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宗教的思索

ジャン・カルヴァン

Jean Calvin·1509–1564·フランス/スイス·

救われるかどうかは、 既に決まっているのか?

ジュネーヴに改革派神学を定着させ、『キリスト教綱要』を書き継いだ第二世代の改革者

  • キリスト教綱要
  • 予定説
  • ジュネーヴ
  • 宗教改革
  • プロテスタンティズム
聖書をどう読むかをめぐって、王が怒り、人が焼かれた時代。 — ひらく

時代の空気

16世紀前半のフランスは、ピカルディの司教領や法服貴族を含む中産層が、王権と教会の間で職を糧にしていた時代だった。パリ大学にはエラスムスとビュデの人文主義が浸透し、ヘブライ語を含む原典批評が法学・神学の基礎へ据え直されていく。1533年のコップ学長就任演説事件と1534年の檄文(プラカード)事件で、フランソワ一世の保護は弾圧へ反転する。皇帝カール五世とフランソワ一世の長い抗争、トリエント公会議前夜のカトリックの動揺、ジュネーヴやストラスブールの市政革命のなかで、ルターに次ぐ第二世代の改革は都市法と教会規律へと姿を変えていった。

01墓標のない墓

1564年5月27日、ジュネーヴ。一人の男が、自宅で息を引き取った。名はジャン・カルヴァン。54歳だった。

彼はこの都市を、ヨーロッパ中に知られる宗教改革の中心地に変えた人物である。スコットランドから、オランダから、人々が彼の教えを学びに来た。彼の言葉は、国境を越えて教会を動かしていた。

だが、その男の墓を、今日だれも知らない。遺言により、彼は墓標のない共同墓地に葬られたからである。目印は何もない。場所を確かめるすべも、もうない。

ジュネーヴには今、「宗教改革の壁」と呼ばれる大きな記念碑が立つ。そこにはカルヴァンの像が並んでいる。しかし本人の墓は、その立派な壁の背後のどこかに、名もないまま眠っている。

ヨーロッパを変えた男は、なぜ自分の跡を消したのか。答えを探すために、時は55年前に戻る。

02公証人の息子

1509年7月10日、フランス北部ピカルディ地方のノワイヨンという町に、男の子が生まれた。名はジャン・コヴァン。後にラテン語風の名前から、カルヴァンと呼ばれるようになる。父ジェラールは公証人こうしょうにん、つまり契約書などを公式に作る仕事をしていた。父は司教しきょう領の会計にも関わり、息子を聖職者にしようと考えていた。

母ジャンヌは早くに世を去った。12歳のとき、父の口ききで、カルヴァンは聖職禄(せいしょくろく)を得た。教会から定期収入をもらえる、名前だけの役職である。当時は珍しくない縁故の仕組みで、この収入が彼の学費になった。

14歳でパリに出て、コレージュ・ド・ラ・マルシュ、続いてモンテギュ学院で学んだ。モンテギュ学院は規則の厳しい学校だった。かつてエラスムス、当時ヨーロッパで最も名高い学者もここで学んでいる。同じころ、後にイエズス会を作るイグナティウス・ロヨラも在籍していた。

パリで彼は、エラスムスやギヨーム・ビュデといった学者たちの流れにふれた。聖書や古典を、原文の言葉で正確に読み直す学問である。ラテン語とギリシア語、後にはヘブライ語まで身につけた。1528年、父の方針が変わり、オルレアンとブールジュへ移って法学を学ぶ。オルレアンでは法学者ピエール・ド・レトワールに、ブールジュではイタリアの著名な法学者アルチャーティに学んだ。

1531年に父が死ぬと、彼は法律家になる義務から自由になった。翌年、22歳でセネカ『寛容について(De Clementia)』の注釈書を自費で出版する。古代ローマの思想家セネカを、最新の学問の方法で読み解いた本だった。本は売れなかった。だが、言葉を正確に読み抜く彼のやり方は、ここで形になった。

このまま行けば、彼は静かな古典学者になるはずだった。その道は、まもなく閉ざされる。

03突然の回心

1533年から34年ごろ、カルヴァンの心に大きな転換が起きた。彼自身はそれを「突然の回心かいしん(subita conversio)」と呼んだ。神への向き合い方が、根本から変わったのである。本人が残した説明は、驚くほど短い──「神は私の心を、かくも堅く頑なであったものを、俄かに曲げて、教えを受ける状態にされた」。いつ、どこで、何がきっかけだったのか。くわしいことは、今も謎のままである。

