ヒューム
明日も太陽が昇ると、 なぜ言い切れるのか?
因果律を習慣にまで解体した、スコットランド啓蒙の巨人
- 経験論
- 因果の習慣
- 懐疑
教会が暮らしを縛る時代、「疑うこと」は職を失いかねない危険な行為だった。 — ひらく
時代の空気
18世紀のスコットランドは長老派の厳格なキリスト教が市民生活を律し、エディンバラ大学と弁護士会を拠点にスコットランド啓蒙が立ち上がる地方だった。「無神論者」の評判は大学教授職への扉を閉ざし、奇跡批判は教会から猛反発を受けた。1734年に渡ったラ・フレーシュはかつてデカルトが学んだイエズス会コレージュの町で、ニュートン力学を人間本性へ応用する試みがそこで生まれた。1763–66年のパリでは英国大使館書記官として、ドルバックのサロンでダランベール・ディドロら百科全書派と交わり、「ル・ボン・ダヴィド」と呼ばれた啓蒙期の知的熱気のなかにあった。アダム・スミスとも深い相互尊重を結んだ。
01死の床のふたり
1776年、エディンバラ。ひとりの老人が死の床にあった。腸の病は、もう隠しようがないほど進んでいた。名はデイヴィッド・ヒューム。「英国最大の懐疑論者」と呼ばれた哲学者である。
その枕元を、友人のが訪ねた。ボズウェルは敬虔なキリスト教徒だった。彼にはどうしても確かめたいことがあった。生涯にわたり神を疑い続けたこの人は、死を前にして信仰にすがるのではないか。
だがヒュームは穏やかだった。「死後に意識が存続するという考えは滑稽に思える」と静かに語った。来世への期待も、神への懺悔も見せなかった。ボズウェルはその平静さに深く動揺したと書き残している。
死は、人がいちばん確かなものへすがりたくなる瞬間だろう。なぜこの人は、何にもすがらずに静かでいられたのか。その答えは、彼が一生をかけて磨いた「疑い方」の中にある。時を65年前に戻そう。
02弁護士にならなかった少年
1711年4月26日、ヒュームはエディンバラ近郊の村ニンウェルズに生まれた。父ジョセフは弁護士だったが、彼が幼いころに急死した。家は長兄ジョンが継ぎ、次男のデイヴィッドにはわずかな農地の収入しか残らなかった。母キャサリンは厳格な長老派のキリスト教徒で、「息子には法律家の道がある」と信じていた。
12歳でエディンバラ大学に入った。当時としては珍しくない年齢である。だが法律の勉強には、どうしても熱中できなかった。心を奪ったのは、古代ローマの文人キケロやウェルギリウスと、哲学だった。後に彼は「哲学の追求以外にすべてがひどく嫌悪される」と書き残している。
青年の頭の中は、問いでいっぱいだった。人はなぜ、あることを信じるのか。経験から、どこまで確かなことが言えるのか。考えすぎた彼は1729年ごろ神経を病み、数年ものあいだ倦怠と不安に苦しんだ。
それでも、考えることはやめなかった。弁護士への道は静かに閉じていった。そして答えを探す場所は、スコットランドの外にあった。
03フランスの小さな町で
1734年、23歳のヒュームはフランスへ渡った。行き先はラ・フレーシュという小さな町である。かつて哲学者デカルトが学んだ、イエズス会の学校がある町だった。ヒュームはここで3年を過ごし、図書館に通いつめて考えを練り上げた。
ここで書かれたのが、最初の本にして主著『』である。副題は「道徳的主題に実験的推論の方法を導入する試み」。ニュートンが自然の世界で成しとげたことを、人間の心で試みる。知識のもとを感覚と経験だけに求め、証拠のない思い込みをすべて退けて、人間を調べ直す本だった。
とりわけ鋭かったのは、原因と結果への問いである。「火が熱を生む」と人は言う。だが、炎と熱をつなぐ「必然的なつながり」を目で見た人はいるだろうか。見えているのは、いつもセットで続けて起きる、という事実だけだ。つながりの「力」そのものは、どこにも見えない。
若きヒュームは確信していた。この本は、きっと世界を驚かせる。
理性は情念の奴隷であり、またそうあるべきである
04死産した本
1739年、『人間本性論』の第1巻と第2巻がロンドンで出版された。27歳のヒュームは、大きな反響を待った。だが、何も起きなかった。批判の声すら上がらなかった。彼は後にこの本を「印刷所から死産同然に生まれ落ちた」と振り返っている。
翌1740年に第3巻を出しても、状況は変わらなかった。落胆はしたが、彼は諦めなかった。悪いのは中身ではなく、伝え方ではないか。細かすぎる組み立てと難しい言葉が、読者を遠ざけたのではないか。実際、同じころに出した短いエッセイ集は、それなりに売れたのである。
追い打ちは続いた。1745年、エディンバラ大学の道徳哲学の教授職に応募して、落選した。「無神論者」――神はいないと考える者、という噂が壁になったのだ。同じ年に侯爵家の家庭教師になったが、雇い主が精神を病んでおり1年で辞めた。彼の疑いの哲学は、すでに世間から警戒されていた。
