マルティン・ルター
皇帝を前にした修道士は、 なぜ「いいえ」と言えたのか?
「信仰義認」を叫び中世の教会権威を打ち破った修道士改革者
- 95箇条
- 信仰義認
- 聖書のみ
救いは金で買えるのか ― その疑問を、印刷機が国じゅうに広げようとしていた。 — ひらく
時代の空気
神聖ローマ帝国はカール5世の即位を迎え、皇帝の権威と七選帝侯・諸侯領邦の自立がせめぎ合っていた。ローマでは新サン・ピエトロ大聖堂の造営費を賄うため贖宥状の販売がアウクスブルクの大商人フッガー家の融資と結びつき、教皇庁の財政と独占の鎖が露わになっていた。グーテンベルクの活版印刷は半世紀を経て安価なパンフレット文化を育て、エラスムスら人文主義者が「源泉へ」と原典回帰を呼びかけていた。スコラ神学はオッカム派の硬直のなかで内省を失い、農民層は領主と教会の二重の年貢に喘ぎ、修道院も都市の商業もどちらも信を細らせていた——宗教改革前夜の張りつめた空気のなかに、一人の修道士が立っていた。
01皇帝の前に立つ修道士
1521年4月17日、ドイツ西部の都市ヴォルムス。神聖ローマ皇帝カール5世の開いた帝国議会の場に、一人の修道士が呼び出された。名はマルティン・ルター、37歳。彼の前には、彼自身が書いた本が山と積まれていた。
問われたことは、事実上二つだけだった。これらはお前の書いたものか。その内容を取り消すか。取り消せば、道は残る。取り消さなければ、火あぶりが待つかもしれない。
これは脅しではなかった。約百年前の1415年、神学者は「安全を保証する」という約束つきで教会の大会議に呼び出され、そのまま火あぶりにされた。ルターにも同じ種類の保証しか与えられていない。それでも彼はヴォルムスまで来た。
皇帝の前で、ルターは即答せず、一日の猶予を求めた。翌日の夕方、彼はふたたび同じ場に立ち、答えを口にする。その言葉は、ヨーロッパの歴史を折り曲げることになる。だがその前に、一つの謎が残る。ただの修道士が、なぜ皇帝と教会を敵に回してまで「いいえ」と言えたのか。時は16年前に戻る。
02雷雨の誓い
マルティン・ルターは1483年11月10日、ドイツ中部の町アイスレーベンに生まれた。翌日、聖マルティヌスの日に洗礼を受け、マルティンと名付けられた。一家はまもなく近くの町マンスフェルトへ移る。父ハンスは銅山の採掘と精錬(鉱石から金属を取り出す仕事)で財を築いた。母マルガレーテは職人の家の出で、家のしつけは厳しく、鞭も日常的に使われた。
少年はマンスフェルトとマクデブルク、アイゼナハのラテン語学校を経て、1501年にエアフルト大学へ入った。1505年1月、21歳で哲学の修士となる。父の望みは法律家だった。ローマ法の大全『』の註解書まで買い与えている。
だが1505年7月2日、進路は一撃で変わった。実家からエアフルトへ戻る道の途中、シュトッテルンハイムの野で激しい雷雨に遭ったのである。落雷がすぐそばの木を裂いた。地に伏した彼は、鉱山の町の守護聖人に向かって叫んだ。「聖アンナよ、お助けください、私は修道士になります」。
彼はこの誓いを守った。わずか半月後の7月17日、父の反対を押し切り、エアフルトのアウグスチノ会という修道会に入ったのだ。1507年には司祭となった。しかし初めてのミサで、「自分は誰に向かって語っているのか」と戦慄したと、後年みずから振り返っている。修道院に入れば心の平和が来るはずだった。本当に、そうなっただろうか。
03救いへの苦悶
修道士ルターは、まじめすぎた。規則を守り、長時間祈り、厳しい断食をした。小さな罪まで思い出しては、告解(罪を打ち明けて赦しを求めること)を繰り返した。ときには六時間も赦しを求めて居続けたという。どれだけ努力しても、「これで神に赦された」という確信が持てなかったのである。
修道会の先輩は、この若者の完全主義に手を焼いた。「神はあなたを怒ってはいない、あなたの方が神を怒っているのだ」「キリストの傷を見つめなさい」。そう諭したと伝わる。
1508年、シュタウピッツの推薦で、ルターはヴィッテンベルク大学へ派遣された。そこで哲学(主にアリストテレスの『』)を講じた。1510年から翌年には、修道会の使いとして歩いてローマまで旅している。生涯ただ一度のイタリア行きだった。だが聖地で見たのは、商売と化した巡礼と、ぜいたくな高位聖職者の姿だった。跪いて聖なる階段を這い上がっても、もはや救いを実感できなかったと、のちに書き残している。
