バークリー
森の中で木が倒れたとき、 それは本当に音を立てているのか?
「存在するとは知覚されること」 ― 物質そのものを疑った観念論者
- 存在するとは知覚されること
- 観念論
- 非物質論
ニュートンの科学が世界を機械のように説明し始めた時代。神と心の居場所が、静かに揺らいでいた。 — ひらく
時代の空気
バークリーが生まれた1685年のアイルランドはイングランド系プロテスタント地主層が土地と政治を握り、カトリック多数派は刑事法で公職と土地所有から排除されていた。トリニティ・カレッジに入った1700年は名誉革命後ニュートン『プリンキピア』(1687)とロック『人間知性論』(1690)で経験論と機械論的自然観が支配的、1707年に英スコットランド合同。1729年到着のロードアイランドは英領植民地で奴隷制下にあり、ウォルポール首相期の議会は植民地補助金を凍結、彼の大学構想は資金不達で潰えた。
01最後の日曜日
1753年1月14日、日曜日。イングランドのオックスフォード。一人の老人が、家族と部屋にいた。妻が声に出して、説教を読んでいる。老人は、その声に耳を傾けていた。
そのさなか、彼は突然倒れた。そして妻と子どもたちの前で、静かに息を引き取った。67歳だった。名はジョージ・バークリー。アイルランドの司教であり、哲学者だった。
彼は生涯、一つの考えを言い続けた人だ。「存在するとは、知覚されることである」。見られ、聞かれ、感じられること。それこそが「ある」ということだ、と。心の外に「物質」など無い、とまで言い切った。
なぜ彼は、そんなことを言い出したのか。物質は無いと説く人が、なぜ教会の司教として敬われたのか。なぜ海を渡り、大学まで建てようとしたのか。答えを探しに、時を68年前に戻そう。
02キルケニーの少年、ノートに問いを書く
1685年3月12日、彼はアイルランド南東部に生まれた。場所はキルケニー近郊のディスアート城。父ウィリアム・バークリーは、イングランド系アイルランド人の地主だった。土地と秩序の中で、少年は育った。
11歳で、キルケニー・カレッジに入学する。ここはも学んだ名門校だった。ラテン語、修辞学、聖書の読み方。学校は多くの知識を与えた。だが少年は、知識そのものの根拠を問い始めていた。
1700年、15歳でダブリンのに進む。数学、古典、哲学を修め、22歳で研究員(フェロー)の資格を得た。この頃のノートは「コモン・プレイス・ブック」として残っている。若い思索の足跡を、今もたどることができる。
出発点は、ジョン・ロックへの疑問だった。ロックはイングランドの哲学者。物質が感覚に「観念」(心に浮かぶ像や感じ)を与える、と説いた人だ。バークリーは問い返した。その物質そのものを、私たちはどうやって知るのか。
ページの隅に書き込まれた小さな問い。それがやがて、哲学史を揺るがす答えに育っていく。その答えは、思いがけないほど大胆だった。
03二十代の三部作 ― 世界は観念でできている
1709年、24歳でを出した。主題は「見る」ことの仕組みだ。遠さや奥行きは、目が直接つかむのではない。触った経験と結びついて、あとから学ばれる「記号」なのだ。生まれつき目の見えない人が突然視力を得ても、最初は距離が分からない。見ることは、読むことに似ている。
翌1710年、25歳でを出す。彼はまず、哲学者たちの議論の行き詰まりをこう皮肉った。
私たちはまず埃を立てておいて、それから見えないと不平を言う
世界を分かりにくくしているのは、世界ではなく哲学者の側だ。そう宣言した上で、彼は核心を打ち出す。
Esse est percipi — である
リンゴを見るとき、私たちが受け取っているのは何か。赤さ、硬さ、甘さという、感じの集まりだ。その奥に「物質」という土台を置く根拠は、どこにもない。彼はそう断じた。この立場は「」と呼ばれる。
1713年、28歳でを出す。物質を信じるハイラスと、信じないフィロヌースの対話劇だ。「熱さや冷たさは心の中にある」という議論で、感じられる性質がすべて心にたよることを鮮やかに示した。一般の読者にも読める形で、である。
三冊はすべて、20代の仕事だった。哲学史でもまれな早さの体系づくりとして、今も語り継がれる。だが彼は、書斎の哲学者で終わるつもりはなかった。
04ロンドン社交界とヨーロッパ旅行
