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風土の知恵

ウィリアム・シェイクスピア

William Shakespeare·1564–1616·イングランド·

妻に遺したのは、なぜ 「二番目に上等なベッド」だったのか?

人間のあらゆる感情を舞台に解き放った英国ルネサンスの劇作家

  • ハムレット
  • リア王
  • ソネット
宗教の対立がくすぶる都で、芝居小屋だけが身分の壁をこえて人を集めていた。 — ひらく

時代の空気

宗教改革後のイングランドだ。エリザベス一世の晩年、国教会の制度は固まりつつあったが、カトリック残党の影は絶えず、火薬陰謀事件(1605年)はジェイムズ一世初期の不安を象徴した。ロンドンのテムズ南岸にはグローブ座、ローズ座、カーテン座が立ち並び、ペストでの劇場閉鎖と再開を繰り返しながら市民の娯楽を支えた。宮内大臣一座は新王の庇護で国王一座に昇格し、印刷業とパンフレット文化が世論を活気づける。ストラットフォードの中産階級の家に育った青年は、その熱気の中央に身を置くことになる。

01二番目に上等なベッド

1616年3月25日、イングランド中部の町ストラットフォード・アポン・エイヴォン。一人の男の遺言書が、この日書き直された。男の名はウィリアム・シェイクスピア。ロンドンの芝居小屋をわかせ続けた劇作家である。遺言書は、数ヶ月前から用意されていた。

そこには、妻アンにあてた奇妙な一行があった。遺すのは「二番目に上等なベッド」。それだけだった。財産の大半は、長女スザンナに託すと書かれていた。三十年あまり連れそった妻に、なぜベッド一つなのか。

彼は恋の詩で人々をうならせた男だ。悲劇で、人の心の底までのぞいた男だ。その男が妻に遺したのは、一番ではないベッドだった。冷たさの証拠なのか。それとも、別の意味がかくれているのか。

ひと月後の4月23日、彼は52歳でこの世を去る。答えを探すには、彼の一生をたどるしかない。時は52年前にさかのぼる。

02手袋職人の息子

1564年4月、彼はこの同じ町に生まれた。洗礼せんれい(教会が赤ん坊を迎える儀式)の記録は4月26日付。誕生日は、言い伝えで23日とされる。父ジョンは皮手袋てぶくろ職人で、羊毛の取引でも身を立てた。町の議員や役人をつとめ、1568年には町長にまでのぼった。母メアリー・アーデンは、近くの旧家の小地主の娘だった。家の格は、夫より高いと見られていた。

少年ウィリアムは、地元の文法学校に通ったと推定される。ラテン語を毎日たたき込む、当時の進学校だ。古代ローマの詩人、プルタルコス、セネカを学んだ。中でもオウィディウスの『変身物語』は、のちの詩作に最も影響した本になる。ただし在籍の記録は焼けてしまい、確かな証拠はない。

14歳のころ、父の仕事が傾いた。父は町の役職からも事実上退いた。一家は苦しくなり、大学への道は閉ざされた。18歳だった1582年11月、8歳年上のアン・ハサウェイと結婚する。彼女はすでに妊娠3ヶ月だった。

翌1583年に長女スザンナが生まれた。1585年には双子ふたごの長男ハムネットと次女ジュディスが続く。そしてここから7年、彼の記録はほぼ消える。「失われた年月(lost years)」と呼ばれる空白だ。北部のカトリック地主の家で家庭教師をしていた説。密猟みつりょうの罪をとがめられて町を出た説。旅回りの劇団に入った説。どれも推測の域を出ない。

次に彼の名前が現れる場所は、ロンドン。しかもそれは、悪口の中だった。

03成り上がりの鴉

1592年、ロンドン。死んだ劇作家ロバート・グリーンの遺稿が、小冊子になって出回った。『百万の悔恨に買われた一文の知恵』、通称である。その中に、若い役者あがりの物書きをあざける一節があった。「我らの羽で美々しく装う改造鴉(upstart crow)」。

大学を出た作家たちの縄張りを荒らす男への、嫉妬まじりの一撃だ。これがシェイクスピアを指すと見なされている。つまり彼はこのとき、すでに劇壇で頭角を現していた。悪口が、彼のロンドンでの最初の記録になった。

