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風土の知恵

太宰治

Dazai Osamu·1909–1948·日本·

みんなを笑わせた人は、 なぜ自分を許せなかったのか?

大地主の六男として生まれ、繰り返す自殺未遂と執筆で戦後日本人の心に刺さった『斜陽』の作家

  • 人間失格
  • 自虐
  • 斜陽
旧い名家が沈み、戦争と敗戦が続いた時代。表向きの順応の裏で、多くの人が心の置き場を探していた。 — ひらく

時代の空気

大正末から昭和戦前は、津軽の大地主層が農地解放まで残光を保ちながら没落へ傾く時代だった。1929年の世界恐慌、左翼運動への治安維持法の網、戦時動員と検閲、敗戦と占領期の精神的混乱が続けて押し寄せる。阿片チンキ・パビナールの薬害は当時の作家層に静かに広がり、隔離精神病院は身分のある家にとって秘めるべき扉だった。戦後は無頼派と呼ばれる戦後派文学が、退廃と再生の両義のなかで読者を得た。中央の東京と北の津軽、表向きの順応と内側の屈託が、この人の生涯を貫いて鳴り続ける。

01深夜の玉川上水

1948年6月13日、深夜。東京・三鷹。ひとりの作家が、という女性の下宿で過ごしたあと、彼女とともに近くの玉川上水たまがわじょうすいへ向かった。当時のこの川は今とちがって水量が多く、増水の時期は流れが激しかった。

机の上には、書きかけの新聞小説が残されていた。題は『グッド・バイ』。原稿は13回分まで進んでいた。連載はそこで止まり、続きが書かれることはなかった。

6日後の6月19日、下流の万助橋の近くで遺体が見つかった。その日は、この作家の誕生日だった。富栄の遺体も近くで見つかった。作家の名は、太宰治という。

死へ向かったのは、これが初めてではない。四度目だった。なぜこの人は、繰り返し川や海へ向かったのか。なぜ、その直前まで小説を書いていたのか。答えを探すために、時は39年前の北の町に戻る。

02津軽・金木、大きすぎる家

1909年6月19日、青森県北津軽きたつがる金木かなぎ村(現在の五所川原市金木町)に生まれた。本名は津島修治つしましゅうじ。家は津軽でも指折りの大地主で、父の源右衛門は県会議員や貴族院議員を務めた。十一人きょうだいの十番目、六男である。実家の豪邸は、のちに「斜陽しゃよう館」と呼ばれることになる。

父は政治で忙しく、母は病気がちだった。修治を育てたのは、乳母の近村タケと叔母のきゑである。大地主の家は、小作人(土地を借りて耕す農民)から年貢を取り立てる側だった。修治はそのことに、生まれながらの罪のような意識を抱えた。

その気持ちは、のちの自伝的作品『思ひ出』やに繰り返し描かれる。東京への憧れと、津軽の家の重さ。この二つの引っぱり合いが、一生の底を流れ続けた。最初の転機は、遠い東京から届いた一つの死だった。

03憧れの死と、最初の事件

1927年、旧制弘前ひろさき高等学校の文科に入学した。その年の7月、作家の芥川龍之介が自ら命を絶つ。文学に憧れはじめていた修治に、この死は強い衝撃を残した。

1930年4月、東京帝国大学の仏文学科に入学する。当時の大学には、非合法の左翼運動(社会の仕組みを根本から変えようとする政治運動)が広がっていた。修治も資金集めやビラきなど、周辺の活動に関わった。小作人の上に立つ家の息子が、小作人の側に立つ運動を手伝う。ねじれた立場だった。

同じ年の11月28日、21歳の修治は鎌倉腰越の海岸で心中しんじゅうを図る。相手はカフェーの女給(酒場で客をもてなす女性店員)、。シメ子は薬をのんで亡くなり、修治だけが助けられた。姉の夫の尽力で罪には問われなかったが、この事件は生涯、心に刻印として残った。

1932年、左翼運動から離れた。運動を捨てたという負い目が、また一つ増えた。大学にはほとんど出席せず、のちに授業料未納で除籍される。積み重なっていく「恥」を、彼は書くことに向けはじめる。

04落選、薬、『晩年』

1933年、「太宰治」という筆名で作品の発表を始めた。1935年3月には、鎌倉の八幡山で首をつろうとして果たせなかった。二度目である。その同じ年の8月、第1回の選考で次席にとどまり、落選した。選考委員には川端康成や佐藤春夫がいた。

