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風土の知恵

芥川龍之介

Akutagawa Ryūnosuke·1892–1927·日本·

ぼんやりとした不安は、 どこから来るのか?

王朝物から現代小説まで、精密な短編で人間の闇を切り出した「鬼才」の35年

  • 羅生門
  • 短編の精密
  • ぼんやりとした不安
新しい文学の熱気のかげで、知識人たちは眠れない夜をかかえていた — ひらく

時代の空気

明治末から大正、昭和初期の東京は近代化と西欧文学受容の頂点で、田端には室生犀星・菊池寛・堀辰雄らが集まる「田端文士村」が形成されていた。夏目漱石の木曜会が文壇の中心をなし、第三次・第四次『新思潮』など同人誌から新人作家が押し出された。大正10年(1921年)、大阪毎日新聞特派員として中国を四ヶ月旅し、近代化の歪みと健康の悪化を持ち帰る。昭和初期の知識人は不眠と神経衰弱に苦しみ、ベロナールなどバルビツール酸系睡眠薬の常用が広がっていた。

011927年7月24日、夜明け前

1927年7月24日、夜が明ける前の東京・田端。自宅の寝室で、ひとりの作家が自ら命を絶った。致死量の睡眠薬(など)を服用したのだった。まだ35歳だった。

枕元には聖書が置かれていた。遺稿も残されていた。『』。そして。どちらも、死の気配に満ちた作品だった。

遺書は何通もあった。妻の文と子どもたちへ。友人のへ。そして親友のに宛てた一通は、「或旧友へ送る手記」と題されていた。その中で彼は、自分が死ぬ理由をこう書いた。

僕の将来に対する唯である。

遺書「或旧友へ送る手記」(1927年7月)。親友・久米正雄に宛てて、自死の理由を記した一句

彼の名は芥川龍之介。で知られ、当時の文壇ぶんだん(文学の世界)で「鬼才」と呼ばれた作家である。名声も、家族も、仲間もあった。それなのに、なぜ「ぼんやりした不安」が彼を死へ導いたのか。

答えを探すために、時を35年前に戻そう。

02龍の年に生まれた子

1892年3月1日、東京の入船町いりふねちょうに男の子が生まれた。父の新原敏三は、牛乳製造業「耕牧舎こうぼくしゃ」の支配人だった。辰の年、辰の月、辰の日、さらにたつの刻の生まれとされる。龍にちなんで、名は「龍之介」となった。

生まれて7ヶ月のとき、母フクが心の病に倒れた。母は回復しないまま、1902年に亡くなった。龍之介は母の実家である芥川家に引き取られた。育てたのは伯母のフキだった。1904年には正式に芥川家の養子となり、伯父の道章が義理の父になった。

「母の病は、自分にも受け継がれているのではないか」。この恐れは、生涯にわたって彼の心を離れなかった。のちの作品や手記にも、その恐怖は繰り返し顔を出す。

その恐れを胸の底にかかえたまま、少年はやがて、生涯の仲間たちと出会う。

03漱石からの手紙

府立三中を出て、第一高等学校(いまの大学の教養課程にあたる学校)へ進んだ。ここで菊池寛、久米正雄、松岡譲、成瀬正一らと出会う。1913年には東京帝国大学の英文学科に入学した。1914年、菊池や久米、山宮允らと同人誌、第三次『新思潮』を創刊。1916年2月には第四次『新思潮』を立ち上げた。

その創刊号に、短編「鼻」を発表した。これを読んだのが、当時の文壇の中心にいた作家、夏目漱石である。漱石は芥川に手紙を送り、この作品をほめたたえた。「ああいうものを是から二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます」。この手紙が、芥川を文壇へ押し出した。

