本居宣長
町医者はなぜ、自分の墓を 桜の木の下と決めたのか?
『古事記伝』で国学を大成し、「もののあはれ」と「大和心」を日本思想の原像として掘り起こした松阪の医師
- もののあはれ
- 大和心
- 古事記伝
- 国学
中国から来た学問がすべての物差しだった時代に、日本の古い言葉をよみがえらせようとする人たちがいた。 — ひらく
時代の空気
江戸中期、享保の改革が一段落し、田安宗武と真淵を介した古学の機運が育ち、やがて寛政の引き締めへ向かう百年だ。伊勢松阪は伊勢神宮参詣の門前と江戸大伝馬町への木綿売買で栄える商人町で、町人が学問を志しうる豊かさをもっていた。京の堀景山に儒学を、武川幸順に医を学んだ二十代を経て、契沖の『万葉代匠記』、賀茂真淵の『冠辞考』『国意考』が古学の地ならしを終えていた。儒・仏・神の三教融合がほどけ、神道独立の機運が募るなか、内宮外宮の対立を抱える伊勢で、医業と国学の二刀流で立つ道がはじめて開けた頃である。
01桜の木の下に眠ると決めた医者
1801年9月29日。伊勢の松阪(今の三重県松阪市)で、一人の町医者が自宅で亡くなった。その年、彼は一通の遺言書を自分の手で残していた。題は「本居宣長奥津紀(おくつき)」という。
中身はおどろくほど細かい。墓をどこに置くか。墓石の寸法はどうするか。葬列の順序、戒名、書斎の受け継ぎ方、手紙の扱いまで、図を添えて指示してあった。そして墓所は、松阪山室山の妙楽寺の中、桜の木の下。そこまで自分で決めていた。
医者の名は本居宣長。生涯のほとんどを、この松阪の町から一歩も動かずに過ごした人である。なぜこの人は、自分の墓を桜の下と決めたのか。その答えを探しに、時は71年前へ戻る。
02木綿問屋の次男
1730年、宣長は松阪の木綿商・小津家の次男に生まれた。松阪は伊勢神宮への参詣道に近い商人の町である。江戸や京都との木綿の取引で栄えていた。宣長の家も、そういう商いの家だった。
だが、11歳のとき、父の定利が亡くなる。宣長は家業を継ぐよう育てられ、1748年ごろには江戸の小津本家へ商いの修業に出された。ところが、商人の道はどうしても身につかない。一度は山田の今井田家へ養嗣子(あととりの養子)に入ったが、やはり合わず、実家へ戻っている。
息子の心が商いではなく学問に向いている。それを見抜いたのは、母の勝だった。1752年、母は宣長を京都へ送り出す。商人の家の次男は、こうして学問の都へ向かった。そこで出会うものが、彼の一生を決めることになる。
03京都の五年半
京都で宣長は、二つの道を同時に学んだ。儒者の堀景山(1688-1757)のもとで儒学、なかでも朱子学(中国・朱熹の学問の流れ)と古典の素読を。漢方医の武川幸順のもとで医術を。・歌学・医学を一身に重ねた五年半である。
この京都時代に、宣長は契沖という先人の『万葉代匠記』に触れたと伝わる。古い言葉を、後の時代の思い込みで読まず、証拠を積んで読む。この「古学」のやり方に、宣長の目は開かれた。医者として身を立てる準備をしながら、心は日本の古典へ深く傾いていった。
1757年の末、宣長は松阪へ帰る。翌1758年の正月、先祖伝来の姓「本居」を名乗り、内科の開業医となった。以後、死ぬまで松阪を離れない。昼は医者。では、夜は何をしていたのか。
04昼は医者、夜は学問
宣長は昼のあいだ、医師として町の人を診た。専門は内科で、子どもも診る。薬料も控えめな町医者だったと、弟子たちの覚え書に残っている。屋敷は小津家の旧宅を改めたもので、書斎に小さな鈴を懸けていたことから、のちに鈴屋と呼ばれた。
そして夜、宣長は古学と歌学に没頭した。この「昼は医業、夜は学問」の二重生活を、死の直前まで四十年あまり、ほとんど休みなく続けている。診療の日記と古学の覚書とが、同じ筆で並んで残された。
歌人としての宣長は、『源氏物語』『万葉集』『古今和歌集』の世界に深く入りこんだ。とりわけ。この物語を、宣長は当時の誰とも違うやり方で読んだ。
05もののあはれ ― 誰とも違う源氏の読み方
1763年の『紫文要領』、続く『石上私淑言』で、宣長は言い切った。『源氏物語』の本質は、もののあはれを知ることにある、と。
もののあはれとは何か。宣長の説明はまっすぐである。物事に触れて、心がしみじみと動くこと。その動きを、そのまま感じ取ること。桜が咲けば美しいと思い、散れば惜しいと思う。愛する人がいれば愛おしい。この単純で自然な心の動きの全体が「もののあはれ」だ。
物のあはれを知るといふ事、すべて何事にまれ、身にふれ心にあたるにつきて、その事その物の心をわきまへ知る、これ物のあはれを知る也
