マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
死の予告を受けた夜、 なぜ彼は恐れずに語れたのか?
非暴力と夢で公民権運動を牽引し凶弾に斃れたバプティスト牧師
- 夢見ている
- 非暴力
- バーミンガム書簡
バスの席も学校も肌の色で分けられた国で、闘い方そのものが問われていた。 — ひらく
時代の空気
南北戦争後の再建期が頓挫し、南部はジム・クロウ体制を固めていた時代だった。一八九六年プレッシー対ファーガソン判決は「分離すれども平等」を合憲とし、学校・バス・水飲み場までが肌の色で分けられた。一九五四年ブラウン対教育委員会判決は学校隔離を違憲としたが、南部の抵抗は根強い。冷戦下、米国は世界に民主主義を説きながら自国の人種差別を抱えていた。一九五五年エメット・ティルのリンチ、ローザ・パークスの逮捕。モンゴメリーのバス・ボイコット、座り込み、フリーダム・ライド、ワシントン大行進、セルマ。法は次々と動いたが、運動は終わらなかった。
01雷雨の夜、山頂からの眺め
1968年4月3日の夜、テネシー州メンフィス。米国南部の、この街を激しい雷雨が打っていた。それでもメイソン・テンプル教会には、人々が集まっていた。ストライキ中の清掃労働者たちを、支えるための集会だった。
壇上に立ったのは、39歳の牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニア。彼はこの直前、殺害の脅迫を受けてこの街に着いていた。それでも静かに語り始めた。演説の題は「山頂からの眺め(I've Been to the Mountaintop)」。
「私は長生きしたい ― しかし今はそれを気にかけない ― 私は山頂に登って向こう側を見てきた ― 約束の地を ― 私はそこに皆さんと一緒には行けないかもしれない ― しかし約束の地を見たことを伝えたい」
この言葉は、結果として死の二十四時間前の遺言となった。明日殺されるかもしれない夜に、なぜ彼はこう語れたのか。その答えを探すために、時は39年前へ戻る。
02アトランタ、スウィート・オーバーンの少年
1929年1月15日、彼はジョージア州アトランタに生まれた。生まれたときの名は、マイケル・キング・ジュニア。家はオーバーン・アヴェニュー501番地。「スウィート・オーバーン」と呼ばれる、栄えた黒人の街だった。
父はエベネザー・バプテスト教会の牧師。祖父も同じ教会の二代前の牧師だった。母アルバータは教会のオルガン奏者。姉クリスティン、弟A.D.とともに、彼は牧師館で育った。
1934年、父はドイツのベルリンを訪れた。宗教改革者マルティン・ルターの足跡に触れた父は、帰国後に決意する。自分と五歳の息子の名を「マーティン・ルーサー」に改めたのだ。ただし改名は長く書類に反映されないままだった。出生証明書の修正は、本人が大人になってからのことである。
家は恵まれ、教育熱心だった。しかし当時の南部にはがあった。バスも学校も水飲み場も、肌の色で分けられていたのだ。6歳のとき、白人の遊び友達の親からこう告げられた。「もう家の子と遊ばせない、黒人だから」。彼はこの日のことを、後年くり返し語っている。
勉強はよくできた。高校では二つの学年を飛ばした。そして15歳で、アトランタの黒人男子大学モアハウス大学に入る。学長のベンジャミン・メイズは、社会の正義を説く牧師であり学者だった。その影響で、キングも牧師になる道を選ぶ。1948年2月、19歳で按手という牧師になる儀式を受けた。こうして父の教会の副牧師となった。
差別への怒りは、少年の頃から胸の中にあった。だが、その怒りをどう闘いに変えるのか。彼はまだ、その方法を知らなかった。
03北部で見つけた武器
同じ1948年、彼は北部ペンシルヴェニア州のクローザー神学校に進んだ。白人が多数を占める学校である。ここで彼は、信仰を社会の変革につなぐ考え方に出会った。パウル・ティリッヒやといった神学者の本を、むさぼるように読んだ。
なかでも心をつかんだのが、インド独立運動を率いたマハトマ・ガンディーだった。暴力を使わないガンディーの抵抗は「」と呼ばれた。この非暴力抵抗が、キリスト教の「汝の敵を愛せよ」という教えと結びつく。そのとき彼は、自分の進むべき道を直感した。
1951年、ボストン大学の大学院に進んだ。組織神学の博士課程で、(人格主義)という神学を専攻した。指導したのはL・ハロルド・デウォルフである。
