ミケランジェロ・ブオナローティ
石の中に眠る形を、 どう引き出すか?
彫刻・絵画・建築・詩すべてに最高峰の仕事を残したルネサンスの巨人
- ダヴィデ
- システィーナ天井画
- ピエタ
都市の支配者が入れ替わるたび、芸術家の仕事も運命も揺れ動いた時代。 — ひらく
時代の空気
クアットロチェント末からチンクエチェントへ移る激動期だった。フィレンツェではメディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコの庇護下で人文主義が爛熟し、彼の死後の1494年にメディチが追われ、修道士サヴォナローラが「虚栄の焼却」を経て1498年に処刑される。ローマでは教皇ユリウス2世がブラマンテと組み新サン・ピエトロ大聖堂とシスティーナ礼拝堂を都市改造の中心に据え、メディチ・教皇庁・銀行家の入れ替わりが大芸術家の生計を左右した。1517年に始まる宗教改革とトリエント公会議の影が、人文主義の身体讃美を晩年へ向けて確実に翳らせていく。
01荷馬車の中の棺
1564年2月18日の午後5時。ローマの自宅で、一人の老人が息を引き取った。88歳。名はミケランジェロ・ブオナローティ。彫刻でも絵でも建築でも、当代一と言われた男である。
死のわずか数日前まで、彼は鑿を握っていた。彫っていたのは『』という未完成の像。88歳の手は、すでに彫り上げたはずのキリストの腕を、さらに削り直していた。
知らせを受けた甥のレオナルドは、すぐフィレンツェの大公コジモ1世と連絡を取った。ミケランジェロ自身は、故郷フィレンツェに葬られることを望んでいた。だが教皇庁は、ローマで死んだ大巨匠をローマに埋葬したがっていた。
そこで甥と大公は、思い切った手を打つ。遺体を荷馬車の荷物に見せかけ、密かにフィレンツェへ運び出したのだ。教皇庁が気づいたとき、遺体はもう国境を越えていた。
一人の老人の亡きがらを、二つの都市が取り合った。なぜ彼は、それほどの存在になったのか。そしてなぜ、死の間際まで石を削り続けたのか。答えを探しに、時計の針を89年前へ巻き戻そう。
02石の村で育った子
1475年3月6日、彼はトスカーナの小さな町カプレーゼに生まれた。現在のカプレーゼ・ミケランジェロである。父ルドヴィコは、この町の町長(ポデスタ)として短い任期で来ていた。家はフィレンツェの由緒ある小貴族だったが、財産は失われつつあった。母フランチェスカは、彼が6歳のときに世を去る。
赤ん坊の彼は、セッティニャーノという村の石工の家に預けられ、乳母に育てられた。大理石の採石場を持つ、石工たちの村だった。「私は乳母の乳と一緒にノミとハンマーを吸い込んだ」。後年、彼はそう冗談を言っている。物心つく前から、彼のそばにはいつも石があった。
13歳になった1488年、父は彼を印刷業者の見習いにしようとした。しかし彼が入ったのは、画家ドメニコ・の工房だった。当時のフィレンツェで最も繁盛していた、壁画の工房である。だが1年ほどで、彼の人生を変える誘いが舞い込む。フィレンツェの実質的な支配者、メディチ家からの招きだった。
03メディチ宮殿の食卓
メディチ家の当主ロレンツォ・イル・マニフィコは、才能ある若者を探していた。メディチ宮殿の庭園(サン・マルコ)に、彫刻の学校を開いていたのだ。ミケランジェロはそこに選ばれ、1490年から2年間、ロレンツォの保護のもと宮殿で暮らした。指導役は老彫刻家。名匠ドナテッロの晩年を支えた助手だった。
宮殿の食卓は、ただの食事の場ではなかった。哲学者マルシリオ・フィチーノ、詩人、若き天才。後に教皇レオ10世となる少年ジョヴァンニも、同じ食卓についた。ここで彼は、古代ギリシャ・ローマへの情熱と、という考え方を吸収する。目に見える美しさの奥に、魂の世界を見ようとする哲学だった。
彼は生涯、詩を書き続けた。約300編は、後に詩集『』としてまとめられる。彼の心の中を最も直接に伝える記録である。
16歳のとき、仲間の画家ピエトロ・トリジャーニと諍いになり、鼻を殴られて骨折した。以後の肖像の多くは、この歪んだ鼻を持つ。美の理想を追い続けた男の顔に、傷が一生残った。