1512年10月、28歳で神学博士となり、ヴィッテンベルク大学の聖書学の教授に就いた。詩編、続いてローマ書(新約聖書の手紙の一つ)を講義するうちに、生涯最大の転機が来る。「神の義」という言葉の意味が、ひっくり返ったのだ。神の義とは、人を罰する物差しではない。キリストを通じて、信じる者にただで贈られるものだ。人は行いの積み上げではなく、ただ信仰のみ(sola fide)によって、神の前で「正しい」とされる。後年「」と呼ばれるこの確信が、以後のルターの核となった。これが「」の教えである。
救いが行いでも金でも買えないのなら ― では、救いを金で売っているあの商売は、いったい何なのか。
0495箇条の提題
1517年、の修道士ヨハン・が、ザクセン選帝侯領の手前の地域で贖宥状を派手に売り歩いていた。いわゆる「免罪符」、罪の罰を軽くすると約束する証書である。「金貨が箱に落ちて鳴るとき、煉獄の魂は天へ飛び立つ」。そんな呼び込みの文句が伝わっている。売り上げはローマの新しいサン・ピエトロ大聖堂の建設費に流れていた。さらに、マインツ大司教アルブレヒトが大商人から借りた金の返済にも、ひそかに充てられていた。
ルターは激怒した。罪の赦しは神と魂のあいだの事柄であり、金で買えるものではない。1517年10月31日、彼は贖宥の効力を問うをラテン語でまとめた。そして上役にあたるマインツ大司教アルブレヒトらに、手紙で送付した。第86条ではこう問うている。「教皇は今日最富裕のクラッスス級の富を持ちながら、なぜ自らの財ではなく貧しい信者の財で大聖堂を建てるのか」。クラッススとは、古代ローマきっての大金持ちである。
主が『悔い改めよ(poenitentiam agite)』と言われたとき、主は信者の全生涯が悔い改めであることを望まれた
05印刷機が火を運ぶ
反応は、本人の予想をはるかに超えた。提題は他人の手で印刷に回り、数週間でドイツ語に訳された。活版印刷の力に乗って、遠くネーデルラント(今のオランダのあたり)まで広まったのである。なお、よく知られる「教会の扉に釘で打ち付けた」という場面が後代の伝承であることは、終盤の検証の章で見る。
教会側も動いた。1518年4月、ルターはハイデルベルクでの討論で「十字架の神学」という旗を掲げた。苦しむキリストのうちにこそ神を見る、という考えである。同年10月には、アウクスブルクで教皇の代理である枢機卿カエタンの尋問を受けたが、撤回を拒んだ。
決定的だったのは1519年7月のライプツィヒ討論である。論敵エックとの応酬のなかで、ルターは百年前に焼かれたあのヤン・フスを「彼の主張の多くは正しい」と擁護してしまった。これで彼は、自分自身を異端(教会が誤りと定めた教え)の系譜に置いたことになる。もう後戻りはできなかった。ローマとの正面衝突が、目前に迫っていた。
06炎と破門、ふたたびヴォルムスへ
1520年、ルターは矢継ぎ早に三つの改革の書を世に出した。『ドイツのキリスト者貴族に与える書』『教会のバビロニア捕囚』、そしてである。三冊目の冒頭には、有名な二つの命題が並ぶ。「キリスト者はすべての者の自由な主であり誰にも従属しない/キリスト者はすべての者の僕であり、すべてに従属する」。信仰においては誰よりも自由に、愛においてはすべての人に仕える。この逆説が信仰の核に据えられた。
さらに彼は、信仰のよりどころは教会の伝統ではなく(sola scriptura)にあるとした。洗礼を受けた者はみな霊的には祭司だというの考えも打ち出した。聖職者だけが特別だとする教会の土台は、根もとから揺さぶられた。
教皇レオ10世は1520年6月、破門(教会からの追放)を予告する勅書を出した。60日以内に撤回せよ、という最後通告である。同年12月10日、ルターはヴィッテンベルクのエルスター門の前で、学生たちに囲まれ、その勅書と教会法の法典を公然と焼いた。1521年1月、彼は正式に破門された。
