レオナルド・ダ・ヴィンチ
何でも描けた人は、 なぜ描き終えられなかったのか?
絵画・解剖・水流・機械を同じ一冊のノートに書き込み続けた、ルネサンスの観察と設計の人
- 万能人
- 最後の晩餐
- モナ・リザ
- 手稿
- 解剖学
小さな国々が芸術家を奪い合い、その富と誇りを、やがて大きな戦争が飲みこんでいく時代 — ひらく
時代の空気
クアトロチェント末から十六世紀初頭、イタリアは小さな国家の連合だった。フィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家、ヴェネツィア共和国、ローマ教皇庁、ナポリ王国——それぞれが文人と職人を抱え、競い合うように工房と宮廷を肥やしていた。古代の発掘と人文主義はラテン語と俗語の境界を揺らし、解剖と遠近法と建築論が同じ熱で語られていた。一四九四年シャルル八世のイタリア侵攻がこの均衡を断ち切り、半島は六十五年に及ぶ戦争に投げ込まれる。フィレンツェではサヴォナローラの焼却処刑(一四九八)、印刷術が知の流通を変え、宮廷と工房の庇護がそのまま芸術家の生活線だった時代だ。
01壊される馬
1499年、ミラノ。この街を占領したフランス兵たちは、高さ7メートルを超える巨大な粘土の馬を、射撃練習の的にした。こうして馬は壊された。
その馬を作ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチという47歳の男である。粘土は仮の姿だった。本当は青銅で鋳て、史上最大の騎馬像になるはずだった。だがその青銅は、戦争のために大砲へ変えられていた。
レオナルドは絵を描けた。機械も設計できた。人体の中身まで調べていた。「何でもできる人」と後の世に呼ばれる男である。それなのに、彼が完成させたものは驚くほど少ない。巨大な馬だけではない。多くの絵が途中で止まり、は一度も飛ばなかった。
何でもできたはずの人は、なぜ完成させられなかったのか。その答えを探すために、時を47年前に戻す。トスカーナの丘の上の、小さな村から始めよう。
02ヴィンチ村の子、フィレンツェの工房
1452年4月15日、レオナルドはトスカーナ地方の小さな村ヴィンチで生まれた。父セル・ピエロは、フィレンツェで働く公証人(契約書などを作る法律の専門家)だった。だが両親は結婚しておらず、レオナルドは庶子(結婚していない親から生まれた子)だった。
母はカテリーナという女性である。長いあいだ、近くの農民の娘だと考えられてきた。しかし近年、父ピエロが自分の手で書いた納税記録が公開された。そこからカテリーナは、当時フィレンツェで使役されていた——自由のない身分で働かされていた——女性だった可能性が出てきた。北アフリカや東欧から運ばれた被使役者の出自ではないか、と指摘する研究もある(ヴェッツォージ、カプリッリらの所蔵史料解読、2020年代以降)。確かなことはまだ分かっていない。ここでは「庶子で、母の出自は史料の薄闇のなかにある」とだけ書いておく。
「ダ・ヴィンチ」は姓ではない。「ヴィンチ村の」という意味である。庶子の身分は、大学への道を閉ざした。父のような法律家や、医師になる道もなかった。しかしこの閉ざされた道が、彼を「書物の人(letterato)」ではなく「経験の弟子(discepolo della esperienza)」にした。彼は晩年まで、自分をと書き続けた。ラテン語は独学で、粗くしか読めるようにならなかった。
14歳のころ、父に連れられてフィレンツェへ出た。入ったのは、アンドレア・デル・である。ヴェロッキオは彫刻も金細工も絵画もこなす、当代最高の親方だった。この工房からは、画家のサンドロ・ボッティチェッリやペルジーノも育っている。徒弟の仕事は、顔料(絵の具のもとになる粉)を磨り合わせることから始まる。下絵を写し、人体のつくりを観察することも学んだ。
