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トマス・アクィナス

Thomas Aquinas·1225頃–1274·中世イタリア·

一生を賭けた本を、 なぜ彼は途中でやめたのか?

アリストテレスをキリスト教神学に統合、スコラ哲学の頂点

  • 神学大全
  • 自然法
  • 神の存在証明
皇帝と教皇が争う時代、アリストテレスの書物が「危険な知」としてヨーロッパに流れ込んでいた。 — ひらく

時代の空気

十三世紀の南イタリアは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と教皇庁が交互に支配を争い、貴族家門は皇帝派と教皇派に引き裂かれていた。フリードリヒ2世が1224年に創設したナポリ大学を入口に、アラビア語経由でアリストテレスの自然学・形而上学・魂論が大量にラテン語訳され、1210・1215年パリで「アリストテレス自然学を教えてはならない」との禁令が出る。新興の托鉢修道会(ドミニコ会・フランシスコ会)が大学に拠点を持ち、パリ大学芸術学部ではシゲール・ド・ブラバンらアヴェロエス主義者が二重真理説と呼ばれる立場で台頭していた。

01筆を置いた日

1273年12月6日、南イタリアのナポリ。(清貧と説教を旨とする修道会)の修道院サン・ドメニコ・マッジョーレで、一人の修道士がミサを捧げていた。トマス・アクィナス、48歳。その名は、すでにヨーロッパ中の大学に知られていた。

聖ニコラオ礼拝堂でのミサの最中、トマスは深い神秘的な体験を受けた。その日を境に、彼は筆を置いた。以後、死までの3か月、一行も書かなかった。

彼はそのとき、『』という巨大な本を書いている途中だった。キリスト教の教えの全体を、問いと答えの形で積み上げる書物である。すでに7年以上を費やしていた。その筆が、突然止まったのだ。

側近の修道士レジナルドは、何度も執筆の再開を促した。トマスは静かに答えたと伝わる。

私が書いたすべては藁に思える。私が見たもの、そして啓示されたものに比べれば。

執筆の再開を促した側近の修道士レジナルドへの答え(1273年12月、ナポリ)

藁(わら)とは、実を取ったあとに残る茎のことだ。生涯を賭けた仕事を、彼はそう呼んだ。翌年、トマスは49歳でこの世を去る。大著は未完のまま残された。

なぜ、彼は書くのをやめたのか。その謎を解くために、時は48年前に戻る。

02城の子と、答えのない問い

1225年頃、トマスは南イタリアのロッカセッカ城に生まれた。父ランドルフォは、アクィノ伯爵家に連なる貴族だった。母テオドーラは、ナポリ近郊の名家の出。兄姉は多く、トマスは末子のひとりだった。城は断崖の上に立ち、眼下の谷には修道院の鐘の音が届いた。

当時の南イタリアでは、神聖ローマ皇帝と教皇が交互に支配を争っていた。貴族の家は、どちらの側につくかで引き裂かれていた。息子を修道院に入れることは、魂の救いであると同時に、家を守る安全弁でもあった。末子トマスの行く先は、生まれた日から修道院と決まっていた。

母の望みは、息子がの院長になることだった。カッシーノは、ベネディクトゥスが529年に建てた伝説の大修道院である。その院長の座は、宗教でも政治でも高い地位を意味した。5歳のとき、トマスは山の上の神の家に預けられた。

修道院の日課は厳格だった。夜明け前の祈りに始まり、昼は写本しゃほん(本の書き写し)、夕べは詩篇しへん(聖書の歌)。少年は無口で、一度学んだ文章を忘れなかったと伝わる。そして修道士の袖を引いては、同じ問いを繰り返したという。「神とは何ですか」。

答えがあいまいだと、別の修道士のところへ行き、また同じ問いを尋ねた。その熱心さは迷惑がられたが、誰も笑わなかった。問いの真剣さが、子どものものではなかったからだ。やがてこの問いに、彼は生涯をかけて答えようとする。だがその前に、戦争が少年の運命を変えた。

03ナポリ ― 危険な書物と、貧しい修道士たち

1239年、皇帝と教皇グレゴリウス9世の対立が激しくなった。皇帝軍がカッシーノ山の周辺を占拠し、修道士たちは追放された。14歳のトマスも山を下り、ナポリへ向かった。

行き先はナポリ大学。フリードリヒ2世が1224年に創った、教会の外に立つ大学だった。ここでトマスは、初めてアリストテレスに出会う。古代ギリシャの哲学者である。神を持ち出さず、観察と論理だけで世界を説明していく思考だった。あわせて、アラビア語経由でヨーロッパに渡ったイブン・ルシュド(アヴェロエス)の注解書にも触れた。