そして1521年4月 ― 話は冒頭の場面に戻る。、皇帝カール5世の前。一日の猶予ののち、4月18日の夕方、ルターはラテン語とドイツ語で答えた。「聖書の証言と明白な理性によって私が誤りを認められない限り、私は何も撤回できないし、撤回するつもりもない。教皇も公会議もしばしば誤りを犯し、相互に矛盾してきたのだから。私の良心は神の言葉に縛られている。良心に反して行動することは正しくも安全でもない。神よ助け給え、アーメン」。
彼が「いいえ」と言えた理由は、もう明らかだろう。塔の体験このかた、彼の救いの土台は、教会という制度から、聖書と信仰そのものへ移っていた。教皇も公会議も誤りうる。ならば、良心を縛れるのは神の言葉だけである。ヴォルムスの答えは、あの独房の苦悶から導かれた結論だった。
聖書と明らかな理性によって論駁されない限り、私は何も撤回できない。私の良心は神の言葉に縛られている。
07消えた改革者とドイツ語聖書
議会は5月、ヴォルムス勅令を発し、ルターを帝国の追放者とした。だがその帰り道、テューリンゲンの森で、武装した騎士たちがルターを「襲い」、連れ去った。実はこれは、彼を守るためにザクセン選帝侯フリードリヒ賢公が仕組んだ偽装だった。世間から見れば、ルターは忽然と消えたのである。
1521年5月から翌年3月まで、ルターは山上のに匿われた。名も「ユンカー・イェルク(騎士ゲオルク)」と偽った。髭を伸ばし、剣を帯び、騎士の姿で町へ降りることもあったという。体調は悪く、孤独で、「神に見捨てられたのではないか」という発作のような疑念にも苦しんだ。
それでも、この十か月で彼は歴史に残る仕事をした。ギリシア語の新約聖書を、約11週間でドイツ語に訳し切ったのである。1522年9月に出たこの訳は「九月聖書」と呼ばれ、初版三千部が数か月で売り切れた。旧約聖書はら仲間との共同作業となり、十二年をかけて1534年に聖書全体の完訳が実現した。
ルターは机の上のことばではなく、生きたことばで訳した。市場の女性や町の子どもの話しことばまで聞き取って、訳語を選んだのである。「翻訳とは、ラテン語からドイツ語への直訳ではなく、ドイツ語の口に合うように語らせることである」と自ら書いている。このは、ばらばらだった方言を超える共通のドイツ語の鋳型となり、宗教改革を超える文化的遺産となった。
だが城の外では、彼の説いた「自由」が、彼の手を離れてひとり歩きを始めていた。
08農民戦争、結婚、分裂
1524年から翌年にかけ、ドイツ各地で農民が立ち上がった。である。領主と教会の二重の年貢に苦しむ農民たちは、ルターの説いた福音の自由を、身分からの解放と読んだ。要求書『農民の十二箇条』は農奴制の廃止などを聖書から論じ、文中でルターの名にも訴えていた。
ルターは初め、諸侯と農民の双方に自制を求めた。だが暴力が広がると、1525年5月、『盗み殺す農民暴徒に抗して』を発表する。「狂犬を殺すように打ち、刺し、絞め殺せ」。諸侯にそう鎮圧を促したのである。各地の戦いで、農民側の死者は10万人前後と推計される。背景には、霊の世界と世俗の世界は別の原理で治められるというの考えがあった。それでも ― 自由を説いた人が、なぜ農民に剣を向けさせたのか。この問いは今も彼の評価に影を落としている(終盤の検証の章で立ち返る)。
同じ1525年の6月13日、41歳のルターは結婚した。相手は16歳下の元修道女。二年前、仲間とともにニシン樽に隠れて修道院を脱走した一人である。カタリーナは大所帯のルター家の会計を握り、家畜を飼い、薬草を煎じ、自家醸造のビールで夫を慰め、五十人を超える下宿人と客を切り盛りした。「私のお方 ― 家の主」と彼はユーモラスに呼んだ。六人の子に恵まれたが、長女エリザベトを生後八か月で、次女マグダレーナを13歳で亡くしている。
改革の仲間のあいだにも、亀裂が走った。人文主義の大家エラスムスがでルターを批判すると、ルターは1525年12月、で反論して決裂した。スイスの改革者とは、聖餐(パンとぶどう酒の儀式)の解釈をめぐり対立した。1529年10月のマールブルク会談では、十五の論点のうち十四で合意しながら、最後の一点で物別れに終わっている。1530年には、メランヒトンが起草した『アウクスブルク信仰告白』が皇帝に提出され、ルター派の教会は各地の領邦に根を下ろしていった。教会を一つに正すはずだった運動は、いくつもの教会へと分かれていったのである。
