ショーペンハウアー
手に入れても、 なぜまた欲しくなるのか?
意志と表象の世界を描き、悲観主義と芸術的救済を説いた孤高の人
- 意志と表象
- 苦しみ
- 芸術と諦念
革命と機械の時代。世界は前に進むと誰もが信じた。その熱の裏で、彼はひとり、人生の苦しみを見つめていた。 — ひらく
時代の空気
1788年、フランス革命前夜のバルト海港町ダンツィヒ(現グダニスク)に生まれた。父は英国崇拝の自由商人、母ヨハンナはのちにワイマールでゲーテと交わる小説家となる。1809年ゲッティンゲン大学でカントに出会い、1813-14年にはマイアー経由で『ウプネカット』(ウパニシャッドのラテン語重訳)を読む。1819年の主著刊行は売れ残り、1820年ベルリン大学では同時刻のヘーゲル講義に完敗した。1830年代の鉄道・産業革命と1848年三月革命のドイツで、彼はフランクフルトのプードルとともに27年隠棲し、1851年『付録と補遺』で晩年に名声を得た。
01誰も来ない教室
1820年、ベルリン大学。32歳の新人講師が、自分の講義の時間割を決めた。選んだのは、ヘーゲルの人気講義とまったく同じ時刻だった。ヘーゲルは、当時のドイツ哲学の頂点に立つ教授である。駆け出しの講師としては、あまりに大胆な選択だった。
結果はすぐに出た。ヘーゲルの教室は満席で、廊下まで人があふれた。新人の教室に来たのは数人。やがて、ゼロになった。彼は講義を打ち切った。その講師の名は、アルトゥール・ショーペンハウアー。
彼は大学を去っても、思想を捨てなかった。誰にも読まれない本を、その後も書き続けた。そして40年後、世界のほうが彼に追いついてくる。なぜ彼は、勝てるはずのない勝負をあえて挑んだのか。その答えは、彼の人生のはじまりにある。
時は32年前に戻る。
02港町の商人の子
1788年2月22日、アルトゥールはバルト海の港町ダンツィヒに生まれた。現在のポーランドのグダニスクである。父ハインリヒ・フローリス・ショーペンハウアーは、裕福な商人だった。英国を深く愛し、自由を重んじ、商人としての誇りを持つ人だった。息子もいずれ商人として世界に送り出す。それが父の計画だった。
母は、のちに小説家として名を上げる才気ある女性だった。社交と文学を好み、家の中よりも広い世界を見ていた。
少年時代、アルトゥールは各地を転々とする。父の商売の関係で、ハンブルクやフランスのル・アーヴルに数年住んだ。英語とフランス語は、このとき身についた。学校も、ふつうのギムナジウム(大学へ進むための学校)ではない。ハンブルクの私立の商業学校だった。妹アーデレとは仲がよかった。だが、大商家の跡取りとして期待を一身に背負う日々は孤独だった。
父が望む商人の道。自分の中で育っていく、知への渇き。その板挟みに、少年はもう気づいていた。そしてこの板挟みは、思いもよらない形で断ち切られる。
03父の死、母との別れ
1805年、父ハインリヒが突然死んだ。ハンブルクの倉庫の窓から落ち、運河に沈んだのである。事故なのか、自ら命を絶ったのか。当時も今も、はっきりした答えはない。ただ、父が長くふさぎこんでいたことを知る人たちは、自死を疑った。アルトゥールは17歳だった。
父の遺言は、商家を続けることだった。彼は二年間、義理を果たすように商店で見習いとして働いた。しかし、心はすでに離れていた。1807年、ようやく母の許しを得て、商人の道を捨てる。ゴータのギムナジウムに入り直し、ラテン語とギリシャ語を学び直した。
母ヨハンナは、そのころワイマールに移っていた。文豪ゲーテら文壇の人々が集まるサロン(社交の集まり)を開いていたのである。アルトゥールも時折ワイマールを訪れ、ゲーテと親しく言葉を交わした。だが、母と息子の仲は年ごとに悪くなった。ヨハンナは自由を好み、再婚はしなかったが恋人を持った。息子の暗い気質と説教好きな態度が、彼女には我慢ならなかった。1814年、ついに決裂の手紙が交わされる。以後ふたりは、死ぬまで一度も会わなかった。
父を失い、母と別れた。苦しみはどこから来るのか。その問いを抱えて、彼は大学の門をくぐる。
04カントとインドの書物
1809年、21歳でゲッティンゲン大学に入学した。最初は医学を学んだが、すぐ哲学に転向する。ここで彼はカントの著作に出会った。『批判』を読んだとき、何かが根底から変わった。後に彼自身がそう語っている。
やがてベルリン大学に移り、高名な哲学者の講義を聴いた。だが、感銘は受けなかった。
