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サルトル

Jean-Paul Sartre·1905–1980·フランス·

最高の名誉を、 なぜ断れたのか?

実存主義を旗印に、行動と思想を結びつけた哲学者

  • 実存は本質に先立つ
  • アンガジュマン
  • 対自・即自
二つの大戦が世界をこわし、人びとが「何を信じて生きるか」を見失った時代。 — ひらく

時代の空気

ベル・エポック末年の1905年パリに生まれた。エコール・ノルマルでアグレガシオン首席を取った1929年は世界恐慌の年、1933年のベルリン留学はヒトラー首相就任直後でフッサール現象学に触れる。1940年6月の独軍侵攻でアルザスのパドゥーに捕虜となり、トリエのシュタラーク12D収容所を経て1941年にパリへ戻る。占領下のカフェ・ド・フロールで『存在と無』(1943)を書いた。戦後はサン=ジェルマン=デ=プレで実存主義が流行、1956年ハンガリー侵攻でPCFと距離を置き、1964年ノーベル賞辞退、1968年五月革命に参加した。

01最高の賞を断った男

1964年、ノーベル文学賞の授与が決定した。相手はフランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトル。世界で最も名誉ある文学の賞である。ふつうの作家なら、人生の頂点だろう。

ところが、サルトルは受賞を拒否した。「作家は制度に取り込まれてはならない。私はサルトルであり、ノーベル賞受賞者になるべきではない」。ノーベル賞を辞退じたいした最初の受賞者となった。スウェーデン・アカデミーは困惑した。だが世界の若者は、この拒否に喝采かっさいした。

なぜ、最高の名誉を断ったのか。彼が守ろうとした「自由」とは、何だったのか。時は59年前、1905年のパリにさかのぼる。

02父のない子、本だらけの家

1905年6月21日、パリ15区に生まれた。父ジャン=バティスト・サルトルは海軍士官だった。ジャン=ポールが生後15か月のとき、ちょうチフスで世を去った。幼い日の記憶に、父はいない。母アンヌ=マリーは実家に戻り、息子は祖父母そふぼの家で育った。

祖父はアルザス出身の語学教師、シャルル・シュヴァイツァー。哲学者・医師・音楽家のアルベール・シュヴァイツァーは、そのおいにあたる。この屋敷やしきは、本に満ちていた。サルトルは9歳になるまで、ほとんど学校に通わなかった。祖父の書斎で、フローベールやユゴー、そしてデカルトを読みふけった。

文章を書くことが遊びだった。「将来は作家になる」と、幼いころから言い切っていた。右目の外斜視がいしゃしは、この時期からあった。のちに失明の原因のひとつにもなる。だが本人は、見た目について生涯あっけらかんとしていた。

「醜いとわかっていれば、逆に自由だ」。小柄で、外見に頓着とんじゃくせず、どこにでも座り込んで本を読む少年だった。この「自由」という言葉を、少年はやがて一生かけて考え抜くことになる。その入口は、フランスで最も狭き門の学校だった。

03首席と次席、そして契約

パリのリセ(高等中学校)を経て、1924年に(高等師範学校)へ入学した。フランスの知的エリートが集まる学校である。サルトルは哲学を専攻した。同期には、哲学仲間のがいた。

1929年、(国家教員資格試験)で首席を取った。次席はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。試験官たちが議論したのは、どちらを首席にするかだった。最終的に「より哲学者らしい」サルトルが選ばれたという。ボーヴォワールは21歳、史上最年少の合格者だった。

二人の関係は、試験の前後から始まっていた。サルトルはボーヴォワールに「二年間の契約」を提案した。結婚ではない。対等な二人の哲学者としての同盟である。「私たちは本質的な愛を持つが、それぞれの偶発的な恋愛を妨げない」。

この契約の関係は、以後50年以上続いた。二人は同じアパートに住むことも、互いの日記を読むことも拒否しなかった。世間はスキャンダルと見たが、二人にとっては哲学の実践だった。資格を得た二人は、それぞれ教壇に立つ。サルトルが送られたのは、北の港町だった。

04一杯のカクテルと『嘔吐』

アグレガシオンのあと、サルトルはル・アーヴルの高等中学校で哲学教師になった。地方の港町での暮らしは、心の不安を大きくした。カフェや広場でひとりノートに向かい、存在の奇妙な重さを書きつけた。