1492年、ロレンツォが死ぬ。守ってくれる人を失った彼は、揺れるフィレンツェを離れた。1494年にはメディチ家が町を追われ、修道士が実権を握る。書物や絵画を「虚栄」として焼かせたサヴォナローラも、1498年に処刑された。ミケランジェロは1496年、21歳で初めてローマに出る。この都で、彼の名を一気に高める仕事が待っていた。
04夜の署名
ローマで彼は、最初の大作『』を彫った(1498-1499)。フランス人枢機卿ジャン・ド・ビルレール=ラグローラの依頼である。死んだキリストを、若い母マリアが膝に抱く。一枚の大理石から彫り出された像は、完成のとき彼がまだ23-24歳だったことを人々に忘れさせた。
「マリアが若すぎる」という批判があった。彼は「純潔の女性は歳を取らない」と答えている。新プラトン主義の考え方に立った答えだった。
ある日、彼は人々の立ち話を耳にする。この像の作者を、別の彫刻家だと言っているのだ。その夜、彼はこっそり礼拝堂に戻った。そしてマリアの肩から胸にかかる帯に、「MICHAELA[N]GELVS BONAROTVS FLORENTIN[US] FACIEBAT」と刻んだ。フィレンツェ人ミケランジェロ・ブオナローティがこれを作った、という意味である。生涯でただ一つの、署名の入った作品となった。
若き彫刻家の評判は、故郷フィレンツェにも届いた。そして故郷が彼のために用意していたのは、誰もが見捨てた一本の巨石だった。
石の中には既に像がある。私はただ余計なものを取り除いているだけだ
05捨てられた巨石
1501年、26歳の彼はフィレンツェに戻った。大聖堂の工房には、巨大な大理石の塊が放置されていた。40年前、彫刻家アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョが粗削りを始めて失敗した石である。人々は「巨人(イル・ジガンテ)」と呼んだが、この欠けた石を仕上げる自信のある者はいなかった。
ミケランジェロは契約を結び、この石に3年間向き合った。彫り上がったのは、高さ5メートルを超える『ダヴィデ』。巨人ゴリアテに立ち向かう直前の、若者の裸身の像である。当初は大聖堂の屋根の上に置く予定だった。だが完成した像はあまりに見事で、市庁舎ヴェッキオ宮殿の前に据えられることになった。人々が像を運ぶのに、4日を要したという。
捨てられた石の中に、彼は初めから像を見ていた。その評判は、やがてローマに届く。次に彼を呼び出したのは、教会の頂点に立つ男だった。
06天井の四年間
1505年、教皇ユリウス2世が彼をローマに呼んだ。命じられたのは、40体以上の彫刻を含む、教皇自身の巨大な墓の製作。だがこの仕事こそ、生涯の悪夢になる。依頼主の気まぐれと資金不足で、計画は40年かけて何度も縮小された。彼自身、後にこれを「墓の悲劇」と呼んでいる。
1508年、教皇は新たな命令を出す。システィーナ礼拝堂の天井画を描け、というのだ。ミケランジェロは抵抗した。「私は絵描きではなく、彫刻家だ」。しかし教皇は譲らなかった。
それから4年間、彼はほぼ独力で描き続けた。高さ約20メートルの足場の上、顔を天井に向け続ける姿勢である。絵の具は、身体に滴り落ちた。
天井の中央には、『創世記』の九つの場面が並ぶ。周囲には預言者と巫女、人物はおよそ300人。中でも、神が指先一本でアダムに命を伝える『アダムの創造』は、西洋の美術で最も広く知られる場面となった。
1512年10月、37歳の彼は天井を完成させた。視力は悪化し、首は曲がったままになった。作業のさなか、彼は自分の惨状をソネット(14行の詩)に書き残している。
腰は石弓の弦のように曲がり、顔は天を向き続ける。 ミルクのような絵の具が髭の上に雫を落とす ― そして私は画家ではない。
07戦火と、故郷との別れ
1513年、ユリウス2世が死んだ。次いで教皇の座に就いたのは、メディチ家出身のレオ10世、そしてクレメンス7世。少年時代に同じ食卓を囲んだ一族が、今度は注文主になった。フィレンツェのサン・ロレンツォ教会に、メディチ家の墓所(新聖具室)。ラウレンツィアーナ図書館の設計。仕事は次々に積み上がった。
墓所に置かれた『朝』『夕』『昼』『夜』の4体の寝そべる像(1524-1534)は、彫り残しのある仕上げのまま、かえって深い陰影をたたえる傑作となった。