1813年、イエナ大学に博士論文を出し、博士号を得た。題は。人がものごとを「なぜ」と考えるとき、その理由には四つの種類がある。それを分析した論文である。ゲーテはこの論文を高く評価した。そして自分の色彩論(色の見え方の研究)に、若い博士を招いた。二人は短い間ながら共に研究し、深く尊敬し合った。だがこの協力は、やがて立場の違いで行き詰まる。
同じころ、彼の人生を変える一冊がやってくる。1813年から14年の冬、ワイマールでのことだった。東洋学者フリードリヒ・マイアーを通じて、という本を知る。インドの古い聖典の、ラテン語訳である。そこにあったのは「(幻影)」「ブラフマン」「解脱」の思想だった。遠いインドの教えが、カントの哲学と不思議に響き合った。
カント、プラトン、そしてインド。材料はそろった。あとは、それをひとつの体系に鍛え上げるだけだった。
05世界は私の表象である
彼はドレスデンの町にこもった。そして四年をかけて、一冊の本を書き上げる。1818年、30歳。が完成した。四部構成の分厚い本に、彼の哲学のすべてが詰まっていた。
中心の考えは、こうだ。私たちが見ている世界――物も、人も、出来事も――は、すべて「表象」である。つまり、私たちの頭に映し出された映像のようなものだ。
世界は私の表象である
では、表象の背後には何があるのか。カントは世界を「」と「」に分けた。ショーペンハウアーもその区別を受けつぐ。表象の背後には、別の実在がある。だがそれは、理性でも神でもない。彼はそれを意志と呼んだ。目的を持たず、ただ際限なく満足を求め続ける、盲目の衝動である。空腹も、性欲も、権力欲も、すべては意志のあらわれだ。
だとすれば、人生はどうなるか。満足は一瞬で、苦しみは長い。欲しいものを手に入れれば、すぐ次の欲望が生まれる。欲望がなければ、今度は退屈が訪れる。
人生は、苦しみと退屈の間を振り子のように行き来する。
これほどの本を書いた。だが、出版の結果はさんざんだった。売れなかった。書評も、ほとんど出なかった。哲学界の誰も、この無名の著者に耳を貸さなかった。
誰にも読まれない真実を抱えた男は、次にどう動いたか。舞台はベルリンに移る。
06空の教室、ふたたび
1820年、ショーペンハウアーはベルリン大学の私講師(給料のない講師)の資格を取った。そして、冒頭の場面が来る。彼は自分の講義を、あえてヘーゲルの人気講義と同じ時刻に置いたのだ。
いまなら、その理由がわかるはずだ。これは売名行為ではなく、真剣な挑戦だった。ヘーゲルは「」を掲げ、世界の本質を理性として語る。ショーペンハウアーは、意志という暗い真実を突きつける。どちらが正しいか。学生に選ばせればよい。
結果は、すでに見たとおりである。教室に来たのは数人、やがてゼロ。講義は打ち切られた。その後も形の上では講師名簿に残った。1822年にはイタリアへ旅立ち、1825年にベルリンで再び開講を試みたが、これも失敗に終わる。1820年代、彼の筆はほとんど沈黙した。
この敗北は、深い傷を残した。ヘーゲルへの憎しみは、生涯消えなかった。著作のあちこちに「哲学の偽物」「世を欺くペテン師」という激しい言葉が顔を出す。だが、後の世は彼の側に傾いていく。その話は、もう少し先だ。
1833年、45歳。彼は都会の勝負から降り、フランクフルトの町に移り住んだ。
07プードルと、遅すぎた名声
以後27年、短い外出をのぞいて、彼はほとんどこの街を離れなかった。
一人暮らしだった。結婚はしなかった。恋愛は何度かしたが、どれも長続きしなかった。人との付き合いよりも、犬との生活を好んだ。プードルを飼い、「アトマ」と名付けた。サンスクリット語で「世界霊魂」を意味する名である。散歩の相手はアトマだった。客が来れば、犬を指して「ここに哲学者がいる」と言うこともあった。次に飼ったプードルは「ブッツ」と名付けたが、近所の人々は皆「ショーペンハウアー」と呼んだ。
生活は規則正しかった。朝に書き、昼は老舗のレストランで食事し、午後は長い散歩をした。ウパニシャッドを毎日読んだ。書斎には仏陀の像を飾った。苦しみからの解脱を説く仏教と、自分の哲学は同じ真実を指している。彼はそう確信していた。
1851年、63歳。という二巻本を出した。短い随筆や警句を集めた本で、主著よりずっと読みやすかった。これが思わぬ反響を呼ぶ。1853年、英国の雑誌に載った一本の批評が潮目を変えた。ドイツ国内でも、彼の本は広く読まれるようになった。
新聞や雑誌が彼を取り上げ、若い哲学者や芸術家から手紙が届いた。作曲家ワーグナーは主著に感動し、音楽と意志についての理論に深く傾倒した。ライプツィヒの学生だった青年ニーチェは、古本屋でふと主著を手に取った。そして二週間、ほとんど寝食を忘れて読みふけったと、後年繰り返し語っている。
