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風土の知恵

ダンテ

Dante Alighieri·1265–1321·中世イタリア·

罪を認めれば、故郷に帰れる。 なぜ彼は帰らない道を選んだのか?

フィレンツェを追われた亡命詩人が、俗語イタリア語で書いた地獄・煉獄・天国の旅

  • 神曲
  • 地獄篇
  • 帝政論
教皇の党と皇帝の党が町を裂き、勝った側もまた二つに割れていく。 — ひらく

時代の空気

13世紀末のフィレンツェは、毛織物と為替で富んだ商業共和政の都市だった。市政はグエルフィ(教皇派)とギベリーニ(皇帝派)の長い抗争を経て、勝った教皇派の内部で白派と黒派に裂け始めていた。教皇ボニファティウス8世は世俗権の伸張を図り、フランス王フィリップ4世と衝突しつつトスカーナへ介入する。修道院ではドミニコ会とフランシスコ会が説教と托鉢で町に降り、大学ではアクィナスの神学が読まれ、若い詩人たちはカヴァルカンティを軸に「清新体」で恋愛詩を書いていた。書く言葉はラテン語が正式、俗語は世俗の便宜——その境界がやがて揺らぐ。

01蝋燭を持てば、帰れた

1315年。追放中の詩人ダンテ・アリギエーリに、故郷フィレンツェから恩赦の条件が届いた。中身はこうである。公衆の前で、自分の罪を認めること。贖罪しょくざいの蝋燭(罪を悔いるしるしの蝋燭)を手に、洗礼堂まで歩くこと。それだけで、帰還が許される。

彼はこのとき50歳になる年だった。13年前、身に覚えのない罪で終身追放を宣告されていた。フィレンツェには、別れたままの妻が残っている。頭を下げて歩けば、故郷に帰れる。家族にも会える。

だが、彼は断った。従兄に宛てたラテン語の手紙で、その条件を「哲学者に値しない道」と呼んだ。そして二度と、生きて故郷の土を踏むことはなかった。

罪を認める一日と、残りの生涯の流浪。この天秤は、どう見ても釣り合わない。なぜ彼は、帰らないほうを選んだのか。答えを探すには、彼の人生を最初から辿る必要がある。時は50年前、1265年のフィレンツェに戻る。

02石の街と、九歳の出会い

1265年の5月から6月ごろ、フィレンツェに男の子が生まれた。名はドゥランテ・デリ・アリギエーリ。縮めて、ダンテと呼ばれた。フィレンツェは毛織物と両替(お金の交換業)で栄える商人の町である。父アリギエーロは公証人こうしょうにん(契約書を作る役目)で、小さな金貸しも営んだ。家は騎士の血筋につながるが、豊かではなかった。母ベッラは、彼が幼いころに世を去った。

当時のイタリアの町々は、二つの党に割れていた。ローマ教皇を担ぐ教皇派きょうこうは(グエルフィ)。神聖ローマ皇帝を担ぐ皇帝派こうていは(ギベリーニ)。ダンテの家は教皇派に属していた。この対立が、やがて彼の運命を決める。

12歳のころ、家同士の取り決めで婚約が結ばれた。相手はジェンマ・ドナーティ。有力一族ドナーティ家の娘で、典型的な政略婚だった。20歳前後で結婚し、4人の子をもうけた。

しかし、彼の心の中心にいたのは妻ではない。9歳の春(1274年)、彼は街角で同じ9歳の少女を見た。名は。一目で心を奪われた。9年後の1283年、18歳の彼は路上で彼女と再会し、挨拶を交わした。二人の関わりは、ほぼこの挨拶と、遠い街角での偶然の視線だけだった。

彼女は銀行家シモーネ・デ・バルディと結婚した。そして1290年、24歳の若さで世を去る。ダンテは悲しみの中で『新生(Vita Nuova)』という詩文集を書いた。彼にとってベアトリーチェは、地上の愛と神の愛をつなぐ存在であり続けた。死んだ少女は、のちに彼の物語の中で、天国への案内人としてよみがえる。だがその前に、彼は現実の政治へ足を踏み入れていく。

