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アウグスティヌス

Augustine of Hippo·354–430·古代ローマ·

わかっているのに なぜ動けないのか

マニ教を経てキリスト教に回心、西方教父の最大の思想家

  • 告白
  • 恩寵
  • 神の国
千年つづいた帝国が、ゆっくりと崩れはじめていた — ひらく

時代の空気

354年に生まれたアウグスティヌスが生きたのは、西ローマ帝国末期である。属州ヌミディア(現アルジェリア)の小都市タガステは肥沃な農地に囲まれ、彼は当時帝国第三の都市カルタゴ、皇帝の西方宮廷が置かれたミラノ、東方の活力を保つローマを渡り歩いた。391年に司祭、395年に司教となったヒッポは地中海交易の港湾都市である。410年、西ゴート族のアラリックがローマを略奪して「永遠の都」陥落の衝撃が帝国を覆い、430年、ヴァンダル族がヒッポを包囲する中で彼は熱病に倒れた。

01ミラノの庭で、動けなかった男

386年の夏。ローマ帝国の都市ミラノの、ある庭に、ひとりの男がいた。名はアウグスティヌス。31歳。皇帝の宮廷が置かれたこの都市で、修辞学(言葉で人を動かす弁論の技術)の教授を務めていた。世俗の成功の頂点に、手が届こうとしていた。

だが、その男は庭で苦しんでいた。何をすべきかは、もうわかっていた。頭では、何もかも理解していた。それでも、一歩が出ない。「いつか、しかし今ではない」。その言葉が、何度も頭をよぎった。彼は後に、この状態を「二つの意志が戦っている」と表現している。傍らには、友人アリピウスがいた。

そのとき、隣の家から子どもの声が聞こえた。歌うような声だった。「トッレ・レゲ、トッレ・レゲ(取って読め、取って読め)」。子どもの遊び歌だろうか。だが彼には、そう思えなかった。

すべてを手にしたはずの男は、なぜ動けなかったのか。その答えを知るには、彼が生まれた日まで戻らなければならない。時は32年前。北アフリカの小さな町から、物語は始まる。

02タガステの少年と、母の祈り

354年11月13日、アウグスティヌスは北アフリカの町タガステ(現アルジェリア・スーク・アフラス)に生まれた。ローマ帝国の属州ヌミディアにある、肥沃な農地に囲まれた小さな町である。父パトリキウスは異教徒いきょうとの小地主だった。家族を養うのに苦労しながらも、息子の教育に情熱を注いだ。母はキリスト教の信仰に深く根ざした女性だった。酒癖のある夫を愛と忍耐で支え、息子が神の人となることを生涯祈り続けた。

幼いアウグスティヌスは知性に恵まれていた。文字を覚えるのが早く、ラテン語の韻文いんぶんに親しんだ。しかし少年時代を正直に語るとき、彼が記すのは祈りではない。遊びと悪戯に満ちた日々である。後に彼は、自分の半生を包み隠さず神に語った書の中で、仲間と梨を盗んだ夜の小さな冒険を、の象徴として詳しく告白している。欲しかったのは梨ではなかった。禁じられた行為そのものへの欲望だった、と。この小さな罪の解剖が、後の原罪論の核心と呼応する。

ラテン語修辞学の才能は際立っていた。父パトリキウスは身を削って教育資金を工面し、息子を近くの町マダウラへ遊学させた。さらに上の教育の地カルタゴへ送ることを夢見たが、資金が続かない。息子は一時帰郷を余儀なくされ、その空白の一年を遊んで過ごした。モニカは息子のために毎晩祈ったと伝えられる。後にアウグスティヌスは、ある司教が彼女に言った言葉を書き記している。「これほどの涙で祈られた子が滅びることはない」。

やがて資金が整い、少年は旅立つ。16歳のころ、行き先は帝国第三の都市カルタゴだった。その熱と喧騒が、彼を待っていた。

03カルタゴの熱、息子アデオダトゥス

370年ごろ、アウグスティヌスはカルタゴへ向かった。北アフリカ最大の都市である。父パトリキウスはその直前に没していた。留学は、タガステの有力者ロマニアヌスの支援でようやく実現した。

カルタゴは、若者を迎えるように誘惑に満ちていた。「私はまだ愛することを愛していた。そして愛を求めていた」と彼は後に書く。円形競技場の熱狂、劇場、路地の喧噪けんそう。修辞学を学びながら、彼はその才能で仲間の中心になった。同時に、欲望の引力にも引かれていった。まもなく、名も伝わらない女性と暮らし始める。372年、息子が生まれた。名は。ラテン語で「神から与えられた者」の意味である。

