ。

鐘の音と黒い森の風景は、のちの「故郷(Heimat)」や「大地」の思想の源になる。だがこの神学生は、やがて教会の学問の外へ歩き出すことになる。

03「存在」という問いに捕まる

1911年、健康上の理由でイエズス会(カトリックの修道会)への入会をあきらめた。これを機に、神学から哲学へ本格的に転じる。1913年に学位論文『心理主義における判断論』を書いた。1915年には教授資格論文『範疇論はんちゅうろんと意味論』を仕上げた。中世哲学と近代論理学を、行き来しながら学ぶ日々だった。

この時期、彼は一冊の本を繰り返し読み込んだ。哲学者エトムント・フッサールの『』である。フッサールは「現象学」という新しい哲学の創始者だった。物事が意識にどう現れるかを、ていねいに記述しようとする学問である。

第一次世界大戦が始まると、気象観測兵として動員された。1917年にはエルフリーデ・ペトリと結婚し、やがて二人の息子をもうけた。1919年からは、フライブルクでフッサール本人の助手となる。現象学の方法を、師のもとで徹底的に学んだ。

だが彼はすぐに、師の超越論的自我ちょうえつろんてきじがという枠組みに違和感を抱いた。意識を出発点にして世界を説明する、その考え方になじめなかったのだ。彼を捉えて離さなかったのは、もっと手前にある問いだった。そもそも「存在する」とは、何なのか。

04マールブルクの「隠れた王」

1923年、ハイデガーはマールブルク大学の員外教授いんがいきょうじゅに着任した。ギリシア哲学、アリストテレス、カント、ディルタイを読み解く講義は、聴講生を熱狂させた。学生たちは彼を「マールブルクの隠れた王」と呼んだ。教室に彼が入ると空気が変わった、と哲学者ハンス=ゲオルク・はのちに回想している。

1924年、一人の学生が彼の講義に出席した。18歳のユダヤ系学生、ハンナ・アーレントである。哲学者としての尊敬と、妻子ある師との秘められた恋愛が、同時に始まった。関係は数年で終わる。だがアーレントは生涯、ハイデガーを思考の対話相手と見なし続けた。戦後には亡命先から、彼の名誉回復を助けてもいる。

家族と愛人。神学と哲学。ハイデガーの生は、常に二重だった。その二重性のただ中で、彼は一冊の書物に向かっていた。

05『存在と時間』――ふだん使いの言葉の謎

1927年、37歳。『存在と時間』(Sein und Zeit)が世に出た。師フッサールが編集する研究年報の第8号に掲載されたのである。教授職の業績として求められ、未完のまま急いで出した書物だった。それが、20世紀哲学の地形を塗り替えることになる。

問いはただ一つ。「存在(ある)とは、何を意味するのか」。椅子が「ある」。山が「ある」。私が「いる」。毎日使う言葉なのに、その意味を私たちは答えられない。哲学は「あるもの」については二千年以上論じてきた。だが「あるということ」そのものは、問われないままだった――彼はそう指摘した。

この問いに迫るため、彼は人間を現存在げんそんざい(Dasein)と呼んだ。人間は、世界の外から世界を眺める観客ではない。道具を使い、人と関わり、気分に染まりながら、すでに世界の中で生きている。この在り方が世界内存在せかいないそんざいである。そして日常の私たちは、「みんな」と同じ考えに流されて生きている。彼はその「みんな」を「」(das Man)と呼んだ。

本の後半で、彼は誰もが目をそらす事実に踏み込む。人はいつか、必ず死ぬ。自分の死から目をそらさず引き受けるとき、人は借り物ではない自分の生に呼び戻される――。この本で彼の名は一躍高まった。だがその六年後、彼は取り返しのつかない選択をする。

は、死へ関わる存在(Sein-zum-Tode)である。

『存在と時間』(1927)第一部第二篇 ― 死の分析の核心を要約した定式

06総長就任という選択

1928年、師フッサールの後任として、フライブルク大学の正教授になった。そして1933年、ナチスが政権を握る。その三ヶ月後の4月、ハイデガーは43歳でフライブルク大学の総長(学長)に選ばれた。5月1日には、ナチ党(NSDAP)に入党する。

同じ月の総長就任演説「ドイツ大学の自己主張」で、彼は「ドイツ精神」と「労働奉仕・兵役奉仕・知識奉仕」を結びつけた。ナチスの革命に、哲学の意味を与えようとしたのである。総長は翌1934年4月に辞任した。だが党籍は、戦争が終わるまで持ち続けた。

師フッサールは、ユダヤ人だった。ハイデガーが師を大学から排除する決定的な役割を果たしたわけではない、とされる。それでも、その冷淡な態度は師の晩年に深い傷を残した。

敗戦後、フランス占領当局はハイデガーから教職を奪った。禁止が解けたのは1949年。教壇に戻ったのは1950年から51年の冬学期だった。彼はこの過ちを、最後まで公式には弁明しなかった。1966年の雑誌『シュピーゲル』のインタビュー(本人の死後に公開)でも、釈明は曖昧なままだった。教壇を失った歳月のあいだに、彼の思索は静かに姿を変えていた。

07転回――技術から詩へ

1930年代の後半から戦後にかけて、ハイデガーの思索は大きく変わった。本人はのちに、これを「(Kehre)」と呼んだ。人間(現存在)を出発点にした分析から、「存在」の側の歴史から考える方向へ。思索の重心が移っていったのである。

新しい主題は、技術と詩だった。1953年の講演「技術への問い」で、彼は近代技術の正体を問うた。技術は自然を、役に立つ資源としてだけ扱い、駆り立てる。この仕組みを彼は「用立てようだて(Gestell)」と呼んだ。そして人間もまた、この仕組みに絡め取られていく、と。