03執政官の夏、追放した親友

若いダンテは、に学んだ。修辞学しゅうじがく(言葉で人を動かす技術)と古典の師である。同じころ、詩人と親しくなり、彼を「最初の友」と呼んだ。若い詩人たちは、心の動きをふだんの話し言葉でそのまま書こうとしていた。この流れはのちに「清新体ドルチェ・スティル・ノヴォ」と呼ばれる。

1289年6月、24歳のダンテはに出た。フィレンツェ側の騎兵として最前列に立ったと、後年の手紙に記している。フィレンツェを中心とする教皇派の連合軍は、皇帝派の軍を破った。

1295年、市の制度が変わった。貴族の生まれでも、組合に入れば公職に就けるようになったのだ。ダンテは医師・薬剤師組合に登録した。当時、書物は薬屋で売られる商品の一つで、知識人はこの組合に入るのが習いだった。彼は市の会議を経て、1300年の夏、6人のプリオーレ(執政官、市政の最高役職)の一人に選ばれる。35歳。市政の頂点の一角である。

同じ1300年、教皇は最初のローマ聖年(大規模な巡礼の年)を定め、巡礼者がイタリアに殺到していた。一方フィレンツェでは、勝ったはずの教皇派が内側から裂けていた。である。5月1日のカレンディマッジョ祭では両派の若者が乱闘を起こし、争いは決定的になった。

執政官ダンテは、争乱を抑えるため、両派の指導者を追放する決定に加わった。その中に、親友カヴァルカンティがいた。カヴァルカンティは追放先で病を得て、同じ年の8月に死んだ。彼の死は、ダンテの生涯の重荷となる。町を守るための追放が、親友の命を奪った。そして次に追放されるのは、ダンテ自身だった。

04帰れなくなった日

1301年秋、教皇ボニファティウス8世は一手を打った。フランス王の弟シャルル・ド・ヴァロワを、「平和の調停者(paciaro)」としてフィレンツェへ送り込むのである。名目は調停だが、実際には黒派への軍事支援だった。ダンテは10月、これを止めるための使節として、ローマの教皇庁へ派遣された。

彼の留守中に、すべてが起きた。11月1日、シャルルがフィレンツェに入城する。黒派のコルソ・ドナーティが、武装した亡命者を率いて市内に戻った。白派の指導者は次々に襲われ、財産を奪われた。

ダンテにも罪状が並べられた。公金横領、賄賂、教皇への抵抗、市の平和への妨害。裁判は本人のいないまま進む欠席裁判けっせきさいばんで、言い分を述べる機会はなかった。1302年1月27日、巨額の罰金と2年間の追放が宣告される。出頭しなかった彼に、3月10日、さらに重い判決が下った。終身追放。そして市内で見つかれば、生きたまま焼き殺す(igne comburatur sic quod moriatur)。

ローマにいた彼は、そのままフィレンツェに戻れなくなった。妻と子どもたちは、報復を避けるため市内に残された。彼は二度と妻ジェンマに会わなかった。息子のピエトロとヤコポは、成人してから父と再会する。娘アントニアは長く離れたまま、のちに修道女となる。財産も、地位も、家族も失った。37歳を目前にした男に残ったのは、言葉だけだった。

05他人のパンの塩辛さ

追放後の19年間、ダンテは北イタリアの庇護者ひごしゃ(住まいと生活を支える有力者)を転々とした。最初はフォルリのスカルペッタ・オルデラッフィ。次にヴェローナのバルトロメオ・デッラ・スカラ。ルニジャーナのマラスピーナ家では、書簡を届ける外交の仕事もこなした。カゼンティーノのグイディ家、ルッカ、パドヴァ。1312年ごろから再びヴェローナに戻り、若い領主カングランデ・デッラ・スカラのもとに長く滞在した。