確かなのは、彼がプロテスタント、つまり教会の改革を求める側に立ったことだ。当時のフランスには、ドイツのルターが始めた改革の波が、ひそかに流れこんでいた。

1533年11月1日、事件が起きる。パリ大学の新学長ニコラ・コップの就任演説が、問題になったのである。演説は、(神の一方的なめぐみ)と(信じることによってのみ救われるという教え)を強く打ち出していた。ルター派に近い内容で、起草したのはカルヴァンだという説が有力である。コップもカルヴァンも、パリから逃げ出した。

1534年10月、さらに大きな事件が起きた。ミサを批判するプラカード(札貼り)が、パリの街頭に貼り出されたのである(プラカード事件、Affaire des Placards)。王フランソワ1世は激怒し、プロテスタントへの弾圧が本格化した。カルヴァンはもう、フランスへ帰れない。亡命者としての一生が、ここに決まった。

1536年3月、26歳のカルヴァンは、亡命先のバーゼルで一冊の本を出す。『キリスト教綱要(Institutio Christianae religionis)』の初版である。6章だけの小さな本で、迫害の中にいるフランスの信徒のための信仰の手引きだった。巻頭の献辞はフランス王フランソワ1世に向けられていた。自分たちは危険な集団ではなく、良きキリスト教徒なのだ──そう王に訴えるためである。

自己についての知識なしに、神についての知識もない

『キリスト教綱要』冒頭に置かれた、全巻を貫く出発点の主題(要旨訳)

本を出したカルヴァンは、安全な都市ストラスブールを目指して旅立つ。だが戦乱が道をふさぎ、彼はある都市に一泊することになった。ジュネーヴである。

04ファレルの呪い

1536年夏のジュネーヴは、変わり目のただ中にあった。この年の5月、市民投票で宗教改革の採択を決めたばかりだったのである。現場で改革を指揮していたのが、ギヨーム・ファレルだった。南フランス出身の、炎のように熱烈な改革者である。だが、改革を根づかせる人手が、まったく足りていなかった。

ファレルは、『綱要』の著者が町にいると知り、彼を訪ねた。そして、神の怒りの呪いまで持ち出して引き留めたのである。カルヴァンは後年、このときをこう振り返る──「ファレルは私を、すでに始めた旅の経路から引き離した」。一泊のはずだった27歳の旅人は、ジュネーヴに残った。

彼は聖書の講義者として、続いて牧師として働き始めた。二人が目指したのは、規律きりつある教会を都市に根づかせることだった。全市民が信仰告白しんこうこくはく(教会の教えへの公式の同意)に署名する。教会が、市民の生活の乱れを正す役目を担う。そして聖餐(せいさん。パンとぶどう酒をいただく、教会で最も大切な儀式)にあずかる資格を、牧師の側が判断する。

だが、これらの要求は市の政府である市参事会の強い反発を招いた。教会が、都市の権力に踏みこみすぎている、というのである。1538年の復活祭、カルヴァンとファレルは強硬手段に出た。規律に従わない市民には、聖餐を与えないと構えたのだ。市参事会は激怒し、二人を都市から追放した。

最初のジュネーヴは、失敗に終わった。28歳の追放者は、ストラスブールへ向かう。だがこの寄り道の三年が、彼を作り変えることになる。

05ストラスブールの三年

ストラスブールは、当時、神聖ローマ帝国の自由都市だった。ここでカルヴァンは牧師として働いた。彼を迎えたのは、である。18歳年上の、経験豊かな改革指導者だった。

ブツァーから学んだものは、決定的だった。第一に、教会の治め方である。牧師・長老・執事・博士の四つの役割で教会を運営する仕組み──後に長老制と呼ばれる形の原型を、彼はここで見た。第二に、聖餐の考え方。第三に、信仰の教育と、市民社会との規律ある関わり方である。

1539年、の第二版を出した。初版の6章は、17章へと大きくふくらんだ。翌1540年には『ローマ書注解』も出版する。聖書を一巻ずつ解き明かしていく、生涯続く仕事の始まりだった。

同じ1540年、彼は結婚した。相手はという寡婦かふ(夫を亡くした女性)で、二人の子の母だった。1542年に生まれた息子ジャックは、早産そうざんで授かったが、ほどなく息を引き取った。夫妻に、その後子はできなかった。

この時期、彼は帝国の宗教会議(ハーゲナウ、ヴォルムス、レーゲンスブルク)にも改革派代表の一員として出席した。ルターの高弟メランヒトンと親しくなり、ヨーロッパ規模の人脈を得た。書斎の学者は、制度を作る実務家になりつつあった。

