ボーヴォワール
人は女に生まれるのか、 それともなるのか?
実存を生き、女性の自由を書いた作家にして思想家
- 第二の性
- 実存主義
- 自由
戦争と解放をくぐったパリでも、女性はまだ「二番目」の存在とされていた。 — ひらく
時代の空気
第一次大戦後のパリで、ブルジョワ家庭は持参金が底をつき召使を雇えない没落をくぐっていた。20年代のカフェ・ド・フロールやドゥ・マゴでは現象学・ハイデガー・マルクスが紙ナプキンの上で組み直され、女性はなおアグレガシオン受験者の最年少が話題になる時代だった。1939年に第二次大戦が始まり、占領下のパリは検閲下で出版が続き、1945年の解放後はサルトル・メルロ=ポンティと『レ・タン・モデルヌ』が創刊された。アルジェリア戦争と1971年の中絶合法化運動が知識人の発言の場を作っていた。
01343人の署名
1971年、フランス。この国では、中絶はまだ犯罪だった。
その年、一つの宣言文が世に出た。「」。自分も中絶を経験した、と明かした343人の女性たちの宣言である。名前を出せば、罪に問われるかもしれない。それでも343人は、実名を並べた。
その署名の先頭に、一人の作家の名前があった。シモーヌ・ド・ボーヴォワール。世界中の読者を持つ、フランスの思想家である。
守るべきものを多く持つ人が、なぜ危険を承知で先頭に名前を置いたのか。その答えは、彼女の一生をたどらなければ見えてこない。時は63年前。1908年のパリに戻る。
02二つの世界のあいだで
1908年1月9日、シモーヌ・ド・ボーヴォワールはパリ6区に生まれた。ラスパイユ大通りに面したアパルトマン(集合住宅)だった。父ジョルジュは法律事務所で働き、文学を愛し、宗教を信じない人だった。母フランソワーズは深く敬虔なカトリック信者だった。二人の娘は、厳しいキリスト教の教えのもとで育てられた。
一家は上流の市民階級を名のっていたが、実情は苦しかった。父方の財産は祖父の代に失われていた。第一次世界大戦のあとには、母の持参金(結婚のとき実家が持たせるお金)も底をついた。召使いを雇えなくなり、家賃の安い借家を転々とした。
父は夜、書斎でモリエールやバルザックといったフランスの作家を声に出して読んだ。母は居間で、娘たちに祈りを教えた。どちらの世界を信じればいいのか。幼いシモーヌは、両方を信じようとした。少女時代には、修道女になることを夢見るほど信仰にのめり込んだ。
だが14歳のある夜、彼女は突然、神の存在を疑い始めた。信念が崩れるまでに、長い時間はかからなかった。「神はいない」。そう気づいた瞬間、世界は縮むどころか、むしろ広がった——のちに彼女はそう振り返っている。
神を失った少女に残されたのは、自分の頭で考えることだけだった。その頭は、どこまで行けるのだろうか。
03最年少の合格者
父は「息子がいれば弁護士にした」と公言する人だった。娘である以上、自活できる仕事を持たせるしかない。そう腹を決めた父は、シモーヌを学問の道へ押し出した。動機はどうあれ、彼女は当時のフランスで最も厳しい知の訓練の場へ入っていく。
ソルボンヌ(パリ大学)で哲学を学び、数学、文学、ラテン語の単位も積み上げた。次の目標は。国家教員資格試験と呼ばれる、フランスの学問の頂点を競う試験である。1929年、21歳のシモーヌは哲学部門に合格した。その年の受験者の中で、最年少だった。
試験の準備の中で、彼女は(高等師範学校)の学生たちと勉強会を作った。その中に、学内ですでに伝説と呼ばれる男がいた。ジャン=ポール・サルトル。前年に落第し、この年が再挑戦だった。結果はサルトルが首席、ボーヴォワールが次席。だが審査員の間では、本当の哲学者は彼女のほうだという声も上がった。
サルトルは彼女の思考の速さと鋭さに驚いた。「あなたは私が今まで会った中で最も知的な女性だ」と言ったとされる。シモーヌはのちに、この言葉を苦笑いとともに引用している。二人の付き合いは、試験会場の外でも続いた。ただし、二人が結んだのは結婚ではなかった。
04契約と、親友の死
1929年の秋、サルトルとシモーヌは「契約」を結んだ。結婚の証書も、宗教の誓いもない。ただの口約束である。中身はこうだ。互いが「本質的な愛」で結ばれている間、それぞれが「偶発的な愛」を自由に持ってよい。相手を独り占めしない。嫉妬も禁じる。すべてを隠さず打ち明けることだけが、唯一の条件だった。
外から見れば、奇妙な関係に見えたかもしれない。だがシモーヌにとって、この契約には切実な意味があった。当時の結婚という制度は、女性を法律の上でも、お金の上でも、夫に従わせる仕組みだった。契約はその仕組みへの拒絶であり、自由に生きるという宣言だった。二人はこの関係を生涯守り続けた。
ただし、のちの自伝『女ざかり』で彼女自身が認めている。隠しごとをしないという約束は、掲げた理想ほど対等ではなかった。サルトルの新しい恋を、手紙で知らされる側に立ち続けたのは彼女だった。それを自由の条件として、自分に呑み込ませ続けた。その無理は、のちにアメリカの作家アルグレンへ宛てた手紙に、別の体温を帯びてにじみ出ることになる。
