フィンセント・ファン・ゴッホ
売れない絵を、 なぜ十年も描き続けられたのか?
焼けるような筆致で内面の嵐を描き弟への書簡を残した孤独な画家
- 向日葵
- 星月夜
- 書簡集
写真が広まり、「絵にしかできないことは何か」を画家たちが探しはじめた時代。 — ひらく
時代の空気
一八五〇年代のオランダ南部、改革派教会の牧師館に長男が生まれた。父は説教壇に立ち、叔父たちは画商を営む家系だった。十六歳でハーグのグーピル商会に見習いに入り、ロンドン・パリと転勤、解雇後はベルギー・ボリナージュの炭鉱で平信徒伝道師として藁の上に寝た。一八八〇年に画家へ転じ、ハーグ派の暗い色調で出発したのち一八八六年パリへ出て印象派・新印象派・浮世絵を一気に吸収する。一八八八年アルルの黄色の家でゴーガンと共同生活を試み、その決裂と耳切事件、サン=レミ療養院、オーヴェールでの最後の七十日まで、弟テオの仕送りと書簡だけが命綱だった。
01麦畑から戻った男
1890年7月27日の午後。パリ近郊の村で、一人の画家が画材を持って麦畑の方角へ出かけた。名はフィンセント・ファン・ゴッホ。37歳だった。
夕方、彼は胸に銃の傷を負って宿に戻ってきた。銃は見つからなかった。持って出たはずの画材一式も、現場から消えていた。彼は「自分でやった、誰も責めるな」と語ったと伝えられる。
彼がこの村に来て、まだ70日ほどだった。その間に描いた油彩は約80点。ほぼ一日に一枚を仕上げる速さである。それほど描くことに燃えていた男に、いったい何が起きたのか。
この「なぜ」に近づくには、彼の37年をたどるしかない。時は37年前。オランダの小さな村に戻る。
02自分と同じ名前の墓
1853年3月30日、フィンセントはオランダ南部の村ズンデルトに生まれた。父テオドロスはオランダ改革派教会の牧師。母アンナは製本業者の娘だった。一家は教会のそばの牧師館に暮らしていた。
彼が生まれるちょうど一年前の同じ日、同じ名前の兄が死産で生まれていた。教会の墓地には「フィンセント・ファン・ゴッホ」と刻まれた小さな石があった。少年は毎週日曜、自分の名と同じ墓石の前を通って礼拝に向かった。その影は、生涯にわたって彼の心にうっすらと差し続ける。
4歳下の弟テオが、生涯いちばんの理解者となる。二人は田舎の野原を歩き、鳥の巣を観察し、絵と本を分け合った。やがてこの兄弟の間を、膨大な手紙が行き交うことになる。
少年は気難しく、規則に従わず、父としばしば衝突した。16歳のとき、叔父の縁でハーグの画商グーピル商会に見習いとして入った。絵は好きだった。だが絵を「売り物」として見ることに、どうしてもなじめなかった。この違和感が、やがて彼の人生を大きく曲げていく。
03失敗だらけの二十代
20歳でロンドン支店へ、続いてパリ本店へ移った。ロンドンでは下宿の娘に恋をして、断られ、深く沈んだ。客への態度は荒れ、1876年、23歳で解雇された。
そこから四年、彼は職を転々とする。イギリスで英語教師、オランダで書店員。牧師を目指した神学の準備も、途中で挫折した。最後にたどり着いたのは、ベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュだった。
彼はそこで、資格を持たない平信徒の伝道師として働いた。坑夫たちの極限の貧しさを目にして、自分のパンも服も分け与え、納屋の藁の上で寝た。しかし教会はこの「熱心すぎる」行動に当惑し、彼の任期を更新しなかった。信仰の道でも、彼は行き場を失った。
1880年夏、27歳。すべてに失敗した彼は、ブリュッセルの下宿で決意する。絵を描いて生きる、と。テオへの手紙に「僕はようやく自分の道を見つけた」と書いた。テオは画商として、兄を生涯支え続けることを約束した。この弟の決断が、フィンセントをゴッホにした。
だが、道を見つけることと、その道を歩き通せることは、別の話である。
04暗い色の修業
彼はオランダ各地を移りながら、ほぼ独学で絵を学んだ。ハーグでは親戚の画家に短期間ついた。同じ頃、子連れの女性シーンを家に迎え、家族のように暮らした。父も叔父も激怒し、支援を盾に別れを迫った。一年余りで、この暮らしは壊れた。
手本にしたのは、フランスの画家だった。『種まく人』などで、働く農民を深い敬意をこめて描いた人である。フィンセントはその素描を、何度も何度も模写した。
1885年、父が急死する。家族との関係は悪化した。同じ年、彼はを描き上げた。暗い色と荒々しい筆で、一家五人が夕食のじゃがいもを囲む場面である。彼はこれを最初の「完成した」作品と考えた。だが世間の評判は冷たかった。
彼はベルギーのアントワープに移り、美術学校に少しだけ通った。ここで初めて、日本のを本格的に手に入れる。父の死後の断絶もあり、彼は二度とオランダに戻らなかった。彼にまだ足りないもの。それは、色だった。
