イエス・ベン・ヨセフ
殺されるその時に、 なぜ敵のために祈れたのか?
神の国の到来と徹底した愛を説き、十字架にかけられてなおキリスト教の源流となった大工の息子
- 愛
- 神の国
- 山上の垂訓
ローマに支配されたユダヤの地で、人々は救い主の到来を待ちわびていた — ひらく
時代の空気
第二神殿期のユダヤである。アウグストゥスからティベリウスへ移るローマの治下で、パレスチナはヘロデ大王の死後にアンティパスのガリラヤとアルケラオスのユダヤに分けられ、後者は紀元六年からローマ総督州となった。プラエフェクトゥス・ピラトゥス(在位二六-三六)の任期はここに重なる。律法解釈をめぐりファリサイ派とサドカイ派が並び、エッセネ派が荒野に退き、熱心党は反乱の機を窺っていた。エルサレムは神殿と祭司階級の都、ガリラヤはアラム語と農村と漁の世界。重い租税と過越の群衆、そして油注がれた者を待つ希望が、湖と神殿のあいだに張り詰めていた。
01ゴルゴタの丘の祈り
紀元30年ごろの春、エルサレム。過越の祭りを前にした金曜日だった。都の城壁の外に、ゴルゴタと呼ばれる丘がある。アラム語で「頭蓋骨の場」を意味する場所である。
その丘で、一人の男が十字架にかけられていた。十字架刑は、ローマ帝国が反逆者に科す最も重い刑罰である。頭の上の罪状書きには「ユダヤ人の王」とあった。男の名はイエス。ガリラヤの村ナザレから来た、大工の息子だった。
福音書(ふくいんしょ。イエスの生涯を伝える書物)は、十字架の上の言葉を断片的に伝えている。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているかわからないのです」。自分を処刑する人々のための、赦(ゆる)しの祈りだった。
殺される間際の人間が、なぜ敵のために祈れるのか。彼は生前、丘の上の群衆に「敵を愛せ」と教えていた。その言葉を、最後の瞬間まで手放さなかったことになる。この祈りにたどり着くまでに、何があったのか。
時はおよそ三十年あまり前、ガリラヤの小さな村に戻る。
02ナザレの大工の子
紀元前4年ごろ、あるいはそれに近い時期に生まれた。生まれた場所はユダヤのベツレヘムか、ガリラヤのナザレか。福音書のマタイとルカはベツレヘム誕生を伝える。ただし細部は一致せず、研究者の間でも結論は出ていない。
育ったのはナザレである。人口500人ほどの、小さな農村だった。父ヨセフは大工(石工を兼ねた職人とも解される)。母はマリア。兄弟にヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、そして姉妹がいたと福音書は記す。
少年は父の仕事を手伝いながら育った。話し言葉は、この地方の日常の言語アラム語。シナゴーグと呼ばれる会堂で、ヘブライ語の聖書を学んだ。
当時のガリラヤは、ローマ帝国の支配の下にあった。重い税に苦しむ人々は、神が遣わす救い主を待ち望んでいた。この村の大工の息子が、やがてその期待の渦中に立つ。だがそれはまだ先の話である。30歳前後になったころ、彼は一人の預言者のうわさを聞く。
03ヨルダン川の洗礼
紀元28年ごろのこと。ヨルダン川の下流に、という人物がいた。らくだの毛衣を着て、イナゴと野蜜を食べる。砂漠の預言者そのままの姿である。ヨハネは人々に悔い改め(心を入れ替えること)を説いた。そして川の水に人を沈める洗礼(バプテスマ)を授けていた。ユダヤ各地から、人々が集まっていた。
イエスもそのもとを訪ね、ヨハネの手で洗礼を受けた。マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書が、この場面を伝えている。洗礼の後、イエスは荒野に退いた。四十日の断食と試練を経たとされる。
やがてヨハネは、この地方の領主ヘロデ・アンティパスに逮捕される。イエスはガリラヤに戻り、自分の宣教(教えを宣べ広めること)を始めた。師の運動から出発した一人の弟子。その教えがどこへ育っていくのか、このときはまだ誰も知らない。
04ガリラヤ湖畔、十二人と山上の説教
イエスはガリラヤ湖の北西岸、カファルナウムの町を拠点にした。湖で漁をしていたペトロとアンデレの兄弟を、最初の弟子にした。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが続いた。さらに徴税人(税を取り立てる嫌われ役)のマタイ。熱心党のシモン。のちに裏切ることになるイスカリオテのユダ。こうして十二人の弟子、十二使徒が生まれた。