戦間期のパリで、二人はやドゥ・マゴに入り浸った。議論は紙ナプキンに書き込まれ、夜ごと更新された。フッサールやハイデガーといったドイツの哲学、マルクスの思想。あらゆる考えがテーブルの上で解体され、組み直された。
その頃、シモーヌには生涯の親友がいた。エリザベート・ラコワン、通称ザザ。ソルボンヌで出会い、学ぶ喜びを分かち合った、かけがえのない存在だった。そのザザは苦しんでいた。親が決めた結婚に従うのか、自分で選んだ愛をつらぬくのか。その板挟みが、彼女の体を蝕んでいた——シモーヌはそう信じた。
1929年、ザザは突然の脳炎で亡くなった。21歳だった。シモーヌはこの死を、「社会の強制が人を殺す」証拠として胸に刻んだ。この確信は20年後、一冊の本になって現れる。だがその前に、戦争が来る。
05占領下のパリで書く
1939年9月、第二次世界大戦が始まった。サルトルは徴兵され、アルザス(フランス東部の地方)の気象部隊に送られた。翌年にはドイツ軍の捕虜になった。シモーヌはパリに残り、リセ(高等学校)の教壇に立ちながら書き続けた。
ドイツ軍に占領されたパリは、異様な静けさに包まれていた。カフェは開き、本屋も動いていた。検閲(国が出版物を調べて止める仕組み)はあったが、思考は地下に潜って生き続けた。1943年、シモーヌは初めての小説を出した。サルトルとの三角関係を素材にした実存主義の小説で、フランス文壇に彼女の名を刻んだ。同じ年には、サルトルの戯曲『蠅』も上演された。レジスタンス(占領への抵抗運動)との接触は限られていたが、彼女はペンを抵抗の手段として選んだ。
1945年、戦争が終わった。パリの知的な空気は一変した。その秋、二人は盟友の哲学者メルロ=ポンティとともに、思想誌『(Les Temps Modernes)』を創刊した。政治と哲学を結びつけ、アンガージュマン(社会参加)を旗印にした雑誌だった。ボーヴォワールは創刊メンバーとして編集に加わり、小説も評論も戯曲も書き続けた。
1947年にはアメリカへ渡り、シカゴの作家と出会った。二人の関係は激しく、長く続いた。彼女はアルグレンから贈られた指輪を、死ぬまで外さなかったと伝わる。そして1949年。ザザの死からずっと胸の底に沈んでいた問いが、ついに一冊の本になる。
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06『第二の性』——1949年の革命
1949年6月、二巻本の大著の第1巻が刊行された。。第2巻は同年11月に続き、第1巻は発売初週で2万2千部が売れた。フランスを震撼させ、のちにバチカンは禁書目録に加えた。
この本の根幹には一つの問いがある。「女性とは何か」。ボーヴォワールの答えは哲学史を揺るがすものだった。女性とは生物学的事実ではなく、社会が作り上げた構築物だ——「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」。この一文は20世紀思想の中で最も引用された命題の一つになった。
彼女の分析は徹底的だった。神話、宗教、文学、、生物学、歴史。あらゆる分野で「女性」がどのように定義され、どのように「他者」の位置に押し込められてきたかを解剖した。男性が「主体」であり「絶対者」であるのに対し、女性は「相対的存在」「第二の性」、すなわち「」として構成されてきた。
女は、男との関係において定義され区別される。女は非本質的なもの、男に対する他者(l'Autre)である
サルトルの実存主義的な語彙——「自由」「状況」「他者」「まなざし」——がフレームとして機能したが、ボーヴォワールの分析はサルトルの思想を超えていた。彼女は抽象的な「人間」ではなく、具体的な性を持った身体と社会的制度の交差点を見つめた。
批判は激しかった。カミュは「フランスの男性をおとしめた」と怒り、サルトル周辺の男性知識人たちも複雑な反応を示した。しかし世界中の女性読者は、この本の中に自分の生の構造を発見した。アメリカではが読み、ケイト・ミレットが読み、フェミニズムの第二の波の水源となった。
本は世界に広がった。だが書いた本人にとって、思想は紙の上で終わるものではなかった。
07署名の理由
1950年代から60年代、ボーヴォワールは政治の現場に立ち続けた。(フランスからの独立をめぐる戦争)では独立派を支持し、フランス政府を公然と批判した。彼女は黙っていることを、思想への裏切りとみなした。
私生活では、映画監督との長い関係があった。ランズマンは17歳年下で、二人は1952年から数年間をともに過ごした。サルトルとの「本質的な愛」は続いていたが、その形は年を重ねるごとに変わっていった。友情と、助け合いと、知の連帯が混ざり合ったものへ深まっていった。
1963年から66年にかけて、彼女は四巻の回想録を書き上げた。に始まる自伝シリーズである。20世紀フランスの知識人たちの記録であると同時に、女性が自分の一人称で書いた思想の自伝という、新しいジャンルを切り拓いた。
