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風土の知恵

森鴎外

Mori Ōgai·1862–1922·日本·

出世の頂点まで登りつめた人が、 なぜ最後にすべての肩書を捨てたのか?

陸軍軍医総監でありながら、翻訳と史伝で日本近代文学の骨格を築いた二重生活の人

  • 諦念(レジグナチオン)
  • 史伝
  • 舞姫
刀と漢文の世に生まれた子どもが、大人になる頃には西洋の学問で国を作り直す側に立たされた時代。 — ひらく

時代の空気

江戸末期の文久二年、石見津和野藩医森家に生まれ、廃藩置県後の上京で第一大学区医学校(現東大医学部)に最年少入学した。明治十七年から二十一年、ドイツ陸軍衛生学留学でライプツィヒ・ドレスデン・ミュンヘン・ベルリンを巡り、ペッテンコーファーとコッホに師事した。日清・日露の従軍と小倉左遷を経て陸軍軍医総監に昇りつつ、海軍高木兼寛の麦飯論を退けた脚気論争では多くの戦病死を招いた。漱石と並ぶ近代文学の祖として『舞姫』からゲーテ『ファウスト』翻訳まで西洋文学の受容を担い、明治天皇崩御と乃木希典殉死を機に『澀江抽齋』ら史伝主義へと深化した。

01一切を拒んだ遺言

1922年7月6日。東京・本郷にある観潮楼かんちょうろうという家で、一人の男が死の床にあった。森鴎外、本名・森林太郎。60歳。陸軍軍医総監という、軍医として最高の位まで登りつめた人である。同時にを書いた小説家でもあった。

その日、鴎外は親友の賀古鶴所に遺言を口で伝え、書き取らせた。「石見いわみ人森林太郎トシテ死セント欲ス」。わたしは石見の人、森林太郎として死にたい、という意味である。官位も勲章も肩書も、墓には一つも刻むな。ただの森林太郎として葬ってほしい、と。

国から与えられるほとんどすべての栄誉を手にした男が、最後にそのすべてを拒んだ。なぜか。三日後の朝、鴎外はで息を引き取る。この「なぜ」に答えるには、60年前の小さな城下町まで戻らなければならない。時は1862年、石見国津和野に戻る。

02津和野の神童

1862年、津和野(今の島根県津和野町)の医者の家に、男の子が生まれた。父の静男は津和野藩の藩医、つまり殿様に仕える医者だった。津和野藩は四万三千石の小さな藩で、森家は代々、殿様のそばで診療する医者(侍医)を務めた家柄である。生まれた子は林太郎と名づけられた。のちの森鴎外である。

祖母の清子に育てられた林太郎は、おそろしく出来がよかった。6歳で『』(古代中国の思想家・孔子の言葉を集めた書物)の素読そどく(意味より先に声に出して読む練習)を始めた。藩の学校・養老館では五経とオランダ語を学んだ。周りは彼を神童と呼んだ。

この家には、もう一人重要な人物がつながっていた。父のいとこで洋学者の西周にしあまねである。西は「哲学」「主観」「客観」「理性」といった訳語を作った人だった。西洋の学問を日本語に移す仕事の、まさに先頭にいた人である。

1872年、廃藩置県はいはんちけん(藩を廃止して県を置いた明治政府の改革)ののち、10歳の林太郎は父と東京へ出た。身を寄せた先はの家である。ドイツ語塾「進文学舎」で学び、医学校(のちの東京大学医学部)の入学試験に挑んだ。だが年齢が足りない。そこで年齢を二歳上乗せして受験したと伝えられている。

1881年、19歳で東京大学医学部を卒業した。同期で最年少だった。卒業するとすぐ、陸軍の軍医として任官した。医者の道と、国家に仕える道が、ここで一本に重なった。この重なりが、生涯にわたって彼を両側から引っ張り合うことになる。