だから『源氏物語』は、光源氏の恋を道徳で裁く書ではない。恋の一つ一つの場面で、心がどう動くかを精密に描いた書だ。そう宣長は読む。これは当時主流だった読み方 ― の流れをくむ、善をすすめ悪をこらしめる物語だとする解釈 ― への、根本からの反論だった。
儒教や仏教は、人の情を「煩悩」や「私欲」として退ける。しかし宣長に言わせれば、それこそが漢意、つまり中国から来た作為的な道徳意識である。日本の古典が示すのはその逆で、もののあはれに素直に反応する心 ― 作りごとをしない、等身大の情の動き ― だ。宣長はこれを大和心と呼んだ。
この考えを打ち出したのと同じ1763年の5月。一人の老学者が、松阪の宿に泊まった。宣長の一生を変える夜が来る。
06松阪の一夜
1763年5月25日の夜、松阪の旅籠・新上屋に、国学の大家賀茂真淵(1697-1769)が泊まった。『万葉集』研究で知られる老大家が、大和をめぐる旅の途中だった。宣長はかねてから手紙で教えを願っていた相手である。これを知った宣長は、一夜の面会を申し出た。世にいう「松阪の一夜」である(日付には諸説ある)。
真淵は宣長の熱意を感じ、『万葉集』研究の志をほめながら、「古事記の解明こそ国学の本命」と語ったと伝える。「自分はもう老いた。古事記はお前がやれ」。宣長はこの一言を、生涯の仕事の指令として受け取った。
直後に正式に入門し、1769年に真淵が没するまでおよそ7年、手紙による厳密な指導が続いた。直接会ったのは、この一夜だけである。晩年の随筆『玉勝間』で、宣長自身がこの夜を生涯の転機として書き残している。
だが、師の言葉を受け取った宣長の前には、とんでもない壁があった。『古事記』は、もう誰にも読めない本になっていたのだ。
07読めない本を読む ― 35年の仕事
『古事記』は日本最古の歴史書だが、平安時代にはすでに読み方が失われつつあった。江戸時代の知識人にも、ほとんど読めない書物だったのである。
1764年、宣長は『古事記伝』の執筆に取りかかった。一字一字を『万葉集』『日本書紀』『風土記』と突き合わせ、古い言葉と古代の音を復元していく。冒頭の「天地初発之時」という一句の読みだけで、何十頁もの考証を重ねた。完成は1798年。足かけ35年、全44巻、200万字を超える大著である。
その第一之巻『直毘霊』(1771年)は、独立した思想書としても読まれる。儒教や仏教ふうの道徳論を「」として退け、神々の事跡として伝わる「ただあるがままの道」を、古の道の核心に置いた。
この間、1792年には紀州藩主・徳川治宝に招かれ、藩士の身分と禄を受けた。それでも松阪を離れず、出仕は年に数日にとどめている。ほかの藩や幕府筋からの招きもあったと門人の記録に見えるが、宣長は町医者・在野の学者という軸を最後まで崩さなかった。そしてこの松阪の家に、やがて全国から人が集まりはじめる。
08五百人の門弟と、学問のゆくえ
宣長のもとには全国から門人が集まった。生涯の門人数は500人を超え、関東から九州まで及んだ。門人には石塚龍麿、本居春庭(長男の歌学者・文法家。寛政期に眼病を患い晩年は失明、それでも口述で『詞八衢』『詞通路』を完成させた)、本居大平(養子、本居派の継承者)らがいる。指導はでの講義のほか、大量の書簡往復で行なわれた。宣長の書簡は緻密で、質問への返信に長大な考証を含むものが多い。現存する書簡だけで数千通、宣長は一生涯「手紙で教える教師」だった。
平田篤胤(1776-1843)は宣長没後の自称門人で、直接の対面はなく、夢で入門の許しを得たと『大壑君御一代略記』に記す。篤胤は『古史伝』『霊能真柱』で霊・幽冥界へと国学を拡張させたが、その方法は宣長の文献実証主義からは離れたところに踏み出している。後年の復古神道、さらに近代の国家神道へ流れていく系譜は、篤胤を経由した曲解と政治的拡張の結果であり、宣長その人の意図を直線的に読み取れるものではない。
同時代の国学者上田秋成とは、「日の神論争」(天照大神を太陽神とする宣長の神国論に、秋成が批判的な議論を加えた)で鋭く対立した。宣長の国学が日本中心主義に傾く要素と、古代テクストの精密な読解の要素を両方持っていたことが、この論争に現れている。
学問は弟子たちの手で広がり、ねじれもしながら、後の時代へ流れていった。話を松阪に戻そう。老いた宣長は、最後の仕事にとりかかっていた。
09ふたたび、桜の下へ
と並行して、宣長は膨大な随筆と論考を遺している。(1786-1801)は14巻の随筆で、古学の断片的な考証と感想を綴った。『うひ山ぶみ』(1798年)は国学をこれから学ぶ人への入門書。は晩年まで手を入れ続けた。和歌は生涯におよそ一万首を詠み、自選集『鈴屋集』を遺した。