湖畔の町で、会堂で、野外で、イエスは群衆に教えた。その教えの中心が、マタイ福音書5-7章のである。「心の貧しい者は幸い」「悲しむ者は幸い」。世の常識をひっくり返す言葉が並ぶ。「求めよ、さらば与えられん」。「人にしてもらいたいことを、人にもせよ」。
その頂点に「敵を愛せ」がある。やられたらやり返すのが当たり前の世界で、報復ではなく祈りを求めた。
敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。
説教の中ほどには、が置かれている。神の国の到来と、日々の糧と、赦しを願う短い祈りである。彼は(たとえばなし)の名人でもあった。種まく人、よきサマリア人、放蕩息子、失われた羊。日常の風景を使って、の訪れを告げた。神の国とは、神の支配が実現した世界のことである。それは、はるか未来の話ではない。「あなたがたの中にある」と彼は語った。
だが、この教えは聞く者を二つに分けていく。喜んで従う者と、警戒を強める者とに。
05癒しと食卓、律法への問い
福音書は、多くの癒しの場面を伝える。盲人の目を開き、らい病人に触れ、血漏の女に手を差し伸べる。当時、病人の多くは「汚れた者」として遠ざけられていた。イエスはその線を越えて、手を伸ばした。
食卓でも同じだった。徴税人マタイの家で食事をし、娼婦や罪人と同じ食卓に着いた。当時の常識では、これは大変な事件である。律法(トーラー。ユダヤ教の教えの法)を重んじるから見れば、清さの決まりを破る行いだからだ。だがイエスにとって、この食卓こそ神の国のしるしだった。
自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい
律法の解釈をめぐって、彼はしばしば権威と衝突した。「安息日は人のためにあり、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ 2:27)。決まりの文字ではなく、その奥にある心を問うた。ファリサイ派の偽善への批判は激しかった。ただし、すべてのファリサイ派と敵対したわけではない。ニコデモのように友好的な者もいた。
衝突の舞台は、やがてガリラヤを離れる。目指すは都エルサレム。の祭りが近づいていた。
06エルサレム入城、最後の晩餐
公の活動はおよそ三年、もっと短かったという説もある。イエスは弟子たちを連れ、過越の祭りのためにエルサレムへ向かった。過越はユダヤ最大の祭りで、都は巡礼の群衆であふれる。彼は子ろばに乗って都に入った。旧約聖書ゼカリヤ書の預言を思わせる行動である。民衆の期待は高まった。
そして神殿の境内で、事件を起こす。両替商と、いけにえの動物を売る商人の机をひっくり返したのだ(宮清め)。神殿を祈りの家ではなく強盗の巣にしている、という告発だった。この行為は、神殿を管理する大祭司カイアファとその一族を直接刺激した。都にはローマ総督ポンティウス・ピラトゥスも滞在していた。政治的に、最も張り詰めた時期である。
祭りを前にした夜、イエスは弟子たちと最後の夕食をとった(最後の晩餐)。パンを裂いて「これは私の体」、ぶどう酒を回して「これは私の血」と渡した。のちのキリスト教で聖餐(せいさん)と呼ばれる儀式の、原型となる場面である。
食事の後、彼はゲッセマネのオリーブ園で地にひれ伏して祈った。「父よ、できることなら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の思いではなく、御心のままに」。かつて弟子たちに教えた、主の祈りと同じ形がそこにあった。
御心が天に行われるとおり、地にも行われますように
祈りの後、武装した群衆が来た。弟子の一人、イスカリオテのユダの手引きがあったと福音書は記す。イエスは逮捕された。同じ夜、ペトロが三度イエスを知らないと言った出来事も起きたと伝えられる。夜が明ければ、裁きが待っている。
07再び、ゴルゴタの丘
ユダヤの最高法院の審問の後、イエスはローマ総督ピラトゥスに引き渡された。ピラトゥスは、政治的扇動の疑いで十字架刑を宣告した。
こうして、冒頭の場面に戻る。過越を前にした金曜日、城壁の外のゴルゴタの丘。罪状書きは「ユダヤ人の王」。福音書は十字架の上の言葉を断片的に伝える。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているかわからないのです」。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。そして「成し遂げられた」。マルコ福音書に従えば、午前9時ごろから午後3時ごろまで。およそ六時間で息絶えたと伝えられる。30代半ばだった。