03ドイツの四年と、一人の女性

1884年8月、22歳の鴎外はドイツへ発った。陸軍の命令で、衛生学えいせいがく(病気を防ぐための学問)を研究するためである。ライプツィヒでフランツ・ホフマンに衛生学の基礎を、ドレスデンでヴィルヘルム・ロートに軍隊の衛生を、ミュンヘンでマックス・フォン・ペッテンコーファーに環境の衛生学を学んだ。最後のベルリンでは、細菌学の大家の研究室に入った。ドイツ語の力は、留学生のなかでも抜きん出ていた。

帰国の直前、ベルリンで若いドイツ人女性と恋仲になった。近年のドイツの戸籍や船の乗客記録の調査から、シュテッティン出身で帽子作りを仕事にしていたとみられている人である。1888年9月、鴎外が帰国した直後、彼女は一人で船に乗り、横浜まで追ってきた。だが家族と陸軍に説得され、一か月あまりでドイツへ帰った。

この経験が、のちの小説『舞姫』の元になる。ただし鴎外自身は、彼女の実像も、二人の関係の詳しい中身も、生涯語らなかった。語らない、という選び方。それはこのあと何度も現れる、鴎外の生き方の型になっていく。では、語らない男は何を書いたのか。

04軍服とペンの二重生活

1888年9月に帰国した鴎外は、陸軍軍医学校の教官になった。同時に雑誌『しがらみ草紙』を作り、翻訳と評論を次々に発表した。1890年から翌年にかけては、留学体験をもとにした『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』を発表する。この三作は独逸三部作どいつさんぶさくと呼ばれ、近代日本文学が「自分とは何か」を問い始める起点になった。『舞姫』の主人公・太田豊太郎は、恋人との別れをめぐる思いを「餘は彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」と記して物語を閉じる。そこに、帰国の船で沈黙していた青年軍医の影が重なる。

翻訳の仕事も止まらなかった。デンマークの作家アンデルセンの『』の翻訳(1892年から約10年がかり)は、日本語の散文の一つの到達点とされる。のちに夏目漱石が名訳とたたえた仕事である。

私生活では、1889年に海軍中将赤松則良の娘・登志子と結婚したが、長男の於菟おと(のちの医学者)が生まれたあと一年で離婚した。於菟は森家が引き取った。1894年からの日清戦争には軍医部長として従軍し、台湾派遣にも加わった。

1899年、37歳。九州の小倉へ、第十二師団の軍医部長として転任を命じられた。事実上の小倉左遷こくらさせんとささやかれた人事である。酒癖や、ドイツ人学者ナウマンとの論争の余波が原因とも噂された。中央から遠ざけられた三年弱は、鴎外の人生の陰になり、のちに『鶏』『独身』などの短編に結晶した。1902年に東京へ戻り、40歳で19歳の荒木志げと再婚する。二人の間には茉莉(のちの随筆家)、杏奴、不律(4歳で早世)、類(のちの随筆家)が生まれた。しかしこのころ、軍医としての鴎外の足元では、もっと重い問題が静かに進行していた。

05脚気論争 ― 麦飯を拒んだ判断

軍医としての鴎外には、後世に深い傷を残した論争がある。脚気論争かっけろんそうである。脚気はビタミンB1の不足で起こる病気だが、当時は原因がわかっていなかった。明治の陸軍では脚気が猛威をふるい、日清戦争でも日露戦争でも、おびただしい数の兵士が戦地で病死した。

海軍の軍医・は、経験から「麦飯が脚気を防ぐ」ことを見つけた。海軍は1885年の遠洋航海で麦飯を採り入れ、患者を激減させていた。

しかし陸軍の鴎外は、ドイツ留学で身につけた「病気の原因は細菌だ」という説を支持し、白米の食事を変えなかった。コッホの細菌学という権威に寄りすぎたこと。目の前のデータより理論を優先したこと。白米を兵士の士気の柱とみる陸軍内部の組織の硬さ。複数の要因が指摘されている。