晩年の彼は、フランクフルトの有名人になった。見物客が窓の外からのぞき、弟子たちが教えを求めて訪ねてきた。長い無視の後に来た名声を、彼は静かに受け取った。「今頃か」という思いが、日々の言葉の節々ににじんだ。
1860年9月21日、フランクフルトの朝食の椅子の上で、彼は息を引き取った。72歳だった。誰も来ない教室で語られた思想に、世界は40年かけて追いついたのである。
彼が残した問いは、いまも残っている。欲しいものを手に入れても、なぜ渇きは消えないのか。の外に、出口はあるのか。その答えは、まだ誰のものでもない。
08体系の解剖 ― 意志・表象・意志の否定
ショーペンハウアーの体系を、専門的な観点から整理しておく。
出発点は博士論文『の四つの根について』(1813)である。ここで彼は、人間の認識が従う四種類の「理由」を分析した。主著『意志と表象としての世界』(奥付は1819年、実際の刊行は1818年末)は、この認識論を土台に置く。私たちが目にする世界――物、人、出来事の連鎖――はすべて「表象」にすぎない。カントが物自体と現象を分けたように、表象の背後には別の実在がある。しかしそれは理性的なものでも神的なものでもない。ショーペンハウアーはそれを意志(Wille)と呼んだ。盲目で目的を持たず、ただ際限なく満足を求めて蠢く衝動であり、空腹、性欲、権力欲はすべてその顕現である。欲望が満たされれば次の欲望が生まれ、欲望がなければ退屈が訪れる。人生は苦しみと退屈のあいだを振り子のように揺れ続ける――これが彼の悲観主義の核である。
東洋思想の受容は、この体系のもうひとつの柱だ。1813-14年の冬にワイマールで東洋学者フリードリヒ・マイアーを通じて知った『ウプネカット』は、ウパニシャッドをサンスクリットからペルシア語を経てアンクティル=デュペロンがラテン語に重訳したものである。そこに語られる「マーヤー(幻影)」「ブラフマン」「解脱」の思想は、カントの認識論と不思議な共鳴を示した。彼はサンスクリットやパーリ語を直接読んだわけではなく、当時ヨーロッパで入手できた『ウプネカット』や東洋学の訳業を介しての受容だったが、東洋思想を自らの体系に本格的に取り込んだ最初期の西洋哲学者の一人であることは動かない。「苦しみからの解脱」という仏教の理念と、禁欲と同情(Mitleid)によるという自らの思想は同じ真実を指している、と彼は確信していた。
ヘーゲルとの対立は、体系の位置づけを考える上で外せない。ヘーゲルの「絶対精神」が世界の本質を理性として語るのに対し、ショーペンハウアーは意志の暗い真実を対置した。生前の勝敗はヘーゲルに上がったが、ヘーゲルが死後数十年で時代の思潮とともに退潮していく一方、ショーペンハウアーの書物はワーグナー、ニーチェ、トルストイ、フロイト、トーマス・マンらを次々と虜にしていく。ワーグナーは音楽と意志の関係についてショーペンハウアーの理論に深く傾倒した。
書誌と受容史も押さえておきたい。初版の在庫はブロックハウス社に長く残り、1834年頃までにその多くが古紙価格で処分されたと伝わる。1844年には補巻をなす第二巻を加えた増補版が出され、1859年には第三版が刊行された。晩年の名声の転機は、1851年の『付録と補遺』(Parerga und Paralipomena)と、1853年に英誌『ウェストミンスター・レビュー』に載ったジョン・オクセンフォードの評「ドイツ哲学におけるイコノクラスム」である。ゲーテとの色彩論研究は短期間ながら深い相互尊敬を生んだが、立場の相違で頓挫した。
09主要な出来事と著作
- ダンツィヒ(現グダニスク)に誕生。父ハインリヒ・フローリス、母ヨハンナ(のちに小説家)
- 父ハインリヒ、運河に転落して死去(自死説・事故説があり確定せず)。17歳
- ゲッティンゲン大学入学。医学から哲学へ転向。カントとプラトンに出会う
- 博士論文『充足理由律の四つの根について』提出。ゲーテとワイマールで交流
- ワイマールで東洋学者マイアーを通じ『ウプネカット』を知る
- 母ヨハンナと絶縁。以後、死ぬまで会わず
- 主著『意志と表象としての世界』刊行(奥付、実刊は1818年末)。ほぼ黙殺される
- ベルリン大学でヘーゲルと同時刻に講義を設定。完敗。1820年代は雌伏期
- フランクフルトに定住。プードル・アトマとの規則正しい隠遁生活
- 『意志と表象としての世界』第二版、第2巻を補巻として追加
- 『付録と補遺』刊行。晩年にして名声を得る端緒となる
- 英誌『ウェストミンスター・レビュー』オクセンフォード評で注目広まる