1713年、バークリーはロンドンへ向かった。三冊の本で名を知られた彼を、文人たちの社会は自然に迎え入れた。諷刺作家ジョナサン・スウィフト。詩人。随筆家ジョゼフ・アディソン。スウィフトは彼を「天才的な哲学者にして、人類がほぼ知らない美徳の持ち主」と評し、宮廷や文芸サロンに引き合わせた。
1713年から1721年にかけて、二度ヨーロッパを旅する。フランス、イタリア、シチリア。古い遺跡と現代の宮廷の両方を、目に焼き付けた。ローマではバチカンの美術を観察し、自分の視覚理論を実地で確かめた。ラファエロの絵の前で、目が「読む」ということを考えた。
知覚こそが存在なら、芸術は存在を創り出す行為でもある。旅の中で、その考えは重みを増していった。そして帰った彼の胸に、とほうもない計画が芽生える。
05大西洋を渡った夢
1724年、彼は新世界に理想の大学を建てる構想を描き始めた。予定地は大西洋のバミューダ諸島。そこに神学校を建て、植民地の入植者と先住民の若者を共に教育する。学びと信仰を一体に育てる場を、作ろうとしたのだ。知識人たちは熱狂した。詩人ポープは「あなたの計画は不死だ」と書き送った。
英国議会から、2万ポンドの補助金の約束を取り付けた。1728年秋、43歳で自ら大西洋を渡る。翌1729年1月、妻アン・フォースターと共に英領ロードアイランドのニューポートに着いた。資金の到着を待ちながら、約2年半をこの地で過ごす。農園を買い、土地の牧師や知識人と交わった。説教を行い、奴隷にも洗礼を授けた。
しかし、約束の金は来なかった。英国政府は首相の指示のもと、植民地への財政支出を凍結したのだ。夢は砕けた。1731年、農園の書籍と備品をエール大学に贈り、アイルランドへ帰国した。
この旅は、思わぬ形で歴史に名を残す。1868年、カリフォルニア大学が彼の詩の一句「西方へと帝国の星は進む」にちなみ、バークレーの地名と校名を冠したのである。敗れた夢を抱えて帰った哲学者に、教会は次の仕事を用意していた。
06クロインの司教として
1734年、49歳でアイルランドのクロイン(Cloyne)の司教に任命された。以後18年間、農村の小さな教区を拠点に生きる。哲学と宗教と社会の問題を、行き来し続けた。
1744年には、奇妙な本(Siris)を出す。始まりはタール水の話だ。松から採ったタールを水に浸して得た液で、薬になると彼は考えた。クロインで流行した疫病への処方として書いたのだ。ところが話は次第に、宇宙の秩序をめぐる話へと登っていく。民衆の病と魂の救いを、同じ一つの関心から論じた本だった。
批評家たちは、この本の奇妙な跳躍を笑った。だが彼は意に介さなかった。笑われても平気だったのは、彼の中で一本の筋が通っていたからだ。その筋を、ここで確かめておこう。
07物質なき世界の設計図
バークリーの体系の核心は、若き日の三部作で既に完成していた。『視覚新論』(1709)は、距離や奥行きが目で直接感知されるのではなく、触覚の経験と結びついた「観念の記号」として学習されると論じた。視覚と触覚の複合という、この知覚理論が土台となる。
『人知原理論』(1710)はその上で、観念の担い手としての物質的実体を仮定する必要はなく、知覚されない物質が独立して存在するという想定は不要だと断じた。物体は感官に与えられる観念の束であり、それ以上でも以下でもない。感覚的物体の存在は知覚に尽きるが、知覚する精神や神はこの原則の外に立つ。ここにとも呼ばれる彼の非物質論の骨格がある。
では、誰も見ていない木は消えるのか。バークリーの答えが「」である。神のみが世界を知覚し続けることで、物質なき宇宙の一貫性が保たれる――1710年の『人知原理論』と1713年の『三つの対話』で既に定式化されていたこの立場を、司教時代のバークリーは社会論・宗教論の場へと広げていった。物質的世界の存在を当然の前提とする思想が、無神論や懐疑主義を育てると彼は見ていたのである。ロック哲学への批判は、司教としての職務と地続きだった。
晩年の『シリス』も、この筋の延長にある。タール水の薬効を論じるところから始まり、次第に的な形而上学へと移行する異色の著作だが、物質の最小単位から宇宙の秩序まで、すべてを精神の働きとして読み解こうとする点で、非物質論の集大成といえる。民間療法の紹介に見えた本は、体系の最後の一章だったのだ。
こうして筋は一本につながる。ならば、その筋の終わりに何が待っていたか。もう一度、あの日曜日に戻ろう。