そのころジュネーヴでは、彼を追放した指導者たちが次々に力を失っていた。都市は再び、あの男を必要とし始めていた。

06呼び戻された男

1541年9月、ジュネーヴ市参事会はカルヴァンを呼び戻した。彼はためらいながら受け入れた。そして以後、死ぬまでの23年間、この都市を離れなかった。

復帰してすぐ、彼は『教会規則(Ordonnances ecclésiastiques)』を起草し、市参事会の承認を得た。牧師・教師(博士)・長老・執事の四職。そして教会会議(Consistoire)──牧師と長老が、信仰と道徳の問題を裁く仕組みである。ストラスブールで学んだ制度が、ここで形になった。この仕組みは後に、スコットランドやオランダやアメリカの教会の手本となっていく。

1549年、妻イドレットが世を去った。カルヴァンは以後再婚せず、書簡の中で「私の生涯の最良の伴侶」を失ったと書き残した。それでも仕事の手は、止まらなかった。

『綱要』の書き直しは続いた。1559年のラテン語最終版で、この本は全4巻の大著になった。神とは何か。救いとは何か。教会とは何か。プロテスタントの教えの全体を、一つの体系にまとめ上げたのである。

その中で、最も人々を驚かせたのが予定説である。とも呼ばれる。神は永遠の昔から、救う者と捨てる者を、すでに決めている──そういう教えだ。

予定とは、神の永遠の定めである。それによって神は、自ら各人に何を起ころうとするかを決定された。すべての人は等しい状態に創造されるのではなく、或る者には永遠の生命が、或る者には永遠の罰が予め定められた。それゆえ、各人はその一方へか他方へかの目的のために創造されたので、我々はこれを生命に予定されているか死に予定されているかと言う。

『キリスト教綱要』第3巻第21章第5節(1559年最終版)。予定説を正面から定義した箇所

読者は当然、問い返した。救われるかどうかが初めから決まっているなら、正しく生きる意味はどこにあるのか、と。カルヴァンの答えはこうである。善い行いは、救いを買うための手段ではない。救われたと信じる者が、感謝から、おのずと行うものなのだ。この答えが後の世界に何をもたらしたかは、終章でくわしく見る。

規律の都市ジュネーヴは、こうして完成へ向かっていた。そこへ1553年、一人の逃亡者がたどり着く。

07シャンペルの火

その男の名は、ミシェル・セルヴェトゥス。スペイン出身の医師であり、神学者だった。彼は三位一体(さんみいったい。父と子と聖霊を一つの神とする、キリスト教の中心の教え)を否定する本を、匿名で出版していた。当時これは、カトリックでもプロテスタントでも、最も重い異端(教会が誤りと定めた教え)とされていた。

セルヴェトゥスはまず、カトリック側のフランスの都市ヴィエンヌで逮捕され、有罪の判決を受けた。だが脱獄し、なぜかジュネーヴに現れた。この町に来た理由は、今も謎である。そして彼は、カルヴァンの説教の場で見つかり、逮捕された。

裁判を行ったのは、ジュネーヴ市参事会である。カルヴァンは主要な告発者として証言した。市参事会は判決の前に、スイスの他の五つの都市にも意見を諮問しもんした。回答はすべて、処刑を支持するものだった。1553年10月26日、判決は火刑かけい(火あぶりの刑)。翌27日、市外のシャンペルで執行された。カルヴァンは、より苦しみの短い斬首ざんしゅ刑への変更を働きかけた。だが、処刑そのものを止めることはしなかった。

この処刑には、改革派かいかくはの内部からも声が上がった。かつての同僚は、匿名の書物でこう批判した──「人を焼くことは人を殺すことであり、キリスト教徒のすることではない」。カルヴァンは反論の書を出した。この論争が歴史に残したものも、終章で見ることにする。

迫害から逃れた男が、迫害する側に立った──そう見えるこの事件は、カルヴァンの名に消えない影を残した。だが同じ時期、彼はもう一つのものを築いていた。人を焼く火ではなく、人を育てる学校である。

08学校と三千通の手紙

1559年、カルヴァンはを創設した。後のジュネーヴ大学である。基礎を学ぶ教養部と、神学を学ぶ神学部の二つを持ち、ヨーロッパ全域から改革派の学生を受け入れた。カルヴァン自身も教壇に立ち、初代学長は盟友テオドール・ド・ベーズが務めた。