やがて、師を黙らせる出来事が起きた。ヴェロッキオの絵『キリストの洗礼』(1472ごろ)で、レオナルドは左下の天使を任された。その天使を見たヴェロッキオは、以後絵筆を置いたと伝わる。これはヴァザーリ『』(後世の画家伝記集)にある伝承で、確かな証拠は薄い。ただ、工房の中で彼の評価が急に上がったことは、書類からも追える。
1472年、20歳でフィレンツェの画家組合サン・ルカに登録した。もう一人前の親方である。それでも彼は工房を出ることを急がなかった。代わりに、解剖や機械や水の流れをノートに書き込み始める。このノートこそが、以後の生涯を通じて彼の本体であり続ける。
30歳になった彼は、一通の長い手紙を書く。宛先はフィレンツェではなく、北の都ミラノだった。
03ミラノの17年──晩餐と巨馬
1482年、レオナルドはミラノの支配者(イル・モーロ、「黒貂公」)に手紙を送った。自分を雇ってほしい、という自薦の手紙である。中身は有名な10項目の売り込みだった。戦のときは、橋も攻城機械も大砲も戦車も設計できます。平和なときは、建築も彫刻も絵画も手がけます——。並べた順番に注目したい。軍事土木の技師が先で、芸術家は最後だった。30歳のレオナルドは、自分をまず「戦争の技師」として売り込んだのである。
実際、ミラノでの生活は技師の仕事に支えられていた。ミラノ大聖堂中央塔の設計競技に出て、運河網の改修案を作り、要塞の図面を引いた。絵は、その合間の主題だった。
だが、その「合間」から歴史的な絵が生まれる。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描いた(1495-98)である。題材は、イエスが「あなたたちのうち一人が私を裏切る」と告げる瞬間。の一人ひとりが、身振りで驚き、疑い、身を乗り出す。それまでの宗教画の型を、レオナルドは「運動する心のドラマ」へ書き換えた。
ただし、ここでも彼は実験をやめられなかった。壁画の伝統技法フレスコ(下塗りの漆喰が濡れているうちに素早く描く方法)を捨て、乾いた壁に油彩とテンペラを重ねる新しい方法を試したのだ。その結果、絵は完成から数年で剥落——剥がれ落ち——が始まった。現在まで、何度も修復が続いている。
そして、あの馬である。ルドヴィーコの父フランチェスコ・スフォルツァをたたえる巨大騎馬像。1493年、高さ7メートルを超える粘土の原型が完成した。次は青銅で鋳るはずだった。だが1499年、フランス軍が攻めてくる。青銅は大砲の鋳造に転用され、庇護者ルドヴィーコは失脚した。粘土の馬がどうなったかは、冒頭で見たとおりである。
ミラノ滞在の終わりごろの仕事も多い。郊外の岩山を背景にした祭壇画は、依頼主との報酬をめぐる争いのなかで二度描き直した。人体の比率を円と正方形に重ねた素描(1490ごろ)もこの時期のものだ。さらに病院で遺体を観察し、本格的な解剖の研究を始めた。筋肉、骨格、胎児、心臓の弁までを描いていく。一冊のノートに、解剖図と飛行機械と水の渦が同居する。この混沌こそが、レオナルド的思考の現場だった。
ミラノの17年は、フランス軍の侵攻で終わった。47歳のレオナルドは、ノートを抱えて街を出る。行き先は、20年近くぶりの故郷フィレンツェだった。
04帰郷──モナ・リザと戦いの絵
1499年にミラノを離れたレオナルドは、マントヴァ、ヴェネツィアを経てフィレンツェへ戻った。ここで彼は、二つの大きな注文を受ける。
ひとつは(ジョコンダ)である。1503年ごろ、絹商人ジョコンドの妻リザ・ゲラルディーニの肖像として描き始めた。だがレオナルドは完成まで十数年をかけ、結局、注文主に渡さなかった。手元に置き続け、のちにフランスまで持ち歩いたのである。あの表情の秘密は、という技法にある。煙のように輪郭を溶かす暈し技法で、口角と目尻を描き切らない。だから表情は、観る人の心の中で揺れ続ける。背景の岩山と蛇行する川は、彼の地質学と水の研究のノートと一体だった。肖像画と自然の学問が、同じ一枚の上で結ばれていたのである。