二人の関係は正式な婚姻ではなかった。当時のローマ社会に広く見られた内縁ないえんの習慣によるものである。しかし父としてのアウグスティヌスは、息子を深く愛した。アデオダトゥスは父に似て聡明だった。後に対話録『教師について』にも登場し、父と哲学の問答を交わしている。だがこの息子は、父の回心後まもなく、わずか17歳で夭折ようせつする。その死は消えない痛みとなった。「私は彼に何も貢献しておらず、すべてはあなたの賜物でした」と彼は神に語りかけている。

19歳のとき、ひとつの出会いがあった。ローマの弁論家キケロの著作『』である。この書は現存しない。だが彼は後に書いている。「その書は私の感情を変え、願望を変え、主よ、あなた自身へと私の祈りを向けさせました」。快楽の探求から、真理の探求へ。哲学への炎が点いた。そして真理を求める彼の前に、ひとつの問いが立ちはだかる。悪は、どこから来るのか。

04マニ教の9年

373年ごろから、アウグスティヌスはに傾倒した。マニ教とは、ペルシア出身の預言者マニが3世紀に創始した宗教である。世界を光と闇、二つの原理の争いとして説明する。人間の魂は光の粒子を宿しているが、物質という闇に捕らわれている。そういう世界観だった。

なぜ惹かれたのか。「悪はどこから来るのか」という問いに、答えていたからである。キリスト教は、この問いに満足のいく答えをくれなかった。マニ教は答えていた。悪の存在を明快に説明できるこの思想体系は、知的な若者を強く惹きつけた。

アウグスティヌスは「聴聞者ちょうもんしゃ」という位階にとどまり、友人たちをも引き込んだ。マニ教は禁欲を最上とし、上位の「選ばれた者」には菜食や断食が課された。だが聴聞者への戒律かいりつはゆるやかで、婚姻外の関係も黙認されていた。彼は愛人と息子を持ちながらマニ教徒として暮らした。その間にカルタゴで修辞学の教師として立ち、やがてローマの教壇にも立つ。

しかし、知的な誠実さが、少しずつ疑問を積み重ねていった。マニ教の宇宙論は、当時の数学や天文学の知識と矛盾していた。太陽や月の運行についての主張は、計算によって否定される。彼は指導者ファウストゥスとの面会を長年楽しみにしていた。383年、ついにカルタゴで対面する。だが期待は裏切られた。ファウストゥスは確かに雄弁で魅力的だった。しかし、彼が抱えていた具体的な問いには、何ひとつ答えられなかった。

9年の傾倒は冷めた。これは単なる信仰の離脱ではない。知的に誠実であろうとすることが、ひとつの宗教体系をゆっくりと腐食させた過程だった。彼は後に書いている。自分は「真理を愛するがゆえにマニ教を離れた」のだ、と。次の足場を探す旅が、ミラノという都市へ彼を導いていく。

05ミラノ、アンブロシウスとの出会い

383年、アウグスティヌスはローマへ渡った。翌384年には、ミラノの修辞学教授の職を得る。皇帝の西方宮廷が置かれたミラノは、当時の帝国でもっとも政治的に重要な都市のひとつだった。修辞学教授は、公の弁論や式典演説を担う地位の高い職である。世俗の成功の頂点が、目の前にあった。

ミラノには、という司教がいた。もとは帝国の高位の行政官でありながら司教となり、政治と神学の両面で傑出した力を持つ人物である。その説教は大聖堂を満たし、知識人をも魅了した。アウグスティヌスは最初、修辞学者の眼で話の技法を評価するために聴いていた。ところが次第に、内容そのものが心に入り込んでくる。特に響いたのは、聖書の寓意的解釈ぐういてきかいしゃくだった。聖書を文字どおりではなく、たとえとして深く読む読み方である。文字どおりに読んで感じていた矛盾が、それで解けていった。

同じ時期、の著作にも出会った。プロティノスやポルピュリオスという哲学者たちの思想である。神を物質としてではなく、純粋な精神的実在と見なす視点を、彼はそこから得た。マニ教が残した疑問が次々と解けていく。悪は独立した実体ではなく、善の欠如にすぎない。神は特定の場所にいるのではなく、あらゆる場所に遍在へんざいする。魂は内側へ向かうことで、真の実在に触れることができる。

384年には、母モニカもミラノへやってきた。彼女は息子のための花嫁候補を探し始め、長年連れ添った愛人との別れを促した。愛人は息子アデオダトゥスをミラノに残し、アフリカへ帰っていった。「私の心は彼女にしっかりとくっついており、引き裂かれ、傷つき、血を流していた」と彼は後に書く。花嫁候補は幼すぎて、すぐには結婚できない。待つ間に、彼は別の愛人をつくった。頭ではもう、進むべき道が見えていた。それでも、動けない。そして386年の夏が来る。あの庭である。