それまで彼が学んできたのは、キリスト教の伝統と神学だった。アリストテレスは、世界を別の論理で見る目を与えた。だがそれは、教会にとって危険な異物でもあった。パリでは1210年と1215年に、「アリストテレスの自然学を教えてはならない」という禁令が出ていたほどである。

同じナポリで、トマスはもう一つの出会いをする。托鉢たくはつ修道会として急速に広がっていた、ドミニコ会である。財産も安定した地位も捨て、路上で神を語る修道士たち。その姿が、貴族の子の心を動かした。

1244年、19歳のトマスはドミニコ会への入会を決意する。母テオドーラは激怒した。大修道院の院長ではなく、物乞い同然の托鉢修道士になる。それは家門への裏切りに映った。兄たちはローマへの旅の途中でトマスを拉致らちし、ロッカセッカ城に約一年、留め置いた。

家族は何度も説得を試みた。ある夜、兄たちは美しい女性を部屋に送り込んで誘惑させたとも伝わる。トマスは暖炉の燃えさしでその女性を追い払った。そして残った炭で壁に十字架を描き、一晩中祈り続けたという(聖人伝に連なる伝承)。やがて母が折れた。

1245年、彼はドミニコ会の白衣と黒マントをまとい、ナポリを発った。行き先はパリ。そこに、生涯の師が待っていた。

04「沈黙の雄牛」と呼ばれた青年

1245年、20歳のトマスはパリに着いた。加わったのは、の講義である。ドミニコ会が誇る、当代最大の学者だった。神学者でありながら自然科学にも通じ、アリストテレスの全著作をキリスト教の文脈で読み直すという、前人未踏の試みに取り組んでいた。トマスより約20歳年長で、「偉大なるアルベルトゥス」の名はヨーロッパ中に轟いてとどろいていた。

トマスは相変わらず無口だった。体は大きく、どっしりとして、動作も言葉も鈍かった。同学の修道士たちは、彼を陰で「沈黙の雄牛(Dumb ox)」と呼んだ。しかしアルベルトゥスは、その沈黙の深さを見抜いていた。ある授業でトマスのノートを見た師は言った。「この牡牛の吠え声は、やがて全世界に響きわたるだろう」。

1248年、アルベルトゥスはケルンに新しい修道院学院(Studium generale)を開いた。トマスもともにライン川を渡った。ケルンでの四年間、彼はアリストテレスの論理学・自然学・形而上学・倫理学を体系的に学んだ。1252年、師の強い推薦でパリ大学に戻り、神学を教える準備に入った。

師弟の絆は終生続いた。のちにトマスが死の床にあると知ったアルベルトゥスは、深く嘆き悲しんだと伝わる。だがそれはまだ先の話である。雄牛が声を上げる場所は、静かな教室ではなかった。パリ大学は、ヨーロッパ最大の知の闘技場になっていた。

05パリの闘技場 ― 真理は二つか、一つか

13世紀のパリ大学では、二つの争いが同時に進んでいた。ひとつは組織の争いである。神学部では、ドミニコ会・フランシスコ会など托鉢修道会出身の教師と、世俗の聖職者の教授たちが、大学の権限と学生をめぐって対立していた。修道会は大学の秩序を乱す、と見る者もいた。そのただ中の1256年、トマスは神学教授資格(マギステル)を取得する。聖書と「」(当時の神学の標準教科書)の講義を担った。

もうひとつは、思想の争いだった。芸術学部ではシゲールス・デ・ブラバンティアらアヴェロエス主義者が台頭していた。「哲学的真理と神学的真理は別物でありえる」という立場が彼らに帰せられ、のちにと呼ばれた(シゲール自身が明示的に唱えたかは論争が残る)。理性の世界と信仰の世界を切り離す。そうすれば、アリストテレスの危険な命題――世界は永遠であり、個人の魂は不死ではない――を、哲学としてそのまま守れる。衝突するなら、それぞれの領域でそれぞれが正しければよい、という論理である。

トマスはこれに真っ向から反論した。理性と信仰は矛盾しない。どちらも同じ神に源を持つ、二つの光だからだ。もし矛盾が生じるなら、どちらかの論証に誤りがある。彼は『』(Summa contra Gentiles)の執筆を続けた。聖書の権威に頼らず、理性の論証だけで信仰の真理を弁護しようとする書物である。

哲学は神学の侍女である。しかし侍女は不当に扱われてはならない

トマスの立場を要約するものとして中世以来伝えられてきた定式(伝承)