無名の書き手に残された道は、二つ。黙るか、書き直すか。
05書き直しの賭け
ヒュームは、書き直しを選んだ。1748年に出した『』は、『人間本性論』第1巻の中身を、格段に読みやすく作り直した本である。この本の「奇跡について」という章が、宗教界を騒がせた。奇跡が本当に起きたことを、人の証言だけで証明することはできない――そう論じたからだ。教会側は猛烈に反発した。
1751年には『道徳原理の研究』を出した。道徳についての書き直しである。ここで彼は、善い悪いの判断のもとは理性ではなく感情だと論じた。人を動かすのは感情であり、理性はその道具にすぎない。本人はこの書を「自分の全著作の中でもっとも優れたもの」と評価していた。
書き直された本は、少しずつ読者を得ていった。だが彼の名を一気に高めたのは、哲学書ではなかった。
太陽が明日昇るだろうということは、確実とはいえない。
06歴史家としての成功
成功は、意外な扉から来た。1752年、ヒュームはエディンバラ弁護士会の司書に就任した。膨大な蔵書を自由に使える職である。彼はここで、哲学ではなく歴史を書き始めた。
1754年から1762年にかけて出た『』は、全6巻の大著である。ジェームズ1世の時代から書き起こし、巻を重ねて古代のブリテンまでさかのぼった。哲学で鍛えた原因と結果の分析を、歴史の物語に持ち込んだこの作品は、ベストセラーになった。生まれて初めて、ヒュームは自分の筆だけで暮らせるようになった。
「哲学者」ではなく「歴史家」として有名になったのは皮肉だった。だが本人はさほど気にしなかった。読者が増えれば、哲学の考えが届く機会も増える。エディンバラでは経済学者アダム・スミスと親交を深め、二人のあいだには深い相互尊重があった。
その名声は、やがて海を越える。
07パリの寵児、ルソーとの決裂
1763年、ヒュームは英国大使館の書記官としてパリに赴いた。フランスでの歓迎ぶりは、祖国とは比べものにならなかった。バロン・のサロンに招かれ、、といったの知識人たちと交わった。人々は彼を「ル・ボン・ダヴィド(善良なダヴィド)」と呼び、彼は社交界の寵児になった。
1766年、フランスで迫害を受けていた思想家ジャン=ジャック・ルソーを、ヒュームは英国へ連れ帰った。行き場を失った人への善意だった。しかしルソーは疑念の人だった。ヒュームが陰で自分の悪口を広めていると確信し、公開書簡で激しく攻撃した。善意は誤解に変わり、友情は壊れた。
苦い経験だったが、彼の人柄は変わらなかった。周囲の人々は、その温和さと公平さに一様に驚いた。アダム・スミスは後に「彼は人間の弱さを最も完全に示した人物だった」と、最大の賛辞を込めて書いている。
エディンバラに戻った彼に残された時間は、およそ10年。では、その一生を貫いた「疑い」とは、結局どういうものだったのか。
08習慣の哲学 ― 懐疑はどこまで届くか
彼の哲学の中心には、因果律の解体がある。「火が熱を生む」というとき、われわれに観察できるのは継起であり、隣接であり、恒常的な連接だけである。炎と熱のあいだの「必然的つながり」そのもの、因果の「力」は、経験のどこにも与えられていない。それでも人が因果を確信するのは、反復された経験が心に「習慣」を形成するからだ。ヒュームはこの洞察を、人間知性の根本に置いた。
ここから帰納法の問題が導かれる。過去の経験がいくら積み重なっても、未来が過去と同じであることを論理的に保証することはできない。太陽が明日も昇るという確信さえ、証明ではなく習慣に支えられている。
「奇跡について」の議論も同じ骨格を持つ。奇跡とは自然法則の違反であり、人間の証言がどれほど積み重なっても、証言の信頼性が自然法則の確実性を超えないかぎり、奇跡を立証することはできない。死後出版を指定していた『』(1779年刊)では、神の存在証明を対話形式で丁寧に、しかし容赦なく解体した。経験の領域を超える主張は正当化できない、という原則の徹底である。
道徳論では、道徳判断の基礎を理性ではなく感情に求めた。「is/ought問題」そのものの提起自体は既に1739年の『人間本性論』第3巻で示されていたが、『道徳原理の研究』での書き直しの過程で再び鋭く問われた。事実の記述(「AはBである」)からいくら積み重ねても、規範の命題(「AはBであるべきだ」)を論理的に導けない ― この指摘は、道徳哲学の問題設定を根底から変えることになった。行為を動かすのは情念であり、理性はその道具に過ぎない。カントがヒュームによって「独断のまどろみから目覚めた」と述懐したのも、この時期の著作との格闘によるところが大きい。
(哲学書を手にして)それが事実と数の抽象的推論を含んでいないなら、火に投じよ。そこには詭弁と幻想しかないのだから
09再び、死の床で