そして1971年。物語は、冒頭の場面に戻る。「343人のマニフェスト」への署名である。中絶が犯罪とされていた時代に、自ら経験したと公言する。それは罪に問われるおそれのある行動だった。その先頭に、彼女の署名があった。
なぜ先頭だったのか。ここまで歩いてきた読者なら、もう自分の言葉で答えられるはずだ。親の決めた結婚に苦しんで死んだザザ。結婚制度への拒絶として結んだ契約。「女は作られる」と示した一冊。それらはすべて、この署名へとつながる一本の線の上にある。4年後、中絶は合法化された。
1980年4月15日、ジャン=ポール・サルトルが死んだ。74歳だった。ボーヴォワールはその臨終に立ち会い、葬儀のあとも遺稿(残された原稿)の整理と出版を引き受けた。(1981年)は、サルトルの晩年を冷静に、深く記録した証言の書だった。喪失の痛みを、彼女は書くことで乗り越えようとした。
1986年4月14日、パリの病院で78歳で死去した。モンパルナス墓地の、サルトルの隣に葬られた。
彼女は、押しつけられた輪郭を一つずつ書き換えながら生きた。では、あなたがいま当たり前だと思っているその役割は——どこまで、自分で選んだものだろうか。
08主要な出来事と著作
- パリ6区に誕生。父ジョルジュ(法律事務所員)、母フランソワーズ(敬虔なカトリック)
- 14歳で信仰を喪失。以後、哲学と文学に傾倒
- 哲学部門のアグレガシオン(国家教員資格試験)にその年の最年少(21歳)で合格、サルトルと出会い「契約」を結ぶ。親友ザザ(エリザベート・ラコワン)が21歳で夭折
- 初の小説『招かれた女』刊行。実存主義作家として文壇に登場
- 戦後解放の熱狂の中、サルトル・メルロ=ポンティらと思想誌『レ・タン・モデルヌ』創刊
- アメリカ訪問。作家ネルソン・アルグレンと出会い、深い関係が始まる
- 『第二の性』刊行。初週2万2千部。バチカン禁書指定
- 小説『レ・マンダラン』でゴンクール賞受賞
- 自伝四巻(『娘時代の回想』ほか)を刊行
- 「343人のマニフェスト」に署名。中絶合法化運動の旗手となる
- サルトル死去。『別れの儀式』(1981)でその晩年を記録
- パリで死去、享年78。モンパルナス墓地にサルトルと並んで眠る
残した思想の輪郭
- 「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」 ― 性別は生物学的所与ではなく、社会と文化によって構築されるという宣言
- 他者化の構造批判 ― 男性が「主体」として自己を定義する際、女性を「絶対的他者」として位置づける仕組みを解析
- 実存主義的フェミニズム ― サルトルの実存主義の語彙を用いながら、抽象的な「人間」ではなく性を持つ具体的な身体と状況を分析対象とした
- アンガージュマン(社会参加) ― 知識人の責任として政治的行動を選び、アルジェリア独立支持・中絶合法化運動など時代の最前線に立ち続けた
- 自伝という思想 ― 回想録を通じて、女性の一人称で語られた思想的自伝という新たな文学ジャンルを切り拓いた
- 関係の再定義 ― サルトルとの「契約」は制度としての結婚への批判であり、自由な主体同士の関係の実践的実験だった
つながり
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ボーヴォワールの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門第二の性 (I 事実と神話)
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生きた跡を辿るPlaces
ボーヴォワールが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- カフェ・レ・ドゥ・マゴゆかり
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さらに辿るならExternal References
ボーヴォワールを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「シモーヌ・ド・ボーヴォワール」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Simone de Beauvoir"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Simone de Beauvoir"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Simone de Beauvoir (1908—1986)"
Internet ArchiveEnglishThe Second Sex(英訳版) — Internet Archive
『第二の性』英訳