09晩年の影、アイスレーベンの死
晩年のルターは病を重ねた。痛風、腎臓の結石、めまい、心臓の発作。怒りっぽくもなった。1531年から弟子たちが食卓や書斎での言葉を書き留めた『食卓談話』には、深い信仰の言葉とユーモア、そして時に粗野な罵倒が入り混じっている。
そして1543年、彼は『ユダヤ人と彼らの嘘について』を発表した。改宗を拒むユダヤ人に対し、(ユダヤ教の会堂)を焼くこと、家を壊すこと、追放することまで諸侯に提案する内容だった。二十年前の『イエス・キリストはユダヤ人として生まれた』では、寛容を説いていた同じ人が、である。良心のために皇帝の前に立った人の、これが最も暗い影である。この文書が後の時代にどう利用されたかは、次の検証の章で見る。
1546年1月、ルターは生まれ故郷アイスレーベンへ向かった。故郷の伯爵兄弟の相続争いを調停するためだった。厳寒の旅である。2月14日、最後の説教を終えた。そして2月18日未明、相次ぐ胸の激痛のなかで逝った。62歳。机には、二日前に書かれたメモが残されていた。「我らは乞食である、これは真理だ」。
救いも赦しも、人間は自分の力では稼げない。ただ受け取るしかない ― 生涯かけてつかんだ彼の確信が、この最後の一行には響いている。ヴォルムスで皇帝に「いいえ」と言った力も、同じ場所から来ていた。では、あなたはどうだろう。大きな力と自分の良心がぶつかったとき、どちらに立つだろうか。
10伝承と史実のあいだ ― 検証ノート
ルター像は伝承の層が厚く、史料批判が欠かせない。まず95箇条の掲示。よく知られた「ヴィッテンベルク城教会の扉に釘で打ち付けた」という場面は、ルター自身の同時代の記録には明確な言及がなく、友人フィリップ・メランヒトンが彼の死後に書いた序文(1546)が初出である。歴史家は象徴的伝承と史実を慎重に区別している(城教会の扉が当時のヴィッテンベルク大学の学術掲示板を兼ねていたため、書簡送付と並行して討論用に貼付された可能性は残る)。確実なのは、1517年10月31日に上長のマインツ大司教アルブレヒトとブランデンブルク司教ヒエロニムスへ書簡として送付されたことである。提題の第27条はテッツェルの呼び込み句を名指しで否定している。また販売の背景には、アルブレヒトの司教権複数保有(兼任は教会法上違法)を教皇から認められるためにフッガー家から借りた金の返済という事情があり、これは当時秘匿されていた。
ヴォルムスの「Hier stehe ich, ich kann nicht anders(我ここに立つ、他のしようなし)」という有名な結びも、最古の速記録(Aleander 報告)には含まれず、1521年の印刷版『ルター博士のヴォルムスでの行為』(Acta Lutheri)に初めて現れる。実際に口から出たかは歴史家のあいだで議論があるが、ヴォルムス演説そのもの ― 良心と明白な聖書を権威の上に置く姿勢 ― は、近代の良心の自由の起点として読み継がれることになる。議会のヴォルムス勅令は5月8日付(発効は5月25日以降)。召喚に際して発された安全通行証(salvus conductus)は、1415年にコンスタンツ公会議がヤン・フスに同種の保証を発した後に焚刑に処した前例と、常に対で語られる。ヴァルトブルクの「悪魔に向かって壁にインク壷を投げつけた」という伝承も、晩年の食卓談話と城のガイド口承から育った象徴で、現存のシミは19世紀以降の創作の可能性が高い。この時期の彼を苦しめた試練は Anfechtungen(神に見捨てられたとの疑念の発作)と呼ばれる。
神学の転回についても、典拠と用語を精密にしておきたい。「塔の体験」の名は1545年の自伝的序文に由来し、ローマ書1章17節「神の義は福音に啓示されている。義人は信仰によって生きるであろう」を巡る瞑想のなかで訪れたとされる。核心は、神の義を人を罰する報復的義(iustitia activa)ではなく、無償でキリストを通じて信仰者に与えられる受動的義(iustitia passiva)と捉え直した点にある。ローマ巡礼でサンタ・スカラの階段に当時の慣習通り這い上がりながら救いを実感できなかったという回想も、同じ1545年の序文に記されたものである。1518年4月のハイデルベルク討論では「栄光の神学」(行為と理性で神の栄光へ上昇しようとする)を退け、「十字架の神学」(隠れた神を苦難のキリストの背に見る)を掲げた。1520年の三大改革文書では、教皇・公会議・教会法の三つの「壁」(貴族書)を打ち破り、秘跡を聖書に照らして洗礼と聖餐の二つに絞った(残る告解は「補助的」と位置づけ直し、終油・婚姻・叙階・堅信を秘跡から除外)。『キリスト者の自由』はラテン語版が皇帝にも献じられている。
