夏目漱石
自分の物差しで 生きるとは?
ロンドンの孤独を経て近代日本人の内面を書き切った、漱石山房の主
- 則天去私
- 自己本位
- 近代の孤独
国じゅうが西洋に追いつこうと走り、心が置き去りになった時代 — ひらく
時代の空気
慶応三年に江戸の名主の家に生まれ、翌年の明治維新と共に育った。急速な西洋化のなか、帝国大学英文科で英文学者として鍛えられ、文部省留学生として一九〇〇〜〇二年のロンドンで近代帝国の物質と孤独に晒された。日露戦争前後、知識人は国家主義と個人主義のあいだで揺れた。福澤の脱亜論に懐疑を抱きつつも、漱石は東京帝国大学の権威を退き、新聞小説という大衆媒体に身を移した。漱石山房の木曜会に寺田寅彦・芥川龍之介・安倍能成らが集い、大正デモクラシー前夜の精神を育てた。
01書きかけの小説
1916年12月9日の夕方。東京・早稲田南町の書斎で、ひとりの作家が息を引き取った。書斎の通称は漱石山房。主の名は夏目漱石、49歳。朝日新聞の専属作家として、広く読まれていた小説家である。
書きかけの小説が残されていた。連載中のである。その半月あまり前の11月22日、漱石は『明暗』を書き進めながら、大量に血を吐いた。持病の胃潰瘍(胃の壁が深くえぐれる病気)の再発だった。小説は第188回で止まり、続きが書かれることは二度となかった。
考えてみれば、ふしぎな作家である。小説家として世に出たのは37歳。それまでは英語の教師だった。しかも東京帝国大学の職を、自分から捨てたことがある。なぜ遅れて現れ、なぜ大学を捨て、なぜ血を吐くその日まで書き続けたのか。
その答えを探すには、時計の針を49年、巻き戻さなくてはならない。江戸という時代が、終わろうとするころへ。
02何度も預けられた子
1867年の初め、江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)で生まれた。父・夏目小兵衛直克は、この町の名主(町のまとめ役)を務める旧家の主だった。母・千枝との間の五男三女の末っ子である。本名は金之助。「庚申の日に生まれた子は大泥棒になる」という迷信があり、名前に「金」の字を入れると難を逃れる、と付けられたという説も伝わる。
年老いた両親にとって、末っ子は重荷だった。生まれてすぐ、四谷の古道具屋に里子に出された。翌年いったん戻されたが、2歳で塩原昌之助夫妻の養子に出された。塩原家の夫婦仲が壊れ、9歳で実家に帰る。だが今度は、実の父母を「お祖父さんお祖母さん」と呼ばされた。ねじれた少年時代である。母の千枝はこのころすでに病んでおり、1881年に亡くなった。戸籍の上で夏目家に戻れたのは、21歳のときだった。
自分の居場所が何度も書き換えられた経験は、晩年に至るまで漱石の内側に沈んでいた。それが文章の形になるのは、ずっと後のことだ。死の前年に書かれた(1915年)で、養父・島田との金銭をめぐる軋轢(もつれ、いさかい)として、静かに掘り起こされることになる。
その前に、この少年はひとりの友に出会う。人生の底流を決める友に。
03子規という友
東京府第一中学を中退し、二松学舎(漢文を教える私塾)で漢学を学んだ。1884年、大学予備門(のちの第一高等中学校。エリートの卵が集まる学校)に入学する。同期に、正岡がいた。のちに俳句を作りかえる文学者である。この友情が、漱石の人生の底を流れる川になった。
俳号(俳句を詠むときの名前)「漱石」は、もともと子規のものだった。「漱石枕流」という負け惜しみの故事から取った号を、1889年ごろ金之助が譲り受けたのである。同じ年、子規の漢詩文集『七草集』に、漱石の名で批評を寄せた。
1890年、帝国大学英文科(今の東京大学)に進んだ。だが英文学を学びながら、不安がすでに芽生えていた。「ただ英文学の幽霊に襲われているような気がする」。生涯くり返すことになる言葉である。1893年からは大学院に籍を置き、東京専門学校(今の早稲田大学)や東京高等師範学校で英語を教えた。