ここで学んだ者たちが、それぞれの国へ帰っていった。スコットランドの。フランスの改革派、後にと呼ばれる人々。イングランドのピューリタン(教会をさらに清めようとした人々)。彼らは帰国して各地の教会を組織し、カルヴァンの改革は国境を越えて広がった。

もう一つの武器は、手紙だった。現存するだけで3,000通を超える。各国の牧師や君主や市参事会からの相談に、彼は返事を書き続けた。中心に一人の教皇が立つのではなく、手紙で結ばれた無数の教会が並び立つ。それが、カルヴァンの築いた形だった。

だが、書き続ける本人の体は、静かに壊れ始めていた。

09墓標のない墓へ

1550年代の後半から、カルヴァンの健康は悪化の一途をたどった。腎臓の結石、胆石、痛風、結核性の咳、慢性の頭痛。晩年の彼は、極度に痩せていた。それでも1日に複数の説教と講義を続け、手紙を口述し、市参事会に出席した。

1564年2月、最後の説教を行った。4月25日、遺言を口述した。財産のほぼすべては、兄弟姉妹と教会に残された。そして5月27日、54歳で世を去った。

冒頭の問いに戻ろう。なぜ彼は、墓標のない墓を選んだのか。

彼は生涯をかけて、人間をあがめることを退けてきた。聖人の像を拝むことを退け、一人の人間に権威が集まることを退けた。栄光は神だけのものであり、人間のものではない。それが彼の教えの芯だった。ならば、自分の墓が拝まれる場所になることも、あってはならない。墓標のない墓は、彼の思想の、最後の実行だったのである。

ジュネーヴの「宗教改革の壁」には、カルヴァンの像がファレル、ベーズ、ノックスと並んで立つ。だが本人の墓は、今も特定できない。特定できないことこそが、彼の意図の完成である。

すべては神が定めている──そう信じた男は、誰よりも働いて死んだ。もし結果が初めから決まっているとしたら、あなたは今日という日を、どう生きるだろうか。

10考証──予定・規律・寛容のゆくえ

回心の史料問題から確認する。本人の証言(『詩篇注解』序文、1557)は極めて簡潔で、具体的な経緯を語らない。プロテスタント的福音派に転じたことは確かだが、当時のフランスの宗教状況──エラスムス人文主義、ルフェーヴル・デターブル的福音派、ルター派の地下流入──のどの流れからの転回かは、今日まで論争が続いている。

『キリスト教綱要』の性格も、この人文主義の系譜の中にある。1536年初版は6章構成の信仰問答的手引かつ護教書だったが、1559年最終版は4巻80章の体系となった。第1巻「創造者なる神の認識」、第2巻「贖い主なる神の認識」、第3巻「キリストの恵みの受領」、第4巻「教会と市民政府」──使徒信条の四分節構成に沿った神学大全である。その方法は、セネカ注釈以来のラテン・ギリシア・ヘブライ原典の厳密な文献学、すなわちエラスムス以来の人文主義的方法の神学的応用だった。聖餐論では、キリストの──ルター派の実体的臨在とカトリックの化体説の中間──を採り、ブツァー由来の調停的立場を精密化した。

二重予定説の位置づけには注意が要る。ルターも予定論を説いたが、カルヴァンはこれを神の絶対主権を守る論理として最も厳密に定式化した。人間の道徳的努力と救済が無関係なら倫理の意味は何か、という反論への彼の答えは、恩寵への感謝の応答としての善行──救いの確信を持つ者は感謝から自ずと聖化の生活へ向かう──である。この構図は後のピューリタニズムの労働倫理へ流れこみ、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の分析対象となった。教理としては、オランダ改革派がドルト会議(1618-19)でカルヴァン主義の五要綱として定式化する。

「神権政治の都市ジュネーヴ」という通念にも留保が要る。最終的な世俗権限は一貫して市参事会が握っており、教会会議(Consistoire)の権限は破門までで、死刑権は持たなかった。『教会規則』の長老制モデルが範型になったのは、集権ではなくむしろ分散型の統治構造としてである。現存3,000通超の書簡網も、中央集権的教皇庁に対抗する分散型の改革派ネットワークとして機能した。アカデミーの人材輩出──ノックス(スコットランド長老派)、ピエール・ヴィレ(フランス)、ザカリアス・ウルシヌス(ハイデルベルク信仰問答の起草者の一人)、トマス・カートライト(イングランド・ピューリタン)──と合わせ、改革派(Reformed)系統はオランダ・スコットランド・フランスのユグノー・ハンガリー・ドイツ(ハイデルベルク・プファルツ)へ及び、世界史的にはルター派と並ぶ、あるいはそれ以上に広範な影響を残した。

