ウィトゲンシュタイン
言葉にできないものの前で、 人はどうすればいいのか?
言語の限界に思考の境界を見た孤独な哲学者
- 論理哲学論考
- 言語ゲーム
- 家族的類似
音楽家が集う華やかなウィーン。その帝国は、戦争で崩れ落ちようとしていた — ひらく
時代の空気
19世紀末のオーストリア=ハンガリー帝国は世紀末ウィーンの最盛期にあり、アレーガッセのパレ・ウィトゲンシュタインにはブラームスやマーラーが集い、クリムトらウィーン分離派が支援を受けていた。鉄鋼業を含む産業資本がロスチャイルド家に並ぶ富を生む一方、世紀末の自殺ブームは兄三人の命を奪った。1914年の第一次大戦でハプスブルク帝国は崩壊へ向かい、ガリシア戦線の砲兵部隊と南チロルの捕虜収容所で『論理哲学論考』が書かれた。1929年以降のケンブリッジでは『プリンキピア・マテマティカ』後の論理学が動き、第二次大戦中はガイズ病院の薬品配送係として戦時労働を引き受けた。
01最期の言葉 ―「素晴らしい人生だった」
1951年4月、イギリスのケンブリッジ。ひとりの男が、医師の家の一室で死を迎えようとしていた。名はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン。二十世紀を代表する哲学者のひとりである。
意識が遠のく間際、彼は付き添いの夫人に言った。「素晴らしい人生だったと伝えてくれ」。それが最期の言葉になった。
だが、この言葉は不思議である。彼は三人の兄を、自殺とみられる死で失った。莫大な財産を受け取りながら、すべて手放した。教授の職も、自分から捨てた。書き直し続けた本は、生きているうちに完成しなかった。
どこが「素晴らしい」のか。なぜ彼はそう言い切れたのか。答えを探すために、時を62年前のウィーンまで巻き戻そう。
02音楽の宮殿と、三人の兄
1889年、ルートヴィヒはウィーンの豪邸に生まれた。ウィーンは当時、オーストリア=ハンガリー帝国の都である。父カールは帝国最大の鉄鋼王だった。その財産は、ヨーロッパ一の大富豪ロスチャイルド家に並ぶと言われた。
屋敷には音楽家のヨハネス・ブラームスやグスタフ・マーラーが出入りした。画家グスタフ・クリムトら、新しい芸術を目指すもこの家の支援を受けた。文化とお金が交わるその真ん中で、ルートヴィヒは八人きょうだいの末っ子として育った。
しかし、この家は幸福ではなかった。兄ハンスは音楽の天才だったが、家業の鉄鋼業を継げと迫られた。アメリカへ渡り、船の上から姿を消した。兄ルドルフはベルリンの酒場で毒をあおった。兄クルトは第一次大戦の末期、敗走する部隊の前で自分に銃を向けた。
残った兄パウルはピアニストになった。戦争で右腕を失っても、左手だけで弾き続けた。作曲家ラヴェルに左手のための協奏曲を頼んだのは、この兄である。この家に生まれることは特権であり、同時に重圧だった。では、末っ子は何を選んだのか。
03プロペラから論理へ
少年ルートヴィヒは、音楽ではなく機械を選んだ。1906年、ベルリンの工科大学で機械工学を学び始めた。さらにイギリスのマンチェスター大学へ移り、航空工学の研究に打ち込んだ。飛行機のプロペラを設計するのが仕事だった。
ところが設計図を引くうちに、問いは深くなっていった。計算に使う数とは、そもそも何なのか。正しい考えを支える論理とは、何なのか。機械の図面を書く手が、もっと根本の問いを探し始めていた。
1911年、彼はケンブリッジ大学の門を叩いた。訪ねた相手は哲学者バートランド・ラッセル。数学の土台を論理から築き直す大著『』を、書き上げたばかりの人物である。初対面で一時間ほど議論したあと、青年は尋ねたという。「私は馬鹿ですか、天才ですか」。ラッセルはすぐに答えられなかった。
翌学期、ラッセルは青年の書いてきたノートを読んだ。そして友人への手紙に「私はこれ以上、哲学の講義で何も教えられる気がしない」と記した。師が弟子に白旗を上げたのである。だがこの師弟の時間は、長くは続かなかった。ヨーロッパに戦争が近づいていた。
04塹壕で生まれた一冊
1914年、第一次大戦が始まった。ルートヴィヒはウィーンに戻り、砲兵部隊に志願した。理由は愛国心ではなかった。死と向き合うことで自分を試したかったのだと、後に示唆している。前線では、最も危険な見張りの任務を自分から望んだ。