結果は重かった。日露戦争(1904-05年)で、陸軍は約25万人の脚気患者と、約2万7千人の脚気による死者を出した。1907年、45歳で軍医総監に昇進した鴎外に、この判断の責任は重くのしかかる。近代医学史の大きな汚点として、今も論じ続けられている。ここをごまかして読むことはできない。近代化の合理が、目の前の経験的な医学を退けた構造として、直視する必要がある。では、この重さを抱えた人は、机の上では何を書いていたのか。

06観潮楼と「諦念」

1892年、鴎外は本郷駒込千駄木町の自宅を「観潮楼」と名づけた。東京湾が遠くに見える高台にちなんだ名である。この家で鴎外は妻の志げと子どもたちと暮らし、毎月、観潮楼歌会を開いた。伊藤左千夫、佐佐木信綱、与謝野鉄幹、石川啄木、北原白秋らが集い、短歌革新の拠点になった。

1909年、雑誌『スバル』の創刊とともに、鴎外は小説家として再び走り出す。『ヰタ・セクスアリス』(発売禁止の処分を受けた)、『青年』、、『かのやうに』。並行してアンデルセン、ストリンドベリ、イプセンの翻訳を進め、1913年にはゲーテ『』第一部・第二部の完訳を成しとげた。47歳から51歳。軍医の最高位の椅子に座ったまま、である。

その『かのやうに』で、鴎外は一つの言葉を論じた。**レジグナチオン(諦念)**である。ただの「あきらめ」とは少し違う。科学を知ってしまった近代人は、宗教や慣習との矛盾から逃げられない。その矛盾を、解決したふりをするのでもなく、壊すのでもなく、「かのように」引き受けて生きる。それが鴎外のたどり着いた成熟の核心だった。

かのれじぐなちよん(諦念)の心持ちは、我々日本人の生活を考える上で、極めて大切なものではあるまいか。

小説「かのやうに」(1912年)で論じた諦念について、要旨

07乃木殉死と史伝への転回

1912年7月、明治天皇が亡くなった。9月13日、大葬の日に、陸軍大将・が妻とともに殉死した(主君の死を追って自ら命を絶つこと)。この事件が、50歳の鴎外の後半生を決定的に変えた。同世代の陸軍軍人の自裁という出来事は、軍医総監の椅子にある鴎外に、制度と忠義と生き残りを一身に引き受け続ける意味を改めて問い返した。

わずか五日後、鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』を書き下ろし、『中央公論』10月号に掲載した。以後、(1913年)、『佐橋甚五郎』『大塩平八郎』『堺事件』(1914年)、『安井夫人』『山椒大夫』『高瀬舟』(1915年)と、歴史小説を矢継ぎ早に発表する。やがて史伝しでんへと深化し、(1916年)、『伊澤蘭軒』(1916-17年)、『北條霞亭』(1917-20年)という晩年の三部作に至る。これらは旧字旧仮名で連載され、と呼ぶべき様式を確立した。

『澀江抽齋』は、江戸末期の弘前藩医・経学者・考証学者の生涯を、丹念な資料調査で再構成した伝記作品で、日本近代散文の最高峰の一つに数えられる。私小説とも歴史小説とも異なるこの様式は、記録と考証の積み重ねそのものを文学に変えた。鴎外自身が江戸の教養人と深いところで繋がっていたことを、この仕事は静かに証明している。筆は最後まで止まらなかった。だが、残された時間はもう長くなかった。

08石見人森林太郎

1916年、54歳で現役を退いた。翌年には帝室博物館の総長と図書頭ずしょのかみに就いた。歴史・古典・文物への晩年の沈潜を支える職務だった。

そして1922年7月6日。冒頭の場面に戻る。腎萎縮いしゅくと肺結核が進んでいた。鴎外は賀古鶴所に遺言を書き取らせた。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」。さらに「死ハ一切ヲ打ツ切ル重大事件ナリ 奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得ズト信ズ」――死はすべてを打ち切る重大事件であり、どんな役所の力もこれには逆らえない、と。7月9日午前7時、観潮楼で死去した。満60歳だった。