住む家も、食べるパンも、すべて他人のものだった。その屈辱を、彼はのちに詩の中へ刻む。

他人のパンがいかに塩辛いか、他人の階段を上り下りすることがいかに辛いか、お前はこれから知るだろう。

『神曲』天国篇第17歌58-60行。天国で出会った祖先カッチャグイーダが、ダンテにこれから来る流浪の日々を予言する場面

流浪の中でも、彼は書き続けた。『饗宴(Convivio)』は、ラテン語ではなく俗語ぞくご(ふだんの話し言葉)で書いた哲学書である。自作の詩に一節ずつ解説を付ける形式で、貴族らしさは血筋ではなく、徳と知に宿ると論じた。知識を学者の独り占めから、市民へ開こうとしたのである。『俗語論(De Vulgari Eloquentia)』では、イタリア各地の方言を比べ、文学にふさわしい「輝かしい俗語」を設計した。皮肉なことに、俗語のためのこの本自体は、ラテン語で書かれている。どちらも未完に終わった。

1310年、神聖ローマ皇帝がイタリアへ遠征した。ダンテは期待した。皇帝の力が教皇の力から独立してこそ、平和が来ると考えたからだ。その考えを『帝政論(De Monarchia)』というラテン語の本にまとめた。だが1313年8月、皇帝は遠征の途中で急死する。希望は潰えた。は彼の死後に焚書にされ、のちににも載せられる。

失意の中で、しかし彼の机の上では、もっと大きなものが育っていた。地獄の入口から始まる、一つの長い物語である。

06暗い森から、光まで

われらの生の道なかば、正しい道を失って暗い森の中にいた

『神曲』地獄篇第1歌1-3行。一万四千行を超える物語は、この三行から始まる

物語の主人公は、ダンテ自身である。時は1300年の復活祭前夜。人生の半ば、35歳の詩人が暗い森で道に迷う。そこへ、千年以上前の古代ローマの大詩人ウェルギリウスが現れる。天上のベアトリーチェが遣わした案内人だった。二人は地獄へと降りていく。

地獄は漏斗ろうとの形をした9つの圏でできている。罰は、生前の罪と対応する。この原理は(対応罰)と呼ばれる。たとえば欲望に溺れた者は、永遠に風に吹き回される。最下層では、裏切者ルシファーが氷に閉じ込められている。その地獄の門には、こう刻まれていた。

この門をくぐる者、いっさいの希望を棄てよ(Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate)

『神曲』地獄篇第3歌。地獄の門に刻まれた銘文の結びの一行

続く煉獄篇れんごくへんの舞台は、地球の反対側にそびえる煉獄山だ。傲慢や妬みなど7つの大罪ごとに階層があり、魂は苦行によって浄化されていく。山頂の楽園で、ダンテはついにベアトリーチェと再会する。ウェルギリウスはキリスト教以前の人であるため、天国には入れない。彼はここで静かに去っていく。この別れは、西洋文学で最も切ない場面の一つに数えられる。

天国篇てんごくへんでは、ベアトリーチェに導かれ、月の天から恒星の天へと昇っていく。最高天でベアトリーチェは聖ベルナール(中世の神秘家)に役を譲る。そして最終歌で、神の姿——三位一体の光——が直接に見える。そこで、全1万4233行の歌は終わる。三行ずつ韻を連ねる(terza rima)。序歌1と33歌ずつの三部で、あわせて100歌。すべてが3の数で組み立てられ、形そのものが神学(神についての学問)を担っている。

そして何より大胆だったのは、言葉の選択である。当時、正式な書き言葉はラテン語だった。彼はそれを捨て、故郷トスカーナの話し言葉を土台に書いた。で理論化した「輝かしい俗語」を、この詩で実践したのだ。その結果、トスカーナ方言はイタリア語の標準として定着していく。近代イタリア語の直接の祖は、追放者が書いたこの詩の言葉である。題名は『喜劇(La Commedia)』。のちの世に「神聖な」の一語が冠され、『神曲(La Divina Commedia)』と呼ばれるようになる。