砲弾の音の中でも、ノートは手放さなかった。——真か偽かを問える文——を書きつけ、の体系を組み上げていった。日記には祈りに似た言葉も残る。神を信じるとは、人生に意味があると見ることだ、と。戦争は彼を壊しかけながら、同時に思考を極限まで研ぎ澄ませた。
1918年、部隊は敗れ、彼はイタリア軍の捕虜になった。収容所の中で原稿を整理し、一冊の本にまとめ上げた。『』——世界と言語の関係を、番号つきの短い文だけで描いた本である。言葉で写し取れるものには、はっきりとした限界がある。そして本は、たった一行で閉じられた。「については、沈黙しなければならない」。
哲学の問題は、これですべて解けた。彼は本気でそう信じた。ならば、哲学者はもう用済みである。収容所から解放された彼は、次に何をしたか。
語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。
05全部を捨てた人
1919年、ウィーンに戻った彼が最初にしたのは、遺産の放棄だった。父の死で受け取っていた莫大な財産を、兄や姉に全部分けてしまった。自分から一文無しになったのである。富は思考の妨げになる、と彼は感じていた。家族を押しつぶしてきた重さから、自分を切り離したかったのかもしれない。
次に選んだ仕事は、小学校の先生だった。教員養成の学校に通い直し、オーストリアの山奥の村々に赴任した。子供たちに算数と文法を教える日々である。しかし村人との衝突は絶えなかった。厳しすぎる指導に親たちの苦情が重なり、ある暴力事件のあと、1926年に教壇を降りた。
同じ年、姉マルガレーテから邸宅の設計を頼まれた。元エンジニアの哲学者は、友人の建築家パウル・エンゲルマンと組んだ。飾りを徹底的に省き、正確な比率だけで建てた家。それが今もウィーンに立つである。床から天井まで届く金属の暖房器具にまで、正確さへの執念が宿った。
哲学は終わったはずだった。だがその確信に、小さなひびが入り始める。
06「お二人には絶対にわかりませんから」
1929年、彼はおよそ16年ぶりにケンブリッジへ戻った。世界的に知られた哲学者なのに、正式な学位を持っていない。そこで博士号の審査が開かれた。審査委員は、かつての師ラッセルと、哲学者。提出論文は『論理哲学論考』そのものだった。
審査の場で、彼は二人の肩を叩いて言ったと伝わる。「心配しないでください、お二人には絶対にわかりませんから」。ムーアは報告書に「天才的な作品」と書いた。
しかし当の本人は、揺らぎ始めていた。『論考』は、言葉を世界の写し絵として説明した。だが、大工の「板を持ってこい」という一言はどうか。それは何かを写す文というより、仕事の場で生きて働く言葉である。言葉の意味は、使われ方の中にあるのではないか。
この揺らぎは、対話の中で深まった。イタリアの経済学者との議論。若き天才との論争。自ら「解決した」と宣言した問いを、彼はもう一度、最初から問い直す覚悟を固めた。
ケンブリッジには有名な事件も残る。1946年、哲学者カール・ポパーを招いた研究会でのことである。議長のウィトゲンシュタインは暖炉の火かき棒を手に取り、身ぶりを交えて激しく問い詰めた。ポパーの後年の回想(『果てしなき探究』)によれば、「倫理的命題の例を一つ挙げよ」と問われたポパーが「訪問講演者を火かき棒で脅さないこと」と応じた直後、彼は火かき棒を置いて部屋を出たという。ただし出席者の証言は細部で食い違い、どちらの記憶が正確かは今も争われている(デイヴィッド・エドモンズ&ジョン・エイディナウ『ウィトゲンシュタインの火かき棒』2001に詳細)。
問い直しの旅は、彼を再び人里から遠ざけていく。向かった先は、北欧の深い入り江の奥だった。
07書いては消した二十年
1936年から、彼はノルウェーのフィヨルド——氷河が削った深い入り江——の奥にこもった。人里から歩いて数時間、若いころに自分で建てさせた小屋である。そこで書き、消し、また書き直した。アイルランドの海辺でも同じことを繰り返した。完成が見えるたびに不満が湧き、原稿は何度も組み替えられた。