以後、芥川は漱石の家で開かれる集まり「木曜会」に加わった。『新思潮』の仲間たちとともにと呼ばれ、漱石門下の若手として、急速に注目を集めていく。

だが実はこのとき、芥川にはすでに世に出していた一編があった。ほとんど誰にも気づかれないままの一編が。

04千年前の物語に、今の心を

その一編が『羅生門』である。前年の1915年11月、大学在学中に雑誌『帝国文学』へ発表していた。舞台は平安時代の京都、荒れ果てた羅城門らじょうもん。職を失った下人げにんと、死人の髪を抜く老婆ろうばのやり取りを描いた。だが発表当時、反響はほとんどなく、『鼻』のあとでようやく読み直された。

素材は『』や『宇治拾遺物語』という、昔の説話集から取った。千年前の物語の枠に、今を生きる人間の心を移し入れる。この手法で『芋粥』と作品を連発した。これが芥川の代表的な型となった。

1916年7月、東大を卒業した。卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」。12月からは横須賀の海軍機関学校で英語の教官を務めた。月給は60円。やがて原稿料が、この月給を上回るようになっていく。

1918年、実業家の娘、塚本文と結婚した。1919年3月、教官を辞めて専業作家になった。大阪毎日新聞と社友しゃゆう契約を結び、筆一本で生きる道を選んだのである。その新聞社が2年後、彼を長い旅へ送り出すことになる。

05中国への旅、四ヶ月

1921年3月、29歳の芥川は大阪毎日新聞の特派員として中国へ渡った。上海、南京、漢口、北京、蘇州、杭州、洛陽など、約4ヶ月におよぶ取材旅行だった。彼はそこで、中国の風物と、近代化のひずみを見聞きした。だが旅の途中から、体調を崩してしまう。

帰国後、旅の記録を『支那游記』(『上海游記』『江南游記』など)にまとめた。この旅は、芥川の健康と神経に深い傷を残したとされる。

このころから、作風が変わっていく。千年前の王朝の物語から、現代の生活や自分自身を描く小説へ。書く題材が、外の物語から、自分の内側へと移っていった。

しかし内側を見つめることは、彼にとって危険なことでもあった。そこには、幼いころからかかえてきた、あの恐れが待っていたからだ。

06田端の夜、眠れないまま

1914年の末から、芥川は東京の田端に住んだ。以後、亡くなるまで田端で暮らす。まわりには室生犀星、菊池寛、堀辰雄ら、多くの文学者が住んでいた。この一帯は「」と呼ばれた。

晩年の芥川は、不眠と神経衰弱しんけいすいじゃく(心がすり減り弱ってしまう状態)に苦しんだ。ベロナールやカルモチンという睡眠薬を、常用するようになった。母の発病を知る彼にとって、自分の神経の不調は「母の血」への恐怖と重なった。この恐れは、遺稿『或阿呆の一生』の「狂人の娘」の章などに、彼自身の筆で繰り返し現れる。

1927年1月には、義理の兄・西川豊が鉄道自殺した。保険金目当ての放火の疑いをかけられての死だった。残された家族の負債が、芥川の肩にのしかかった。親友の作家・宇野浩二が精神を病んで入院し、見舞った経験も、彼を深く揺さぶった。「自分もやがて――」という予感が、遺書の各所に現れる。

それでも彼は、ペンを置かなかった。最後の一年、書き続けながら、一つの論争へ踏み込んでいく。

07「話らしい話のない小説」――谷崎との論争

1927年2月から、芥川は谷崎潤一郎と「筋のない小説」論争を繰り広げた。雑誌『改造』で谷崎が「饒舌録」を連載し、芥川が「文芸的な、余りに文芸的な」で応じた。谷崎は小説の構成と筋の面白さを重視し、芥川は「筋のない、詩に近い純粋な小説」の可能性を擁護した。

この論争は、芥川にとって文学観の公然の表明だったと同時に、自身の創作の行き詰まりの表白でもあった。**「話らしい話のない小説」**の追求は、『歯車』『或阿呆の一生』の断章的構造に結実するが、同時に芥川は「小説家として書きうるものを書き尽くしたのではないか」という予感に苛まれていた。