哲学は神学に仕える。だが、乱暴に使い捨ててよい道具ではない。哲学には哲学の厳密さがあり、それを尊んでこそ神学の力になる。この緊張を保ったまま、彼の中でより大きな構想が熟していく。修道士への神学教育のための、体系的な一冊の書物である。

06『神学大全』 ― 頭の中の大聖堂

1265年、ローマに戻ったトマスは、ドミニコ会の修道院学院で新しい神学書の執筆を始めた。『神学大全』(Summa Theologiae)である。序文で彼は、読者をこう定めた。「神学を学ぶ初学者のために」。しかしその「入門書」は、やがて中世キリスト教思想の最大の集成となる。

構成は三部からなる。第一部は神そのもの、三位一体、創造、天使と人間を扱う。第二部は人間の行い・倫理・徳。第三部はキリストの受肉じゅにく(神が人となったこと)と秘跡ひせき(神の恵みを伝える儀式)。各問いは「異論(Objectio)」「反論(Sed contra)」「本論(Respondeo)」「各異論への答え」という精密な問答の形で進む。全体で512問、2,669条を数える。

執筆は7年以上に及んだ。トマスは口述こうじゅつし、複数の書記が筆を取った。毎朝ミサの後に執筆し、問いを立て、反論を並べ、本論を展開する。同時代の人々は、彼が複数のテーマを同時に口述できたと驚きをもって伝えている。書記が入れ替わり部屋に入るなか、トマスはそれぞれに別の問いの続きを語った。頭の中に、完成した文章が既にあるかのようだったという。

幼い日の「神とは何ですか」という問いに、彼は一問ずつ答えを積み上げていった。その積み上げが、1273年12月6日、突然止まる。

07ふたたび、ナポリの礼拝堂で

時を戻そう。1273年12月6日、ナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ修道院。聖ニコラオ礼拝堂でミサを捧げている最中に、トマスは深い神秘的な体験を受けた。その後、筆を置いた。『神学大全』第三部は、秘跡の箇所を残したまま止まった。

「私が書いたすべては藁に思える」。これは絶望の言葉として読むこともできる。だが彼の歩みをここまで辿った目には、別の読み方も見えるはずだ。トマスは理性を信じ抜いた人だった。理性は神が人間に与えた能力であり、信仰と同じ真理へ向かう光である。そう考えたからこそ、512問の論証を一段ずつ積み上げた。

その彼が、論証の先で何かを「見た」。見たものに比べれば、書いたものは藁に思えた。それは理性の敗北だろうか。それとも、理性の道を最後まで歩き切った者だけが立てる場所だろうか。トマス自身は答えを語らないまま、旅立った。

1274年、リヨン公会議(教会の大会議)へ向かう旅の途中だった。トマスはフォッサノーヴァ修道院で息を引き取った。49歳。1323年には聖人の列に加えられ、その体系はやがてカトリック神学の背骨となっていく。

考え抜くことと、信じること。その二つを一つの道にしようとした人の終着点に、言葉にならないものが待っていた。もし積み上げた言葉の先に、言葉を超えるものがあるのだとしたら――あなたは、それでも考え続けるだろうか。

08考証 ― アリストテレスの統合と五つの道

ここからは、トマスが積み上げた体系の骨組みを、一段深く見ていく。

12世紀後半から13世紀にかけて、イスラム世界とビザンツ経由でアリストテレスの著作群が大量にラテン語に翻訳された。それまでヨーロッパのキリスト教神学はアウグスティヌスとプラトン哲学の伝統に依って立っていた。アリストテレスは論理学の一部だけが知られていたにすぎない。しかし13世紀初頭、彼の自然学・形而上学・魂論・倫理学が一気に流れ込んだ。

なかでもイブン・ルシュド(アヴェロエス)の詳細な注解書はヨーロッパの知識人を震撼させた。アリストテレスの宇宙論は世界の永遠を説き、彼の魂論は個人の不死を否定するように読めた。パリ大学の芸術学部では、これを哲学的真理として受け入れる動きが広がった。教会にとって、これは危険な異物だった。1210年と1215年、パリで「アリストテレスの自然学を教えてはならない」という禁令が出た。

トマスの革命は、その異物を敵として排除するのでも、禁令きんれいに従って封印するのでもなく、内側から変容させた点にある。彼は「存在(esse)」と「本質(essentia)」の区別を徹底し、神だけが「自存する存在そのもの(ipsum esse subsistens)」であるという形而上学を構築した。すべての被造物ひぞうぶつが合成されており、神の自由な創造によってのみ存在を与えられる。アリストテレスの概念装置は保たれながら、その中心に創造神が据えられた。

