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福澤諭吉

Fukuzawa Yukichi·1835–1901·日本·

大砲の音が聞こえる教室で、 なぜ授業を続けたのか?

「独立自尊」を生涯の座右銘とし、蘭学・英学から慶應義塾と『学問のすすめ』で近代日本の市民意識を開いた啓蒙家

  • 学問のすすめ
  • 独立自尊
  • 脱亜論
  • 文明論
家柄がすべてを決めた世が崩れ、西洋の力が一気に押し寄せた時代 — ひらく

時代の空気

天保6年(1835年)生まれ、豊前中津藩の下士の家。門閥制度が父の登用を阻み、漢籍と蘭学から英学へ進む。安政6年(1859年)の横浜開港で蘭語の通用しない現実に直面し英語に転じ、万延元年(1860年)咸臨丸でサンフランシスコ、文久元年(1861年)欧州六カ国を歴訪。慶応4年(1868年)上野戦争の砲声を聴きながら芝新銭座で慶應義塾を開講、明治新政府の官職は終生辞退、明治5年(1872年)からの『学問のすすめ』全17編は人口3,000万人で340万部を超えた。

01砲声のなかの授業

1868年、江戸。長く続いた幕府の時代が、終わろうとしていた。町では、旧幕府側の部隊・彰義隊しょうぎたいと新政府軍の戦いが、まさに始まろうとしていた。

その日、芝新銭座しばしんせんざにある塾では、授業が開かれていた。教壇に立つのは、33歳の福沢諭吉。教科書は、アメリカの学者ウェーランドが書いた経済学の本だった。

やがて上野の方角から、戦いの音が聞こえてきた。それでも福沢は、本を閉じなかった。砲声を遠くに聞きながら講義を続けたと、のちに自分の人生を語ったに記している。

なぜ、戦火の迫る町で、彼は授業をやめなかったのか。この人にとって、学問とはいったい何だったのか。その答えを探しに、時は33年前へさかのぼる。

02門閥は親の仇 ― 中津と適塾

1835年、福沢諭吉は大坂で生まれた。九州の中津藩(今の大分県中津市)が大坂に置いた蔵屋敷くらやしき、つまり藩の出張所である。父はこの藩に仕える、身分の低い武士だった。生まれた翌年に父が急死し、一家は中津へ帰った。

中津の暮らしは貧しかった。当時の武士の世界では、生まれた家の格がすべてを決めた。父は低い身分の生まれというだけで取り立てられず、思いを晴らせないまま死んだ。福沢はのちに『福翁自伝』で言い切っている。「門閥制度もんばつせいどは親のかたきで御座る」。家柄がすべてを決める仕組みこそ、父のかたきだ、という意味だ。

少年は家の仕事を手伝いながら、中国の古典を独学した。19歳で長崎へ出て、オランダ語で西洋を学ぶ「蘭学らんがく」の初歩にふれた。20歳で大坂に移り、医師・緒方洪庵おがたこうあんの私塾「適塾てきじゅく」に入る。当時の蘭学の最高峰であり、のちに名を残す大村益次郎や橋本左内らもここで学んだ。

福沢は猛烈に勉強し、21歳で塾生のトップである塾頭じゅくとうになった。のみのわく部屋でも構わず、原書を読み続けた青春だったと『福翁自伝』は伝える。身分の壁への怒りを抱えた若者は、こうして蘭学という武器を手に入れた。だがその武器が、突然役に立たなくなる日が来る。

03通じなかったオランダ語 ― 三度の航海

23歳のとき、江戸の中津藩屋敷の中に蘭学の塾を開いた。これが、のちのの出発点である。

翌1859年、福沢は開港したばかりの横浜を訪れ、打ちのめされた。命がけで学んだオランダ語が、この港町ではほとんど通じなかったのだ。世界の実用語は英語だった。福沢はその夜から、独学で英語を始めた。積み上げたものを捨てて、ゼロからやり直したのである。

1860年、25歳。幕府の使節団に加わり、軍艦・咸臨丸かんりんまるでサンフランシスコへ渡った。日本人が太平洋を自力で横断した最初の航海である(実際はアメリカ軍人の助けが大きかったが、幕府としては自前の船旅だった)。福沢は現地でウェブスターの英語辞書を買い求め、学び直しを本格化させた。