06取って読め ― 庭の回心

物語は、冒頭の庭に戻る。

内なる葛藤かっとうは長く続いていた。知性では信仰の真実を認めていた。新プラトン主義によって、神の概念も理解できていた。しかし意志が動かない。欲望と長年の習慣が足枷あしかせとなり、踏み出せない。肉の意志と霊の意志が、同じ魂の中で引き合っていた。

そこに、あの声が聞こえたのだった。「トッレ・レゲ、トッレ・レゲ(取って読め、取って読め)」。神が命じているように感じた彼は、傍らに置かれていた書物を開く。キリスト教の伝道者パウロの手紙集である。目は『ローマ書簡』第13章に落ちた。「放蕩ほうとう酩酊めいていの中を歩むのではなく、不品行と色欲しきよくの中を歩むのでもなく、争いと嫉妬の中を歩むのでもなく、主イエス・キリストを着なさい」。その一節を読み終えたとき、長年の重みが消えた。光が心に注ぎ込まれ、疑いの闇がすべて散らされた、と彼は後に記している。

387年の復活祭前夜、アウグスティヌスはアンブロシウスの手によって洗礼を受けた。息子アデオダトゥスと友人アリピウスも、同じ日に受洗した。三人は故郷アフリカへの帰途につく。しかしその年の秋、母モニカがローマ近郊の港町オスティアで病に倒れた。息子との最後の夜、二人はテラスに座り、永遠の命について静かに語り合った。モニカは言った。「息子よ、私にはこの世に何も残っていない。なぜまだここにいるのか、わからない」。数日後、彼女は旅立った。56歳だった。アウグスティヌスはしばらく涙をこらえた。だが、ひとりになったとき、涙があふれた。生涯の祈りが届いたという安堵の中での死だった。

母を見送った男は、生まれ変わって故郷へ帰る。だがそこで待っていたのは、望んでいた静かな生活ではなかった。

神よ、あなたは我らをあなたに向けて造られた。それゆえ我らの心はあなたのうちに憩うまで安らぎを得ない。

『告白』第1巻1章 ― 回心をへて、遠回りした半生を振り返った冒頭の祈り

07ヒッポの司教 ― 『告白』『神の国』『三位一体論』

北アフリカへ戻ったアウグスティヌスは、タガステに修道共同体を設けた。祈りと思索の静かな観想生活かんそうせいかつを送るつもりだった。しかし391年、港湾都市ヒッポ・レギウス(現アルジェリア・アンナバ)を訪れたときのことである。信者たちに推挙され、人々の前に引き出され、半ば強制的に司祭に叙階じょかいされた。395年には主任司教となる。以後、430年に世を去るまでの35年間、彼はヒッポの司教として生きた。

この長い司教職の時代に、主要著作のすべてが生まれた。397年ごろから書かれた『告白』は、人類史に類例のない作品である。自己の生涯を、神への告白として記した書だからだ。内面の葛藤、欲望との戦い、回心の体験。そのすべてが、神への語りかけの文体で綴られる。自伝であり、祈りであり、神学的省察せいさつでもある。西洋文学における自伝ジャンルの源流とされ、後のルソー『告白』やトルストイの内省文学に至る長い系譜の先頭に立つ。

しかも『告白』は、思い出話では終わらない。後半の巻では「時間とは何か」という哲学の問いに沈み込んでいく。過去は記憶として、未来は期待としてあり、実在するのは現在だけだという、内的時間の哲学である。

それでは、時間とは何か。誰も私に尋ねなければ、私は知っている。しかし尋ねる者に説明しようとすると、私は知らない

『告白』第11巻 ― 時間とは何かを、神の前で自らに問うて

410年、西ゴート族のアラリックがローマを略奪した。「永遠の都」の陥落は帝国全土に衝撃を与えた。異教徒たちは、キリスト教への改宗がローマを弱くしたと非難した。アウグスティヌスはこれに答えるため、『』の執筆を始める。完成まで十数年を要した大作である。地上の都市と神の国という二つの共同体が、歴史を通じて対立し絡み合ってきた。そう描く壮大な歴史神学であり、中世キリスト教の政治思想と歴史観の礎となった。

』は、さらに息の長い仕事だった。四半世紀を超える歳月をかけて書き継がれ、父・子・聖霊という三つの位格いかくが一つの神であるという教義を、ラテン語で哲学的に精緻に論じた。東方の神学者たちとは異なる独自の理解を展開し、西方教会の三位一体神学の土台となった。

だが、晩年の彼を待っていたのは、執筆の日々だけではなかった。人間は、自分の力で善をなせるのか。彼自身の人生を賭けの対象にするような論争が、迫っていた。

08ペラギウス論争 ― 原罪、自由意志、予定説

アウグスティヌスの思想の中で、後世への影響がもっとも深かったのはから生まれた議論かもしれない。それは人間の本性そのものをめぐる問いだった。

ブリタニア出身の修道士は、4世紀末にローマで説教し、大きな支持を集めた。彼の主張は明快だった。人間は本来、善を行う能力を持っている。神はアダムの罪を人類全体に負わせなかった。自分の罪に責任を持ち、努力によって救いへ向かうことができる。神のとは、神の教えと模範によって人間を助けることだ。