理性は信仰の敵ではない。理性は神が人間に与えた能力であり、信仰と同じ真理の源泉へと向かう。ただし理性だけでは到達できない真理がある。三位一体、受肉、秘跡 ― これらは啓示によって与えられ、理性はその後から理解を深める役割を担う。「信仰が先、理解が後(credo ut intelligam)」というアウグスティヌスの言葉を、トマスはアリストテレスの論理学で補強し、より精密な哲学的基盤の上に乗せた。哲学は神学を攻撃する武器ではなく、神学の城壁を補強する石材だった。

『神学大全』第一部問題2第3項で、トマスは神の存在を証明する(Quinque viae)を提示した。いずれもアリストテレスの自然学から出発し、経験的な観察から論理の連鎖を辿って、その始点に神を置く論証である。(アンセルムス)のように概念だけから神を導くのではなく、現実の世界から出発する点がトマスの特徴だった。

第一の道は運動から。動かされるものは必ず何かによって動かされる。しかしその因果連鎖を無限に遡ることはできない。ゆえに自らは動かされず、他を動かす「(primum movens)」が存在しなければならない。これが神だ。第二の道は作用因から。すべての結果には作用原因がある。しかし原因の連鎖も無限に遡れない。ゆえに何も前提とせず他のすべてを引き起こす「第一原因」がある。

第三の道は可能と必然から。偶然に存在するものは、かつて存在しなかったはずだ。もしすべての存在が偶然的なら、かつて何も存在しなかった時代があったことになる。しかしそこから何かが生まれるためには、必然的に存在するもの(ens necessarium)が必要だ。第四の道は完全さの段階から。善さや真理や気高さには程度の差がある。程度の差があるとき、最も真・最も善・最も高貴なる基準が存在し、それが他のすべての完全性の原因でなければならない。これが、善や存在の源である神だ。

第五の道は目的論(統治)から。知性を持たない自然物も、一定の目的に向かって秩序よく働く。矢は弓師の意図で的に飛ぶように、宇宙の秩序も知性ある存在が方向を定めているからだ。これが万物を統治する神の知性である。

五つの道の論証は、後の哲学者たちに繰り返し挑戦された。ヒュームは因果の連鎖に懐疑を向け、カントは「経験を超えた存在への論証は成立しない」と断じた。しかしカトリック神学における神の理解の基本枠組みは、1274年以降もこの五つの道の上に立ち続けている。論証の妥当性をめぐる議論は今も続く。しかし「なぜ神について、理性の言葉で語れるのか」という問いそのものを立てたことが、トマスの最大の功績だった。

09主要な出来事と著作

  1. 南イタリア・ロッカセッカ城に誕生。父ランドルフォ(アクィノ伯)、母テオドーラ
  2. 5歳頃、モンテ・カッシーノ修道院に入る
  3. 皇帝と教皇の対立によりカッシーノを離れ、ナポリ大学へ。アリストテレスと出会う
  4. ドミニコ会への入会を決意。兄たちに拉致・ロッカセッカ城に監禁される
  5. パリへ。アルベルトゥス・マグヌスに師事
  6. 師とともにケルンへ。修道院学院でアリストテレス研究を深める
  7. パリ大学神学教授資格(マギステル)取得。講義・著述を開始
  8. 『対異教徒大全』(Summa contra Gentiles)完成
  9. ローマ帰還。『神学大全』(Summa Theologiae)執筆開始
  10. 12月6日、ナポリでの神秘体験後に執筆を停止。「すべては藁に思える」
  11. リヨン公会議へ向かう途中、フォッサノーヴァ修道院にて死去。享年49
  12. 教皇ヨハネス22世により列聖
  13. 教皇ピウス5世により「教会博士(Doctor Ecclesiae)」に認定

残した思想の輪郭

  • ― 理性は啓示の真理と矛盾しない。同じ神から与えられた二つの光
  • 五つの道(Quinque viae) ― 運動・因果・可能と必然・完全さの段階・目的論による神の存在証明
  • 存在論的区別 ― 被造物は「本質(essentia)」と「存在(esse)」の合成、神のみが「存在そのもの」
  • (lex naturalis) ― 理性的被造物が永遠法(lex aeterna)に参与する道徳の原理。後のカトリック倫理学と自然権思想の基盤
  • の完成 ― アリストテレスの論理学・形而上学をキリスト教神学の体系に統合した頂点
1274年、リヨン公会議に向かう旅の途中、フォッサノーヴァ修道院で49歳で死去。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

トマス・アクィナスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ジャコバン修道院教会墓所

    トゥールーズ, フランス

    1369年、教皇ウルバヌス5世の命でドミニコ会の母教会に遺骨が移された。ゴシックの柱を支柱に祭壇脇の金の聖遺物櫃に眠る

さらに辿るならExternal References

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