川端は選評に「作者目下の生活に厭な雲ありて」と書いた。作品ではなく生活のせいで落とした、と読める言葉だった。深く傷ついた太宰は、雑誌『文藝通信』に川端宛ての公開の抗議文「川端康成へ」を発表する。賞への執着を、彼は隠さなかった。

1936年6月、初めての作品集を砂子屋書房から出した。「魚服記」「道化の華」「猿ヶ島」「逆行」「思ひ出」「ロマネスク」など15篇。最初の本に「晩年」と名づける、屈折した命名だった。

このころ太宰は、盲腸炎の手術のあとに処方された鎮痛剤パビナール(阿片あへんから作られる麻薬性の薬)に依存していた。中毒は深刻になり、1936年10月、(太宰が師と仰いだ作家)らの説得で東京武蔵野病院に入院させられる。約一か月の隔離かくり治療だった。

退院後の1937年3月、妻の小山初代と水上温泉で薬による心中を図り、未遂に終わる。三度目だった。6月、初代と別れる。1938年、井伏鱒二の仲立ちで、山梨の女学校教師・石原美知子と結婚した。傷ついた暮らしを立て直すような再出発だった。だがその静かな時間は、戦争の影の中で始まった。

05戦争の中の、静かな筆

甲府や三鷹に住まいを移しながら、作品はしだいに落ち着いた筆致に変わっていく。『女生徒』『富嶽百景』、そして1940年の。友のために走り抜く男の物語は、太宰のもう一つの顔を見せた。

日中戦争から太平洋戦争へと戦争が深まり、検閲が強まった。多くの作家が筆を折るか、時局に合わせた作品へ向かった。そのなかで太宰は、比較的自由に書き続けた数少ない作家だった。

1944年の『津軽』は、ふるさとを旅しながら書かれた。乳母タケとの再会の場面は、太宰の作品でも珍しいほど澄んだ余韻を残す。1945年には、空襲下の甲府への疎開そかい先でを書いた。浦島太郎やカチカチ山などの昔話を下敷きに、深い皮肉と哀愁を重ねた連作である。空襲警報の夜、防空壕の中でも書き継がれたと伝えられる。戦争が終わったとき、彼の前には焼け跡と、まったく新しい読者が待っていた。

06戦後の寵児、『斜陽』

1946年、三鷹に戻った太宰は、戦後の混乱のなかで一気に文壇の人気者になった。、石川淳らとともに「」(新戯作派とも)と呼ばれる。敗戦後の世の中で、崩れることと立ち直ることを同時に書く作家たちだった。織田作之助は1947年1月に病死し、坂口安吾とはしばしば酒と対談をともにした。

1947年、小説を雑誌『新潮』の7月号から10月号に連載し、12月に単行本を出す。没落していく華族(旧い貴族の家柄)の令嬢かず子が、母や弟を見送りながら、不倫の子を「革命のために」産むと決意する物語である。本は大きな話題を呼び、「斜陽族」という流行語まで生まれた。

人間は、恋と革命のために生れて来たのだ

『斜陽』(1947年) ― 没落のなかで生きる決意を固める、ヒロインかず子の言葉

07三人の女性と、最後の長編

『斜陽』のモデルは愛人ので、彼女の日記『斜陽日記』が下敷きになった。1947年11月、静子は太宰の娘・治子(のちの作家)を産む。この時期の太宰は、妻美知子、太田静子、山崎富栄という三人の女性と同時に関係を持っていた。それは自由という言葉で片づけられる話ではなく、複数の人生を巻き込んでいた。

1948年、太宰は自伝的な長編『人間失格しっかく』を書いた。雑誌『展望』の6月号から3回に分けて連載される。主人公は大庭葉蔵という青年。三つの手記を通して、道化(おどけ役)を演じ続ける苦しさ、女性との関係、薬物中毒、精神病院、そして「人間、失格」に至るまでの生涯が語られる。

恥の多い生涯を送って来ました。

『人間失格』第一の手記(昭和23年『展望』連載)

08ふたたび、玉川上水

「恥の多い生涯を送って来ました」。この一行で始まる第一の手記は、戦後日本の読者を震撼させた。連載の6月号と7月号は、太宰の存命中に世に出た。だが8月号、最終回が刊行されたとき、書いた本人はもういなかった。物語は、あの1948年6月13日の深夜に戻る。

三鷹市下連雀の山崎富栄の下宿を出た二人は、増水した玉川上水に入水じゅすいした。遺体は6月19日、下流の万助橋近くで発見された。太宰の誕生日である。田部シメ子との海(1930)、八幡山での縊死いし未遂(1935)、小山初代との水上温泉(1937)。三度は助けられ、四度目だけが最後になった。残された側に立てば ― 妻美知子と子供たち(長女園子・長男正樹・次女里子=後の作家津島佑子)、太田静子とその娘治子、そして富栄の母・姉妹 ― 複数の家族を背負わせての死であった。

