樋口一葉
筆一本で、 家を背負えるか?
明治の女戸主として生計を背負い、24歳で散った「奇蹟の14ヶ月」の書き手
- たけくらべ
- 雅俗折衷
- 貧と筆
武士の世が終わり、家が傾く。女は学ばなくてよいとされた時代に、筆一本で家族を養おうとした人がいた。 — ひらく
時代の空気
明治中期、自由民権運動の余熱が冷めゆく一方で、教育勅語(1890)が公布され、跡見女学校・東京府立第一高等女学校など女子高等教育がようやく解禁されはじめた。雑誌『文学界』(1893創刊、北村透谷・島崎藤村)の周辺で、戯作風俗から心理小説へ筆が動き、雅文体と俗語が混じり合う。結核はなお治癒法のない死病で、士族の家計は維新後の禄高廃止で次々に傾いた。新吉原の遊郭文化が浅草北郊に広がり、内国勧業博覧会と日清戦争(1894-95)が近代化を加速させていた。
01「まことの詩人」
1896年4月。雑誌『めさまし草』の合評欄「三人冗語」に、ある評が載った。評者は森鴎外、、。当時の文壇で、最も力のある三人である。三人がそろって絶賛したのは、という小説だった。
作者の名は、樋口一葉。ほとんど無名の、若い女性だった。鴎外は書いた。「此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜しまざるなり」。まことの詩人と呼ぶことを、惜しまない。無名の若い女性作家への、明治文壇の最大級のほめ言葉だった。
だが、この栄光には影がある。代表作のほぼすべては、直前のわずか14ヶ月のあいだに書かれていた。そして讃辞から7ヶ月後、一葉はこの世を去る。24歳だった。
なぜ、傑作はその14ヶ月に集中したのか。なぜ、彼女はそこまで書き急いだのか。答えを探しに、時は24年前へ戻る。
02本の虫、学校を去る
1872年、東京の内幸町にある官舎で、一人の女の子が生まれた。本名は樋口奈津。のちに夏子と呼ばれる。父の則義は、東京府に勤める下級の役人だった。母多喜、兄の泉太郎、姉、妹とともに育った。
樋口家は、もともと甲斐国(今の山梨県)の百姓の出である。父は明治維新の前後に東京へ出た。働いて金をため、武士の身分と役人の職を手に入れた人だった。武家とも町家ともつかない家だった。
夏子は、早くから本の虫だった。や『伊勢物語』などの古典に夢中になった。絵入りの物語本である草双紙も読みつくした。だが11歳のとき、父の判断で小学校を4年生で辞めさせられる。「女子に学問は要らぬ」。それが当時のふつうの考え方だった。
本人は、学び続けることを強く望んだ。以後、夏子は独学で古典と和歌を身につけていく。その願いに、思いがけない場所から扉が開く。
03十七歳の戸主
1886年、14歳の夏子は中島歌子の歌塾萩の舎に入門した。は、明治を代表する女性のための和歌の塾である。士族や華族のお嬢さまたちが、華やかに集う場だった。一方の樋口家は、借金で暮らしを立てるほど苦しかった。絹の着物の令嬢たちに混じって、夏子は稽古を受けた。
後年の自筆日記『塵之中』には、その頃の思いが残されている。華やかな姉弟子たちの装い。それに引き比べた、自分の貧しさ。恥ずかしさと憧れを同時に抱えた十代の姿が、本人の筆で書き留められている。この塾で先輩の田辺花圃と親しくなった。
不幸は、続けて訪れた。1887年、兄の泉太郎が肺結核で亡くなった。1889年7月には、父則義が事業の失敗で借金を抱えたまま死去する。姉はすでに他家へ嫁いでいた。家に残ったのは、母と夏子と妹の女三人、そして借金だった。
17歳の夏子は、樋口家の戸主を継いだ。戸主とは、家の代表として一家を養う立場のことだ。明治の世で、若い女性の戸主はきわめて珍しい。この日から、彼女は家族の暮らしを自分の手で支えねばならなくなった。だが、女に開かれた仕事はほとんどない。どうやって、食べていくのか。
04筆一本で立つ
道を示したのは、萩の舎の先輩、だった。花圃が小説『藪の鶯』で原稿料を得たと聞いたのである。小説は、お金になる。夏子は、小説で身を立てる決意を固めた。
1891年4月、18歳の夏子は半井桃水を訪ね、弟子入りを願い出た。桃水は当時人気の新聞小説家である。朝日新聞の小説記者で、30歳前後。早くに妻と死別していた。桃水は、親切に指導を始めた。
