キルケゴール
あなたは、 本当にあなたか?
実存の深淵を掘り下げた、孤独な信仰者
- 実存
- 絶望
- 信仰の跳躍
生まれただけで誰もがキリスト教徒とされた、19世紀のデンマーク — ひらく
時代の空気
19世紀前半のデンマーク王国は石畳と運河の徒歩圏に収まる首都コペンハーゲンを中心とする小国で、ルター派国教会が市民生活を律していた。父ミカエルはユトランドの荒野から出てきて毛織物商として晩年に財を築いた一代成りの世代で、息子は遺産で生涯著述に専念できた。1841年に渡ったベルリンではシェリングがヘーゲル以後の哲学を講じ、1846年の『コルサーレン』事件は、狭い街で風刺ジャーナリズムが個人を道化にできる時代を示した。晩年の彼は国家と教会の癒着を批判し、論争誌『瞬間』を自費刊行する単独者の闘争のまま路上に倒れた。
01死の床で、教会を拒む
1855年10月2日、デンマークの首都コペンハーゲン。一人の男が、石畳の路上で意識を失って倒れた。折しも、雑誌第10号の原稿が発行を待っていた。自分で書き、自分のお金で刷ってきた、教会批判の雑誌である。
男はフレデリクス病院に運ばれた。もう起き上がる力はなかった。それでも彼は、牧師の見舞いをはっきり断った。「司祭は国家の僕であり、国家は悪だ」と語ったと記録にある。教会に仕える牧師を、彼は国に仕える役人と見なしていたのだ。
男の名は、ソーレン・キルケゴール。42歳。若い日に神学、つまり神について学ぶ学問を修めた人だった。そして生涯をかけて、信仰について書き続けた人だった。
誰よりも神を求めた人が、なぜ最期に教会を拒んだのか。答えを探すには、彼の生涯を最初から辿る必要がある。時は42年前、1813年の春に戻る。
02呪われた家の末っ子
1813年5月5日、キルケゴールはコペンハーゲンに生まれた。父ミカエルは、ユトランド半島の荒野から出てきた毛織物商だった。一代で財産を築き、一家は裕福だった。ソーレンは七人兄弟の末っ子である。
しかし、この裕福な家には、重く沈んだ空気が漂っていた。父は内側に暗い秘密を抱えていた。少年のころ、荒野で羊を追いながら、飢えと寒さの中で神を呪ったことがあったという。その報いが一家に降りかかるのではないか。老いた父の眼には、そんな怯えが宿っていた。
七人の子のうち、五人が若くして死んだ。父の確信は深まるばかりだった。「わたしたちは呪われている」と父は語った。父の憂鬱は、末っ子の心に染み込んでいった。
少年は体が細く、脊椎、つまり背骨に曲がりがあった。友人たちは彼をからかった。だが彼の言葉は鋭く、機知に富み、相手を言い負かした。外から見れば、才気あふれる金持ちの末っ子。その内側で、父の呪いの影が静かに育っていた。
この影は、やがて彼をどこへ連れて行くのか。青年になった彼は、まず神から遠ざかる道を選ぶ。
03神学生は、教会に行かない
1830年、17歳でコペンハーゲン大学に入学した。専攻は神学。ところが彼は、ほとんど礼拝堂に足を向けなかった。代わりに劇場へ通い、カフェで夜を過ごした。詩と哲学の本を読みふけった。
神を学ぶ学生が、神の家に近づかない。そのねじれは、彼の中で静かに膨らんでいった。父への反発と甘えが、交互に波打った。遊び歩く日々は、放蕩と呼ばれても仕方のないものだった。
しかし1838年5月19日、夜明け前。彼の日記に、突然、光の差す一文が現れる。「わたしは言いようのない喜びを感じた」。彼はこの体験を回心と呼んだ。神との直接のつながりを、初めて感じた夜だった。
その年の8月、父ミカエルが82歳で世を去った。父は、自分がすべての子を見送ると信じ込んでいた。だが末っ子は生き残った。残された遺産は大きく、彼は一生、物書きとして生きていける身になった。
父の死は、喪失であると同時に解放だった。だが彼はすぐに気づく。呪いは外から来たのではない。すでに自分の内側に住みついていたのだと。その二年後、彼の前に一人の娘が現れる。
04指輪を返した男
1840年9月、27歳のキルケゴールは、18歳のに結婚を申し込んだ。彼女は快活で、生き生きとした魅力を持つ娘だった。レギーネは受け入れた。彼は彼女を深く、真剣に愛していた。
ところが翌1841年8月、彼は一方的に婚約を破棄した。外から見れば、まったく突然の決断だった。だが日記には、苦悩の跡が残っている。自分は普通の夫にはなれない。神への務めと内面の秘密が、彼女との生活と両立しない。ではその「内面の秘密」とは何だったのか。研究者たちは今も議論を続けている。
レギーネは泣き、考え直してほしいと願った。キルケゴールは、わざと冷たい男を演じた。ひどい男だと思われれば、彼女の傷が早く癒えると考えたのだ。そう後に書き残している。やがてレギーネは、フリッツ・シュレーゲルという男性と結婚する。