この生涯を貫くのは、「恥」と「道化」の構造である。大地主の家に生まれ、小作人の年貢の上で育ったことへの原罪意識。左翼運動を離脱した負い目。心中で自分だけ生き残った罪。処女作品集に『晩年』と名づける自虐と韜晦とうかいの混じった命名。人間を演じ続けることの苦痛を道化で覆い、その覆いごと告白したのがだった。「恥の多い生涯」の一行は、作中の葉蔵の言葉であると同時に、書き手自身の遺言として読まれることになる。と精神病院への強制入院という暗部も、『HUMAN LOST』に書き残されている。

葬儀は6月21日、三鷹の禅林寺で行われ、墓も同寺にある。墓は森鴎外の墓と向かい合う位置にあり、太宰の遺志によると伝えられるが、偶然とする説など諸説ある。戒名は「文綵院大猷治通居士」。毎年6月19日の命日は、短編「桜桃」に由来して「桜桃忌」と呼ばれ、没後70年以上経たいまも多くの読者が禅林寺を訪れる。

冒頭の問いに戻ろう。なぜ死の直前まで、書いていたのか。机に残された『グッド・バイ』の13回分は、その答えを宙づりにしたまま止まっている。恥を書き切ることが救いだったのか。それとも、書いても救われなかったから川へ向かったのか。答えは、読むあなたの側に残される。

09主要な出来事と著作

  1. 青森県金木村に誕生。大地主津島家の六男、本名修治
  2. 旧制弘前高校入学、芥川自殺に衝撃
  3. 東京帝大仏文科入学。11月、田部シメ子と鎌倉腰越で心中未遂、シメ子のみ死亡
  4. ペンネーム「太宰治」での発表始まる
  5. 3月、鎌倉八幡山で縊死未遂(2度目)。8月、第1回芥川賞落選(川端・佐藤春夫の選考)
  6. 処女作品集『晩年』刊行。10月、パビナール依存で東京武蔵野病院に強制入院(隔離)
  7. 3月、水上温泉で小山初代と心中未遂(3度目)。6月、初代と離縁
  8. 井伏鱒二の媒酌で石原美知子と結婚
  9. 『女生徒』『富嶽百景』『走れメロス』発表
  10. 『津軽』『お伽草紙』。戦中の疎開と検閲下で書き継ぐ
  11. 『斜陽』連載、「斜陽族」流行。太田静子が娘治子を産む
  12. 『人間失格』『展望』連載。6月13日、玉川上水で山崎富栄と入水。遺体発見は6月19日、38歳誕生日

残した思想の輪郭

  • 恥と道化 ― 人間を演じることの苦痛、道化によって他者との距離を取り続けた『人間失格』の核
  • 大地主の子の原罪 ― 津軽の田畑と小作人の上に立つ家に生まれたことへの罪意識が創作の底流
  • 三度の未遂と一度の既遂 ― 田部シメ子(1930・鎌倉腰越海岸)、八幡山(1935・単独縊死)、小山初代(1937・水上温泉)を経て、山崎富栄との玉川上水入水(1948)で成就した
  • 薬害と隔離 ― 阿片チンキ・パビナール依存と精神病院の強制入院は、太宰文学の暗部として『HUMAN LOST』に書き残された
  • 無頼派 ― 坂口安吾・織田作之助らと戦後の退廃と再生を体現した一群の総称、新戯作派とも
  • 『斜陽』の時代性 ― 没落華族の終焉を描き、「斜陽族」の語を生んだ戦後日本の鏡
  • 桜桃忌 ― 6月19日の誕生日=遺体発見日に三鷹禅林寺で続く追悼、70年以上の読者の系譜
昭和23年(1948年)6月13日深夜、玉川上水で山崎富栄と入水。遺体発見は6月19日、38歳の誕生日だった。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

太宰治の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

太宰治が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 太宰治記念館「斜陽館」生誕

    五所川原市(青森県), 日本

    津軽の豪商・津島家の旧邸。1909年にここで太宰が生まれた。国指定重要文化財、記念館として公開

  • 禅林寺(三鷹)墓所

    三鷹市(東京都), 日本

    1948年没、尊敬した森鴎外の墓と向かい合うように建てられた墓所。毎年6月の命日「桜桃忌」には多くの読者が訪れる

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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