シモーヌ・ヴェイユ
病の床で、彼女はなぜ 食べることを拒み続けたのか?
労働・戦争・宗教体験を自身の身体で試し続けた、20世紀フランスの異端の哲学者
- 注意
- 労働
- 重力と恩寵
二つの世界大戦にはさまれ、革命と不況と占領がやむことなく続いた時代 — ひらく
時代の空気
ヴェイユが生きた三十四年は、第一次大戦・戦間期の革命と不況・スペイン内戦・第二次大戦と占領が絶え間なく続く時代だった。リセ・アンリ4世でアラン(シャルチエ)の哲学授業に学び、高等師範学校ではボーヴォワールと並ぶ女子アグレジェ合格者となる。1934-35年にルノーで九ヶ月の女工生活、1936年にバルセロナの無政府主義民兵隊、1938年にソレムのベネディクト会修道院で神秘体験を経験した。占領下はマルセイユ、亡命先のニューヨーク、そしてロンドンの自由フランスを渡り歩き、1943年に結核と、占領下同胞と同量を超える食事を拒む拒食のなか、アッシュフォードで息を引き取る。
01食べることを拒んだ哲学者
1943年8月、イギリス南部の町アッシュフォード。グロスヴェナー療養所のベッドに、34歳のフランス人女性がいた。名前はシモーヌ・ヴェイユ。肺結核が、彼女の体をむしばんでいた。
それでも彼女は、食事をほとんど口にしなかった。祖国フランスはドイツ軍に占領されていた。人々は、わずかな配給の食料で生きていた。その量を超える食べ物を、彼女は拒み続けた。「彼らが飢えているのに、私が食べることはできない」。
友人たちは食べるように説得した。だが彼女は応じなかった。8月24日、彼女は息を引き取った。地元の検視官は「飢餓による自殺」と結論した。家族と友人は、その判定に異議を唱えた。
なぜ彼女は、自分の命よりも「同胞と同じであること」を選んだのか。それを知るには、時を34年前に戻さなければならない。
02兄のとなりを走った少女
1909年、パリ。医師の父ベルナールと、ロシア系の母セルマのもとに、シモーヌ・ヴェイユは生まれた。一家はアルザス出身のユダヤ系だった。3歳上の兄は、のちに20世紀を代表する数学者になる。数学者集団の中心となり、戦後はで教えた人物だ。
兄と妹は家庭で、ギリシア語もドイツ語も英語も学んだ。シモーヌは兄の才能に圧倒された。それでも、同じ高みを目指した。「兄は数学で真理に触れる、私はそれを他の道で触れなければならない」。のちに彼女自身が書いた言葉だ。
フェヌロン校を経て、16歳で名門リセ・アンリ4世の準備学級に入った。教師は哲学者アラン(本名エミール・シャルチエ)。デカルトとプラトンを軸にすえた、厳しい先生だった。アランが教えたのは「注意」の訓練だ。文を読むとは、魂をいったん空にして、言葉の前に立つこと。この教えは、彼女の生涯の芯になっていく。
19歳で(ENS)に合格した。当時、女子の入学はきわめてまれだった。22歳では、という難関の哲学教員資格に合格する。その年の女子合格者は二人だけ。もう一人は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールだった。二人は短い会話を交わしている。いま大事なのは、地上の飢えた人々に食べさせる革命だけ――そう断言するヴェイユに、人生の意味こそ問題だと言い返すと、あなたは飢えたことがないのね、と一蹴された。ボーヴォワールは後年そう回想している。
資格を得た彼女を待っていたのは、教壇だけではなかった。
03「赤い処女」と呼ばれて
22歳で、ル・ピュイという町のリセの哲学教員になった。だが彼女は、教室にとどまらなかった。失業者のデモの先頭に立った。労働組合の会議に出た。給料の一部を、いつも失業者の救援に寄付した。
人々は彼女を「赤い処女」(la vierge rouge)と呼んだ。「絶対者の火星人」というあだ名もあった。教員の減給に反対するストライキを支え、左派教員連盟の機関誌に書き続けた。上層部ににらまれ、オーセール、ロアンヌへと、赴任先を毎年のように変えられた。
1933年12月には、思いがけない客を家に迎えている。ロシア革命の指導者で、いまは亡命中のだ。パリの実家に、一家は彼と妻をひそかにかくまった。24歳のシモーヌは、議論でトロツキーを追い詰めた。「あなたがたの国家は労働者の国家ではない。労働者を支配する国家になった」。トロツキーは怒り、後に「この狂った少女」と妻にこぼしたと伝わる。
ただし、彼女はマルクス主義者ではない。『自由と社会的抑圧の諸原因の反省』(1934)で、彼女はこう論じた。抑圧を生むのは、権力の構造そのものである。所有の形を変えれば解放される、という図式は成り立たない。スターリン主義とファシズムの両方を、彼女は妥協なく批判した。
だが、言葉で語るだけでは、彼女は満足できなかった。次に向かったのは、工場の門だった。
04工場の九ヶ月
1934年12月、彼女は教職を休職した。パリのアルストム、カルナヴァル、ルノー。三つの金属工場で、翌1935年8月まで働いた。プレス機を動かし、電気部品を組み立てた。自分の信念を、頭の中の理屈で終わらせない。そのための行動だった。