だが、最後の天国篇を書き上げる場所は、故郷ではなかった。

07ラヴェンナの墓、フィレンツェの空の墓

1318年か19年、ダンテは最後の庇護先に移った。アドリア海に近い古都ラヴェンナ、領主グイード・ノヴェッロ・ダ・ポレンタのもとである。ラヴェンナはかつて西ローマ帝国最後の首都だった町で、黄金のモザイクに飾られた聖堂が残っていた。ここで彼は天国篇を書き上げた。息子のピエトロとヤコポを呼び寄せ、修道女となった娘アントニアも近くに暮らしたと伝わる。修道院で、詩についての講義もした。

1321年8月、彼はヴェネツィアへの外交使節に立った。ラヴェンナとヴェネツィアの争いを調停する任務だったとされる。その旅の途中、ポー川河口の沼地でマラリアにかかったと伝えられる。ラヴェンナに戻った彼は熱に倒れ、9月13日から14日にかけての夜に世を去った。56歳だった。書き上げたばかりの天国篇最終歌の原稿は一時行方不明になった。息子ヤコポが父の夢のお告げに従い、壁の隠し場所から見つけた——とボッカッチョが伝えている(この逸話は伝説の域を出ない)。

遺体はラヴェンナのサン・フランチェスコ教会に葬られた。フィレンツェの手が届かない、フランシスコ会の管理する場所である。のちに彼の名声を知ったフィレンツェは、遺骨の返還を繰り返し求めた。ラヴェンナは一度も応じなかった。1519年に教皇レオ10世が返還を命じたときには、修道士たちが骨を壁の中に隠し、1677年まで行方不明にしたほどである。今もフィレンツェのサンタ・クローチェ教会には、中身のない墓碑だけが立つ。1865年、生誕600年にあたり、フィレンツェはようやく追放令を正式に解除した。554年遅れの赦免だった。

ここで、1315年の恩赦の手紙に戻ろう。蝋燭を持って歩けば、家族に会えた。だが彼は、身に覚えのない罪を認めなかった。そして帰れないまま、自分を追放した町の言葉——故郷の話し言葉——で、地獄から天国までの道を書き切った。フィレンツェは、554年かけて彼を赦した。では、もしあなたが彼だったら、どうするだろう。罪を認めて、故郷に帰るか。それとも、帰らずに書き続けるか。

08考証と遺産——イタリア語、西欧文学、神学の詩

生涯の考証から。正確な誕生日は不明で、天国篇22歌の自伝的示唆(太陽が双子宮にあった時期)から1265年5月下旬-6月頃と推定される。本名ドゥランテ・デリ・アリギエーリ(Durante の短縮形がダンテ)。父はアリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ(俗にアリギエーロ二世)で、公証人および小規模な金貸し。母ベッラの早逝は、ベアトリーチェの早すぎる死と重なるかたちで、後年の彼の喪失感の地下水脈になったと考える伝記作家もいる。子は4人(ピエトロ、ヤコポ、アントニア、もう一人については記録が揺れる)。娘アントニアはラヴェンナの修道院でベアトリーチェ・マリアと名乗る尼僧となった。ベアトリーチェ・ポルティナリの生没年は1266-1290、の成立は1293年頃。