この危機の中で救いの可能性を開くのは、詩だった。彼はヘルダーリン、、トラークルといった詩人を読み込んだ。人間が「詩的に住まう」こと。大地と空、神々と死すべき者の「四方界しほうかい(Geviert)」に身を置くこと。思索は次第に、沈黙と聴従ちょうじゅう(耳を澄まして従うこと)の色を強めていった。

言葉に、誰よりも深く耳を澄ました哲学者。だがその彼が、一人の詩人の前で言葉を失うことになる。

言葉は存在の家である。その住まいのうちに人間は住む

戦後の論考『ヒューマニズムについて』(1947)― 思索が言葉と詩へ向かった時期の定式

08思想の核――存在の問いはどこへ向かったか

『存在と時間』の中核の問いは「存在そのもの(Sein)の意味は何か」である。西洋哲学は存在者(Seiendes)を論じ続けたが、存在そのものは忘却されてきた、と彼は言う。この存在と存在者の差異()への着眼が、全思索の出発点にある。彼は人間を現存在げんそんざい(Dasein)と規定し、その日常の構造を現象学的に記述した。世界内存在せかいないそんざい、気分、了解、語り、頽落たいらく(Verfallenheit)、そして死へ関わる存在である。

現存在は日常「ひと」(das Man)の平均性に紛れて生きるが、(Angst)と死の先駆(Vorlaufen zum Tode)によって本来性ほんらいせい(Eigentlichkeit)へ呼び戻される。時間性じかんせいこそ、存在の意味の地平である――そこで予定されていた第二部は、ついに書かれなかった。

後期の「転回(Kehre)」以降は、主体としての現存在から出発する分析ではなく、存在の歴史そのものから思索を立ち上げる方向へ重心が移る。講演「技術への問い」(1953)では、近代技術を自然を「(Gestell)」として挑発する仕組みとして捉えた――邦訳では「総駆立体制」「集-立」、英訳では enframing など訳語に揺れがある語である。自然は計算可能な資源(Bestand)となり、人間もまたその仕組みに絡め取られる。この危機のなかで救済の可能性を開くのがヘルダーリン、リルケ、トラークルらの詩であり、「詩的に住まう」こと、(Geviert)に身を置くことが後期思索の焦点となる。

この思索の全体を胸に置いて、もう一度あの山小屋に戻ろう。

09ふたたび、トートナウベルク

黒い森の尾根、標高1150メートル。1922年以来、ハイデガー夫妻はこの山小屋を持っていた。彼はここで薪を割り、スキーをし、木の机で書いた。戦後、大学を追われたあと、小屋は彼の思索の砦となった。

1967年、パウル・ツェランがここを訪れた。両親をホロコーストで失った詩人と、ナチ党員だった哲学者。詩人が待っていたとされる悔悟の言葉を、哲学者は口にしなかった。「言葉は存在の家である」と書いた人が、言葉を最も求められた場面で沈黙したのである。ツェランは詩「トートナウベルク」にその日のことを記し、のちに自ら命を絶った。哲学者と詩人のすれ違いは、20世紀の重い記憶として残った。

1976年5月26日、ハイデガーはフライブルクで死去した。86歳。遺言により、故郷メスキルヒの教会墓地にカトリック式で葬られた。神学を離れた哲学者は、最後に故郷の教会へ帰ったのである。存在を問い続けた人は、自らの過ちを公式には語らないまま世を去った。

あなたがあの山小屋の主だったら、詩人に何を語っただろうか。そしてこの沈黙は、彼が残した哲学の価値を変えるだろうか。

10主要な出来事と著作

  1. バーデン地方メスキルヒに誕生。父は教会守兼樽職人、母はカトリック信徒
  2. フライブルク大学入学。神学からやがて哲学へ転向
  3. 教授資格論文『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意味論』
  4. フライブルクでフッサールの助手、現象学を学ぶ
  5. マールブルク大学員外教授。ハンナ・アーレントとの出会い(1924)
  6. 『存在と時間』刊行、未完のまま掲載
  7. フッサールの後任としてフライブルク大学正教授
  8. フライブルク大学総長就任。NSDAP入党。翌1934年4月に総長辞任
  9. 戦後、フランス占領当局により教職停止(1949年に解除、1950–51年冬学期に復帰講義)
  10. 講演『技術への問い』。用立て(Gestell)の思想
  11. 『シュピーゲル』インタビュー収録(1976年の死後公開)
  12. 5月26日、フライブルクで死去。享年86。遺言により故郷メスキルヒの教会墓地に埋葬

残した思想の輪郭

  • 存在と存在者の差異 ― 西洋哲学は存在者を論じ続け、存在そのものを忘却してきた(存在忘却)
  • 現存在と ― 人間は世界の中に既に投げ込まれ、道具連関と気分の中で存在を了解している
  • 死への先駆 ― 自己の死を引き受けることで、ひと(das Man)の平均性を突き破り本来性へ到る
  • 技術=用立て(Gestell) ― 近代技術は自然と人間を計算可能な資源として挑発し立てる仕組みである
  • 詩的に住まう ― 大地・空・神々・死すべき者の四方界に身を置き、言葉と沈黙の中で存在を聴き取る
1976年5月26日、フライブルクで死去。86歳。遺言により故郷メスキルヒの教会墓地にカトリック式で埋葬された。

つながり

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ハイデガーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • トートナウベルク山荘住居

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  • メスキルヒ(ハイデガー生地)生誕

    メスキルヒ, ドイツ

    ハイデガーの生誕地、市立教会裏の墓地に埋葬

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