もうひとつは、フィレンツェ評議会大広間の戦争画『アンギアーリの戦い』(1503-05)である。同じ広間の反対側の壁では、ミケランジェロが『カッシナの戦い』の下絵を描いていた。51歳のレオナルドと、28歳のミケランジェロ。運動と静けさ、衣服の襞と裸体の力、観察と彫刻。二人の美学の対立が、同じ壁のために下絵として並んだ。だが壁画そのものは、どちらも完成しなかった。今は模写と素描だけが伝わる。
この時期、彼はとしても雇われている(1502-03)。ロマーニャ地方を測量し、城塞・運河・攻城機械を設計した。同じ現場には、ボルジアを観察使節として見ていたマキャヴェッリがいた。のちにで政治の現実を描く男である。マキャヴェッリが書く政治のリアリズムと、レオナルドが手稿に書く機械のリアリズム。二つの現実主義が、同じ年の同じ中部イタリアの現場を並んで歩いていた。
勝負の壁画は未完に終わった。それでも彼のノートだけは、増え続けていた。そのノートの中身を、ここで開いてみよう。
05七千枚のノート
1506年、彼は再びミラノへ移る。今度はフランス支配下のミラノで、総督シャルル・ダンボワーズに招かれた。1513年にはローマへ。教皇レオ十世を出したメディチ家(その弟ジュリアーノ)の庇護を受けた。だがローマでは、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画(1508-12)を描き終えていた。若いラファエロは教皇宮に『アテナイの学堂』を描いていた。61歳のレオナルドの居場所は、少しずつ狭くなっていた。
その間も、彼は手稿——自筆のノート——を書き続けた。現存するだけで七千枚を超える。失われた分を含めれば、倍に達すると推定される。機械と建築が中心の(約1,119葉、現アンブロジアーナ図書館)。と肖像を含むウィンザー手稿(英王室コレクション)。(現大英図書館)。パリ手稿A-M(フランス学士院)、マドリッド手稿、水の運動を扱うハマー手稿(現ビル・ゲイツ所蔵)。そして『絵画論』のもとになる断片群である。
ノートの字は変わっている。——右から左へ、文字の左右が反転した書き方である。左利きだったための自然な書き方、とも言われる。秘密を守るためだった、とも言われる。真相は分からない。ただ結果として、手稿は生前ほとんど流通せず、死後も長く読まれなかった。
主題の広さは、常識を超えている。解剖では30体以上の遺体を調べ、心臓の弁膜、胎児、頭蓋骨、筋肉を細かく描いた。とくに心臓の中の渦を描いた水彩素描(1513ごろ)は、水をガラスの槽に流す実験と組み合わせたものだ。血液が弁で逆流しない仕組みを、500年先取りしていた。では、鳥の翼の動きを観察してオーニソプター(羽ばたき機)を構想し、空気の力学を作図で詰めた。水の研究では洪水の渦と流速の分布を、光の研究ではカメラ・オブスクラ(暗い箱に小さな穴から光を通し、像を映す装置)の原理を書いた。山の上の貝化石からは、山地がかつて海から生まれたと推理した。聖書の大洪水の説明を、否定する方向へ踏み込む推理である。
なぜ、ここまで手を広げたのか。彼にとって「観察された経験」だけが、唯一の知の基盤だったからである。そして絵画は、その観察を記述する究極の道具だった。『絵画論』の草稿に、彼はこう書く。「絵画は科学である、自然の裡の原因を理解せずに結果だけを描くことは偽りである」。
自然の裡にある原因を識らぬ者は、自然の中に描かれた結果を描くことはできない
この七千枚を、彼は人生最後の旅にも持っていく。旅の行き先は、イタリアの外だった。
06フランスへ──旅の終わり
1516年、64歳のレオナルドは、フランス王の招きを受けた。住まいはアンボワーズ近郊の館クロ・リュセ。王は年金を保証し、彼を「我が父」と呼んで尊敬した。レオナルドが運んだのは、完成しなかった三点の絵——『』『洗礼者ヨハネ』『聖アンナと聖母子』——と、膨大なノートだった。