師友と経歴について。ブルネット・ラティーニ(1220-1294)は修辞学・政治学の師で、『テゾロ』『小テゾロ』の著者。『神曲』地獄篇第15歌でダンテは師を同性愛者の圏に置きながら敬愛をもって描いており、その理由は長く議論の的である(中世的な「傲慢の罪」の一形態と解釈する説が有力)。「」の名は『神曲』煉獄篇24歌でダンテ自身が与えたもので、グイード・カヴァルカンティ(1255頃-1300)を核とする、内面の動きをトスカーナ俗語に書きとる抒情詩運動を指す。カヴァルカンティの追放先はサルツァーナ。カンパルディーノの戦い(1289年6月11日)では最前列の騎兵(フェディトーリ)に名を連ねた。1295年の公職資格は、ジャーノ・デッラ・ベッラ主導の人民権限法(Ordinamenti di Giustizia、1293-95)の修正による。組合の正式名はアルテ・デイ・メディチ・エ・スペツィアーリで、30人会議、100人会議を経て、プリオーレ在任は1300年6月15日から8月15日。恩赦拒否の書簡は従兄宛の Epistola XII(ラテン語、1315)。庇護者のうちバルトロメオ・デッラ・スカラは1304年没、マラスピーナ家への滞在は1306年、カングランデ・デッラ・スカラの生没年は1291-1329。

著作と本文について。『饗宴(Convivio)』(1304-07年頃、俗語、4篇のみで未完)は自作の頌詩(canzone)に逐節注解を施す形式で、アリストテレス、アクィナス、アヴィケンナを下敷きにする。『俗語論(De Vulgari Eloquentia)』は1303-05頃、ラテン語、2巻で未完。『帝政論(De Monarchia)』(1312-13頃、ラテン語、3巻)は世俗の皇帝権と教皇権の独立を論じ、ハインリヒ7世のイタリア遠征(1310-13)への期待を背景に書かれた。死後の1329年、ボローニャの教皇使節により異端として焚書に処され、1559年に禁書目録に載る。『神曲』の執筆・流通は、地獄篇1308頃-1314頃(1314頃に手写本で流通開始)、煉獄篇1314-1319頃、天国篇1316-1321と推定される。全14,233行、100歌(序歌1+地獄33+煉獄33+天国33)、3と9(3²)の数に基づく構成で、三韻句法(ABA BCB CDC…)の連鎖が三位一体を形式に埋め込む。物語内の時間は復活祭前夜(1300年4月7日聖金曜日)からの7日間。煉獄の7つの大罪は傲慢・妬み・憤怒・怠惰・貪欲・暴食・情欲。天国篇の天は月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星・恒星天・原動天・至高天の十層で、各天で魂たちが幾何学的な配置で神の愛を映す。全体は当時の学問的常識(スコラ神学、プトレマイオス天文学、アリストテレス倫理学)を全面的に取り込みながら、俗語詩として書かれた。晩年のラヴェンナには6世紀ビザンツ皇帝ユスティニアヌス治下のモザイクとサン・ヴィターレ聖堂が残り、埋葬時の教会名はサン・ピエル・マッジョーレ(現サン・フランチェスコ教会)。生計はポレンタ家の援助のほか、地元修道院での詩学講義にも支えられた。最終歌発見の逸話はボッカッチョの『ダンテ伝』(1357頃)に伝わる。

ダンテの『神曲』はイタリア文学のみならず、西欧文学全体の中核に位置する。ペトラルカとボッカッチョが直接にダンテの継承者となり(トレ・コローネ、三つの冠、すなわちイタリア文学の三大聖人)、ルネサンスの詩人・作家たちはみなダンテを意識した。

近代以降、彼の影響力はより遠く届く。T・S・エリオットは「ダンテとシェイクスピアで西欧の想像力が二分される」と書いた(1929)。エズラ・パウンドの『カントス』、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、プリーモ・レーヴィの『これが人間か』(アウシュヴィッツ体験記でダンテを引用)、ボルヘスの短編群、C・S・ルイスの『銀の椅子』、デレク・ウォルコットの『オメロス』——20世紀文学は何度もダンテを読み直してきた。

神学的にも、『神曲』はスコラ神学の詩的結晶として読まれる。トマス・アクィナスは天国篇の太陽天で登場し、その神学が讃えられる。『神曲』は学術的に「哲学的詩の頂点」として、近代のジルソン、ド・リューバック、モルテマンら者に真剣に読まれた。