同じころ、ペスト(死の伝染病)が都を襲う。1592年から1594年、芝居小屋は閉鎖された。舞台を失った彼は、長編の詩を書いた。『ヴィーナスとアドニス』と『ルクリース凌辱』である。二作は若い貴族、サウサンプトン伯ヘンリー・ライオスリーにささげられた。貴族に作品をささげて援助を求めるのが、当時の物書きの生きる道だった。

1594年、転機が来る。新しい劇団「(Lord Chamberlain's Men)」の発足に加わり、共同所有者になったのだ。看板俳優は希代きたいの名優。道化役はウィル・ケンプ。シェイクスピア自身も脇役として舞台に立った。の亡霊役や、『お気に召すまま』のアダム老人などを演じたと伝わる。作品は『ヘンリー六世』三部作や『リチャード三世』などの歴史劇から、軽やかな喜劇へと広がっていった。

順風の中で、最悪の知らせが届く。1596年8月、息子ハムネットが11歳で亡くなったのだ。死因はわからない。当時の子どもたちを襲ったペストなどの感染症の可能性が高い。父はその夏、ロンドンにいたと見られている。

同じ年、父ジョンの家紋(家の印)の申請が認められた。シェイクスピア家は「ジェントルマン」、つまり紳士の身分になった。息子の名ハムネットは、のちの傑作の題名と静かに響きあうことになる。悲しみを抱えたまま、彼は動き続けた。だが3年後、今度は劇団そのものが住みかを失いかける。

04冬の夜、劇場が川を渡る

1599年、宮内大臣一座は追いつめられていた。本拠地の劇場「ザ・シアター(The Theatre)」の借地契約が、地主ともめて決裂したのだ。バーベッジ兄弟たちは、大胆な手に出る。冬のある夜、大工を率いて劇場そのものを解体かいたいした。そして部材をテムズ川の南岸まで運んだのである。

この木材を土台に建てられたのが、円形の野外劇場「(The Globe)」だ。屋根のない木造で、約三千人を収容した。安い立ち見の平土間と、三層の回廊席を備えた。シェイクスピアは劇団株式の12.5%を持つ共同所有者だった。実は劇作の報酬よりも、この経営者としての収益が彼の財産を築いた。

そしてここから、彼は頂点にのぼる。『ハムレット』(1600年ごろ)、(1603年)、(1605年)、(1606年)。四大悲劇ひげきと呼ばれる作品が、七年間に集中して生まれた。深い人物の描き分けと、血と痛みと狂気。せりふは弱強五歩格じゃくきょうごほかく(iambic pentameter)という韻文で書かれた。弱く、強く、と交互に響く英語の自然なリズムだ。話し言葉のように流れながら、詩の格を保った。

中でも『ハムレット』の独白どくはくは、英語文学で最も有名な一節になった。父の亡霊に復讐を命じられたデンマークの王子が、約70行を独りで語る。行動すべきか。そもそも、生きて在るとは何か。人間とは何かという問いを、舞台の上で限界まで押し上げた場面である。

生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ

『ハムレット』第三幕第一場 ― 父の復讐をためらう王子の独白

時代も大きく動いた。1603年、女王が死去する。スコットランド王ジェームズ6世が王位を継ぎ、ジェームズ1世となった。国教会こっきょうかいをめぐる宗教の緊張は続いた。1605年には火薬陰謀かやくいんぼう事件が起きる。カトリック過激派が国会議事堂を爆破し、新王と議会もろとも吹き飛ばそうとした計画だ。『マクベス』が描く王殺しと王位の正しさの主題は、この事件の余波の中で書かれている。

宮内大臣一座は、新王直属の「国王一座(King's Men)」に昇格した。王室での公演は年に十数回。劇団の地位は絶頂に達した。その一方で彼は、劇と並行して私的な詩も書きためていた。それが思わぬ形で、世に出ることになる。

05ソネットと遠い島

シェイクスピアは154編のソネット(14行の定型詩)を書き続けていた。1609年、書肆しょし(本屋)トーマス・ソープが『シェイクスピアの』を出版する。ただし本人の許しがあったかは、はっきりしない。冒頭の献辞には「これら以下のソネットの唯一の発生源 Mr. W.H. へ」とある。この「W.H.」が誰なのかは、長く論争の的だ。サウサンプトン伯ヘンリー・ライオスリー説、ペンブローク伯ウィリアム・ハーバート説、印刷工の見立て説などが並び立つ。