その中で「」という考えが形になっていく。言葉の意味は、暮らしの中の使われ方で決まる。では「ゲーム」という言葉は、何を指すのか。チェス、テニス、輪投げ。すべてに共通する定義は、実は見つからない。あるのは家族の顔立ちのような、部分的な似かよいだけである。彼はそれを「」と呼んだ。
第二次大戦が始まると、彼はロンドンのガイズ病院で薬品を運ぶ係になった。ニューカッスルの医学研究所でも助手として働いた。白衣で廊下を歩くその人を、誰も哲学者とは知らなかった。戦後ケンブリッジの教授職に戻ったが、1947年に自分から辞めた。「大学は哲学の書き方を殺す」と感じていたからである。
それでも書き直しは終わらなかった。この本——『』——が世に出る日を、彼自身が見ることはない。
08ふたたび、1951年
1949年の末から体調が崩れ、前立腺の癌と診断された。彼は病院ではなく、友人でもある主治医エドワード・ビーヴァンの自宅に身を寄せた。無菌の病室より、親しい人の家を選んだのである。
最後の数か月も、鉛筆は止まらなかった。書きためたのは、後に『について』と呼ばれる断章の群れである。「私は手があると知っている」という当たり前の文は、本当に疑えるのか。知っていることと、確かであることは、どこが違うのか。死の床でも、思考は衰えなかった。
1951年4月28日、意識が遠のき始めた。そばにいたビーヴァン夫人に、彼は言った。「素晴らしい人生だったと伝えてくれ」。翌29日の夜、62年の生涯が閉じた。棺を運んだのは、かつての学生たちだった。書き直し続けた本は死の二年後、『哲学探究』として遺稿のまま出版された。
宮殿のような家に生まれ、三人の兄を失った。財産を捨て、山村で教え、家を建て、小屋にこもり、病院の廊下を歩いた。そして未完の本を残して、「素晴らしかった」と言った。あなたはこの言葉を、どう受け取るだろうか。言葉にできないまま抱えているものの前で、あなたなら、どう振る舞うだろうか。
私の言葉の限界は、私の世界の限界を意味する
09思想の解剖 ― 写像から使用へ
前期の『論理哲学論考』は、言語と世界の関係を写像の理論で説明する。世界は事実の総体であり、命題は可能な事態を論理形式によって写像する。命題と事態が論理形式を共有するがゆえに、言語は世界を写し取ることができる。そして写像しえないもの——倫理・美・神秘——は、命題の形式を取れないがゆえに語ることができない。語り得ぬものの領域を否定するのではなく、語りうるものとの境界線を引くことで、かえって際立たせる。これが第七命題「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」の含意である。
後期の転回は、この写像モデルへの内在的な批判として進んだ。「板を持ってこい」という発話は、事態の写像である以前に、実践の中で機能する言葉の働きである。言語の意味は使用の中にある——この観点から彼は「言語ゲーム」の概念を鍛え上げた。言語の意味は社会的な実践の中で与えられ、「ゲーム」という語自体、チェス・テニス・輪投げに共通する本質的定義を持たない。あるのは部分的に重なり合う「家族的類似」の網目である。ここから、哲学の問題の多くは言語の使い方の混乱から生じるという診断が導かれる。言葉を日常の文脈から切り離したとき、哲学者は迷子になる。哲学の仕事は理論の構築ではなく、その混乱を解きほぐす営みに近い——後期思想が「」と呼ばれるゆえんである。
最晩年の『確実性について』は、知識と確実性の区別を掘り下げる。「私は知っている」という言明が成立するためには、疑いが意味をなす文脈が必要である。あらゆる疑いと検証の土台となっている確実性は、知識として証明されるものではなく、生活の実践の中で機能している。写像から使用へ、そして使用を支える土台へ。前期と後期は断絶ではなく、言語の限界という同じ問いの深化として読むことができる。
なお、戦時の日記(1916-1917)には、神を信じるとは人生に意味があると見ることだ、という祈りに似た思索が残る。語り得ぬものへの態度は、前期から晩年まで一貫して、彼の哲学の駆動力であり続けた。
10主要な出来事と著作
- ウィーンに誕生。父カール・ウィトゲンシュタイン(鉄鋼王)の末子