農民戦争への硬直した対応は二王国論(霊的王国と世俗的王国は別の原理で統治される)に支えられたものだったが、急進派トマス・ミュンツァーの黙示的叛乱と農民の素朴な訴えとを区別しきれなかった点で、後世の鋭い批判を浴び続けた。1525年3月にメミンゲンで採択された『農民の十二箇条』は牧師の自選、十分の一税の改革、農奴制の廃止を聖書から論証しており、フランケンハウゼンの会戦(1525年5月15日)を含む各地の戦闘で農民側は壊滅した。教会形成の面では、マールブルク会談(1529年10月、ヘッセン方伯フィリップの調停)が聖餐の「これは私の体である(Hoc est corpus meum)」を字義通りに取るかで決裂し、1531年のシュマルカルデン同盟で福音派諸侯は軍事的にも結束した。だが急進派(再洗礼派)との分離、領邦教会化(それぞれの領邦の君主が「緊急司教」となる)が進み、「万人祭司」の理想は現実政治のなかで曲げられていった。なお『食卓談話』(Tischreden)は六千を超える断片を伝えるが、編集された語録ゆえ字義通りには引けない。晩年の精神風景の最良の証言である一方、資料としての扱いには注意を要する。
『ユダヤ人と彼らの嘘について』(1543)のいわゆる「七つの提言」は、シナゴーグと学校を焼く、家を破壊する、祈祷書とタルムードを没収する、ラビの教授を禁じる、通行の安全を奪う、高利を禁じて重労働に就かせる、もしくは追放する、というものである。1523年の『イエス・キリストはユダヤ人として生まれた』では改宗の希望を込めた寛容を説いていたが、改宗が進まぬまま晩年の絶望と病とが結びつき、神学的反ユダヤ主義の極北とも言うべき文書となった。20世紀にナチスがニュルンベルク党大会でこれを反ユダヤ主義の「ドイツ的権威」として喧伝し、シュトライヒャーが法廷で引用した事実は、戦後のルーテル教会自身に長い自省を強いた(1994年、米国福音ルーテル教会(ELCA)が公式に遺憾を表明。2017年、宗教改革500年に際してドイツ福音主義教会(EKD)も改めて謝罪を声明)。
最後に聖書翻訳の言語史的評価。ルター訳は、エラスムス校訂の1519年版ギリシア語新約聖書を底本とし、ザクセンの官房ドイツ語(Sächsische Kanzleisprache)を基盤に北独・南独の語彙を吟味して取り入れた。1522年9月の「九月聖書」はルーカス・クラナッハの木版画(『ヨハネの黙示録』のバビロンの淫婦に教皇冠を被せた版で物議)を伴い、ヴィッテンベルクのメルヒオール・ロッタウ印刷所から刊行された。旧約はメランヒトン、アウローガルス(ヘブライ語)らとの共同作業で十二年をかけ、1534年『ヴィッテンベルク全書聖書』として結実。市場の女・町の子供・家の母から語彙を聞き取ったという方法論は『翻訳についての書簡』(1530)に記されている。分裂していた諸方言を超える近代標準ドイツ語の鋳型を形づくり、後にゲーテ・ニーチェに至る言語的遺産となった ― 宗教改革を超える文化的遺産と評される所以である。
11主要な出来事と著作
- 11月10日、アイスレーベンに誕生。父は銅山採掘・精錬業の市民
- エアフルト大学、学士から哲学修士へ。父は法律家を望む
- 7月2日シュトッテルンハイムの落雷の誓い。7月17日アウグスチノ会入会
- 司祭叙階。初ミサで「私は誰に語っているのか」と戦慄
- シュタウピッツの推挙でヴィッテンベルク大学派遣
- 会の使節として徒歩でローマへ(生涯唯一のイタリア訪問)
- 神学博士号取得。ヴィッテンベルク大学聖書学講座教授
- ローマ書講義。「塔の体験」 ― 受動的義の発見
- 10月31日、95箇条の提題をマインツ大司教アルブレヒトに送付