の考証。セルヴェトゥス(1511-1553)は三位一体否認の神学者であると同時に、肺循環の発見者としても知られる。異端神学書『キリスト教の復興(Christianismi Restitutio)』(1553)の匿名出版が発端で、当時の反三位一体論は帝国法上も死罪であり、カトリック・ルター派・改革派の全てが一致して処刑すべき異端とした。市参事会が諮問したチューリヒ・ベルン・バーゼル・シャフハウゼン・ザンクト・ガレンの五都市も全て処刑を支持している。それでもこの処刑は当時から論争を呼んだ。カステリヨン(1515-1563)は『異端者について』(1554)を匿名刊行して批判し、カルヴァンは『反カステリヨン』(1554)で反論したが、カステリヨンの書は後の寛容論(ロック、ヴォルテール)の先駆として読み継がれる。事件は、プロテスタント改革が世俗権力と結びついた迫害体制を生む可能性を示した先駆的ケースであり、1903年には処刑地シャンペルに贖罪碑が建てられ、カルヴァン改革派の後継者たちが歴史的責任を刻んでいる。

墓標なき埋葬(Cimetière des Rois)は、後世「偶像崇拝の対象となることを避けるため」と説明される。プロテスタント的聖人否定・個人崇拝拒否の最後の一貫した表明として、彼の神学と生涯を貫く soli Deo gloria(栄光は神のみに)の帰結と読むことができる。

11主要な出来事と著作

  1. ピカルディ地方ノワイヨンに公証人の子として誕生
  2. パリへ、コレージュ・ド・ラ・マルシュ・モンテギュ学院で学ぶ
  3. オルレアン・ブールジュで法学を学ぶ
  4. 『セネカ寛容論注釈』刊行、ラテン古典学者デビュー
  5. 「突然の回心」、パリ脱出
  6. 『キリスト教綱要』初版刊行、ファレルに引き留められジュネーヴへ
  7. ジュネーヴを追放、ストラスブールへ
  8. 『綱要』第二版、ブツァーに学ぶ
  9. イドレット・ド・ビュールと結婚
  10. ジュネーヴ復帰、『教会規則』制定
  11. 妻イドレット死去、再婚せず
  12. セルヴェトゥス火刑
  13. 『キリスト教綱要』最終版(全4巻80章)、ジュネーヴ・アカデミー創設
  14. ジュネーヴで死去、墓標なき共同墓地に埋葬。享年54

残した思想の輪郭

  • 『キリスト教綱要』 ─ 4巻80章、改革派神学の体系化の頂点、プロテスタント第二世代の標準教科書
  • 二重予定説 ─ 神の絶対主権の論理、救済と滅亡の永遠の定め
  • 神の主権(soli Deo gloria) ─ すべての栄光は神のみに、人間の功徳を介さない
  • 長老制教会政治 ─ 牧師・長老・教師・執事の四職、分散型教会統治のひな型
  • 教会規律(Consistoire) ─ 牧師と長老による道徳審査、信仰の社会的制度化
  • 召命としての職業 ─ 日常労働を神への奉仕と位置づけ、後の資本主義倫理の一源流(ウェーバー)
  • 人文主義的聖書註解 ─ ラテン・ギリシア・ヘブライ原典の厳密な文献学、エラスムス以来の方法の神学的応用
  • ジュネーヴ・アカデミー ─ ヨーロッパ改革派の教育拠点、3000通超の書簡による分散型ネットワーク
  • セルヴェトゥス事件の影 ─ 改革と権力の結合が生む迫害体制の先駆的ケース
  • 墓標なき埋葬 ─ 個人崇拝拒否の最後の一貫性
1564年5月27日、ジュネーヴの自宅で長年の結石・痛風・結核の合併症で54歳で死去。希望により目立たぬ共同墓地に、墓標なく埋葬された。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

ジャン・カルヴァンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • サン・ピエール大聖堂ゆかり

    ジュネーヴ, スイス

    カルヴァンが1536-1564年に説教した改革派の母教会。彼の使用した椅子が今も残る

  • 諸王の墓地(プランパレ)墓所

    ジュネーヴ, スイス

    1564年没。遺言により無銘の墓に葬られた。1999年、控えめな記念プレートが設けられた

さらに辿るならExternal References

ジャン・カルヴァンを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。