時代は荒れていた。1527年、神聖ローマ帝国軍がローマを襲い、略奪した(サッコ・ディ・ローマ)。1529年からは、フィレンツェ共和国が最後の抵抗を試みる。ミケランジェロは城壁の防衛工事を指揮した。だが市が陥落すると、メディチ家の追及を一時避ける必要に迫られた。
1532年、ローマで57歳の彼は、23歳前後の青年貴族と出会う。熱烈な愛の詩と、贈り物の素描のやり取りが、以後晩年まで続くことになる。
1534年、彼はローマに移り住んだ。以後30年、二度とフィレンツェの土を踏むことはなかった。故郷に帰るのは、あの荷馬車の中の遺体としてである。― だがその前に、彼にはまだ描くべき壁と、彫るべき石が残っていた。
08審判の壁と、最後の石
1536年、60歳の彼は再びシスティーナ礼拝堂に立った。今度は祭壇の壁一面に『最後の審判』を描く(完成1541年)。巨大な裸体の群像。怒りに満ちたキリストの右手。地獄へ落ちる罪人と、天へ引き上げられる人々。天井画から25年、その筆はより暗く、より劇的になっていた。
この時期、彼は詩人と深い信仰の友情を結んだ。宗教改革の動きに共鳴する、ペスカーラ侯爵未亡人である。彼女に贈った数十編のソネットと親密な書簡、彼女のための素描(『ピエタ』『サマリアの女』)は、後期ミケランジェロの精神的核心となる。1547年に彼女が死ぬと、70歳を過ぎた彼は長く嘆いた。
1546年からは、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家を無給で引き受けた。71歳から死の日まで17年間、彼は自費で通い続けた。「教皇は神の代理人、私は神の家を造っている」。それが彼の言い分だった。現在のサン・ピエトロの大ドーム(直径42m)は、彼の設計の核を今も保っている(完成は死後の1590年。建築家ジャコモ・デッラ・ポルタらが、遺された模型を元に引き継いだ)。
そして最後の石。『ロンダニーニのピエタ』(1552-1564)である。彼はすでに彫ったキリストの腕を削り直した。痩せたマリアとキリストの身体は、ほとんど一つに溶け合う方へ向かっていった。並行して彫った『ピエタ・バンディーニ』は、自ら鑿で壊してしまい、後に弟子が修復している。80代の手紙で、彼は甥のレオナルドに老いと死の近さを繰り返し訴えた。それでも、石の前から離れなかった。
09二つの都市と、一人の遺体
こうして物語は、最初の場面に戻る。1564年2月13日に発熱。2月18日午後5時、ローマの自宅で息を引き取った。88歳。その手は数日前まで、『ロンダニーニのピエタ』を彫り続けていた。
遺体は彼の望みどおり、荷馬車の荷物に偽装され、密かにフィレンツェへ運ばれた。教皇庁が気づいたときには、もう国境の向こうにあった。3月10日、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会で盛大な葬儀が営まれ、全市民が集まった。後年の墓は弟子のジョルジョ・が設計し、絵画・彫刻・建築を表す三人の女性像が、悲しみの姿で添えられた。同じ教会にはずっと後、ガリレオ・ガリレイも葬られることになる。
なぜ二つの都市は、一人の遺体を取り合ったのか。彼が石から取り出した形の数々が、都市の誇りそのものになっていたからだ。では、彼自身はどうだったのか。24歳の夜の署名から、88歳の削り直しまで。彫れば彫るほど、彼は「完成」から遠ざかっていったようにも見える。石の中の像をすべて取り出し終えた日は、ついに来なかった。最後まで動き続けたあの手は、いったい何を取り除こうとしていたのだろうか。
10彫り残されたもの ― 解釈の現在
『ダヴィデ』は、フィレンツェ共和国の自己意識そのものだった。ゴリアテ(異国の権力者)と戦う前の、緊張しつつも決意を固めた裸体の若者。メディチ家の追放と再来を経て、フランスとスペインとピサとヴェネツィアに囲まれた小共和国の自覚の表現である。この「緊張しつつ自由な裸体」は、後のルネサンス・バロック彫刻の原型となった。