- マンチェスター大学で航空工学を研究。数学の基礎に関心が移る
- ケンブリッジでバートランド・ラッセルに師事
- 第一次大戦に志願。ガリシア戦線、南チロルでイタリア軍に降伏・捕虜
- 帰国後、遺産を全額放棄して兄姉に分配
- トラッテンバッハ、プッフベルクなどオーストリア山村で小学校教師
- 『論理哲学論考』刊行(独語版)。「語り得ぬものには沈黙せよ」
- 姉マルガレーテの邸宅(ハウス・ウィトゲンシュタイン、ウィーン)を設計
- ケンブリッジに復帰。博士審査委員はラッセルとムーア
- ノルウェーの小屋やアイルランドに籠もり『哲学探究』を執筆・改訂
- ケンブリッジ哲学教授。戦中はロンドン・ニューカッスルの病院で実務労働
- 癌によりケンブリッジで死去、享年62。最期の言葉「素晴らしい人生だった」
- 『哲学探究』遺稿として刊行
残した思想の輪郭
- 言語の限界は世界の限界 ― 語り得ることの境界を明確にすること自体が哲学の仕事
- 沈黙の倫理 ― 語り得ぬもの(倫理・美・神秘)は論理命題の形を取れないが、だからこそ重要
- 言語ゲーム ― 言語の意味は固定した本質ではなく、社会的実践の中での「使用」によって与えられる
- 家族的類似 ― 概念は共通の本質でなく、部分的に重なり合う特徴の網目によって成り立つ
- 哲学的治療 ― 哲学の問題の多くは言葉の誤用から生じる混乱であり、それを解きほぐすことが哲学の役割
- 確実性と知識の区別 ― 「私は知っている」という言明が成立するためには、疑いが意味をなす文脈が必要
つながり
- ニーチェ
共鳴 — 「沈黙せねばならない」の手前で、「真理とは比喩の軍隊」と書いていた人。直接の影響なき共鳴。
- バートランド・ラッセル
先駆 — 『論考』に序文を寄せ、弟子に「根本的な誤解」とまで言われた師。決裂しても系譜は残った。
- アラン・チューリング
対比 — その講義に受講者として現れ、矛盾をめぐって激しく論じ合った若い数学者がいる。
- フレーゲ
先駆 — 『論考』序文が負債を明言した師。だが原稿には『ほとんど理解できなかった』と返した。
さらに読むならFurther Reading
ウィトゲンシュタインの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門論理哲学論考
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン / 訳: 野矢茂樹 / 岩波文庫
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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン / 訳: 鬼界彰夫 / 講談社
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Ludwig Wittgenstein / 訳: C. K. Ogden / Routledge
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生きた跡を辿るPlaces
ウィトゲンシュタインが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Ludwig Wittgenstein"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Ludwig Wittgenstein"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Ludwig Wittgenstein"
Project GutenbergEnglishTractatus Logico-Philosophicus(C.K. Ogden 英訳)— Project Gutenberg
『論理哲学論考』英訳
Internet ArchiveEnglishTractatus Logico-Philosophicus(Pears & McGuinness 英訳) — Internet Archive