1953年6月18日、声楽家コレッタ・スコットと結婚した。式はアラバマ州マリオンにある、彼女の実家の庭で行われた。1954年9月、25歳でアラバマ州モンゴメリーへ移る。デクスター・アヴェニュー・バプテスト教会の牧師になったのだ。翌1955年6月には、ボストン大学から博士号を受けた。
怒りを闘いに変える方法。その手がかりは、もう手の中にあった。それが試される日は、思いがけず早く来る。翌年の12月、この街のバスの中で。
04バスに乗らない381日
1955年12月1日、モンゴメリー市バスの車内でのことだった。黒人女性が、白人に席を譲ることを拒んだ。彼女はその場で逮捕された。翌日、女性政治評議会のジョー・アン・ロビンソンらが動く。徹夜で五万二千枚のビラを刷り、バスへの乗車をやめようと呼びかけた。
黒人コミュニティは、を始めた。運動をまとめる新団体「モンゴメリー改善協会(MIA)」も生まれた。会長に選ばれたのは、26歳のキングである。来たばかりで、どの派閥にも染まっていない。それが選ばれた理由だった。
ボイコットは381日続いた。人々はバスに乗らず、歩き、車に乗り合って通勤し続けた。キングは毎週月曜の集会で、説教のように語りかけた。
1956年1月30日、彼の自宅が爆破された。家には妻コレッタと、生後10週の長女ヨランダがいた。二人は無事だった。集まった支持者たちは、怒りに燃えていた。キングは家の前に立ち、冷静に呼びかけた。「暴力で応えるな、これは銃と弾で勝つ闘いではない」。
1956年12月、合衆国最高裁判所が判決を下す。市バスの人種隔離は憲法違反である、と。381日の闘いは、勝利で終わった。キングは一躍、公民権運動の全国的な指導者となる。1957年1月には、(SCLC)がアトランタで結成された。彼が、その初代会長となった。
だが、勝利は始まりにすぎなかった。南部には、まだ最も固い壁が残っていたのである。
05独房で書かれた手紙
その壁の名は、アラバマ州バーミンガム。「米国で最も人種差別的な都市」と呼ばれた街である。警察署長ブル・コナーの強硬な姿勢で、悪名高かった。1963年4月3日、キングはこの街でのキャンペーンを始めた。名は「プロジェクトC」。Cは対決(Confrontation)の頭文字だった。
4月12日、キングは市の禁止命令を破って行進を率いた。そしてバーミンガム市立刑務所に収監される。独房で彼は、一通の公開書簡を読んだ。地元の白人聖職者八人が、彼の運動を「時期尚早」と批判する文章だった。
彼は返事を書き始めた。新聞の余白に、トイレットペーパーに、弁護士が差し入れた紙に、ペンを走らせ続けた。こうして生まれたのが「バーミンガム市立刑務所からの手紙」である。
「正義の遅延は正義の拒否である」。「自由は抑圧する側から進んで差し出されることはない」。「不正な法は法ではない」。手紙はアウグスティヌス、アクィナス以来のの伝統、、聖書を縦横に引いた。そして、なぜ今闘うのかを説いた。20世紀米国の最も重要な政治的散文と評される文書である。
5月、コナーの警察は子どものデモ隊に消防ホースと警察犬を向けた。その映像はテレビで全米に、そして世界に流れた。衝撃は政治を動かし、ケネディ政権は案の提出を決断する。
法案はできた。次に必要なのは、国全体の心を動かす言葉だった。
私には夢がある。いつの日か、この国が立ち上がり「すべての人は平等に創造された」という信条の真意を実現する日が来ると
06夢を語った十七分
1963年8月28日、首都ワシントン。「仕事と自由のためのワシントン大行進」に約25万人が集まった。この巨大な行進をわずか八週間で組み上げたのが、である。クエーカー教徒でガンディー主義の非暴力組織者。しかし同性愛者であることと過去の共産党員歴を理由に、表舞台から退けられがちだった人物である。
リンカーン記念堂前の階段で、キングは演説に立った。後半、同席していたゴスペル歌手マヘリア・ジャクソンが呼びかけた。「マーティン、あの夢の話を!」。彼は原稿を離れ、即興で語り始めた。「I have a dream(私には夢がある)」。
いつの日か、ミシシッピでも肌の色ではなく人格の中身で人が判断される日が来る。自分の四人の子供たちが、差別のない国で暮らせる日が来る。そういう夢だった。教会の説教の伝統と、独立宣言と、聖書を織り合わせた十七分間。この演説は、アメリカの政治演説の最高峰として記憶されることになる。
