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ハンナ・アーレント

Hannah Arendt·1906–1975·ドイツ/アメリカ·

ごく普通に見える人が、 なぜ大きな悪に加わってしまうのか?

全体主義の正体を突き止め、人が集まり語る「活動」の尊厳を取り戻した20世紀の政治思想家

  • 全体主義
  • 活動
  • 悪の陳腐さ
戦争が二度も世界を襲い、国を追われた人があふれた20世紀のヨーロッパ — ひらく

時代の空気

1906年生まれのアーレントが生きたのは、第一次世界大戦の敗戦からヴァイマル共和国の動揺、ハイパーインフレ、ナチス政権成立(1933年)、ユダヤ人国籍剥奪、強制収容所、第二次世界大戦と冷戦初期へと連続するヨーロッパだった。彼女はベルリンで8日間ゲシュタポに勾留された後パリに亡命、1940年ギュルス収容所に収監され、1941年にニューヨークへ脱出した。1937年の独国籍剥奪から1951年の米国帰化まで14年を無国籍として生き、戦後はマッカーシズムの空気の下で『全体主義の起源』(1951)を書いた。

011961年、エルサレムの法廷で

1961年春、エルサレム。イスラエルの法廷で、ひとりの男が裁かれていた。。ナチス・ドイツで、ユダヤ人を収容所へ送る移送を仕切った責任者である。前年、イスラエルの諜報部ちょうほうぶが、逃亡先のアルゼンチンで彼を捕らえていた。

傍聴ぼうちょう席に、54歳の女性がいた。ハンナ・アレント。アメリカの雑誌『ニューヨーカー』の特派員として、この裁判を見届けに来ていた。彼女自身、ナチスに追われてヨーロッパを逃げのびたユダヤ人だった。

そこに現れるのは、どんな怪物なのか。だが被告席のアイヒマンは、怪物には見えなかった。決まり文句でしか話せない、平凡な役人だった。命令に従い、書類を回し、昇進しょうしんを気にしてきた男。憎しみに燃える様子さえ、そこにはなかった。

ごく普通に見えるこの男が、なぜ大量殺戮さつりくの歯車になれたのか。この「なぜ」は、アレントの残りの人生を貫く問いになる。だが、なぜ彼女はこの問いを問う人になったのか。それを知るために、時は55年前に戻る。

02カントの街の少女

1906年10月14日、ドイツのハノーファー近郊リンデンに生まれた。父パウルは技術者。母マルタはロシア系ユダヤ人で、平等な社会を目指す社会主義者だった。一家は1909年、父の故郷ケーニヒスベルクに移る。哲学者カントが生涯を過ごした街である。カントの街で育ったことを、彼女は後年しばしば原点として語った。

父は重い病を患い、1913年、ハンナが7歳のときに死去した。母は寡婦年金かふねんきんと父の遺産で娘を育てた。再婚後も、娘の教育に力を注いだ。少女は13歳でカントを読み始めた。18歳になる頃には、大学に進む準備を終えていた。

1924年、マールブルク大学に入学する。哲学と神学、ギリシャ語を学んだ。ここでマルティン・ハイデガーという教師の講義に衝撃を受ける。のちに20世紀を代表する哲学者となる人物である。当時はまだ35歳の私講師(正教授でない教員)だった。だがその思考の激しさは、学生たちを魅了していた。

二人は短いあいだに、師弟を超えた関係になる。ハンナは18歳、ハイデガーは35歳で、妻がいた。1926年、関係のもつれと学問上の必要から、彼女はハイデガーのもとを離れた。移った先はハイデルベルク大学。新しい師カール・ヤスパースは、生涯の恩師となる哲学者である。

1929年、ヤスパースの指導で博士論文を完成させた。古代の思想家アウグスティヌスの「愛」を論じ、博士号を得た。同じ年、ギュンター・シュテルンと結婚する。のちにの名で知られる哲学者である。学問の日々は満ちていた。だがこのころドイツの街には、ナチスの影が広がり始めていた。

03逃げる、そしてまた逃げる

1933年、ナチスが政権を握った。そのときアレントは、ベルリンのプロイセン国立図書館にいた。ユダヤ人が受けている扱いを調べる研究のためだった。(ナチスの秘密警察)に逮捕され、8日間拘束される。取り調べ役の温情で釈放されると、すぐ国を出た。母とともにプラハを経由し、パリへ亡命する。

パリでは、ユダヤ人の若者をパレスチナへ逃がす組織で働いた。亡命したドイツ系知識人の集まりの中で、批評家ヴァルター・ベンヤミンと深い親交を結ぶ。最初の夫シュテルンとはすでに離婚していた。1940年、と再婚する。元共産主義活動家の、生涯の伴侶である。