キルケゴールは生涯、彼女への愛を心の底に秘めた。婚約の指輪を机の上に置いたまま、何年も過ごしたと伝わる。愛したのに、なぜ手放したのか。その問いを抱えたまま、彼はひとり旅に出る。
05書いて、書いて、書き続けた
婚約破棄の直後、彼はドイツのベルリンへ旅した。当時名高い哲学者の講義を聴くためだった。だが講義には失望した。その代わり、旅の孤独の中で、彼は書いた。書いて、書いて、書き続けた。
1843年、本が次々と世に出る。2月のは、二つの生き方を並べた大著だった。楽しみを追いかける生き方と、義務を選び取る生き方。どちらを取るかは、読者に突きつけられる。著者名はヴィクター・エレミタという仮名、つまり本名を隠した作り物の名前だった。10月にはとを同じ日に出した。こちらも、別々の仮名で書かれていた。
なぜ仮名なのか。彼は読者に、著者の考えを押し付けたくなかったのだ。仮名の著者たちは、それぞれの立場から語る。判断は、読者自身に委ねられる。この方法を彼はと呼んだ。答えを渡さず、読者を自分の足で歩かせる仕掛けである。
1844年には『の概念』を出した。不安とは、自由の前に立つ人間が感じるめまいである。人は自由だから、不安になる。不安になるのは、自由である証拠なのだ。
不安は、自由のめまいである
1846年の『結語的非学問的あとがき』では、生き方の深まりを三つの段階で描いた。美的実存、倫理的実存、宗教的実存。楽しみに生きる段階、義務に生きる段階、そして神の前にひとりで立つ段階である。真理は教科書の中にはない。自分がどう生きるかの中にある。彼はそう言い切った。
主体性こそが真理である
1849年のでは、を掘り下げた。自分であろうとしない絶望と、自分であろうとして失敗する絶望。1850年の『キリスト教の修練』では、キリスト者であることの本当の困難に向き合った。
このペースは異常だった。一人の人間が、これほどの量を書けるものか。周囲は驚いた。だが彼は止まれなかった。書くことだけが、内側の圧力を逃がす弁だったからだ。そしてその内側の圧力に、今度は外からの攻撃が加わる。
06笑いものにされた哲学者
1846年、事件が起きた。という風刺雑誌が、キルケゴールへの組織的な侮辱を始めたのだ。編集者はゴールドシュミット、寄稿者にはムラーという文筆家がいた。
きっかけは、彼の側からの挑発だった。前年末、ムラーが彼の仮名の書『人生行路の諸段階』を無礼に批評した。彼は匿名で言い返し、同じ紙面で『コルサーレン』の悪辣さ、つまり、やり口のひどさも公然と責めた。雑誌は、ただちに反撃した。
毎週のように、彼の姿が漫画にされた。細い体。独特の歩き方。短い右足と長い左足の不釣り合い。街を歩けば、子供が後を付いてきて笑った。カフェでは囁き声が聞こえた。狭いコペンハーゲンで、彼はたちまち道化にされた。
この経験は彼を深く傷つけ、同時に変えた。名前を持たない群衆が、どれほど残酷になれるか。群れの笑いが、どれほど一人の人間を押し潰すか。彼は身をもって知った。以後、群衆への批判はいっそう鋭くなる。
晩年、その矛先はデンマークの国教会に向かった。国教会とは、国が公認して支える教会のことだ。人々は日曜に礼拝へ通う。だが、本気で信仰しているわけではない。新約聖書が語るキリスト教と、いまの教会のキリスト教。その間には、越えられない溝がある。彼にはそう見えた。国と教会が癒着した体制の中で、本当の信仰は死んでいる、と。
1854年12月、彼は新聞『祖国』で、前の監督ミュンスターとその後継マーテンセンを名指しで批判した。教会との闘いが、公然と始まった。翌1855年には、雑誌『瞬間』を自費で創刊する。あの、最期の日に抱えていた雑誌である。
07そして路上へ ― 1855年の秋
物語は、冒頭の場面に戻る。1855年10月2日、『瞬間』第10号の原稿を抱えたまま、彼は路上で倒れた。フレデリクス病院に運ばれたが、医師たちは原因を特定できなかった。脊椎の奇形から来る麻痺が、全身に広がった可能性が高い。だが詳細は、今も確定されていない。
彼が牧師を断った理由は、もう明らかだろう。彼にとって、国と結びついた教会は、信仰の場所ではなくなっていた。神の前に、ひとりで立つこと。群れに溶け込まず、として信じること。それが彼の信仰だった。だから最期の床でも、国家に仕える司祭の祈りを受け入れなかった。
友人のエミール・ベーゼンが、毎日見舞いに来た。彼は穏やかだったという。「わたしには人を慰める力が残っている」と語り、来た人の手を握って感謝した。教会と闘い続けた男の病室は、静かだった。