内容も謎めいている。前半126編は「美しい若者(Fair Youth)」に向けられた詩だ。その深い愛と憧れは、男性への恋の詩とも読める響きを持つ。後半28編は「ダーク・レディ(Dark Lady)」への、苦い肉体の愛をうたう。18番「Shall I compare thee to a summer's day?(君を夏の日にたとえようか)」は、英語詩の至宝として記憶されている。

1608年、国王一座は二つ目の劇場を使い始めた。テムズ北岸の旧修道院跡を改装した、屋内の「ブラックフライアーズ座」である。ろうそくの灯火とうかと高めの料金で、洗練された観客に応えた。晩年の作品はロマンス劇(伝奇劇)と呼ばれる。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』、そして(1611年ごろ)。悲劇と喜劇がとけあい、奇跡のような和解で終わる物語群だ。魔術と遠い島が、老年のおだやかな詩情に彩られている。

全世界は一つの舞台、すべての男も女も、ただ役者にすぎない。彼らは退場しては、また登場する。そして一人が生涯で多くの役を演じる ― 七つの年齢を。

『お気に召すまま』第二幕第七場 ― 人生を七つの幕にたとえた名台詞

『テンペスト』の終盤、魔術師プロスペローは自らの魔術を捨てる。この場面は、シェイクスピア自身の舞台への別れとして、しばしば読まれてきた。実際、彼はまもなくロンドンを離れる。

06帰郷、そして謎の答え

1613年ごろ、彼はロンドンでの活動を縮小した。向かった先は故郷ストラットフォード。1597年に買っておいた、町でも最大級の邸宅ニュー・プレイスである。同じ年の6月、グローブ座が全焼した。『ヘンリー8世』の上演中に起きた舞台砲火ぶたいほうか(舞台で撃つ大砲の火)が原因だった。再建された新グローブ座に、彼がどう関わったかはわかっていない。最後の作品は『ヘンリー8世』と『二人の貴公子』。若い劇作家ジョン・フレッチャーとの合作で、1613年前後に幕を下ろした。

晩年はおだやかだった。1616年2月、次女ジュディスが結婚する。その直後、彼は体調を崩した。遺言書は数ヶ月前から用意され、3月25日に書き直された。冒頭で見た、あの遺言書である。

ここで謎に戻ろう。妻アンへの「二番目に上等なベッド」。当時の慣習では、一番上等なベッドは客をもてなすための品だった。夫婦が毎晩使い、親しんだのは二番目のベッドだった可能性がある。つまりあの一行は、冷たい仕打ちではなく、最も親密な品の遺贈だったのかもしれない。一方で、妻への冷遇と読む見方も消えていない。真意を記した言葉は、残っていないからだ。どちらと読むかは、彼の一生を知ったあなたに委ねられている。

4月23日、彼は死去した。言い伝えが正しければ、52歳の誕生日その日である。財産の大半は長女スザンナに託された。だが孫の代で、家系は途絶えることになる。

明日、また明日、そして明日と、一日一日、時のちっぽけな歩みで忍び寄り、記録された時間の最後の音節に至るまで ― 人生は歩く影、哀れな役者にすぎない

『マクベス』第五幕第五場 ― 妻の死を知らされた王の独白

彼はホーリー・トリニティ教会の祭壇のそばに葬られた。墓碑銘ぼひめいには、本人の手になると伝わる呪いの言葉が刻まれている。「友よ、イエスのために、ここに封じられた塵を掘り起こすことを控えよ。この石を守る者は祝福され、わが骨を動かす者は呪われん(Good friend for Jesus sake forbeare, To digg the dust encloased heare)」。墓荒らしへの警告は、現代に至るまで効力を保っている(2016年のレーダー調査は、墓の頭部がすでに外されている可能性を示唆したが)。

死から7年後の1623年、かつての劇団仲間ジョン・ヘミングズとヘンリー・コンデルが、戯曲の全集を編んだ。『シェイクスピア氏の喜劇・史劇・悲劇集』、通称 である。生前の四つ折版(クォート)に未収録だった『マクベス』『テンペスト』ら18作を含む、36戯曲を収めた。この一冊がなければ、作品の半分は失われていた。劇作家は追悼詩に書いた。「彼は一つの時代のものではない、すべての時代のものだ」。