赦しの祈りは、その場の思いつきではなかった。ガリラヤの丘で「敵を愛せ」と教えた人が、その言葉どおりに死んでいった。教えと死に方が、一本の線でつながっている。
弟子のアリマタヤのヨセフが遺体を引き取り、新しい墓に葬った。ところが三日目の朝、らが墓を訪れると、遺体はなかった。復活したイエスが弟子たちの前に現れた、と新約聖書は伝える。それが歴史の事実かどうかは、歴史学では確かめられない。だが弟子たちがそう信じ、命を賭けて宣教に出たことは疑いない。敗北にしか見えなかった死が、世界へ広がる信仰の出発点になった。
では、この人物のことを、私たちはどうやって知るのか。実は、イエス自身は一行も書き残していない。
08ナザレ派からキリスト教へ ― 史料と研究
イエスの死後、弟子たちはエルサレムに留まり、兄弟ヤコブ(義人ヤコブ)を中心とする初期ナザレ派共同体を形成した。ペトロはローマへ、ヤコブは紀元62年にエルサレムで処刑され、多くの使徒が殉教した。もともとキリスト教徒を迫害していたタルソスのサウロ(パウロ)は、ダマスコ途上で復活のイエスとの出会いを経験し、異邦人への宣教に生涯を捧げた。
注目すべきは時系列である。福音書よりも先に書かれたのはパウロの手紙だった。テサロニケ第一書(50年代初頭)を皮切りに、ガラテヤ書、コリント書、ローマ書が50年代から60年代にかけて書かれ、これら最古の新約文書は譬えやガリラヤの逸話ではなく、十字架と復活の意味を中心に論じている。福音書はその後に編まれた。マルコが65-70年頃で最古、マタイとルカが80年代、ヨハネは独立の伝統を含みつつ90-110年頃と推定される。マタイとルカに共通しマルコにない語録は失われた語録資料(ドイツ語Quelle、Q仮説)に由来するというのが現代研究の標準的前提である。70年、ローマ軍によるエルサレム神殿の破壊を経て、ナザレ派はユダヤ教の主流から分離し、やがてキリスト教(ギリシア語Χριστός=油注がれた者、メシアの訳)と呼ばれる独自の宗教となった。
この史料の層構造が、史実と信仰を書き分ける作業の土台となる。出生から論点は始まる。マタイとルカの福音書はベツレヘム誕生を伝えるが、福音書間で細部は一致せず、史実としての出生地は今も論じられている。生年も諸説あり、BC7-4年ごろとする研究が多い。福音書の伝える「処女懐胎」は信仰の文法で語られた宣言であり、史実としての確定は困難だが、イエスの出自がガリラヤの庶民層であったことは広く認められている。洗礼の場面では、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)がいずれも天からの声を記すが、マタイ 3:17は三人称「これは」、マルコ 1:11・ルカ 3:22は二人称「あなたは」と、語り口は福音書によって異なる。師ヨハネの運動を出発点としたという史実層は、のいずれもが触れざるをえなかった点で歴史批評研究では「揺るぎにくい」記憶とされる。共同体にとって都合の悪い情報ほど史実層に近いという基準である。
公生涯の描写にも同じ作業が及ぶ。十二の数はイスラエルの十二部族を念頭に置いた象徴的編成だったとみる学者が多い。ガリラヤは律法の中心エルサレムから地理的にも宗教的にも辺境とされ、ヘレニズムと農村とアラム語の世界が混じる土地が、このの風土だった。「罪人との共食」は、当時のファリサイ派・の清浄規定から見れば最大のスキャンダルであり、イエスの神の国の中心的象徴だった。離縁、誓い、清浄規定について、彼は律法の文字の下にある意図を再解釈した。「あなたがたは昔の人々に『殺すな』と言われたことを聞いている。しかし、私はあなたがたに言う、兄弟に対して怒る者は裁きを受ける」(マタイ 5:21-22)。イエス自身の説教スタイルは、ファリサイ派のラビ的な議論の伝統と多くを共有する。奇跡物語(パンの増殖、嵐の鎮め、死者の復活)は信仰共同体の証言として福音書に編まれており、史実層と解釈層を切り分ける作業は今も続いている。の描写では、ピラトゥスの優柔不断と群衆の声を強調する記述が福音書間で差があり、誰の判断が決定的だったかは史的判断の論点となっている。処刑年もAD30〜33年のいずれかで諸説あり、多くの研究者はAD30またはAD33を推定する。復活については、歴史学的事実の問題とは別に、弟子たちがそう信じ、命を賭けて宣教に踏み出した事実は疑いえない ― 史的イエス研究はその信仰経験の起点と新約諸文書の証言層を冷静に切り分け続けている。