右手は麻痺し、もう絵筆は取れなかった。それでも左手で書き続けた。そばには、二人の長年の伴侶がいた。である。サライ(ジャン・ジャコモ・カプロッティ)は、1490年に10歳で工房に入った助手だ。レオナルドは手稿に、彼の癖を「盗み・嘘・強情」と書きとめている。それでも30年近く同居し、若き日の素描の多くで美少年のモデルを務めた。フランチェスコ・メルツィ(1491-1570)はミラノ貴族の子で、1506年ごろから付き従った。のちに相続人として手稿の整理と『絵画論』の編纂(1540年代)を引き受け、レオナルドの絵画論の核を後世へ手渡す最初の編者となる。二人との関係が性愛を含むものだったかどうかは、長く議論されてきた。だが史料が確かめられるのは、同居と贈与と遺贈の事実までである。「身近な男性たちと暮らした、生涯独身の人」——書けるのはそこまでだ。
1519年5月2日、レオナルドはクロ・リュセで死んだ。67歳だった。伝承では、フランソワ1世が腕の中で看取ったとされる。実際には、その日王はサン=ジェルマン=アン=レという別の土地にいて、物理的には不可能である。それでも「王者の友として死ぬ芸術家」という図像は残った。芸術家の社会的地位についての、ルネサンスの宣言として。遺言は細やかだった。手稿と未完の絵はメルツィに。葡萄畑と金銭の一部はサライに。邸宅の家財と衣服は、身近な使用人と兄弟に。慎重に、分けられていた。
ここで、冒頭の光景に戻ろう。1499年のミラノで、射撃の的になって壊された粘土の馬。あの馬はなぜ、青銅にならなかったのか。戦争のせいだ、と言うことはできる。だが馬だけではなかった。壁画も、飛行機械も、『モナ・リザ』でさえ、彼の中では「完成」に届かなかった。ここまで彼の生涯を歩いてきた読者には、もう別の答えが見え始めているはずだ。その答えを確かめるために、最後に、彼が残した思想を整理しよう。
07観察と設計の哲学者──未完を抱えた万能人
レオナルドは体系的な哲学書を残さなかった。『絵画論』も断片的なノートの集積である。にもかかわらず、彼は西洋思想史に三つの持続的な問いを残した。
第一に、経験主義の先駆。彼は「経験こそが私の女主人」と書き、書物の権威(アリストテレス、ガレノス)より自分の目の観察を信じた。これはアリストテレス的解剖学の教科書を書き換えたヴェサリウス、望遠鏡の観察で天動説を覆したガリレオへと直系で流れる。
第二に、諸学の統一。彼は絵画を「諸学の頂点」と位置づけ、数学・解剖・光学・流体・機械を一つのノートにまとめた。これは後のデカルトの「諸学の統一」という理想の、非体系的な原型である。ただし、レオナルドは体系化を拒み、断片のままに置いた。この「未完への親和」が近代的体系と決定的に違う。
第三に、芸術家の尊厳。中世では絵画は「機械的技芸」、詩や文法の下位にあった。レオナルドは絵画を「科学(scientia)」と位置づけ、画家を「自然の哲学者」とした。これは後のパラゴーネ論争(詩と絵画の優劣論)と、芸術家の知的地位の近代化の起点である。
しかし「万能人(homo universalis)」の像を盲信するのは、彼の生涯に対して誠実ではない。彼は庶子としてアカデミックな進路を閉ざされ、ラテン語を最後まで完全に読めず、生活の大半をスフォルツァ家・ボルジア・教皇レオ十世・フランス王というパトロンの支給に依存し、騎馬像も二枚の壁画も飛行機械もそのほとんどを未完のまま残した。「分けられる前の世界を一度に見てしまう目」とは、同時に、どの一つも完成へ追い切らない目でもあった。万能人とは何でもできた人ではなく、何でも見ようとしてその重さに身を貸した人——本書ではこのレオナルドを、芸術家でも哲学者でもなく、「観察と設計の哲学者」と呼びたい。彼の像は、近代の専門分化が確定する直前にだけ可能だった、最後の輝きでもある。
一つのことを完成へ走り切ること。世界をまるごと見ようとすること。この二つは、いまも一人の人間の中で引っ張り合っている。あなたなら、どちらの目で世界を見るだろうか。
08主要な出来事と著作
- ヴィンチ村に公証人セル・ピエロの庶子として誕生(母カテリーナ、出自は史料の薄闇に)
- フィレンツェ、ヴェロッキオ工房へ徒弟入り(ボッティチェッリらと同期)
- 画家組合サン・ルカに親方登録
- ミラノ、スフォルツァ家宮廷へ(自薦状10項目、軍事工兵を筆頭)