僕は絵で人々の心に届きたい ― 彼らに「彼は深く感じ、彼は柔らかく感じる」と言わせたい
05パリで色が変わる
1886年の早春、彼は予告もなくパリのテオの部屋に現れた。テオは印象派の絵を扱う画商になっていて、兄をモンマルトルの部屋に住まわせた。ここからの二年間が、彼の色を根本から変える。
パリには新しい絵があふれていた。光を明るい色で捉える印象派。細かい色の点で画面を埋める。そして日本の浮世絵。彼は広重の版画を油彩で模写し、カフェで浮世絵の展覧会まで開いた。彼の画面は、暗い土色から、燃えるような黄と青へ変わっていった。
ロートレックやベルナール、そして気難しい画家とも知り合った。自画像も繰り返し描いた。だが都会の暮らしは、議論と酒と夜更かしの連続で、彼の心身をすり減らした。1888年2月、彼は南へ向かう列車に乗る。降り立った先は、南フランスの町アルルだった。
06黄色の家の夢
アルルでの十五ヶ月は、生涯で最も実り多い時間になった。油彩200点以上、素描100点以上。南仏の強い太陽の下で、麦畑、糸杉、夜のカフェ、郵便夫ルーランの一家を描いた。友人を迎える部屋を飾るために、『ひまわり』の連作も生まれた。
彼は町外れに「」を借りた。画家たちが共同で暮らし、共に描く場所。それが彼の夢だった。手紙で熱心に誘い続け、1888年10月、ついにゴーガンがアルルに来た。昼は並んで絵を描き、夜は酒を飲んで議論した。だが理屈で考えるゴーガンと、感情で動くフィンセントは、次第にぶつかっていった。
1888年12月23日の夜、フィンセントは剃刀で自分の左耳を切った。のちに「」と呼ばれる出来事である。彼は紙に包んだ耳を近所の女性ガブリエルに届け、意識を失って病院に運ばれた。ゴーガンはほどなくパリへ去った。黄色の家の夢は、一夜で終わった。
なぜ耳を切ったのか。その理由は、いまも分かっていない。
僕は、絵が音楽のように慰めになればと願う。永遠のものを、光輪のシンボルによって描こうとしているのだ ― 色彩の輝きと振動によって。
07療養院の窓から
1889年5月、彼は自ら望んで、サン=レミの療養院に入った。元は修道院だった建物である。ここで一年余りを過ごした。発作は不定期に彼を襲い、数日間、意識を乱した。だが発作の合間、彼は驚くほどの集中力で描いた。
病室の窓から見える麦畑。修道院の中庭。ねじれながら空へ伸びる糸杉と、オリーブの木々。もここで生まれた。渦を巻く夜空は、実際の風景に想像を重ねた画面だった。
1890年1月、思いがけない知らせが届く。批評家が、雑誌で彼を高く評価する記事を書いたのだ。生前ほぼ唯一の、本格的な賞賛だった。同じ月、ブリュッセルの展覧会で『赤い葡萄畑』が400フランで売れた。生涯で確実に売れたと分かっている油彩は、この一点だけである。
十年目にして、ようやく認められはじめた。その矢先、彼は北へ戻る決意をする。
星を見るといつも、僕は夢を見るんだ。地図の上の黒い点が都市や町を示すように、空の光の点にもどうして手が届かないのだろう、と
08ふたたび、麦畑へ
1890年5月、彼は北へ戻った。パリでテオの妻ヨハンナ・ボンゲルと、生まれたばかりの甥に会う。甥の名はフィンセント。伯父と同じ名前だった。三日後、彼はパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズへ移る。医師に診てもらうためだった。ガシェは自分でも絵を描き、画家たちを支える人でもあった。
オーヴェールでの70日間、彼は約80点の油彩を描いた。麦畑、教会、ガシェの肖像、カラスの飛ぶ麦畑。筆は最後まで止まらなかった。
そして1890年7月27日の午後。物語は、冒頭の場面に戻る。彼は画材を持って麦畑の方角へ出かけ、夕方、胸に銃の傷を負って宿に帰った。狭い二階の部屋で、約30時間苦しんだ。知らせを受けたテオが、パリから駆けつけて枕元についた。
7月29日午前1時30分頃、彼はテオの腕の中で息を引き取った。37歳。画家になると決めた日から、ちょうど10年だった。テオも兄の死から半年後、33歳で亡くなった。のちに妻のヨハンナがテオの墓をオーヴェールに移し、兄弟はいま、麦畑のそばに並んで眠っている。彼女はさらに、十年がかりで兄弟の手紙を集めて出版した。ゴッホの名が世界に知られたのは、この手紙たちからだった。
「自分でやった、誰も責めるな」。麦畑から戻った日の言葉を、もう一度思い出してほしい。10年間、売れない兄を支え続けたのは誰だったか。あの言葉が誰を守ろうとしていたのか、あなたにはもう見えているはずだ。
それでも、最後の問いは残る。ほとんど誰にも認められないまま、十年描き続ける。あなたなら、何がそれを支えると思うだろうか。