08ふたたび、オックスフォードの日曜日
1752年、バークリーはクロインを離れ、オックスフォードへ移住した。18年間務めた司教の職を去ったのは、息子ジョージの大学入学に付き添うためだった。家族と学問の場が交わるこの街は、最後にふさわしい場所だった。
そして1753年1月14日、日曜日。冒頭の場面である。妻が傍らで説教を読み、彼はそれを聴いていた。そのさなかに倒れ、家族の前で静かに息を引き取った。遺体はクライスト・チャーチ大聖堂に葬られた。妻アンは書き残している。「死の直前まで穏やかで、苦しんだ様子がなかった」。
「存在するとは知覚されること」と説いた人が、知覚する家族に囲まれて、知覚することをやめた。だが彼の理屈では、それで世界が消えるわけではない。誰も見ていない木も、見続ける存在がある限り、あり続けるのだから。
では、あなたが今この頁から目を離したとき。ここに書かれたバークリーは、どこに「ある」のだろうか。
09主要な出来事と著作
- アイルランド・キルケニー近郊に誕生。父はイングランド系アイルランド人の地主
- ダブリンのトリニティ・カレッジに入学。ロックの認識論に触れ、物質概念への疑問を深める
- 『視覚新論』刊行(24歳)。距離知覚が触覚と観念の結合であると論じる
- 『人知原理論』刊行(25歳)。「Esse est percipi」を定式化し、非物質論を確立
- 『ハイラスとフィロヌース』刊行。ロンドンへ移り、スウィフト・ポープらと交流
- バミューダ大学構想のため渡航。1729年ニューポート到着、資金到着を待ち約2年半滞在後に帰国
- クロイン司教に任命(49歳)。以後18年間アイルランドの農村で神学・哲学に従事
- 『シリス』刊行。タール水の薬効を論じながら新プラトン主義的形而上学を展開
- オックスフォードで家族と過ごす中、日曜日に急逝。享年67。クライスト・チャーチに埋葬
残した思想の輪郭
- 非物質論(イマテリアリズム) ― 物質は存在せず、世界は精神と観念のみで構成される
- Esse est percipi ― 存在するとは知覚されること。感覚的物体の存在は知覚(知覚するか・されるか)に尽き、知覚する精神や神はこの原則の外に立つ
- 神の持続的知覚 ― 誰も見ていない木が存在し続けるのは、神が常に知覚し続けているからだ
- 視覚理論 ― 奥行きや距離は学習された観念であり、視覚と触覚の複合である
- バークレー校の語源 ― カリフォルニア大学バークレー校は彼の詩句「西方へと帝国の星は進む」にちなんで命名された
つながり
- デカルト
先駆 — 「存在するとは知覚されること」が狙い撃ちにした延長実体——その概念の設計者。
- ヒューム
批判的継承 — 観念論を引き継ぎ、精神も因果も自己も解体して、神の保証まで取り払った後継者がいる。
さらに読むならFurther Reading
バークリーの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門人知原理論
ジョージ・バークリ / 訳: 大槻春彦 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
バークリーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- クライスト・チャーチ大聖堂(オックスフォード)墓所
オックスフォード, イギリス
1753年没、身廊の大きな記念碑は詩人アレクサンダー・ポープによる銘を持つ。ジョン・ロック記念碑の近くに並ぶ
さらに辿るならExternal References
バークリーを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ジョージ・バークリー」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "George Berkeley"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "George Berkeley"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "George Berkeley (1685—1753)"