- 『ウィトルウィウス的人間』素描
- 『最後の晩餐』(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ食堂、技法実験で剥落始まる)
- フランス侵攻でミラノを離れフィレンツェへ。スフォルツァ騎馬像粘土原型は破壊される
- チェーザレ・ボルジアの軍事土木技師、マキャヴェッリと並走しロマーニャ測量
- 『アンギアーリの戦い』(ミケランジェロ『カッシナ』と並走)、『モナ・リザ』着手
- ミラノ再渡(シャルル・ダンボワーズの招き)、解剖学研究を加速
- ローマへ、メディチ家教皇レオ十世の庇護
- フランス王フランソワ一世に招かれアンボワーズ近郊クロ・リュセへ
- クロ・リュセで死去。享年67、手稿はメルツィに、葡萄畑等はサライに遺贈
- 弟子メルツィが『絵画論』を編纂
残した思想の輪郭
- 経験の弟子(discepolo della esperienza) ─ 書物の権威より観察、ヴェサリウス・ガリレオへの先駆
- 絵画=諸学の頂点 ─ 絵画を科学と位置づけ、芸術家の知的地位を上げる
- ─ 輪郭を溶かし、表情を観る者に委ねる暈し技法
- 解剖・流体・光学・飛行の統一 ─ 分化前の知の姿、一冊のノートに全てを書き込む
- 未完への親和 ─ 体系化を拒み断片のままに置く、近代体系と対をなす姿勢
- 鏡文字の手稿 ─ 七千枚超、生前未流通、近代以降に発見されていく知の地層
- 万能人(homo universalis)の実例 ─ ルネサンス最後の輝きとしての思想像、同時にパトロン依存と未完を背負った situated human
- (omo sanza lettere) ─ 庶子・独学者としての自称、書物より目を選ぶ宣言
つながり
- ミケランジェロ・ブオナローティ
対比 — 同じ大広間の壁画を注文で競わされた相手 — 『カッシナの戦い』を任された若き彫刻家。
- アルブレヒト・デューラー
共鳴 — 会った史料は残らないまま、写本と版画を経て人体比例の研究と並走した画家。
- 平賀源内
共鳴 — 「日本のダ・ヴィンチ」と呼ばれた男。ただしその自由は、宮廷ではなく身分制の隙間から来た。
さらに読むならFurther Reading
レオナルド・ダ・ヴィンチの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上・下)
レオナルド・ダ・ヴィンチ / 訳: 杉浦明平 / 岩波文庫
Amazonでこの版を探す →原著 / 英訳The Notebooks of Leonardo da Vinci
Leonardo da Vinci / 訳: Edward MacCurdy / Konecky & Konecky
Amazonで原著を探す →
※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。
生きた跡を辿るPlaces
レオナルド・ダ・ヴィンチが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- サン=テュベール礼拝堂(アンボワーズ城)墓所
アンボワーズ, フランス
1519年没、1863年に現在の小礼拝堂へ移された花崗岩の墓。ブロンズのメダイヨンが肖像を伝える
- クロ・リュセ住居
アンボワーズ, フランス
晩年の3年間、フランソワ1世の招きで暮らした邸宅。書斎・寝室・発明模型が復元された博物館
さらに辿るならExternal References
レオナルド・ダ・ヴィンチを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「レオナルド・ダ・ヴィンチ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Leonardo da Vinci"
公式EnglishMuseo Leonardiano di Vinci 公式サイト(英語)
生地ヴィンチにあるレオナルド博物館