私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤い丘の上で、元奴隷の息子と元奴隷所有者の息子が、兄弟として同じテーブルに着く日が来るという夢が。
1964年7月2日、公民権法が成立した。ジョンソン大統領が署名したのだ。同じ年の10月14日、キングはノーベル平和賞を受賞する。35歳、当時の最年少受賞者だった。
1965年3月には、アラバマ州セルマから州都モンゴメリーへの大行進を率いた。最初の試みは3月7日。エドマンド・ペタス橋の上で、州警察が行進する人々を殴打した。「血の日曜日」と呼ばれたこの映像も、全米の良心を揺さぶった。そして8月6日、が成立する。
差別を支えた法律は、次々と倒れていった。それなのに、この頃から彼は孤立し始める。なぜか。
07孤立と監視 ― 生身のキング
1965年以降、キングは運動の射程を広げた。1966年のシカゴ「オープン・ハウジング」運動は北部白人地域の人種隔離を問うたが、白人の激しい敵意と政治的妥協のなかで成果を残せず終わった。1967年4月4日、ニューヨークのリバーサイド教会での反戦演説「ベトナム ― 沈黙を破るとき」は、の戦費が貧困対策を奪い、米国を「世界最大の暴力供給者」にしていると断じた。タイム誌、ワシントン・ポスト、NAACPまでもが「外交問題に口を出すな」と批判したが、キングは「沈黙は裏切りだ」として撤回しなかった。さらに「貧しい人々の運動(Poor People's Campaign)」を構想し、人種の壁を超えた経済的正義の運動を計画した。
道徳的宇宙の弧は長い ― しかし正義の方向へ曲がってゆく
だがこの時期、彼は深い疲弊のなかにあった。FBI長官の指揮下で電話盗聴、ホテル室内の盗聴、知人を装った密告者の監視が長年続いた。1964年11月にはFBIが録音から編集した婚外関係の音源と「お前には逃げ道は一つしかない」と自殺を勧める匿名書簡がコレッタ宛に送られた事件がある(後に「自殺勧告書簡」として連邦記録から発掘)。
FBI文書には複数の女性関係に関する記述があり、これらは長く封印されていた(2027年までに完全公開予定)。婚外関係を「事実だが文脈の解釈は留保が必要」と扱う研究者もいれば、当時の告発として直視すべきだと論じる研究者もいる。博士論文にも影がある。1991年にボストン大学の調査委員会が、他者の論考からの引用不適切な箇所を確認しているのだ。委員会は学位は剥奪しないとの結論に至ったが、論文の付随注で剽窃があった事実は記録された。
彼を聖人ではなく揺らぐ一人の人間として読むことは、運動の重みを軽くしない。むしろそれは、誰もが完璧でなくても正義のために立ち上がりうるという、彼自身の説教の趣旨と整合する。聖人化の物語に収まらない、彼の生身の側面である。
疲れと批判に囲まれた彼のもとに、1968年2月、南部の街から知らせが届く。メンフィスからだった。
08再びメンフィスへ
メンフィスでは、黒人清掃労働者一三〇〇人がストライキに入っていた。掲げたプラカードには「私は人間である(I AM A MAN)」。賃金と安全、そして組合の承認を求める闘いだった。3月18日、キングは支援に訪れた。しかし3月28日の行進では一部の参加者が暴徒化し、若者一人が射殺される事態となった。運動への風当たりは強まった。それでも4月3日、彼は再びメンフィスへ戻ってくる。
ここで物語は、冒頭の雷雨の夜に戻る。殺害の脅迫を受けたその日の夜、彼は語った。山頂に登り、向こう側に約束の地を見てきた、と。死の予告を受けた夜、なぜ彼は恐れずに語れたのか。ここまで彼の道を歩いてきた読者には、もう答えが見えているはずだ。
翌4月4日午後6時1分。滞在先のロレイン・モーテル306号室のバルコニーで、彼は撃たれた。向かいの下宿屋からジェームズ・アール・レイが放った、一発の銃弾だった。搬送先の聖ジョセフ病院で、午後7時5分に死亡が確認された。39歳だった。
暗殺のニュースが広がると、ワシントンDCやシカゴを含む百以上の都市で暴動が起きた。4月9日、アトランタで葬儀が行われた。参列者は十六万人、棺を送る行列は五万人にのぼった。遺言どおり、素朴な農民の荷車が棺をモアハウス大学まで運んだ。式では彼自身の録音が流された。自らの葬儀について、生前に語っていた言葉である。「私の死を悼む時、賞も私のノーベル平和賞も称賛も数え上げないでほしい。ただ、『彼は飢えた人に食べ物を与えようとした』『彼は裸の人に服を与えようとした』と伝えてほしい」。