だが死後、別の謎が育っていく。これほどの作品を、本当にあの田舎町の男が書いたのか。

07「シェイクスピアは誰か」 ― 作者論争

19世紀以降、「田舎の手袋職人の息子」が膨大な古典知と宮廷礼法と法律知識を要する作品群を書けたはずがない、という疑問が繰り返し提起されてきた。フランシス・ベーコン、オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア、(1593年に若くして殺害)、他の貴族や劇作家らを真の作者とする説が、繰り返し主張されてきた。マーク・トウェイン、ヘンリー・ジェイムズ、フロイトといった著名人が懐疑論者に含まれる。

しかし主流の英文学・書誌学研究は、同時代の証言(ベン・ジョンソンの追悼詩、1623年のFirst Folio編纂者ヘミングズとコンデルの明示)、ストラットフォード記念碑、戸籍記録、劇団員の証言を総合して、ストラットフォードの彼を作者と認める立場でほぼ合意している。作者論争は根強い文化的現象として残るが、学術的には決着した問題であり、対立する諸説を対等に扱うのは誤解を招く。

重要なのは、作者の身元よりも、作品が残していった人間観の射程である。王と乞食、老人と道化、恋する若者と嫉妬する夫、狂女と思索する王子 ― 人間のあらゆる状態を、詩に耐える緊張感のなかで描ききった劇作家の仕事は、400年間、世界の舞台と読書を動かし続けてきた。行動と存在を問うハムレットの約70行の独白は、ルネサンス人間観の臨界を刻んだ一節として、その射程の中心に位置する。

王も乞食も書き分けた男は、しかし自分自身については、ベッド一つ分の謎しか残さなかった。あなたなら、その沈黙をどう読むだろうか。

08主要な出来事と著作

  1. ストラットフォード・アポン・エイヴォンに誕生(洗礼4月26日)、父は皮手袋職人
  2. 18歳、アン・ハサウェイ(8歳年上)と結婚
  3. 長女スザンナ、双子ハムネットとジュディス誕生
  4. 失われた年月(lost years)― 諸説あるが史料は乏しい
  5. グリーンの『群居鴉』で「改造鴉」と揶揄される、ロンドン劇界初出記録
  6. 『ヴィーナスとアドニス』『ルクリース凌辱』をサウサンプトン伯に献呈
  7. 宮内大臣一座の共同所有者となる
  8. 息子ハムネット(11歳)夭折。家紋認可で「ジェントルマン」に
  9. シアター部材を移設しグローブ座を建設
  10. 四大悲劇:『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』
  11. ジェームズ1世即位、劇団は「国王一座」に昇格
  12. 火薬陰謀事件 ― 『マクベス』の主題と響きあう
  13. ブラックフライアーズ室内劇場併用、ロマンス劇『冬物語』『テンペスト』
  14. ソネット集刊行(献辞「Mr. W.H.」の謎)
  15. グローブ座焼失、引退しストラットフォードへ
  16. 4月23日、ストラットフォードで死去。享年52
  17. ヘミングズとコンデルによるFirst Folio(全戯曲集)刊行

残した思想の輪郭

  • 人間観の射程 ― 王から道化まで、あらゆる階層・性別・年齢の内面を詩に耐えさせる
  • 自己劇化する独白 ― ハムレットに典型の、行動と存在を思索する独白の発明
  • 悲劇の道徳的曖昧さ ― 善悪を単純化せず、マクベスやオセローのような転落する主人公の人間性を保つ
  • 愛と権力の結合 ― ソネットに見る感情の強度と、歴史劇に見る政治的現実主義の両立
  • 英語の拡張 ― 約1,700語の新語を英語に残したとされ、言語文化そのものの形成者
1616年4月23日、ストラットフォード・アポン・エイヴォンの自邸で死去。52歳(伝承では誕生日と同じ日とされるが確定しない)。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

ウィリアム・シェイクスピアが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

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    ストラトフォード=アポン=エイヴォン, イギリス

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  • シェイクスピアのグローブ座ゆかり

    ロンドン, イギリス

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さらに辿るならExternal References

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