1895年、28歳で松山中学校の英語教師になる。松山には、病気で帰省していた子規がいた。市内の下宿・愚陀佛庵で、二人は52日間いっしょに暮らした。俳句を詠み合ったこの日々は、漱石が生涯で最も素直に「文学」に触れた時間でもあった。翌1896年、熊本の第五高等学校に移り、中根鏡子と結婚した。
教師の道は、順調に見えた。だが4年後、国からの一通の命令が、その道を大きく曲げる。
04ロンドンの底で
1900年9月、33歳。文部省の命令で、英国留学に旅立った。名目は英語教育法の研究である。だがロンドンで待っていたのは、世界一の帝国の都会の物質と、人種への差別と、深い孤独だった。留学費は乏しく、下宿を転々とした。本を買うために、食費を削った。「自分は狼の群れに混じった一匹の斑犬だ」と日記に書いている。
読み続けたのは、カーライルやメレディスといった英国の作家たちだった。そしてドイツ系の哲学者たちである。それは、英文学をより広い西洋思想の側から見つめ直す読書だった。この孤独の底で、漱石はひとつの言葉をつかむ。自己本位。他人(西洋)の物差しで自分の文学を測るのをやめ、自分を出発点にして考え直す構えである。後年の講演で、漱石自身がこう振り返っている。「私はこのという言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました」(1914年11月、での講演「私の個人主義」)。
だが発見は救いであると同時に、彼を追い詰めた。神経衰弱(心が疲れ果てて働かなくなる状態)である。文部省には「夏目発狂」の噂まで流れた。1903年1月、留学期間を終えて帰国する。壊れかけた心と、「自己本位」というたったひとつの武器を持って。
その武器が火を噴くまでには、もう少し時間がかかる。
05猫が開けた扉
1903年4月、第一高等学校と東京帝国大学文科大学の英語講師になった。前任者は(小泉八雲)。日本の怪談を英語で世界に伝えた作家である。ハーンの自由な講義に親しんだ学生たちは、文法に厳しい漱石を初めは冷たく迎えた。神経衰弱の発作もぶり返し、家では妻や子どもたちに当たり散らす日々が続いた。後年『道草』で、漱石はこの時期の自分を凝視し直すことになる。
1905年1月、転機は思わぬ形で来た。友人の高浜虚子が、病気療養中の漱石に執筆を勧めたのだ。書き始めたのがだった。俳句雑誌1月号に第一回が載ると、たちまち評判になり、連載となった。37歳。遅すぎる、そして鮮やかすぎる登場だった。続けて(1906年)、(同年)を立て続けに発表する。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい
「低徊趣味」「文」と呼ばれた初期の軽やかな文体は、子規の写生論の延長線上にあった。
そして1907年、40歳の漱石は世間を驚かせる。東京帝国大学を辞め、朝日新聞に専属作家として入社したのだ。月給二百円という、当時として破格の待遇だった。学問の府の職を捨て、新聞連載という大衆の場に文学を移す。この選択は、近代日本における「プロの小説家」という職業が生まれた瞬間の、象徴でもあった。物差しはもう、世間の側ではなく自分の側にあった。
だが、自分の物差しで書き続ける日々は、体を静かに削っていた。
06三十分の死
1910年夏、43歳。胃病のため、伊豆の修善寺温泉・菊屋旅館で療養していた。8月24日、大量に血を吐いて危篤(命が危ない状態)に陥る。一時は約三十分にわたり、心拍が止まった状態になった。後に「修善寺の大患」と呼ばれる出来事である。
死の淵から戻った経験は、漱石の作品を一段深くした。の前期三部作(1908〜1910年)に続き、『彼岸過迄』(1912年)、『行人』(1912〜13年)、(1914年)へ。後期三部作と呼ばれるこれらの作品は、人間の罪と孤独、他者との不可能な関係を、執拗なまでに掘り下げていく。