1940年5月、ドイツ軍がフランスに攻め込んだ。アレントは敵国人として、南フランスのギュルス収容所に収監しゅうかんされる。だが混乱の中で脱出に成功した。マルセイユでベンヤミンに会い、原稿「」を預かる。ベンヤミンはその後、ピレネー越えの途上ポルボウで自ら命を絶った。

1941年5月、夫と母を連れてニューヨークに着いた。だが安住ではなかった。1937年にドイツ国籍を奪われて以来、彼女はどこの国の国民でもない。国を持たない人間の目に、この世紀は何として映ったのか。

04無国籍者が書いた『全体主義の起源』

ニューヨークで、アレントは英語を一から学んだ。ユダヤ系の月刊誌『アウフバウ』に記事を書き、雑誌編集の仕事で生計を立てる。そのかたわらで、膨大な歴史研究を進めていた。

1951年、『』を英語で刊行する。45歳だった。反ユダヤ主義、帝国主義、の三部からなる大著である。ナチズムとスターリニズム(ソ連の独裁体制)を、同じ20世紀の現象の二つの顔として描いた。

彼女の見立てでは、全体主義は昔ながらの独裁とは別物である。人々をばらばらにし、作り話のイデオロギー(世界観)で現実を置き換える。恐怖で人々を動かし続け、強制収容所を中核の装置とする。法の守りも、道徳も、人と人とのきずなも破壊する。人間を「余分な存在」にすることが、その目的だった。

同書は刊行と同時に、知的な衝撃を与えた。同じ1951年、アレントはアメリカの市民権を得る。14年におよぶ無国籍の日々が、ようやく終わった。翌1952年にはグッゲンハイム・フェローシップ(研究支援)も得た。だが、破壊のしくみを描き切った彼女には、次の問いが残っていた。人間が壊されないためには、何が必要なのか。

05人間が「始める」ということ

1958年、『』を刊行する。52歳。彼女の政治理論の中心となる著作である。

人間の営みを、彼女は三つに分けた。労働は、生きるために毎日繰り返す努力。仕事は、長く残る物を作り出す製作。そして活動は、人々の間で言葉と行いによって、新しく何かを始める営みである。古代ギリシャのポリス(都市国家)では、自由な市民が広場で語り合った。それが活動の舞台、だった。

近代はこの順序をひっくり返した、と彼女は診断する。労働が一番上に置かれ、政治はお金の管理のようになった。人々が集まり、語り、始める力は、どこへ行ったのか。

「人間は、人間である限り、新しい始まりを始める力を持つ」(natality、)。これが同書の核心だった。人がひとり生まれるたびに、世界には新しい始まりが持ち込まれる。

行為する者は、自分が何をしているのかを決して十分には知らない

『人間の条件』(1958)。人々の間で行われる「活動」の結果は誰にも読み切れない、と語るくだりの言葉

結果が読み切れなくても、人は始める。それが人間の尊厳だ、と彼女は考えた。では、始める力を持つはずの人間が、なぜあの巨大な悪の歯車になったのか。三年後、その問いが彼女をエルサレムへ運ぶ。

06ふたたび、あの法廷へ

1961年。物語は冒頭の場面に戻る。『ニューヨーカー』誌の特派員席で、アレントはアイヒマンを見つめていた。

彼女が見たのは、怪物的な悪魔ではなく、凡庸ぼんような官僚だった。アイヒマンは反ユダヤ主義の情熱に燃えた怪物ではなかった。考えることをせず、常套句じょうとうく(決まり文句)でしか喋らない。昇進と職務に自分を縛り付けた、平凡な男だった。大量殺戮を可能にしたのは、強い悪の意志ではなく、思考の欠如だったのではないか。

記事は1963年に連載され、同年書籍になった。『――についての報告』。陳腐とは、ありふれていて深みがない、という意味である。「悪の陳腐さ」(banality of evil)という言葉は、激しい論争を呼んだ。

ユダヤ人社会の一部は、彼女を激しく非難した。アイヒマンを擁護した、と。ユダヤ人協議会(ユダヤ人の代表機関)の協力まで批判した、と。旧友との往復書簡おうふくしょかんは、永遠の決裂けつれつに終わる。それでもアレントは死ぬまで、この報告を撤回しなかった。

冒頭の「なぜ」に、彼女は答えを出したことになる。悪は、特別な悪人だけのものではない。考えることをやめた、普通の人間の中に入り込む。ならば、考え続けるとはどういうことか。最後の仕事が残っていた。

07打たれなかった最初のページ

1963年、シカゴ大学「社会思想委員会」の教授に就任した。1967年からは、ニューヨークのニュー・スクールで教える。『革命について』(1963)では、フランス革命とアメリカ革命を比べた。人々が公的な自由を打ち立てたアメリカ革命を、高く評価した。『過去と未来の間』『暗い時代の人々』『暴力について』。ベンヤミンやヤスパースら友人たちを描く仕事も、この時期に生まれた。