- 『意志と表象としての世界』第三版
- フランクフルトの朝食中に息を引き取る。享年72
残した思想の輪郭
- 意志と表象 ― 世界は私たちの「表象」であり、その背後にある本質は盲目的な「意志」である
- 悲観主義 ― 意志は決して満足せず、人生は苦しみと退屈の反復にすぎない
- 芸術による救済 ― 音楽・絵画・詩に没入するとき、意志から一時的に解放される
- 意志の否定 ― 禁欲と同情によって意志を否定することが、最高の解脱へ至る道
- 仏教・ウパニシャッドとの接続 ― 東洋思想を自らの体系に本格的に取り込んだ最初期の西洋哲学者の一人(『ウプネカット』等の重訳を経由)
- 同情の倫理 ― 他者の苦しみを自分の苦しみとして感じる「同情(Mitleid)」が道徳の根拠
つながり
- ヘーゲル
反発 — 同じ時間帯に講義をぶつけて惨敗した相手。以後、生涯にわたる罵倒の的となる。
- ニーチェ
批判的継承 — 古書店での出会いから「教育者」と讃えた読者は、やがて厭世を捨て、肯定へと転回した。
- ゴータマ・シッダールタ
共鳴 — 一切皆苦・無我・涅槃——ショーペンハウアーが意志の否定の先に見た解脱の源。
- レフ・トルストイ
継承 — 「いま私にとって最も偉大な思想家」——手紙にそう書いた『戦争と平和』の作者がいる。
- ジークムント・フロイト
継承 — 意志と表象の哲学の暗部から、やがて無意識論を打ち立てる人が現れる。
- タゴール
継承 — ショーペンハウアーが西洋に持ち込んだウパニシャッドは、ベンガルに逆流し、この詩人に届いた。
- ホルヘ・ルイス・ボルヘス
継承 — 『意志と表象としての世界』を生涯読み続け、迷宮と鏡の文学の土台に据えた作家がいる。
さらに読むならFurther Reading
ショーペンハウアーの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門意志と表象としての世界 (I)
アルトゥル・ショーペンハウアー / 訳: 西尾幹二 / 中公クラシックス
Amazonでこの版を探す →副読読書について 他二篇
アルトゥル・ショーペンハウアー / 訳: 斎藤忍随 / 岩波文庫
Amazonでこの版を探す →原著 / 英訳The World as Will and Representation, Volume 1
Arthur Schopenhauer / 訳: Judith Norman, Alistair Welchman, Christopher Janaway / Cambridge University Press
Amazonで原著を探す →
※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。
生きた跡を辿るPlaces
ショーペンハウアーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ショーペンハウアー・アルヒーフ記念館
フランクフルト, ドイツ
フランクフルト大学図書館内。蔵書・草稿・家具を保管する研究資料館
- ショーペンハウアーの墓(フランクフルト中央墓地)墓所
フランクフルト, ドイツ
1860 年に埋葬、刻銘ただ「Arthur Schopenhauer」のみの簡素な墓
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
ショーペンハウアーを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「アルトゥル・ショーペンハウアー」項
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Arthur Schopenhauer"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Arthur Schopenhauer (1788—1860)"
Project GutenbergEnglishThe World as Will and Idea, Vol. I(Haldane & Kemp 英訳)— Project Gutenberg
『意志と表象としての世界』第一巻英訳
Project GutenbergEnglishThe Essays of Arthur Schopenhauer(T. B. Saunders 英訳)— Project Gutenberg
『余録と補遺』からの随想英訳