1892年3月、夏子は処女作『闇桜』を発表する。このとき初めて「一葉」の筆名を使った。達磨大師が葦の葉一枚に乗って川を渡った、という故事にちなむ。さすらいと貧しさと孤独を、自分から引き受ける覚悟の名だった。
だが同じ頃、萩の舎で噂が立つ。二人は、弟子と師の関係を越えている――。噂は一葉の母と姉弟子たちを深く傷つけた。1892年6月、20歳の一葉は涙をのんで桃水と訣別した。師を失った一葉は、やがて思い切った引っ越しをする。行き先は、吉原のすぐそばだった。
05吉原のそばの駄菓子屋
1893年7月、21歳の一葉は、母と妹と三人で下谷の龍泉寺町に移った。荒物と駄菓子を売る雑貨商を開くためである。歩いて数分の場所に、の遊廓があった。遊廓とは、遊女を集めた歓楽の街のことだ。朝は子どもたちが駄菓子を買いに来る。夕方には、吉原へ通う男たちが店の前を行き交った。
一葉は筆を置き、商売に専念した。店は最初こそにぎわったが、客足はしだいに遠のいた。10ヶ月で店を畳み、1894年5月、本郷の丸山福山町へ移る。商売としては、失敗だった。
けれど、この10ヶ月は無駄ではなかった。吉原の裏町に生きる子どもたち。遊女たちの暮らしぶり。それを一葉は、商人の目線で、肌で見た。『たけくらべ』に出てくる美登利、正太郎、信如。あの子たちの輪郭は、店のカウンターの向こうで形になっていた。材料はそろった。あとは、書くだけだった。
大つごもり おほつごもりは明けて元朝、何事もなう過ぎたり
06奇蹟の14ヶ月
1894年12月、一葉はを雑誌に発表した。ここから、のちに「」と呼ばれる日々が始まる。『たけくらべ』の連載、。代表作のほぼすべてが、1896年の初めまでの14ヶ月のうちに書かれた。
文体は、独特だった。和歌と古典の格調を土台に、江戸の町人の言葉と明治の話し言葉を織り込む。その文で一葉は、貧しい女、早くに世を去る子、売られた娘、落ちぶれた士族の娘を描いた。嘆きに閉じるのではなく、深いいたわりをもって。吉原のそばで暮らした日々が、そのまなざしを支えていた。
書いても、暮らしは楽にならなかった。一葉は無名のままだった。だが、この小説群を、文壇の頂点にいる男たちが読んでいた。
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く。
07名声、そして冬
1896年4月。物語は、冒頭の場面に戻る。『めさまし草』の「三人冗語」で、鴎外・露伴・緑雨が『たけくらべ』を絶賛した。「此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜しまざるなり」。名声は、ついに一葉のもとへ届いた。
しかしそのとき、体はすでに尽きようとしていた。1896年8月31日、一葉は結核と診断される。かつて兄の泉太郎を奪ったのと同じ病だった。当時の結核は、治す方法のない死病である。夏から秋にかけて容態は悪化し、筆は止まった。鴎外は、東大医学部の青山胤通教授の往診を手配した。だが、すでに手遅れだった。
11月23日午前11時半、本郷丸山福山町の借家で、一葉は息を引き取った。満24歳。母多喜と姉ふじが看取った。葬儀は11月25日、築地本願寺で行われた。ほぼ家族だけの、寂しい葬列だった。
なぜ、傑作は14ヶ月に集中したのか。彼女の24年をたどってきた今、その答えは、もうあなたの中にあるはずだ。だが物語は、ここで終わらない。のあと、その言葉はさらに遠くへ届いていく。
08雅俗折衷 ― 一葉が残したもの
一葉文学の核心は、雅俗折衷の文体にある。和歌と古典の格調を下敷きに、江戸の町人言葉と明治の口語を織り込んだ独自の散文である。この文体で彼女は、貧しい女・夭折する子・売られた娘・零落した士族の娘を、深い哀憐をもって描いた。『たけくらべ』の美登利が運命を予感して赤子のように泣き伏すラストシーン、『にごりえ』のお力が暗闇の中で斬り殺される結末、『十三夜』のお関が車夫に身を落とした旧知の録之助と再会する夜――それぞれが一葉文学の絶頂である。