アウグスティヌスはこれに正面から反論した。彼自身の体験が論拠だった。ミラノの庭で「踏み出せ」とわかっていても踏み出せなかったあの葛藤。あれこそが、意志が自由ではないことの証拠だった。アダムの罪以来、人間の意志は根本から損なわれている。善を望む力は人間自身には残っていない。神の先立つ恩寵なしに、人は善へも救いへも向かうことができない。恩寵は外から与えられるものではなく、意志そのものを内から変えるものだ。そして誰が恩寵を受け、誰が救われるかは、神の永遠の予定によって定まっており、それは人間の功績によるのではない。原罪論との体系がここに確立された。

この問いは単なる神学論争ではなかった。と神の全能は本当に両立するのか。神が全員を救えるのなら、なぜ救わないのか。アウグスティヌス自身も矛盾の重さを感じながら書き続けた。しかし彼の解答は、中世スコラ神学、宗教改革期のルターとカルヴァン、さらには近代の自由意志論争まで、1600年以上にわたる議論の出発点となった。ペラギウスは416年のカルタゴ・ミレウィス会議で異端いたんと判定され、418年には教皇ゾシムスも最終的にアウグスティヌスの立場を支持した。西方教会は公式に恩寵論の側に立った。

物語は、はじまりの庭に帰り着く。成功の頂点にいた31歳の男は、なぜ動けなかったのか。アウグスティヌスは、その答えを生涯かけて探した。そして晩年、こう結論づけた。人は、自分の意志の力だけでは変われない。あの夏の庭で自分を動かしたのは、自分ではなかった、と。430年、ヴァンダル族がヒッポの町を包囲するなか、彼は熱病に倒れ、世を去った。帝国もまた、終わりへ向かっていた。

わかっているのに、動けない。そんな夜は、誰にでもある。では、その足枷を外すものは何だろうか。自分の意志の力か。それとも、自分の外から来る何かか。1600年前に開かれたこの問いは、まだ閉じられていない。

09主要な出来事と著作

  1. 北アフリカのタガステ(現アルジェリア・スーク・アフラス)に誕生。父パトリキウス(異教徒)、母モニカ(キリスト教徒)
  2. カルタゴへ留学。修辞学を学ぶ
  3. 息子アデオダトゥス誕生(母は名不詳の愛人)
  4. マニ教に入信。以後9年間傾倒する
  5. ローマへ渡る。翌年ミラノの修辞学教授に就任
  6. ミラノでアンブロシウス司教の説教を聴く。新プラトン主義との出会い
  7. ミラノの庭園で回心体験。「取って読め(トッレ・レゲ)」の声
  8. アンブロシウスより洗礼を受ける。母モニカ、帰途のオスティアで没(享年56)
  9. ヒッポ・レギウスで司祭に叙階
  10. ヒッポの主任司教に就任
  11. 『告白』執筆・刊行。全13巻
  12. 『三位一体論』執筆。全15巻
  13. 西ゴート族によるローマ略奪。『神の国』執筆開始
  14. カルタゴ・ミレウィス両教会会議がペラギウス主義を非難(決着は418年のカルタゴ会議)
  15. 『神の国』完成。全22巻
  16. ヴァンダル族によるヒッポ包囲中、熱病で死去。享年76

残した思想の輪郭

  • 原罪論 ― アダムの罪以来、人間の意志は損なわれており、善への自由を欠く
  • 恩寵論 ― 救いは人間の功績ではなく、神の先立つ恩寵によってのみ可能
  • 予定説 ― 誰が救われるかは神の永遠の定めによる。後のカルヴァンに決定的影響を与えた
  • 神の国と ― 二つの都市の歴史的対立として人類史を読む。中世政治神学の骨格
  • 三位一体論 ― 父・子・聖霊を精緻にラテン語で論じ、西方教会神学の基礎を確立
  • 時間論 ― 『告白』第11巻で展開。過去は記憶、未来は期待、現在のみが実在するという内的時間の哲学
  • ― 人間が真理を認識するのは、神の光が知性を照らすことによる。プラトンのをキリスト教化した認識論
430年、ヴァンダル族がヒッポを包囲する中、熱病で死去。76歳だった。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

アウグスティヌスの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

アウグスティヌスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ聖堂墓所

    パヴィーア, イタリア

    ヒッポで没後、ヴァンダル族の侵略を避けて遺骨はサルデーニャへ。725年ごろランゴバルド王リウトプランドが買い戻し、この聖堂に祀った。大理石のアルカが祭壇上に安置される

さらに辿るならExternal References

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