『こゝろ』下「先生と遺書」は、親友Kを裏切って恋人を得た男の手記である。彼は親友の自死を背負って生き、明治天皇の崩御(天皇の死去)との殉死(主君の死を追って自ら死ぬこと)を機に、自ら命を絶つ。近代日本人の自我(「私」という意識)と、その裏側にある後ろめたさを、漱石は一行一行、噛み締めるように書いた。
この暗さの一方で、彼の家には毎週、若い声が響いていた。
07木曜日の集い
1906年ごろから、早稲田南町の自宅の書斎には、毎週木曜日の午後、文学青年たちが集まるようになった。書斎の通称が、集いが木曜会である。小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、寺田寅彦、和辻哲郎、内田百閒、安倍能成。そして1910年に入門してきた芥川龍之介、久米正雄、菊池寛。のちの大正文壇と、哲学のの周辺を担う顔ぶれが、ここで育った。
漱石は若い弟子たちに威張らなかった。対等の口ぶりで、文学と人生を語った。1916年2月には、第四次『新思潮』創刊号に載った芥川の「鼻」を、手紙で激賞している。「描写が正確で、同人一流の機知がある。もう二、三編こんなものを書いてごらんなさい」。この手紙が、芥川を文壇に押し出した。
1911年8月には、和歌山で講演「現代日本の開化」を行った。西洋の開化は内側から自然に育つ内発的なもの。対して日本の開化は、外から押されて進む外発的なものにならざるを得ない。それゆえ「皮相上滑り」、つまり表面だけを滑っていくものになる ― そう診断した。国じゅうが西洋化に走る時代への、冷静で苦い見立てである。木曜会に集う青年たちにとって、漱石は父であり、兄であり、師であった。
その師が晩年、くり返し口にした言葉がある。
08天に則り、私を去る
則天去私。天に則り、私を去る。自分という小さな囲いを超え、より大きな自然や運命に身を委ねる境地を指している、と解された。1914年11月、学習院輔仁会で行われた講演「私の個人主義」で、漱石は自己本位が利己心 ― つまり自分勝手 ― とは異なることを丁寧に説いている。
私の個人主義というものは、自分が自分で、他人が他人という個人主義なのです。
「」は、その自己本位の先で、東洋的な無私へ至ろうとする晩年の到達点でもあった。ただしこの言葉は、弟子たちの記録にのみ残る。漱石自身が書物の中で明確に定義したわけではない。このため解釈は、現在も議論が続いている。
そして1916年11月22日。連載中の『明暗』を書き進めながら、漱石は大量に吐血した。胃潰瘍の再発である。12月9日の夕刻、漱石山房の病床で息を引き取った。享年49(満49歳)。『明暗』は第188回で未完に終わった。葬儀は12月12日、青山斎場で営まれた。受付には門下の芥川龍之介、久米正雄らが立ち、葬列には当時の文壇・学界の主要人物が並んだ。戸籍上の実名は「夏目金之助」。墓は雑司ヶ谷霊園にあり、戒名は「文献院古道漱石居士」。
私たちは、冒頭の書斎に戻ってきた。何度も家を移された子ども。友から号を譲られた学生。ロンドンの孤独の底で「自己本位」をつかんだ留学生。40歳で大学の職を捨てた教師。一度心拍が止まっても、なお書き続けた小説家。彼が最後まで手放さなかった物差しが何だったのか、もう見えているはずだ。
では、あなたはどうだろう。いま、誰の物差しで生きているだろうか。自分が自分で、他人が他人 ― そう静かに言える場所に、立てているだろうか。
09主要な出来事と著作
- 江戸牛込馬場下横町に誕生(陰暦慶応3年1月5日)。本名金之助、夏目家の末子
- 里子・養子(塩原家)を経て9歳で実家に戻る。戸籍上の復籍は21歳
- 大学予備門で正岡子規と出会う。帝国大学英文科進学
- 松山中学校赴任。愚陀佛庵で子規と同居