1970年、夫ブリュッヒャーが死去する。深い悲嘆ひたんに沈んだ彼女は、最後の大作に向かった。『』。政治ではなく、精神そのものを問う本である。思考、意志、判断の三部を計画した。思考篇と意志篇は完成した。だが判断篇は、書かれないまま残される。

1975年12月4日の夜、ニューヨーク・リヴァーサイド・ドライヴの自宅。夕食の客を前に心臓発作で倒れ、その夜のうちに息を引き取った。69歳。タイプライターには「判断」篇の最初のページが挿し込まれていた。打たれていたのは題名と、二つの引用だけ。古代ローマのカトーと、詩人ルーカンの言葉だった。

悪の恐ろしさは、恐ろしい者によって行われるのではなく、思考しない者によって行われるところにある。

遺作『精神の生活』思考篇の序。アイヒマン裁判で抱いた問いを、晩年に自ら振り返った言葉

考えることは、机の上だけの営みではない。悪に加わらないための、最後のとりでかもしれない。あなたの毎日の中で、考えることをやめている場所はどこだろうか。そしてその静けさの中で、いま何が始まっているだろうか。

08思想の核心――全体主義・活動・陳腐な悪

アレントの全体主義論は、ナチズムとスターリニズムを同じ20世紀的現象の二つの顔として分析する。全体主義は古典的な独裁や専制と本質的に異なる。それは群衆の原子化、イデオロギーによる現実の代替、恐怖による絶え間ない動員、強制収容所を中核装置とする実験場を特徴とする。人間を余剰よじょうな存在にし、すべての法的・道徳的・人間的な絆を破壊することが、全体主義の目的だとされた。

『人間の条件』では、人間の(vita activa)が三層に区別される。労働(labor)は生命維持のための循環的努力、仕事(work)は耐久的な物を作る製作、活動(action)は複数の人々の間で言葉と行為により始まりをもたらす公的な営みである。近代はこの序列を転倒させ、労働を最上位に置き、政治を経済的管理に還元した、という診断がそこに重なる。活動には、不可逆性、予見不可能性という三つの特徴があり、それらは赦しと約束という政治的実践によってのみ担われうる。その根底に、人間は新しい始まりを始める力を持つという出生性(natality)の思想がある。

『エルサレムのアイヒマン』の「悪の陳腐さ」は、この理論の裏面をなす。思考の欠如こそが巨大な悪の媒体になりうる、という洞察である。晩年の『精神の生活』は、この洞察を思考・意志・判断という精神の三つの働きの検討へと展開しようとした、未完の応答だった。『革命について』におけるアメリカ革命の「公的自由の創設」への高い評価も、活動と公共空間の理論の延長線上にある。

09主要な出来事と著作

  1. ハノーファー近郊に誕生、ケーニヒスベルクで育つ
  2. マールブルク大学入学、ハイデガーに学ぶ
  3. ヤスパースの指導で博士号取得(アウグスティヌス論)
  4. ゲシュタポに8日間拘束、パリへ亡命
  5. ギュルス収容所に収監、脱出
  6. ニューヨークに到着。1937年の独国籍剥奪から51年帰化まで14年の無国籍
  7. 『全体主義の起源』刊行、アメリカ市民権取得
  8. 『人間の条件』刊行
  9. エルサレムのアイヒマン裁判傍聴、『エルサレムのアイヒマン』刊行
  10. 『革命について』刊行
  11. 夫ハインリヒ・ブリュッヒャー死去
  12. 12月4日、ニューヨークで心臓発作により死去、69歳
  13. 没後『精神の生活』思考・意志篇刊行(判断篇は未完)

残した思想の輪郭

  • 全体主義の本質 ― 古典的独裁と異なる20世紀特有の統治形態、強制収容所を核とする実験
  • ― 人間の活動的生の三層構造、近代による活動の衰退への診断
  • 出生性(natality) ― 人間は新しい始まりを始める力を持つ、という政治の存在論
  • 悪の陳腐さ ― 思考の欠如が巨大な悪の媒体となる、アイヒマンに見た20世紀の病
  • 公共空間の擁護 ― 複数の人々が言葉と行為で現れる公的な場としてのポリス再興
1975年12月、ニューヨークの自宅で心臓発作により死去、69歳。執筆中だった原稿が机に残されていた。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

ハンナ・アーレントが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • バード・カレッジ墓地墓所

    アナンデール=オン=ハドソン(ニューヨーク州), アメリカ

    1975年没、夫ハインリッヒ・ブリュッヒャーの隣に眠る。毎年、ハンナ・アーレント・センターの会員らがユダヤの習わしに従い石を置く

  • ハンナ・アーレント・センター(バード・カレッジ)所属

    アナンデール=オン=ハドソン(ニューヨーク州), アメリカ

    蔵書・文書・フェローシップ・年次会議を運営するアーレント研究の中心拠点

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