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バートランド・ラッセル

Bertrand Russell·1872–1970·イギリス·

絶対に確かだと言えるものを、 あなたは一つでも持っているだろうか?

論理分析で哲学を刷新し、核軍縮の先頭にも立った20世紀の知の巨人

  • 論理分析
  • プリンキピア・マテマティカ
  • 平和運動
科学は速く進み、二つの世界大戦と核爆弾が、人間の理性を試した時代。 — ひらく

時代の空気

ヴィクトリア朝末期、祖父ジョン・ラッセル卿は二度首相を務めた自由党の巨頭で、名付け親はジョン・スチュアート・ミルだった。1890年入学のケンブリッジは数学・哲学の革新期で、1900年パリの国際哲学会議でペアノの記号論理学が共有される。1914年の第一次大戦勃発で塹壕の死に直面し、1916年の反戦パンフレットでトリニティ・コレッジを追われ、1918年にはブリクストン監獄で6ヶ月服役。1920年のソ連訪問でレーニンと会見、1945年広島・長崎の核時代と1955年ラッセル=アインシュタイン宣言、1968年五月革命まで戦争と思想弾圧の世紀を貫いた。

0189歳の囚人

1961年、ひとりの老人が牢屋に入れられた。年齢は89歳。核兵器に反対する座り込みすわりこみに加わった罪だった。刑期は短縮され、服役したのは7日間だった。老人は獄中ごくちゅうでも講義を続けたという。

この老人は、ただの老人ではない。イギリスの伯爵はくしゃく(貴族の位)であり、ノーベル文学賞の受賞者。名はバートランド・ラッセル。20世紀を代表する哲学者である。

しかも、牢屋はこれが初めてではなかった。43年前にも、彼は投獄されている。世界的な哲学者が、なぜ二度も牢屋に入ることになったのか。

答えを探すには、彼の始まりまで戻らなければならない。時は89年前、1872年のイギリスである。

02孤児と、いちばん美しいもの

1872年5月18日、バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルが生まれた。ウェールズ国境のモンマスシャーという土地である。家柄は名門だった。祖父のジョン・ラッセル卿は、首相を二度つとめた自由党の大物政治家。父のアンバリー子爵は急進的な自由思想家で、息子の名付け親を、名高い思想家ジョン・スチュアート・ミルに頼んだ(ミルは翌年に亡くなった)。

だが、幸運はここまでだった。2歳のとき、母ケイトと姉レイチェルが病気(ジフテリア)で亡くなる。その2年後には父も世を去った。両親は、無神論者の哲学者ヘンリー・ハーバートを後見人こうけんにん(親代わり)に指定していた。しかし祖父母の伯爵夫妻は、裁判でこれを取り消してしまう。

こうしてラッセルは兄フランクとともに、祖父母の家に引き取られた。リッチモンド公園の中にある、ペンブローク・ロッジという屋敷である。祖母は信仰にきわめて厳しい人だった。少年の孤独は深かった。

その孤独に、光が差す。11歳のとき、兄フランクがユークリッド幾何学きかがく(図形の学問)を教えてくれたのだ。証明の出発点となる公理を見た少年は、「これは人類の達した最も美しいもの」だと直感した。

1890年、18歳でケンブリッジ大学トリニティ・コレッジに入学する。教員のアルフレッド・ノース・に見出され、のちに生涯の協働者となる。ムーア、マクタガート、ケインズら優秀な仲間にも恵まれ、選ばれた者だけが入る「」の一員となった。数学と哲学で優等の学位を得て、1895年には論文「幾何学の基礎」を提出した。

数学は、なぜ正しいと言えるのか。誰もが当たり前と思うこの問いに、青年ラッセルは人生を賭けようとしていた。

03「1+1=2」を証明せよ

1900年、パリで開かれた国際哲学会議が転機になった。イタリアの数学者ジュゼッペ・記号論理学きごうろんりがく(考えの筋道を記号で書き表す学問)に出会ったのだ。この方法こそ、探し求めていた突破口だった。

1903年、『数学の原理』という本を出す。主張は大胆だった。数学はすべて、論理学から導き出せる。この考えは論理主義ろんりしゅぎと呼ばれる。

ところが執筆の最中、ラッセル自身が重大な穴を見つけてしまう。「自分自身を要素として含まない集合すべての集合」を考えると、矛盾が起きるのだ。のちに「」と呼ばれる発見である。自分の主張の土台が、自分の発見で揺らいだ。

ラッセルは逃げなかった。ホワイトヘッドとともに、矛盾を解きほぐす大著に取り組む。こうして1910年から1913年にかけて出版されたのが、共著『』全3巻である。数千の記号と証明が並ぶこの本には、有名な逸話がある。第1巻の300ページ目あたりで、ようやく「1+1=2」が証明されるのだ。