- 4月ハイデルベルク討論「十字架の神学」。10月カエタンと対決
- 7月ライプツィヒ討論。フスを擁護し異端の系譜に連なる
- 三大改革文書(『貴族』『バビロニア捕囚』『キリスト者の自由』)。破門勅書を焚く
- 1月正式破門。4月ヴォルムス帝国議会で撤回拒否。5月ヴァルトブルクへ
- ヴァルトブルク城、11週間で新約をドイツ語訳。9月「九月聖書」刊行
- 農民戦争。『盗み殺す農民暴徒に抗して』。6月13日カタリーナと結婚
- 12月『奴隷的意志論』 ― エラスムスとの決定的決裂
- 10月マールブルク会談でツヴィングリと聖餐解釈をめぐり決裂
- アウクスブルク信仰告白(メランヒトン起草)を皇帝に提出
- 『ヴィッテンベルク全書聖書』刊行(旧約含む完訳版)
- 『ユダヤ人と彼らの嘘について』 ― 晩年の深刻な汚点
- 2月18日、故郷アイスレーベンで急死。享年62
残した思想の輪郭
- 信仰義認(sola fide) ― 人は行為ではなく、信仰によってのみ神の前で義とされる
- 聖書のみ(sola scriptura) ― 信仰の規範は教会伝承ではなく聖書だけである
- 万人司祭論 ― すべての信者が司祭であり、特権的聖職者階級を必要としない
- 二王国論 ― 霊的王国(教会)と世俗的王国(国家)は異なる原理で統治される
- キリスト者の二重の自由 ― 信仰において誰からも自由、愛において万人の僕となる
- 近代ドイツ語の形成 ― 聖書翻訳を通じたドイツ語標準化という意図せざる文化的遺産
つながり
- イエス・ベン・ヨセフ
先駆 — 「信仰のみ」——宗教改革が立ち返ろうとした先は、福音そのものだった。
- キルケゴール
継承 — 三百年後、「信仰のみ」を引き受けながら、その制度化を烈しく退けた人がいる。
- エラスムス
対比 — 『自由意志論』一冊で、改革者との決定的な分岐点に立った人文主義者。
- ディートリヒ・ボンヘッファー
継承 — 信仰義認と十字架の神学を引き受け、告白教会を「ルターの教会」として対置した牧師。
- ジャン・カルヴァン
批判的継承 — 『キリスト者の自由』を熟読した上で『綱要』を体系化し、聖餐論では別の道を選んだ改革者。
さらに読むならFurther Reading
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入門新訳 キリスト者の自由・聖書への序言
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生きた跡を辿るPlaces
マルティン・ルターが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ヴィッテンベルク城教会ゆかり
ルターシュタット・ヴィッテンベルク, ドイツ
1517年ルターが「95か条の論題」を掲げたとされる扉を擁する教会、墓所
- ヴァルトブルク城ゆかり
アイゼナハ, ドイツ
匿われたルターが新約聖書をドイツ語に翻訳した山城、世界遺産
- ルターハウス記念館
ルターシュタット・ヴィッテンベルク, ドイツ
ルターの生活と思想を伝える旧居兼博物館、世界遺産
さらに辿るならExternal References
マルティン・ルターを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「マルティン・ルター」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Martin Luther"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Martin Luther"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Martin Luther (1483—1546)"
Project GutenbergEnglishDisputation of Doctor Martin Luther on the Power and Efficacy of Indulgences(95 箇条)— Project Gutenberg
『九十五箇条の論題』英訳