体は小柄で、病弱だった。頭脳は最高度に訓練されていた。そのアグレジェ(難関資格を持つ哲学教師)が、流れ作業の列に立った。ほかの労働者と同じ屈辱と疲労を、そのまま経験した。幼いころからの慢性頭痛。手を切る小さな怪我。監督者の怒声。賃金カットの恐怖。
夜になると、屋根裏の部屋でノートを書き続けた。『工場日誌』と呼ばれるこの記録は、のちに『工場労働者の状態』(La Condition ouvrière)としてまとめられる。
この九ヶ月が、彼女の哲学を決定的に変えた。労働は、生活の手段であるだけではない。人間らしさを壊しかねない、過酷な現実だった。そしてこの経験の中から、「注意」(attention)という言葉が思考の中心に浮かび上がる。機械のような繰り返しの外に、魂が世界を受け取る別のやり方を保つこと。
その「注意」を、彼女は後年こう言い表すことになる。
注意とは、魂を空にして対象を受け取ること。我々のほとんどは注意を払うとはどういうことか知らない。
05戦場と修道院
1936年7月、スペインで内戦が始まった。翌8月、27歳のヴェイユはバルセロナへ向かった。アナーキスト(無政府主義者)労連CNT-FAIの民兵隊、ドゥルーティ縦隊に加わるためだ。銃を担ぎ、アラゴン戦線の前線に立った。だが、このは短く終わる。野営地で、炊事用の熱い油に誤って足を突っ込んでしまう。重いやけどを負い、駆けつけた両親がイタリアへ連れ帰った。
彼女は、戦場で見た現実に深く幻滅していた。「勝つ側も負ける側も、同じ残虐さの論理に支配される」。この経験はのちに、論考『イリアスあるいは力の詩』(1940)に結晶する。古代ギリシアの叙事詩を、「力」の詩として読み直した文章だ。
1937年と1938年、彼女はイタリアのアッシジと、フランスのソレム修道院を訪れた。ソレムは、ベネディクト会の修道院である。1938年の聖週間(復活祭前の一週間)、彼女は激しい頭痛の中でグレゴリオ聖歌を聴いていた。英国の詩人の詩「愛」(Love)を暗唱していた、そのとき――後年ペラン神父への手紙で本人が書くところでは――「キリストそのものが降りてきて、私を捕えた」。
ユダヤ人として生まれ、アラン門下の合理主義者として育った彼女が、予想もしなかったキリスト教神秘主義へ深く引き寄せられていく。それでも彼女は、カトリックの洗礼を最後まで受けなかった。「教会は『我らは』と『彼らは』の境界を引く。キリストはすべての者のもとにいる」。理由は三つ、彼女の筆に重ねて現れる。旧約聖書の「選ばれた民」という神学への違和感。総会制度への懐疑。そして、教会の外側に残される人々と、自分を切り離したくないという思いだ。
そして1940年、戦争が彼女の国そのものを呑み込む。
06占領、亡命、そしてアッシュフォードへ
1940年6月、ドイツ軍がフランスに侵攻した。ヴィシー政府は、ユダヤ人迫害の法令を出した。ヴェイユ一家は占領下のパリを離れ、南のマルセイユへ逃れた。
マルセイユで彼女は、の修道士神父と出会う。この神父と交わした手紙と対話が、のちに(Attente de Dieu)の主要なテクストとなる。1941年から42年には、アルデーシュ県の農場に身を寄せた。農場主は、哲学者でもある篤農家。彼女はブドウ摘みの日雇いをしながら、ノート(Cahiers)を書き継いだ。このノートから、のちにとなる断章が選ばれることになる。同じ時期、1918年の戦傷で四肢の自由を失った詩人ジョエ・ブースケとも、苦しみ(malheur)をめぐる手紙を交わしている。
1942年5月、両親とともに船でニューヨークへ脱出した。だが、安全な暮らしに彼女は耐えられなかった。同じ年の11月、ロンドンへ渡る。ド・ゴール派の「自由仏」(自由フランス)に合流するためだ。モーリス・シュマン情報相のもとで、占領下フランスの社会再建計画と植民地政策の草案を任された。その成果が(L'Enracinement)として残る。
そしてロンドンで、彼女は食事を拒み始めた。占領下の同胞の配給量を超える食べ物は、口にしない。「彼らが飢えているのに、私が食べることはできない」。同時に、肺結核が進行していた。1943年4月に結核と診断され、ミドルセックス病院へ。次いで、アッシュフォードのグロスヴェナー療養所へ移された。物語は、冒頭の場面に戻る。
8月24日、死去。34歳だった。検視官は「心身衰弱と心臓不全による、飢餓による自殺」と結論し、家族と友人はこの判定に異議を唱えた。あの拒食は、同胞との連帯の身振りだったのか。それとも、結核に伴う消化の不調と、少女期からの摂食の偏りが重なった結果だったのか。この問いには、今も決着がついていない。
ただ、たしかなことが一つある。給料を失業者に分けた教員。工場の列に立った哲学者。戦場へ銃を担いでいった思索家。彼女は生涯、苦しむ人と同じ場所に、自分の身体を置こうとし続けた。アッシュフォードのベッドは、その最後の場所だった。そして彼女の手もとには、大量のノートと原稿が残されていた。
07死後に開かれた書物――『重力と恩寵』から全集へ