翌年にはヨーロッパへ。イギリスやフランスなど6つの国を回り、議会、学校、病院、銀行、新聞といった仕組みを片っ端から観察した。1867年には三度目の海外へ、再びアメリカを訪れている。見てきた世界を日本語で紹介した本がだ。西洋の国の仕組みを伝えたこの本は、幕末から明治への大ベストセラーになった。

だが福沢が伝えたかったのは、制度の紹介だけではない。世の中がひっくり返るその年、彼は江戸で、あの砲声を聞くことになる。

04慶應義塾と『学問のすすめ』

1868年、江戸での戦いが迫るなか、福沢は塾を芝新銭座に移し、「慶應義塾」と名づけた。慶應は当時の年号。「義塾」は、イギリスのパブリック・スクールにならった「みんなのための塾」という意味の訳語である。冒頭で見た砲声のなかの授業は、まさにこの年の出来事だった。

1871年、義塾は東京の三田に移った。今の慶應義塾大学がある場所である。

そして1872年、37歳の福沢は一冊の小さな本を出す。『学問のすすめ』。その書き出しが、日本の歴史でも指折りの有名な一文になった。

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。

『学問のすすめ』初編の書き出し(1872年)。家柄がすべてを決めた時代の読者に、人の平等を告げた一文

人の上下は、生まれでは決まらない。身分の世に育った読者にとって、これは雷のような言葉だった。そして福沢は続ける。それでも現実に人生の差がつくのは、学ぶか学ばないかの違いだ。しかも学ぶべきは飾りの教養ではなく、実生活の役に立つ「実学じつがく」だ、と。

初編は20万部。シリーズ全17編の合計は340万部を超えた。当時の日本の人口はおよそ3,000万人。単純に計算すれば、10人に1人が手にしたことになる。父のかたきだった身分の壁に、福沢はペンで穴を開けた。だが彼の目は、個人の独立のさらに先を見ていた。

05民間の士 ― 一身独立して一国独立す

『学問のすすめ』で福沢が説いたのは、ただの勉強のすすめではない。学び、自分の頭で判断し、誰にも寄りかからずに立つこと。彼はそれを「独立」と呼んだ。そしてこの独立を、個人の話で終わらせなかった。

一身独立して一国独立す

『学問のすすめ』より。一人ひとりの独立を、国の独立の土台としてつないだ言葉

一人ひとりが独立してはじめて、国も独立できる、という意味である。当時の日本は、欧米の強い国々に呑み込まれるかどうかの瀬戸際にいた。福沢の答えは、まず人だった。1875年には、最も本格的な思想の書でこの考えを掘り下げている(その中身は、終盤の章でくわしく見る)。

明治の新政府は、福沢を役人として迎えようとした。彼は生涯、一度も応じなかった。政府に雇われず、あくまで「民間の士」として生きる。1882年、47歳で新聞を創刊し、どの政党にも属さない独立の立場から、政治や経済について発信し続けた。

しかしその紙面に載ったある一本の社説が、死後100年を超えてなお、福沢の名に影を落とすことになる。

06晩年 ― 一編集員として

1885年、時事新報に「脱亜論だつあろん」という社説が載った。隣国の清(今の中国)や朝鮮で改革が進まないことに失望し、日本はアジアの仲間を待たず、欧米と共に進むべきだと説く内容である。この社説をめぐる論争は、次の章で見ることにしよう。

1898年、63歳のとき、脳の血管の病気で倒れた。いったん回復すると、自分の人生を口で語り、書き取らせた。それが『福翁自伝』である。さらに「独立自尊どくりつじそん」を中心にすえた29か条の教え『修身要領しゅうしんようりょう』の編さんを指導した。 ― 誰にも寄りかからず、自分を尊んで生きること。慶應義塾の精神として、今も受け継がれている言葉である。

1901年2月3日、再び倒れ、その日のうちに66歳で世を去った。日本中に名を知られた大教育者の死である。だが本人の遺志により、その死は「時事新報の一編集員の死」として報じられた。盛大な葬儀は行わないという望みも守られた。のちの1984年から2024年まで、1万円札の顔として親しまれたのは、この福沢である。