諸福音書はそれぞれ異なる時期に異なる読者層に向けて書かれたものであり、神学的解釈の層と史実の層を切り分ける作業は今日まで続いている。母語アラム語の肉声は、ギリシア語の福音書を通してしか伝わらない。しかし彼の譬え、山上の説教、主の祈り、そして十字架と復活の出来事は、以後20世紀をこえて、数十億の人々の人生観と倫理観を形づくってきた。
ゴルゴタの丘の祈りは、二千年を渡って今も残る。敵を愛し、迫害する者のために祈る。この言葉を、あなたは自分のどの相手に向けられるだろうか。
09主要な出来事と著作
- ベツレヘム、あるいはナザレで誕生(ヘロデ大王没年BC4年から逆算、諸説あり)
- ガリラヤのナザレで成長。父ヨセフ(大工)、母マリア、兄弟ヤコブら
- 洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受ける(ルカ 3:1、ティベリウス治世第15年)
- ガリラヤを拠点に公生涯。十二弟子を集め、山上の説教、多くの譬え、癒しを行う
- エルサレム入城、宮清め、最後の晩餐(過越の食事)
- ゲッセマネで逮捕、サンヘドリン審問、ピラト裁判の下で十字架刑(AD30または33年、諸説あり)
- 復活の出現譚(マタイ・ルカ・ヨハネ福音書、1コリント 15章)
- エルサレムで初期ナザレ派共同体、ペトロ・義人ヤコブ中心
- パウロの回心、異邦人宣教の開始
- パウロ書簡が書かれ始める。新約最古の文書層
- 兄弟ヤコブ、エルサレムで処刑(ヨセフス『ユダヤ古代誌』)
- マルコ福音書(最古の福音書)
- ローマ軍によるエルサレム神殿の破壊。ユダヤ教からキリスト教が分離
- マタイ福音書、ルカ福音書(Q仮説:両者に共通する語録資料を想定)
- ヨハネ福音書。新約聖書の核となる四福音書とパウロ書簡が出揃う
残した思想の輪郭
- 神の国の到来 ― はるか未来ではなく、今ここに侵入しつつある神の支配。最後の者が最初になる逆転の論理
- 愛の二大戒 ― 「心を尽くして神を愛せ」と「自分のように隣人を愛せ」(マタイ 22章、申命記 6:5とレビ 19:18の結合)
- 敵を愛せ ― 当時の倫理の最前線を超えた、報復ではなく赦しと祈りに基づく徹底した愛()
- 罪人との共食 ― 徴税人、娼婦、らい病人を食卓に迎える、清浄規定を超えた神の国の象徴
- 山上の説教 ― 至福の教え、律法の成就、祈り、富、隣人愛を包括するキリスト教倫理の源泉
- 十字架と復活 ― 敗北に見える死が弟子たちの信仰経験を通じて救いの中心へと反転した逆説
- 譬えの言語 ― 神の国を抽象的教説ではなく、種・パン・羊・父と息子といった日常像で語る手法
史実と信仰の書き分け
- 一次資料は四福音書(マルコ65-70頃、マタイ・ルカ80年代、ヨハネ90-110頃)、最古層は(50-60年代)
- 共観福音書研究では、マタイとルカに共通しマルコにない語録の出所として(語録資料)が仮説的に立てられる
- 「諸福音書はそれぞれ異なる時期に異なる読者層に向けて書かれた」 ― 神学的解釈と史実層を切り分ける作業は史的イエス研究として現在も続いている
- 信仰共同体の証言と歴史学的判断を冷静に併置することが、リスペクトを欠かない読み方の前提となる
つながり
- アウグスティヌス
継承 — 庭で聖書の一節を読んだ瞬間に回心し、西方神学の基礎を築いた人がいる。
- トマス・アクィナス
継承 — その教えをアリストテレス哲学で整合的に記述し尽くそうとした、スコラの頂点がいる。
- マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
継承 — 「敵を愛せよ」を、20世紀の公民権運動の中心倫理にまで鍛えた牧師がいる。
- マルティン・ルター
継承 — 千五百年後、スコラ神学の媒介を退けて福音へ立ち返ろうとした改革者がいる。
さらに読むならFurther Reading
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生きた跡を辿るPlaces
イエス・ベン・ヨセフが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
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