転機はパリのカフェで訪れた。アロンがアプリコット・カクテルを指さしながら言ったという。「ねえ、これを哲学できるとしたら?」。この問いが、サルトルの方向を決定的に変えた。

1933年、フランス学術院の奨学金しょうがくきんでベルリンへ留学した。ドイツの哲学者エドムント・フッサールの現象学を学ぶためだった。フッサールは、目の前の物そのものへ、意識の志向性しこうせいへと哲学を引き戻していた。サルトルはそこに、人間存在をありのまま書きとめる可能性を見た。

ベルリンで構想が生まれ、帰国後も書き続けた小説がある。1938年刊行の『嘔吐おうと』だ。主人公ロカンタンは、ある朝、石ころを手にした瞬間、存在の「ぬめり」に恐怖する。物が物として迫ってくる、説明のつかない過剰さ。意味がはがれ落ちた世界で、人間はどう立っていられるのか。

出版社ガリマールから世に出ると、批評家たちは困惑しながらも注目した。だが翌年、問いを深める時間は断ち切られる。戦争が始まった。

05収容所で固まった確信 ―『存在と無』

1939年、第二次世界大戦が始まった。サルトルは気象部隊に召集しょうしゅうされた。翌1940年6月、ドイツ軍の侵攻の中、アルザスのパドゥーで捕虜ほりょとなった。送られた先は、トリエのシュタラーク12D収容所。数千人の捕虜が押し込まれた場所だった。

そこでもサルトルは、読み、書き、議論し続けた。壁に囲まれ、他人との共同生活を強いられる。自由など、どこにもないように見える。それでも「選択は残る」。この確信が、収容所で固まった。クリスマスには捕虜仲間のために戯曲ぎきょく(劇の台本)を書き、上演した。1941年春、仮病けびょうで釈放に成功し、パリへ戻る。

帰還後のサルトルは、の隅のテーブルを占拠した。暖房の効いたカフェは、占領下のパリで数少ない仕事場だった。ここで書き続けた600ページを超える大著『』が、1943年に刊行される。

(pour-soi)」と「(en-soi)」。意識ある人間存在は「無」をはらみ、物のように固定された本質を持たない。それゆえ人間は常に自由であり、その自由は逃げようのない重荷だ。ナチス占領下という極限状況の中で書かれた、実存主義哲学の基礎文献が誕生した。レジスタンス(対独抵抗運動)への参加は表立ってはなかったが、サルトルは地下出版のグループに関わり、戯曲で抵抗の精神を描き続けた。

戦争が終わったとき、この分厚い本と一つの言葉が、時代の旗印になる。

人間はに処せられている

1945年の講演をまとめた『実存主義とは何か』より。自由を祝福ではなく「刑」と呼んだ

06熱狂の戦後 ― 実存主義の流行

1945年10月、解放後のパリ。クラブ・マントナンという会場で、講演「実存主義はヒューマニズムである」が開かれた。数百人が押しかけ、失神者が出るほどの熱狂だった。翌年、講演録が刊行されると、「実存主義」という言葉はフランス全土に広がった。

」。人間はまず存在し、その後に自らを作る。神も、人種も、階級も、人を決めはしない。戦争の廃墟に立つ若者たちにとって、これは解放の宣言に聞こえた。

舞台はサン=ジェルマン=デ=プレ地区だった。カフェ・ド・フロールとレ・ドゥー・マゴは、哲学者・作家・映画監督・画家が集まるサロンと化した。サルトルとボーヴォワールは毎朝10時に現れ、コーヒーを注文し、数時間執筆した。若者たちはそのテーブルを遠巻きに眺め、時に押しかけて議論を挑んだ。ジャズが流れ、ゴダールたちの映画が生まれ、時代の気分は「自由」だった。

同じ年、サルトルはボーヴォワールとともに雑誌『』(現代)を創刊した。哲学・文学・政治を横断するこの雑誌は、戦後フランスの知識人たちの中心的な舞台となる。だが、カフェの哲学者はやがて街頭へ出ていく。書くだけでは足りない、と。