「奇蹟の14ヶ月」の全容は次の通りである。『大つごもり』(1894年12月、『文学界』)、『たけくらべ』(1895年1月〜1896年1月、『文学界』連載、のち『文藝倶楽部』に一括再掲)、『軒もる月』(1895年4月、『毎日新聞』)、『ゆく雲』(1895年5月、『太陽』)、『にごりえ』(1895年9月、『文藝倶楽部』)、『十三夜』(1895年12月、『文藝倶楽部』)、『わかれ道』(1896年1月、『國民之友』)、『うつせみ』(1895年、未定稿含む)、『裏紫』(1896年2月、『新文壇』)、『われから』(1896年5月、『文藝倶楽部』)。
伝記的な考証も付しておく。生誕は1872年、旧暦3月25日、東京府第二大区一小区内幸町一丁目の東京府構内官舎。死去は1896年11月23日(旧暦10月19日)である。処女作『闇桜』の初出は『武蔵野』第1号(1892年3月)。との関係については、自筆日記が一次資料となる。手紙のやり取りを軸とした淡い情と師恩のあわいは、性関係をともなう恋ではなく、書くために書かねばならぬ者どうしの結ばれ方だったと、幾度も書き残されている。萩の舎時代については、日記に、華やかな姉弟子たちの装いと引き比べて自らの貧しさを書き留めた箇所があり、屈辱と憧憬を同時に抱えた十代の姿が本人の筆で裏づけられる。17歳での戸主相続についても、明治の女戸主は法律的にも極めて稀な立場であった。
死後、一葉の自筆日記が整理され、明治末から大正にかけて『塵之中』『しのぶぐさ』『若葉かげ』など主要な日記が出版された。一葉の日記は、明治期女性文学の最高傑作の一つと評価される。戒名は「智相院釈妙葉信女」。墓は東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある(当初は築地本願寺内、のち関東大震災後に移転)。2004年11月には、新五千円札(E号券)の肖像に一葉が採用された。日本銀行券の肖像となった初の女性である(政府紙幣の神功皇后像を除く)。透かしとして配された右上の紋様には、自筆日記『塵之中』表紙の意匠が引かれている。
筆一本で、家を背負えるか。一葉は背負い、その途上で世を去った。貧しさが彼女に書かせたのか。それとも、書くことが彼女を貧しさから守ったのか。あなたは、どちらだと思うだろうか。
09主要な出来事と著作
- 東京府内幸町官舎に誕生。本名樋口奈津、のち夏子
- 本郷区中西尋常小学校4年で退学(11歳)。以後、独学で古典を学ぶ
- 萩の舎(中島歌子)に入門、和歌と古典を学ぶ。田辺花圃と交友
- 長兄泉太郎が肺結核で病死
- 父則義が事業失敗の末に死去、17歳で樋口家戸主相続
- 朝日新聞小説記者半井桃水に入門、小説指導を受ける
- 『闇桜』で文壇デビュー。萩の舎の噂を機に桃水と訣別
- 7月、下谷龍泉寺町(新吉原近く)で荒物・駄菓子の雑貨商を開業
- 5月、雑貨商廃業、本郷丸山福山町へ。12月『大つごもり』発表(奇蹟の14ヶ月開始)
- 『たけくらべ』連載開始(『文学界』)、『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』発表
- 『三人冗語』で鴎外・露伴・緑雨が『たけくらべ』を絶賛。8月結核診断、11月23日死去。24歳
- 新五千円札(E号券)の肖像に採用、日本銀行券で最初の女性肖像に
残した思想の輪郭
- 雅俗折衷の文体 ― 和歌と古典の格調に江戸町人語・明治口語を織り込んだ独自の散文
- 明治の女戸主(世帯主) ― 17歳で樋口家の戸主を相続、筆一本で母多喜と妹くにの生計を背負った現実
- 貧しき女たちへの共感 ― 売られる娘、零落した士族の姉妹、夭折する少女 ― 主題の中心にいつも女の不自由がある
- 奇蹟の14ヶ月 ― 明治27年末から29年初頭までの集中的執筆期、この短期間に代表作ほぼ全てが書かれた
- 吉原に寄り添う視点 ― 『たけくらべ』で遊廓の裏町から子どもたちを見た、「外側からの哀憐」ではない視座
- 鴎外の讃辞 ― 『三人冗語』で「まことの詩人」と呼んだ鴎外の文章は、近代文学批評の一つの瞬間
つながり
- 芥川龍之介
継承 — 『たけくらべ』の視点移動を自作の語り手構造の先例とし、「最も完成された短篇作家」と評した後継者。
- 森鴎外
伴走 — 無名の女戸主作家を「真の詩人」と評し、文壇の中心へ押し上げた権威。死の際には追悼文を寄せた。
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「樋口一葉」項