この間の1905年には、論文「表示について」も発表している。言葉のもつれを論理の力でほどく方法を示し、のちの哲学の古典となった(その中身は終章でくわしく見る)。

確かさを求める仕事は、頂点に達した。だが世界のほうが、確かさを失い始めていた。

04教え子たちが死んでいく

1914年、第一次世界大戦が始まった。教え子の青年たちが、塹壕ざんごう(前線に掘られた溝)で次々に死んでいく。ラッセルはその現実に耐えられなかった。書斎を出て、平和活動に身を投じる。兵役を拒否する人々を守る団体、非戦闘員役務拒否者協会(NCF)に加わり、公然と彼らを擁護した。

代償は大きかった。1916年、反戦パンフレットで有罪となり、トリニティ・コレッジの講師職を奪われた。失ったのは講師職(レクチャーシップ)で、ケンブリッジでの教壇と居住資格を失った。トリニティへの復帰は1944年のことになる(フェローシップは復帰時に別問題として扱われた)。

1918年には、平和主義の機関紙『ザ・トリビューナル』に書いた反戦記事が起訴される。アメリカ軍がストライキの鎮圧に投入されうる、と書いたのだ。ラッセルはブリクストン監獄で6ヶ月服役ふくえきした(第一部)。これが最初の投獄である。だが彼は、牢屋の中で『数理哲学序説』(1919)を書き上げた。

1917年のロシア革命には、はじめ好意を抱いた。しかし1920年、革命後のロシア(ソ連邦成立は1922年)を訪れて考えが変わる。指導者レーニンと短時間会見し、新政権の抑圧的よくあつてきな性格に幻滅げんめつしたのだ。帰国後すぐ、早期の批判書『ボルシェビズムの実際と理論』(1920)を著した。直後には中国を1年訪問し、北京大学で講義している。

戦争は哲学者を、書斎の人から行動の人へと変えた。だがその生活を、何が支えるのか。

私は愛への憧れ、知識への探求、人類の苦しみへの耐え難い憐れみという、三つの単純だが圧倒的に強い情熱に支配されて生きてきた。

『自伝』序文――生涯をふり返って冒頭に置いた言葉

05ペンで生きる

私生活は波乱の連続だった。1894年、アメリカ人のアリス・ピアソール・スミスと最初の結婚(1921年離婚)。1921年にドーラ・ブラックと再婚し、二児をもうけた。1927年、夫妻はビーコン・ヒル・スクールという学校を創設し、自由な教育の実験場とした。1935年にドーラと離婚し、1936年にパトリシア・スペンスと結婚(のちに離婚)。1952年、エディス・フィンチとの四度目の結婚で、ようやく生涯の伴侶を得る。この間の1931年には、兄フランクの死により第3代ラッセル伯爵を継承けいしょうしていた。

1920年代から40年代にかけて、ラッセルは一般向けの本を書いて生計を立てた。『結婚と道徳』(1929)、『幸福の獲得』(1930)、『なぜ私はキリスト教徒でないか』(1927年の講演、1957年に書籍化)は広く読まれた。1940年には事件が起きる。ニューヨーク市立大学への任命が、「道徳的にふさわしくない」という理由で裁判により取り消されたのだ。「バートランド・ラッセル事件」として、アメリカの思想弾圧の歴史に残る出来事である。

1945年、大著『』を出版する。古代のタレスから現代までを、ユーモアと歯に衣着せぬ筆で一気に描いた通史つうしである。本はベストセラーとなり、暮らしはようやく安定した。1950年にはノーベル文学賞を受賞する。「人道主義と思想の自由の多様で重要な著作に対して」という理由だった。

だが、その少し前の1945年8月。広島と長崎に、原子爆弾が落とされていた。人類は自分自身を滅ぼす道具を手にした。老いた哲学者に、最後の戦いが待っていた。

06人間として、人類に向けて

1955年、ラッセルは物理学者アインシュタインとともに、核兵器の廃絶を訴える声明を出す。「」である。「私たちはあなた方に、人間として人類に向けて訴える」。アインシュタインは死の数日前にこの宣言に署名しており、これが彼の最後の署名となった。宣言はのちに、世界の科学者が集う(1957年〜)へと実を結ぶ。

1958年、核軍縮キャンペーン(CND)の初代会長に就任。1960年には、より行動的な「100人委員会」の会長となり、デモや座り込みの先頭に立った。

そして1961年。冒頭の場面である。89歳のラッセルは反核の座り込みで二度目の投獄を経験し、獄中でも講義を続けた。彼にとって牢屋は、恥ではなかった。43年前、戦争に反対して入った牢屋と同じく、理性の側に立ったことの代償だった。教え子たちを塹壕で失った日から、この人の戦いはずっと続いていたのである。