還暦のころ、宣長は自分の肖像画を描かせた。その絵に、自らの筆で一首を書き添えている。
敷島のを人問はば朝日に匂ふ山桜花。
大和心とは何かと人に問われたら ― 朝日に照り映える山桜の花だ、と。理屈で答えず、桜を指さした。花にふれて自然に動く心、それ以上の説明はいらない。宣長思想の結晶として、最も広く知られる一首である。
1801年、宣長は詳しい遺言書「本居宣長奥津紀」を遺した。墓所も葬列も、墓石の寸法も、生前に自ら細かく書き残した。そして墓は、山室山の妙楽寺の中、桜の木の下と定めた。この年の9月29日、松阪の自宅で没する。
冒頭の問いに、もう答えは要らないだろう。桜の歌に生き、桜のもとに眠る最期は、宣長思想の自画像そのものだった。では、あなたはどうか。理屈をぜんぶ脇に置いたとき、あなたの心は、何にふれてどう動くだろうか。
10主要な出来事と著作
- 伊勢松阪大姥町の木綿商小津家に生まれる。幼名冨之助
- 11歳、父定利死去
- 江戸大伝馬町の小津本家へ商業修業。商いになじまず帰郷
- 京都遊学、堀景山に儒学、武川幸順に医術を学ぶ
- 29歳、松阪に戻り本居姓を名乗って内科医として開業
- 『紫文要領』『石上私淑言』、もののあはれ論を提示。5月25日、松阪の一夜で賀茂真淵と会見し入門
- 35歳、『古事記伝』執筆に着手
- 賀茂真淵没。7年の書簡往復による師事が終わる
- 『直毘霊』(のち『古事記伝』第一之巻)、漢意を退け古道を説く
- 『玉勝間』連載開始、随筆体で古学の考証を重ねる
- 還暦の自画像に「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」を賛
- 紀州藩主徳川治宝の招聘を受け紀州藩士分の禄を給される(松阪在住のまま)
- 『古事記伝』全44巻完成(69歳、起筆から35年)、『うひ山ぶみ』
- 9月29日、松阪の自宅で没。享年72。遺戒状「本居宣長奥津紀」、墓は山室山妙楽寺
残した思想の輪郭
- もののあはれ ― 物事に触れて心が自然に動くことをそのまま受け取る感受性、『源氏物語』の本質
- 大和心 ― 漢意(からごころ)に対立する、作為なき自然な日本の心のあり方
- 漢意の拒絶 ― 儒教・仏教の道徳的図式を「借りもの」として退け、古代日本の素直な情を復元
- 古事記研究 ― 『古事記伝』44巻で失われていた古代文献の訓と意味を35年かけて復元
- ただあるがままの道 ― 神代の道を抽象的道徳ではなく具体的な神々の物語と人の情として描く
- 精密な文献考証 ― 一字一句に訓と注を付す実証主義が、近代日本文献学の源流となる
- 国学の大成と、その後の射程 ― の万葉学を継ぎ、本居派が日本思想史の一大流脈を築いた。一方、を経由して幕末の復古神道、近代の国家神道へと用いられていく系譜は、宣長の文献実証主義と感性論の枠を超えた政治的拡張であり、そのつながりは直線ではなく屈曲として読まれるべきものである
つながり
- 朱熹
先駆 — 宣長が「漢意」と呼んで退けた理の哲学。反発は『古事記伝』の方法を生んだ。
- 福澤諭吉
継承 — 宣長を引用せぬまま、その自立の精神を「一身独立」へ翻案した人がいる。
- 柳田國男
批判的継承 — 宣長の神学を退け、文献から生活へ——「常民」の学に組み替えた人がいる。
- 小林秀雄
継承 — 後世、その名を晩年の主著の題に掲げ、批評の極北に据えた人がいる。
- 紫式部
先駆 — 「もののあはれ」——その発見の母胎となった物語の作者。
- 蔦屋重三郎
同時代 — 『古事記伝』が版元との協働で世に出た同じ時代、江戸で娯楽の出版を組織した仕掛け人。
- 平賀源内
対比 — 宣長が古典の内へ掘った同じ時代、物産と蘭学の知で外へ開いた、ほぼ同年生まれの男がいた。
さらに読むならFurther Reading
本居宣長の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
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生きた跡を辿るPlaces
本居宣長が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
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宣長畢生の『古事記』注釈書
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