晩年のヒュームはエディンバラのニュータウンに邸を構え、友人たちと穏やかな日々を送った。生涯独身だった彼の食卓は、おおむね陽気だったと伝えられる。宗教への疑いは、最後まで変わらなかった。
1776年春、腸の病が進んだ。そして、あの日が来る。ボズウェルが死の床を訪ね、平静なままの懐疑論者に動揺した日である。ここで、冒頭の問いに戻ろう。なぜ彼は、静かでいられたのか。
彼にとって、来世も神の裁きも、経験で確かめられたことのない観念だった。確かめられないものへの恐れに、残りの日々を明け渡す理由はない。彼の疑いは、世界を壊す道具ではなかった。確かめられることと、確かめられないことを、静かに分ける物差しだった。
1776年8月25日、ヒュームは65歳で世を去った。アダム・スミスは追悼文に「私がいつ会ったうちで最も賢明で、最も美徳にあふれた人間に最も近かった」と記した。因果の鎖を習慣に解体した男は、死をも習慣の一種のように、静かに受け取った。
では、あなたはどうだろう。あなたが「確実だ」と信じていることのうち、いくつが経験のくり返し――つまり習慣に支えられているだろうか。明日も太陽が昇る。そう言い切れる根拠を、あなたは持っているだろうか。
10主要な出来事と著作
- エディンバラ近郊ニンウェルズに誕生。父ジョセフ早逝、母キャサリン・ファルコナーに育てられる
- エディンバラ大学に入学(12歳)。法律を学ぶも哲学に転向
- フランス・ラ・フレーシュに滞在。『人間本性論』を執筆
- 『人間本性論』第1・2巻刊行。反響なく沈黙の中に埋もれる
- エディンバラ大学教授職への応募、不敬神者の評判で落選
- 『人間知性研究』刊行。「奇跡について」が宗教界に波紋
- 『道徳原理の研究』刊行。『人間本性論』以来の is/ought 論点が再提示される
- エディンバラ弁護士会司書に就任
- 『英国史』全6巻刊行。ベストセラーとなり経済的自立を果たす
- パリ大使館書記官。百科全書派と交流、ルソーを英国に連れ帰り決裂
- 腸の病で死去、享年65。ボズウェルが臨終を記録
- 遺稿『自然宗教に関する対話』刊行
残した思想の輪郭
- 因果律の解体 ― 因果の「力」は経験で確かめられない。見えるのは恒常的な継起だけであり、因果の確信は「習慣」に過ぎない
- 帰納法の問題 ― 過去の経験がいくら積み重なっても、未来が同じであることを論理的に保証できない(太陽が明日昇る確実性はない)
- is/ought問題 ― 事実命題の積み重ねから規範命題を導くことはできない。道徳の基礎は理性ではなく感情にある
- 奇跡批判 ― 自然法則の違反を証言で立証することは、証言の信頼性が自然法則の確実性を超えないかぎり不可能
- 宗教への懐疑 ― 神の存在証明(目的論的論証など)は、経験の領域を超えており正当化できない(『自然宗教に関する対話』)
- 感情の優位 ― 「理性は情念の奴隷」。人間の行動を動かすのは感情であり、理性はその道具に過ぎない
つながり
- バークリー
先駆 — ヒュームが徹底した「知覚されること」の哲学——神という保証を外される前の、その原型。
- カント
批判的継承 — 懐疑に「まどろみを破られた」と告白し、因果をアプリオリに救い出そうとした応答者がいる。
- アダム・スミス
伴走 — ヒュームの死の直後、追悼書簡「友人の死について」を公刊した終生の友。
- バートランド・ラッセル
継承 — ヒュームを「哲学史上最も重要な懐疑論者」と呼び、その帰納問題を分析哲学の枠で引き受けた人。
- フランシス・ベーコン
先駆 — ヒュームが「人間本性の学」の手本に名指しした、実験的方法の始祖。
さらに読むならFurther Reading
ヒュームの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門人性論 (一)
デイヴィッド・ヒューム / 訳: 大槻春彦 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
ヒュームが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
ヒュームを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「デイヴィッド・ヒューム」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "David Hume"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "David Hume"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "David Hume (1711—1776)"