実存は本質に先立つ。人間はまず存在し、その後に自らを作る。だから人間は自由の刑に処せられている。

『実存主義はヒューマニズムである』(1945) ― 聴衆があふれた解放後パリの講演で

07街頭へ ― そして、あの拒否の意味

実存主義は「行動への思想」だった。サルトルの言葉、(engagement=参与)は、知識人が政治と社会に関わり続ける義務を意味した。この義務を、彼は生き方そのもので示し続けた。

1956年、ソ連のハンガリー侵攻を機に、共産党(PCF)との距離を宣言した。「スターリンなき共産党」への期待と失望を繰り返しながら、マルクス主義を実存主義の枠組みに統合しようと試みた。その成果が、大著(1960)である。

そして1964年。冒頭の場面に戻る。ノーベル文学賞の辞退である。「私はサルトルであり、ノーベル賞受賞者になるべきではない」。実存は本質に先立つ、と彼は言い続けてきた。人は「何者か」というラベルに、先回りして決められてはならない。賞という制度は、人を「ノーベル賞受賞者」という出来上がった何かに変えてしまう。あの拒否は、彼の哲学の実行そのものだった。

1968年5月、パリ。バリケードで燃えるカルティエ・ラタン。62歳のサルトルは街頭に出て、学生たちと連帯した。リュクサンブール公園でマイクを握り、「あなたたちは正しい」と叫んだ。その後も毛沢東主義系グループの機関紙『ラ・コーズ・デュ・プープル』(人民の大義)を庇護ひごし、自ら街頭で売りさばいた。

晩年は失明が進み、1973年以後はほとんど読み書きができなくなった。それでも口述こうじゅつ(口で語って記録すること)によるインタビューと対話で、思想を発信し続けた。1980年4月15日、パリで死去。74歳だった。葬列は5万人、モンパルナス墓地まで続いた。ボーヴォワールはひつぎかたわらに立ち、「それで幸せだった」と後に書いた。

自由は、うれしいだけの贈り物ではない。選ばずにはいられない、という重荷でもある。選ばなかった道まで含めて、すべてが自分の選択だとしたら。その自由を、あなたは引き受けられるだろうか。

08主要な出来事と著作

  1. パリ15区に誕生。父ジャン=バティストは翌年に死去
  2. エコール・ノルマル・シュペリウール入学
  3. アグレガシオン首席合格。ボーヴォワール次席。二人の契約関係が始まる
  4. ベルリン留学。フッサール現象学と出会う
  5. 小説『嘔吐』刊行。実存主義文学の先駆
  6. ドイツ軍に捕虜となる。シュタラーク12D収容所
  7. 『存在と無』刊行。カフェ・ド・フロールで執筆
  8. 「実存主義はヒューマニズムである」講演。雑誌『レ・タン・モデルヌ』創刊
  9. ソ連のハンガリー侵攻を批判。PCFとの距離を宣言
  10. 『弁証法的理性批判』刊行。マルクス主義と実存主義の統合を試みる
  11. ノーベル文学賞を辞退。制度への取り込みを拒否
  12. 五月革命でカルティエ・ラタンに立つ。学生たちと連帯
  13. ほぼ失明。口述での思想発信を続ける
  14. パリで死去。享年74。葬儀に5万人が参列。モンパルナス墓地に埋葬

残した思想の輪郭

  • 実存は本質に先立つ ― 人間はまず存在し、その後に自らの本質を作る。神も階級も人を規定しない
  • 対自と即自 ― 意識ある人間(対自)は「無」を孕み、物のような固定した本質を持たない
  • 自由と責任 ― 人間は常に選択を余儀なくされ、その選択の全責任を負う「自由の刑」に服している
  • アンガジュマン(参与) ― 知識人は政治・社会に関わり続ける義務を持つ
  • が自己を対象化し、固定化しようとする緊張関係
  • 状況の中の自由 ― 自由は状況を選べないが、状況への態度を選ぶことは常に可能だ
1980年、数万人に送られて埋葬された。ノーベル文学賞は辞退した。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

サルトルの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

サルトルが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • カフェ・ド・フロールゆかり

    パリ, フランス

    サン=ジェルマン=デ=プレ、サルトルがボーヴォワールと議論し執筆した「第二の書斎」

  • モンパルナス墓地(サルトルとボーヴォワールの墓)墓所

    パリ, フランス

    サルトルとボーヴォワールが並んで眠る共通墓。参拝者の絶えない巡礼地

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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