システィーナ天井画については二点の考証がある。天井画の作業姿勢は仰向けの伝承で知られるが、実際には前傾の立位が主だったとする研究もある。また『アダムの創造』の「神の手」は、指先部分を現代が切り出して呼ぶ俗称であり、本来の画題はあくまで「アダムの創造」である。『最後の審判』は、後の検閲で裸体に布が描き加えられ、後世「ズボン履きの画家」と揶揄される修整を被ることになった。一方、ヴィットリア・コロンナとの交流を通じ、エラスムス系のを介して受けた信仰刷新の感覚は、晩年の宗教詩と『最後の審判』の神学に染み通っていく。
カヴァリエーリへの愛とコロンナへの友情をどう読むかは、論者によって分かれる。19-20世紀の編者は男性向け恋愛詩の代名詞を女性形に書き換えて出版し、長く正体が隠された。プラトニズムの枠での魂の愛として、男色の自己疑問が宗教詩に転調する内面の記録として、あるいは現代的な意味での同性への愛として ― 解釈はなおひらかれている。少なくとも本人の手稿が残す代名詞と熱量は、虚飾なく読まれるに値する。
後期の二つのピエタが示す「仕上げないこと」は、単なる中断ではなく美学的な問いとして読まれてきた。未完成を近代美学の課題の先取りと見るこの読みは、「石の中の像」という彼の彫刻観 ― 創造ではなく、余計なものを取り除いて既存の形を解放する発見の行為 ― と表裏をなしている。
11主要な出来事と著作
- カプレーゼに誕生。トスカーナ小貴族の家系
- 母フランチェスカ死去、6歳
- ドメニコ・ギルランダイオ工房で徒弟修業
- メディチ宮殿の彫刻学校(指導役ベルトルド・ディ・ジョヴァンニ)
- ローマで『ピエタ』制作(サン・ピエトロ、唯一の署名作品)
- フィレンツェで『ダヴィデ』制作
- ユリウス2世墓廟の契約 ― 生涯の苦悩の始まり
- システィーナ礼拝堂天井画(創世記九場面)。報酬は契約の3,000ダカーティ
- メディチ家新聖具室(『朝』『夕』『昼』『夜』)
- フィレンツェ共和国の城壁防衛を指揮
- トンマーゾ・デ・カヴァリエーリと出会い、恋愛詩・素描の往復が始まる
- システィーナ礼拝堂祭壇壁『最後の審判』
- ヴィットリア・コロンナとの信仰的友情と書簡(1547年彼女没)
- サン・ピエトロ大聖堂主任建築家(無給)
- 『ロンダニーニのピエタ』(死の直前まで制作、未完)
- 2月18日、ローマで死去。享年88。密かにフィレンツェへ移送、サンタ・クローチェに埋葬
- 孫の同名ミケランジェロが詩集『リーメ』を編集して初版刊行
残した思想の輪郭
- テリビリタ(terribilità) ― 同時代から彼に冠された「畏怖を催すほどの強度」の表現力
- 石の中の像 ― 彫刻は創造ではなく、余計なものを取り除いて既存の形を解放する発見の行為
- 身体を通じた精神性 ― ヌードの解剖学的緊張をプラトン主義的魂の表現に昇華させる
- 新プラトン主義と信仰の緊張 ― 古代の美学とキリスト教の贖罪観を生涯にわたり統合しようとする
- 未完成の哲学 ― 後期ピエタに見る「仕上げないこと」の意味、近代の美学的課題を先取り
つながり
- ウィリアム・シェイクスピア
共鳴 — 一方が没した年に他方が生まれた。ルネサンスの人間像を、造形と言葉で結晶させた二人。
- レオナルド・ダ・ヴィンチ
対比 — フィレンツェの大広間で競作を注文された年長の万能人 — 『アンギアーリの戦い』の側。
生きた跡を辿るPlaces
ミケランジェロ・ブオナローティが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- カーザ・ブオナローティ記念館
フィレンツェ, イタリア
ミケランジェロの家系が管理した邸宅美術館、初期作《階段の聖母》を所蔵
- システィーナ礼拝堂ゆかり
ヴァチカン, ヴァチカン市国
天井画《創世記》と祭壇壁《最後の審判》を現地で体験できる唯一の場所
- サンタ・クローチェ聖堂墓所
フィレンツェ, イタリア
ミケランジェロの墓所を擁するフランチェスコ会聖堂
さらに辿るならExternal References
ミケランジェロ・ブオナローティを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ミケランジェロ・ブオナローティ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Michelangelo"