1963年、バートランド・ラッセル平和財団を設立。を批判し、1967年には戦争犯罪を裁く民間の法廷、いわゆる「」を主催した。ソ連によるチェコスロヴァキア侵攻にも抗議の声を上げた。晩年まで、国際政治への発言をやめなかった。

1970年2月2日、ウェールズ北部プラス・ペンリンの自宅で死去。急性気管支炎きゅうせいきかんしえんだった。97歳。遺灰いかいは本人の遺志により、ウェールズの山中にまかれた。

これら三つの情熱は、大風のように、深い苦悩の大洋の上を、絶望の瀬戸際まで私を揺さぶり続けた

『自伝』序文――三つの情熱を語った直後に続く言葉

07変わり続けた知性――論理分析の遺産

ラッセルが残したのは単一の哲学体系ではない。初期の、中期の(現象の論理分析を極めた)、そして晩年の中立的一元論――哲学的立場は何度も転回した。自身がその転回を隠さなかったことも、ラッセルの誠実さだった。「自分の考えが変わることを恐れる哲学者は哲学者ではない」。

出発点は論理主義である。数学は論理学に還元できるという『数学の原理』(1903)の主張は、同書の執筆中にラッセル自身が発見した「ラッセルのパラドクス」(自分自身を要素として含まない集合全体の集合は?)により根底から揺さぶられた。素朴集合論に潜むこの自己言及的矛盾の解消が型理論の動機となり、『プリンキピア・マテマティカ』の壮大な体系へと結実する。同書は20世紀数学基礎論と分析哲学の出発点となった。

1905年の論文「表示について」(On Denoting)は記述句の論理分析を確立し、として分析哲学の古典となった。「現在のフランス王は禿げている」――実在しない対象に言及する文の論理形式を、量化と記述句の分解で解く手法は、ラッセルの学の精華だった。表面の文法に惑わされず、文の真の論理形式を暴くこの方法は、その後の哲学の標準装備となる。

弟子のウィトゲンシュタインに強い影響を与え、またその『』の序文を書いた(ウィトゲンシュタインは序文に不満だったが)。ポパー、エイヤー、クワインを含む分析哲学の系譜は、ラッセルを出発点として広がった。政治思想ではリベラリズム、反戦、合理主義の擁護者として、20世紀の公的知識人こうてきちしきじんの原型となった。

冒頭の問いに、もう一度戻ろう。世界的な哲学者は、なぜ二度も牢屋に入ったのか。ユークリッドに美を見た孤児は、確かさを数学に求め、その確かさが揺らぐたびに考えを立て直した。そして理性が踏みにじられる場所では、89歳になっても身体を張った。彼にとって、知ることと生きることは切り離せなかったのである。――では、あなたはどうだろう。あなたが「確かだ」と信じていることのうち、牢屋に入ってでも守りたいものは、いくつあるだろうか。

08主要な出来事と著作

  1. モンマスシャーに誕生。祖父は元首相ジョン・ラッセル卿
  2. 母、姉、父を相次いで失い、祖父母宅で養育される
  3. ケンブリッジ大学トリニティ・コレッジ入学
  4. 『数学の原理』刊行。ラッセルのパラドクス発見
  5. 論文「表示について」――記述の理論
  6. ホワイトヘッドと『プリンキピア・マテマティカ』全3巻刊行
  7. 反戦活動によりトリニティ・コレッジの講師職を剥奪
  8. 反戦記事(『ザ・トリビューナル』)でブリクストン監獄に6ヶ月服役
  9. 「なぜ私はキリスト教徒でないか」講演
  10. 『西洋哲学史』刊行
  11. ノーベル文学賞受賞
  12. ラッセル=アインシュタイン宣言発表
  13. 反核座り込みで第二の投獄、89歳
  14. 2月2日、ウェールズで急性気管支炎により死去、97歳

残した思想の輪郭

  • 論理主義 ― 数学は論理学から導出できるという『プリンキピア・マテマティカ』の主題
  • 記述の理論 ― 存在しない対象に言及する文を量化記号で論理分析する手法
  • ラッセルのパラドクス ― 素朴集合論に潜む自己言及的矛盾、型理論の動機となった
  • 論理的原子論 ― 世界を事実の集まりとして分析し、論理形式で捉える中期の立場
  • 公的知識人の倫理 ― 核廃絶・反戦・思想の自由を哲学の外側で身体を張って擁護
1970年2月、ウェールズの自宅で急性気管支炎により死去、97歳。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

バートランド・ラッセルが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • トリニティ・カレッジ、ケンブリッジ所属

    ケンブリッジ, イギリス

    ラッセルが学び、後にフェローとして数学原理を執筆した母校

  • プラス・ペナーリン(ラッセル邸跡)住居

    ポースマドグ, イギリス

    晩年を過ごしたウェールズ北部の邸宅。1970 年ここで没した

    地図で見る →確認 2026-04-19

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