1855年11月11日、ソーレン・キルケゴールは42歳で世を去った。『瞬間』は第9号までが生前に出た。抱えていた第10号の原稿は遺稿として残り、1881年に出版された。
葬儀は、皮肉にも国教会で営まれた。その場で、甥のヘンリク・ルンドが棺の傍で立ち上がった。生前、教会の制度を批判し抜いた人の葬儀を、その教会が執り行っている。そのことへの、声を上げての抗議だった。礼拝堂に、奇妙な静けさが満ちた。レギーネは夫の任地の都合で街を離れており、知らせを受けたのは数日後だった。
誰よりも神を求めた人は、教会を拒んで死んだ。群れの中で信じることと、ひとりで信じること。その二つは、同じ「信じる」だろうか。あなたがいま信じているものは、あなた自身が選んだものだろうか。それとも、周りがそうしているから、そう見えているだけだろうか。
08主要な出来事と著作
- 5月5日、コペンハーゲンに誕生。父ミカエル・キルケゴール(毛織物商)は七人の末子として育てる
- コペンハーゲン大学入学(神学部)。しかし礼拝堂より劇場とカフェに通う
- 父ミカエル没(8月)。その直前に日記に「言いようのない喜び」を記す——内的回心
- レギーネ・オルセンと婚約
- 一方的に婚約を破棄。ベルリンへ旅立ち、シェリングの講義を聴く
- 『あれかこれか』『おそれとおののき』『反復』を相次いで刊行。仮名著者の洪水が始まる
- 『不安の概念』刊行。不安を自由のめまいとして定義
- 『結語的非学問的あとがき』刊行(仮名クリマクス)。風刺雑誌『コルサーレン』事件で街の嘲笑の的になる
- 仮名アンチ・クリマクス名義の『死に至る病』を刊行
- 『キリスト教の修練』刊行
- 12月、『祖国』紙上でミュンスター/マーテンセン批判を開始。教会闘争が公然化
- 論争誌『瞬間』を自費創刊、国教会を徹底批判。10月2日に路上で昏倒。11月11日、42歳で没
残した思想の輪郭
- 実存の三段階 ― 美的実存(享楽・逃避)、倫理的実存(義務・選択)、宗教的実存(神の前の単独者)という、仮名ヨハネス・クリマクスが『結語的非学問的あとがき』(1846)で定式化した実存の深化の段階論
- 不安と自由 ― 不安は自由の証であり、自由を持つ者だけが根源的に不安を感じる
- 絶望 ― 絶望とは「自己であろうとしないこと」、あるいは「自己であろうとする試みの失敗」
- 信仰の跳躍 ― 倫理を超えた宗教への移行は、論理的連続性ではなく非連続の跳躍によってのみ起こる
- 間接的伝達 ― 真実は直接教えられるのではなく、読者が自ら辿り着かなければならない——仮名著者群はその戦略
- 単独者 ― 神と人間の関係は群衆を経由しない。信仰とは匿名の群れの中に溶け込むことの拒絶である
つながり
- サルトル
継承 — 『不安の概念』を受け取り、「実存は本質に先立つ」の哲学へ展開した継承者がいる。
- ハイデガー
継承 — その不安と死の概念を、約80年後に世俗の存在論へ鋳直した哲学者がいる。
- ミシェル・フーコー
共鳴 — 晩年に「自己への配慮」を掘り下げた哲学者は、単独者の自己関係という問いと遠く響き合う。
- マルティン・ルター
先駆 — キルケゴールが深く引き受け、やがてその制度化と向き合うことになる「信仰のみ」の人。
- フョードル・ドストエフスキー
共鳴 — 直接の影響は確かめられていない。それでも単独者の絶望と不条理の苦闘は、深く響き合った。
- フランツ・カフカ
継承 — 「私と同じ側にある」——日記にそう書き、不安と罪責を小説にした作家がいる。
- ダグ・ハマーショルド
継承 — キルケゴールの実存的信仰を、国際政治の最前線で日記に書き続けた国連事務総長がいる。
- アルベール・カミュ
共鳴 — 「信仰の跳躍」に跳ばないことで応えた作家 — 『シーシュポスの神話』はその名を挙げて批判する。
- マルティン・ブーバー
批判的継承 — 「単独者」の定式を、単独性から相互性へ — 「汝」への呼びかけとして引き受け直した哲学者。
- ディートリヒ・ボンヘッファー
継承 — 『キリスト教の修練』の神学を、20世紀ドイツで「高価な恵み」として引き受けた神学者。
- ヤスパース
継承 — 一世紀後、その絶望の分析を『限界状況』の哲学として学問の言葉に鋳直した人がいる。
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生きた跡を辿るPlaces
キルケゴールが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
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