妻コレッタは、夫の死後も非暴力運動を継いだ。アトランタにキング・センターを設立。1986年には連邦の祝日「マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの日」が成立し、2011年にはワシントンDCナショナル・モールにキング像が建立された。後継者として、彼女が二十年がかりで実現させた仕事である。
彼が撃たれてから、半世紀以上が過ぎた。それでも問いは、私たち一人ひとりに残されたままである。憎しみを向けられたとき、あなたなら、何をもって応えるだろうか。
09主要な出来事と著作
- 1月15日、アトランタに誕生。本名マイケル・キング・ジュニア(1934年に父が改名)
- 15歳、飛び級でモアハウス大学入学。メイズ学長の影響
- 2月、19歳で按手。クローザー神学校でガンディー・ニーバーの著作に出会う
- ボストン大学大学院、組織神学Ph.D.(後に剽窃疑惑の対象)
- 6月18日、コレッタ・スコットと結婚
- 9月、デクスター・アヴェニュー・バプテスト教会牧師就任
- 12月1日のローザ・パークス逮捕を契機にバス・ボイコット指導(381日)
- 1月、南部キリスト教指導者会議(SCLC)結成、初代会長
- インド訪問、ガンディー遺族と会見
- 4月、バーミンガム獄中書簡。8月28日、ワシントン大行進「私には夢がある」
- 7月公民権法成立。10月、35歳でノーベル平和賞受賞(当時最年少)
- 3月セルマ「血の日曜日」と大行進、8月投票権法成立
- シカゴ・オープン・ハウジング運動(成果に届かず)
- 4月4日、リバーサイド教会でベトナム戦争反対演説
- 4月3日「山頂からの眺め」演説。4月4日、ロレイン・モーテルで狙撃され死亡。39歳
- 連邦祝日マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの日が成立
- ワシントンDCナショナル・モールにキング像建立
残した思想の輪郭
- 非暴力直接行動 ― ガンディーのサティヤーグラハをアフリカン・アメリカン教会の伝統で再定式化
- 愛による闘争 ― 敵を憎まず、システムとしての不正義と戦う二重の戦略
- 不正な法への市民的不服従 ― アウグスティヌス、アクィナス以来の自然法伝統を公民権運動に接続
- 独立宣言の履行 ― 「すべての人は平等」という原理の完成を迫る憲法の道徳的再読
- 経済的正義と反戦 ― 人種問題を超えて貧困・戦争・軍産複合体への射程拡張
- 生身の指導者 ― FBI監視・剽窃疑惑・婚外関係を含めて、聖人化を避けて読み直す対象
つながり
- エイブラハム・リンカーン
先駆 — 「I Have a Dream」が語られたのは、この人の記念堂の階段の上だった。
- マハトマ・ガンディー
先駆 — 非暴力という原理——キングは1959年、その源流を訪ねてインドを1ヶ月旅した。
- イエス・ベン・ヨセフ
先駆 — 「敵を愛せよ」——公民権運動の中心に据えられた言葉は、山上の垂訓から来た。
- ジョン・F・ケネディ
同時代 — 1963年、公民権法案を抱えてキングと緊張と協働を重ねた大統領がいた。
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マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門私には夢がある ― M・L・キング説教・講演集
マーティン・ルーサー・キング・Jr / 訳: 梶原寿 監訳、クレイボーン・カーソン、クリス・シェパード 編 / 新教出版社
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生きた跡を辿るPlaces
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- マーティン・ルーサー・キング Jr. 国立歴史公園記念館
アトランタ, アメリカ
キングの生家・エベネザー・バプティスト教会・墓所を含む国立歴史公園
- ロレイン・モーテル(国立公民権博物館)記念館
メンフィス, アメリカ
キングが凶弾に倒れたモーテル跡、公民権運動の総合博物館
さらに辿るならExternal References
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