なぜ、すべての肩書を拒んだのか。ここまで歩いてきた読者には、もう材料がそろっているはずだ。恋人との別れを語らずにのみ込んだ青年。麦飯を退けた判断の重さを背負い続けた軍医。矛盾を「かのように」引き受けると書いた小説家。江戸の医者の生涯を掘り起こし続けた晩年。その全部の果てに、「石見人森林太郎」という一行がある。

墓は東京向島の弘福寺に建てられ、のちに三鷹の禅林寺へ移された(作家の太宰治と同じ寺だが、移されたのは鴎外の死からずっと後である)。墓石には遺言のとおり、「森林太郎墓」とだけ刻まれている。

われわれは、資性の許す範囲において、なるべく従順に人生の荷物を負うべきだ

諦念(レジグナチオン)をめぐって自らの立場を語った言葉から、要旨

09主要な出来事と著作

  1. 石見津和野の藩医森家に誕生。本名林太郎、伯父に洋学者西周
  2. 10歳で上京、西周宅に寄寓。ドイツ語塾進文学舎で学ぶ
  3. 東京大学医学部本科卒業。19歳、同期で最年少
  4. ドイツ陸軍衛生学留学。ライプツィヒ・ドレスデン・ミュンヘン・ベルリンの四都市でホフマン・ロート・ペッテンコーファー・コッホに師事
  5. 『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』の独逸三部作。『即興詩人』翻訳に着手
  6. 本郷駒込千駄木に観潮楼を構える。『しがらみ草紙』主宰
  7. 日清戦争に第二軍兵站軍医部長として従軍、台湾派遣
  8. 小倉左遷時代。第十二師団軍医部長。『鶏』『独身』に結晶
  9. 日露戦争に第二軍軍医部長として満州従軍。陸軍は脚気で約25万人罹患・約2万7千人死亡
  10. 陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に就任(軍医として最高位、中将相当)
  11. 観潮楼歌会を主宰、伊藤左千夫・与謝野鉄幹・石川啄木らが集う
  12. 『ヰタ・セクスアリス』『青年』『雁』『かのやうに』連載。ゲーテ『ファウスト』翻訳完成
  13. 明治天皇崩御・乃木希典殉死。『興津弥五右衛門の遺書』を直後に発表
  14. 『阿部一族』『大塩平八郎』『堺事件』『山椒大夫』『高瀬舟』など歴史小説群
  15. 史伝三部作『澀江抽齋』『伊澤蘭軒』『北條霞亭』
  16. 帝室博物館総長兼図書頭に就任
  17. 7月9日、観潮楼で死去。享年60。墓には『森林太郎墓』のみ

残した思想の輪郭

  • 諦念(レジグナチオン) ― 近代人が抱える矛盾を、否定でも解決でもなく「かのように」引き受ける倫理
  • 翻訳文体 ― 『即興詩人』『ファウスト』以下、独・デンマーク・スウェーデン語からの訳で日本語散文の骨格を作った
  • 史伝主義 ― 『澀江抽齋』『伊澤蘭軒』『北條霞亭』など、江戸の考証家や医者の生涯を丹念に再構成する、私小説とも歴史小説とも異なる様式
  • 二重生活 ― 陸軍軍医総監という官職と、小説家・翻訳家という別人格を最後まで両立した稀有な例
  • の影 ― 細菌病因説に固執して麦飯食を退け、日露戦争で多数の脚気死者を生んだ負の遺産
  • 「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」 ― 一切の官位肩書を拒んだ遺言、出自への還り

彼は位も名誉も文学も、最後まで「人生の荷物」として負い続けた。そして死の床で、ただ一つの名前だけを残すことを選んだ。あなたがすべての肩書を外したとき、そこに残る名前は何だろうか。

大正11年(1922年)7月9日、本郷団子坂の観潮楼で腎萎縮・肺結核により死去。60歳。

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