ヴェイユは生前、哲学書をほとんど刊行しなかった。主要な著作はすべて死後の刊行である。
『』(La Pesanteur et la Grâce、1947)――戦時下のノート(Cahiers)から、友人ギュスターヴ・チボンがアフォリズムを選んで編纂した。「重力」は私たちを下へ引き下げるあらゆる動き(自我、欲望、虚栄)、「恩寵」は魂を上へ引き上げる唯一の動き。真空(le vide)を受け入れることだけが、恩寵の到来を可能にする。本人が一冊として構想したものではなく、あくまで編者チボンの選択である点は、読者として心に留めておきたい。
恩寵は、それを受け入れるだけの空虚が魂のうちにないかぎり、入ってくることができない
『根を持つこと』(1949)――ロンドンで執筆された社会哲学書。アルベール・カミュが白水社系のガリマール「希望」叢書で編集した。近代社会の疾患を「根こぎ」(déracinement)と診断し、労働、土地、伝統、宗教、言語という具体的な根からの再生を構想する。「権利」より「義務」(devoir)を優先する倫理学の再構築。
『神を待ちのぞむ』(1950、ペラン編)、『工場労働者の状態』(1951、カミュ編)、『ギリシア人について』(1953)、(1955)、『ロンドン論集』(1957)。カミュは「今世紀唯一の偉大な精神」と彼女を呼び、彼女の著作を編集・出版する主要な窓口となった。のちのノート類の全体は、ガリマール版『シモーヌ・ヴェイユ全集』(Œuvres complètes、1988-)として整理が進んでいる。
最後に、もう一度だけ彼女の言葉の前に立ってみたい。注意とは、魂を空にして対象を受け取ること。では――苦しんでいる誰かを前にしたとき、あなたは何を差し出すだろうか。
08主要な出来事と残した思索の輪郭
- 2月3日、パリのユダヤ系家庭に誕生、3歳上の兄アンドレは後のブルバキ数学者
- 16歳、リセ・アンリ4世でアラン(シャルチエ)に学ぶ
- 19歳、高等師範学校(ENS)入学。当時女子の入学は例外的
- アグレガシオン哲学部門合格(同年の女子合格はボーヴォワールと二人)、ル・ピュイのリセ教員に
- パリの実家に亡命中のトロツキー夫妻をかくまい、直接議論
- 休職しアルストム・カルナヴァル・ルノーの工場で9ヶ月の女工生活、『工場日誌』
- スペイン内戦、CNT-FAI ドゥルーティ縦隊に義勇参加、油やけどで帰国
- ソレム修道院の聖週間ミサで神秘体験、ジョージ・ハーバート「愛」暗唱中にキリストに捕えられる
- 占領下フランス、家族と共にマルセイユへ避難、ペラン神父と出会う
- チボンの農場で労働とノート執筆、詩人ブースケと苦しみをめぐる書簡
- 5月ニューヨークへ家族と避難、11月ロンドンの自由フランス(ド・ゴール派)へ
- 『根を持つこと』執筆。4月結核と診断。8月24日アッシュフォード療養所で死去、34歳
- 『重力と恩寵』『根を持つこと』『神を待ちのぞむ』『抑圧と自由』死後刊行
残した思索の輪郭
- 注意(attention)の哲学 ― 魂を空にして対象を受け取る、最高度に能動的な受動
- 重力と恩寵 ― 下への自動運動と上への稀な運動、真空と受容の関係
- 「根を持つこと」 ― 労働・土地・伝統・宗教・言語という具体的な根の必要
- 工場労働の現象学 ― 知識人が労働者として生きる実験と、身体の疲労から書き直される倫理
- 義務の倫理 ― 権利より義務を優先する社会哲学の再構築
- 洗礼なき神秘 ― 教会の境界線を超えて神を受け取るユダヤ=キリスト者の姿勢
つながり
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シモーヌ・ヴェイユの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
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シモーヌ・ヴェイユが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
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WikipediaWikipedia 日本語版「シモーヌ・ヴェイユ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Simone Weil"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Simone Weil"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Simone Weil (1909—1943)"
Internet ArchiveEnglishGravity and Grace(La Pesanteur et la grâce 英訳) — Internet Archive
『重力と恩寵』英訳