最晩年の作品群は、この緊張の中で書かれた。(1927年3月、『改造』)、『玄鶴山房』(1927年1〜2月)、『蜃気楼』(1927年3月)。『歯車』は1927年に執筆され、第一章のみ同年6月『大調和』に生前発表、全六章は没後10月『文藝春秋』に掲載された。『或阿呆の一生』は遺稿として残された。どれも病と不安と自死の気配に満ちている。

論争は未決のまま、夏に中断することになる。

08ふたたび、7月24日

場面は冒頭に戻る。1927年7月24日、夜明け前の田端の自宅。枕元の聖書と、何通もの遺書。

母の血への恐怖。義兄の死と負債。壊れていく健康。そして「書き尽くしたのではないか」という予感。一つひとつは、死の理由としてはっきり名指しできるものではなかったのかもしれない。だから彼は、そのすべてを、こう呼んだ。

僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

同じ遺書の一句。名指しできない理由のすべてを、芥川はこの短い言葉に託した

この一句は、同じ時代を生きた知識人たちの心の状態を象徴する言葉として、以後しばしば引用されることになる。葬儀は7月27日、谷中斎場やなかさいじょうで行われ、菊池寛が葬儀委員長を務めた。墓は巣鴨の慈眼寺じげんじにある。戒名は「懿文院芥川龍之介居士」。

1935年、菊池寛は友の名を残すため、「」を創設した。芥川賞はいまも、日本文学の新人の登竜門とうりゅうもん(世に出る入り口)であり続けている。

はっきりした理由になら、人は名前をつけて、立ち向かうことができる。では、名前のつかない不安が夜にやってきたとき、あなたなら、それを何と呼ぶだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. 東京市京橋区入船町に誕生。生後7ヶ月で母フクが発狂、母方の芥川家へ
  2. 実母フク死去。芥川家で伯母フキに育てられる
  3. 第一高等学校入学。菊池寛・久米正雄らと同期
  4. 東京帝国大学英文学科入学
  5. 第三次・第四次『新思潮』創刊。『鼻』『羅生門』発表、漱石が『鼻』を激賞
  6. 東大卒業。横須賀海軍機関学校英語教官として赴任
  7. 塚本文と結婚。『地獄変』発表
  8. 機関学校を退職、大阪毎日新聞社友となり専業作家へ
  9. 大阪毎日新聞特派員として中国取材、4ヶ月の旅行で健康を崩す
  10. 『藪の中』発表。神経衰弱が進行
  11. 『河童』『玄鶴山房』。谷崎と『文芸的な、余りに文芸的な』論争。7月24日、田端で致死量の睡眠薬により自死。享年35
  12. 菊池寛により芥川賞創設、没後の新人文学賞として定着

残した思想の輪郭

  • 王朝物の精密 ― 『今昔』『宇治拾遺』から素材を取り、近代心理を古典世界に移植する短編の型
  • 「話らしい話のない小説」 ― 昭和2年、谷崎との論争で提示した詩的・断章的小説の構想
  • ぼんやりした不安 ― 遺書の一句が捉えた昭和初期知識人の精神状態の結晶
  • 母の血への恐怖 ― 生後7ヶ月での母の発狂を背負い続けた、自身の神経への宿命的恐れ
  • 漱石門・木曜会 ― 漱石の激賞で文壇に押し出された、大正文壇における漱石門下の代表格
  • 芥川賞 ― 死後に菊池寛が創設し、日本文学の新人登竜門として今に至る
昭和2年(1927年)7月24日未明、田端の自宅で致死量の薬物服用により自殺。35歳。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

芥川龍之介が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 田端文士村記念館記念館

    東京, 日本

    芥川が晩年を過ごした田端の文士村を記念する区立資料館。直筆資料や書簡を展示

  • 芥川龍之介生誕の地生誕

    東京, 日本

    中央区明石町、1892年に芥川が生まれた旧入船町の跡地。記念碑が残る

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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