- 第五高等学校(熊本)赴任。中根鏡子と結婚
- 英国留学(ロンドン)。神経衰弱で「夏目発狂」の噂、帰国命令
- 第一高等学校・東京帝国大学文科大学講師(ハーンの後任)
- 『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に連載開始
- 『坊っちゃん』『草枕』刊行
- 東大を辞し朝日新聞入社、専属作家となる
- 前期三部作『三四郎』『それから』『門』を朝日新聞に連載
- 修善寺の大患(8月、胃潰瘍の大吐血、約30分の心拍停止)
- 和歌山講演「現代日本の開化」で内発的・外発的開化を論じる
- 『こゝろ』連載。11月、学習院で「私の個人主義」講演
- 自伝的長編『道草』連載 ― 唯一の自伝的長編で養父島田との金銭の軋轢を描く
- 『明暗』連載中に胃潰瘍再発、12月9日早稲田南町で死去。享年49
残した思想の輪郭
- 自己本位 ― ロンドンで掴んだ「他者の尺度で自分を測らず、自分を出発点に考え直す」という個人主義の核心
- 則天去私 ― 晩年の境地とされる言葉、小さな自我を超え運命に身を委ねる態度(解釈は諸説)
- 内発的・外発的開化 ― 西洋に追いつく日本の近代化を「皮相上滑り」と診断した文明論(『現代日本の開化』)
- 近代の孤独と罪 ― 『こゝろ』『行人』『門』に結晶した、他者と本当に繋がることの不可能性への凝視
- 文と学の往還 ― 英文学者としての訓練と漢詩俳句の素養を両輪に、日本語の近代散文を鍛えた
- 木曜会の父 ― 芥川・久米・菊池・寺田・和辻ら大正文壇と京都学派周辺を育てた私塾的サロンの主
- 朝日専属作家という職業 ― 大学を辞し新聞連載を本務にした、近代日本で最初期の「プロの小説家」
つながり
- 森鴎外
同時代 — 観潮楼歌会を主宰した独逸派の雄。明治文壇のもう一方の双璧。
- 芥川龍之介
継承 — 「あんなものを二三十並べて御覧なさい」——そう激励された若者の、その後。
- 正岡子規
伴走 — 「漱石」の号はこの人から。松山では一つ屋根の下に暮らした。
- 小林秀雄
共鳴 — 漱石の「自己本位」を批評の出発点に響かせ、生涯読み続けた批評家がいる。
- 司馬遼太郎
対比 — 半世紀後、同じ明治を「楽天家たち」の物語として外から書いた人がいる。
- 養老孟司
継承 — のちの世に、『坊っちゃん』を「身体」の抑圧史として読み替えた解剖学者がいる。
- 紫式部
先駆 — 明治の小説家たちが遡った心理描写の水脈は、平安の宮廷で書かれていた。
- 和辻哲郎
継承 — 木曜会の最年少は、後に漱石文学の孤独を「間柄」の倫理学で乗り越えようとした。
さらに読むならFurther Reading
夏目漱石の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門こゝろ
夏目漱石 / 岩波文庫
Amazonでこの版を探す →副読漱石文明論集
夏目漱石 / 訳: 三好行雄 編 / 岩波文庫
Amazonでこの版を探す →原著 / 英訳Kokoro
Natsume Soseki / 訳: Meredith McKinney / Penguin Classics
Amazonで原著を探す →
※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。
生きた跡を辿るPlaces
夏目漱石が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
夏目漱石を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「夏目漱石」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Natsume Sōseki"
著作権切れ作品を多数収録