09考証 ― 耳と銃をめぐる謎
耳切事件については、耳全体か一部かをめぐって長く論争があった。一部という説が長く通説だったが、2016年に治療担当医フェリックス・レーが描いた素描の発見で、耳全体に近いとの見方も強まった。切った耳は紙に包まれ、娼家の女性ガブリエル(伝承では「ラシェル」)に届けられたことが記録に残る。
事件の正確な動機は今も謎だ。ゴーガンへの抗議、てんかん的発作、幻覚聴——研究者は諸説を提示しているが決着はない。「梅毒による」など古典的仮説も挙がってきたが、現代の医学史からは支持が弱い。本ページもセンセーショナルな断定は避け、書簡と医療記録に残った言葉だけを根拠に進める。
死についても同様である。銃も画材一式も現場では見つからなかった。長く伝統的な自殺説が主流だが、2011年スティーヴン・ネイフェとグレゴリー・ホワイト・スミスの伝記研究では、地元の少年ルネ・スクレタンに偶然銃撃されたとする他殺・事故説が提起され、いまも学術的決着は付いていない(諸説あり)。フィンセント自身は意識のあるあいだ「自分でやった、誰も責めるな」と語ったとも伝わるが、その言葉自体が彼一流の弟への配慮だった可能性も指摘されている。本ページも自殺と断定せず、不確実性をそのまま残す。
最期の言葉として伝わる「La tristesse durera toujours(悲しみは永遠に続くだろう)」は、テオが妹ヴィルに宛てた手紙の中の記述であり、直接の録音でも遺言書でもない。ゴッホをめぐる名高い逸話の多くは、こうした間接的な記録の上に立っている。
10主要な出来事と著作
- 3/30 オランダ・ズンデルト牧師館に誕生(同名死産児の一年後の同日)
- グーピル商会で見習い、ハーグ・ロンドン・パリ。1876年解雇
- アムステルダム神学準備、ベルギー・ボリナージュで平信徒伝道、免許更新拒否
- 27歳、ブリュッセルで画家を志す。テオの経済支援開始
- ハーグでシーンと同居。義従兄モーヴェに師事
- ヌエネンの父の牧師館。1885年4月父テオドロス急死、『じゃがいもを食べる人々』
- アントワープ王立美術アカデミー、浮世絵に出会う
- パリでテオと同居、印象派・新印象派受容、自画像連作
- 2月アルル移住、5月黄色の家、8月『ひまわり』、10/23ゴーガン到着
- 12/23 自傷耳切事件、ゴーガンはパリへ去る
- 5月サン=ポール=ド=モーゾール療養院に自発入院、6月『星月夜』
- 1月オーリエの賞賛記事、『赤い葡萄畑』売却(生涯確認できる売却の主例)
- 5/20 オーヴェール=シュル=オワーズ移住、ガシェ医師の治療
- 7/27 麦畑で胸部銃創、7/29 午前1時30分頃死去、享年37
- 1/25 弟テオが過労と梅毒で33歳没。1914年オーヴェールで兄の隣に改葬
- テオ妻ヨハンナが書簡集を編纂出版、ゴッホの名声確立へ
残した跡の輪郭
- 色彩による感情の伝達 ― 青・黄・赤のコントラストが内面の緊張と希望を直接伝える
- 筆触の物質性 ― 塗り重ねた絵具の隆起そのものが画面の意味の一部になる
- 農民労働者への共感 ― ミレーを継承し、単純な労働と生活の尊厳を画面に定着させる
- 弟との書簡という並行芸術 ― 902通(うちTheo宛651通)の手紙が絵と不可分の「芸術論と人生論」の記録となる
- 病と創造の近さを断定で塗りつぶさない ― 発作と制作が交互に訪れる画家の自己観察を、伝記と医療記録の言葉のまま受け取る
つながり
全体のつながりを見る →さらに読むならFurther Reading
フィンセント・ファン・ゴッホの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門ゴッホの手紙
フィンセント・ファン・ゴッホ / 訳: 硲伊之助 / 岩波文庫
Amazonでこの版を探す →副読ファン・ゴッホの生涯
小林秀雄 / 新潮文庫
Amazonでこの版を探す →
※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。
生きた跡を辿るPlaces
フィンセント・ファン・ゴッホが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
フィンセント・ファン・ゴッホを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「フィンセント・ファン・ゴッホ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Vincent van Gogh"
公式EnglishVan Gogh Museum(アムステルダム)公式サイト
世界最大のファン・ゴッホ作品コレクション