日本では森鷗外が『即興詩人』(アンデルセンの翻訳)に続いて『神曲』の影響を受け、川端康成、谷崎潤一郎、大岡信らが訳や評論を残した。山川丙三郎訳(1914-22、岩波)、寿岳文章訳(1976、集英社)、平川祐弘訳(1966-2009、河出書房)、原基晶訳(2014-)と、数世代にわたる日本語訳の蓄積がある。

09主要な出来事と著作

  1. フィレンツェに誕生(5-6月、母ベッラ・父アリギエーロ二世)
  2. 9歳でベアトリーチェ・ポルティナリに初めて出会う
  3. 18歳でベアトリーチェと路上で再会、挨拶を交わす
  4. ジェンマ・ドナーティと結婚(政略婚)
  5. 6月11日カンパルディーノの戦いに騎士として参戦
  6. ベアトリーチェ死去(24歳)
  7. 『新生(Vita Nuova)』執筆
  8. 医師・薬剤師組合に登録、フィレンツェ公職への扉が開く
  9. 6-8月プリオーレ就任、ローマ聖年、白派・黒派分裂、カヴァルカンティ追放決定
  10. 10月ローマへ使節、不在中の11月にシャルル・ド・ヴァロワ入城・黒派クーデター
  11. 1月27日と3月10日に欠席裁判で罰金・終身追放・焼殺判決
  12. 『俗語論(De Vulgari Eloquentia)』(ラテン語、未完)
  13. 『饗宴(Convivio)』(俗語、未完)
  14. 『神曲』地獄篇執筆開始
  15. ハインリヒ7世のイタリア遠征。期待と幻滅、皇帝1313年急死
  16. 『帝政論(De Monarchia)』(ラテン語)
  17. 地獄篇刊行(手写本で流通開始)
  18. フィレンツェからの恩赦提案を「哲学者に値しない道」として拒否
  19. ラヴェンナのグイード・ノヴェッロ・ダ・ポレンタ家に身を寄せる
  20. 8月ヴェネツィア使節、帰途マラリア発症、9月13-14日没。享年56
  21. フィレンツェが追放令を正式解除、生誕600年

残した思想の輪郭

  • 『神曲』の宇宙論 ― スコラ神学と中世天文学を詩として総合、地獄・煉獄・天国の三界を設計
  • イタリア俗語の文学化 ― トスカーナ方言を基礎に「輝かしい俗語」を標準化、近代イタリア語の祖
  • 三韻句法(terza rima) ― 3行連句ABA BCB…の連鎖、神学の三位一体を形式に埋め込む
  • コントラパッソ ― 罪と罰の対応原理、地獄篇の構造的原理
  • ベアトリーチェの媒介 ― 地上の愛から神の愛への階段、中世スコラ的象徴論の詩的頂点
  • 『帝政論』の政教分離 ― 皇帝権と教皇権の独立、ダンテ政治思想の核心
  • 追放文学 ― 故郷を失った詩人が故郷の言葉で書いた叙事詩、近現代亡命文学の遠い祖
1321年9月14日、ラヴェンナで熱病(マラリアと推定)により56歳で死去。遺体はラヴェンナのサン・フランチェスコ教会に埋葬され、後のフィレンツェからの返還要請は今も全て拒否されている。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

ダンテの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

ダンテが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ダンテの墓(ラヴェンナ)墓所

    ラヴェンナ, イタリア

    1321年没。サン・フランチェスコ聖堂の隣、1781年カミッロ・モリージャが設計した新古典主義の小堂に眠る

  • サンタ・クローチェ聖堂 ダンテ記念碑ゆかり

    フィレンツェ, イタリア

    1829年造営の記念碑(遺骨はラヴェンナ)。故郷フィレンツェが詩人を取り戻そうとしてきた因縁を伝える

さらに辿るならExternal References

ダンテを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。