派手な葬列を拒んだ最期は、彼の思想とどうつながるのか。ここから先は、福沢の言葉そのものを近くで読んでみたい。

07考証 ― 冒頭の一文、文明論、そして脱亜論

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」は、の日本語化であり、明治初期の青年読者に雷撃のような印象を与えた。注意すべきは、福沢の書き方が「と云へり」(と云われている)という引用の形をとっていることだ。これは、福沢自身の発明というより、西洋の思想の紹介という留保を含む。だがその後に続く福沢の論は明快 ― 人間の差は生来の身分ではなく、学ぶか学ばないか、(実生活に役立つ学問)を身につけるか否かに尽きる、と彼は言う。身分秩序のなかで育った少年時代の怒りが、この一文に籠もっている。

『文明論之概略』(1875)は福沢の最も体系的な思想書で、文明を野蛮(未開)・半開(中国・日本の伝統)・文明(欧米)の三段階として論じる。重要なのは、福沢が単に「欧米を模倣せよ」と説いたのではないことだ。彼の論の骨子は、日本の独立のためにまず国民の精神(気風・気力)を文明化する必要がある、というものだった。国民が奴隷根性でいる限り、制度だけ西洋化しても独立はない。福沢の独立自尊(いわゆる慶應義塾の社訓だが、造語は晩年の修身要領明治33年)は、国家の独立と個人の独立を同じ精神のなかに結びつける概念である。国が独立するためには、その国民一人一人が独立の気風を持たねばならない ― この発想が『学問のすすめ』以来の福沢思想の根幹にある。

明治18年(1885年)3月16日、福沢が主宰する『時事新報』に社説「脱亜論」が掲載された(署名はないが福沢自身の筆とされる)。清と朝鮮(特に後の朝鮮)の改革不振を嘆き、「我が国は支那朝鮮を待つ時間はなく、脱亜(アジアを脱して)欧米と進退を共にする」べきだと説く。そして「悪友を謝絶す」という一句が、同論の最も強い表現である。は福沢の生前ほとんど注目されず、昭和期にらが発掘して以降、日本のアジア侵略の思想的先駆として長く論争の対象となった。近年は原文の脈絡重視の立場から「その時点の朝鮮政変への失望を述べたもので、後の侵略の原型ではない」とする読解も有力である(丸山自身の評価にも揺れがある)。いずれの立場であっても、『脱亜論』は福沢思想を評価する上で避けて通れない論争点として残っている。

08ふたたび、砲声の教室へ

もう一度、1868年の教室に戻ろう。上野から戦いの音が届くなか、33歳の福沢はウェーランドの経済学を講じ続けた。なぜ、逃げなかったのか。

ここまで読んだあなたなら、もう自分の言葉で答えられるはずだ。身分の壁に父を奪われた少年。オランダ語を捨てて英語をやり直した青年。政府に雇われることを生涯拒んだ「民間の士」。その全員が、同じ一つのものを握りしめていた。福沢にとって学問とは、その日の勝ち負けを超えて、人を立たせ、国を立たせる力だった。だから世の中がひっくり返る日にこそ、本を閉じるわけにはいかなかったのである。

福沢の時代、人を縛る壁は「家柄」だった。では、今のあなたを縛っている壁は何だろうか。そして、その壁に穴を開けるための「学問」を、あなたはもう手にしているだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. 大坂堂島の中津藩蔵屋敷に生まれる(新暦1835年1月10日)。翌年父百助死去
  2. 長崎で蘭学の初歩、大坂で緒方洪庵の適塾に入塾
  3. 21歳で適塾の塾頭となる
  4. 江戸・中津藩中屋敷内に蘭学塾を開く(慶應義塾の起点)
  5. 横浜で蘭語の通用しないのに衝撃を受け、英語学習に転じる
  6. 遣米使節団に随行、咸臨丸でサンフランシスコへ
  7. 遣欧使節団に随行、欧州6カ国を歴訪
  8. 『西洋事情』初編・外編・二編刊行、ベストセラーに
  9. 三度目の渡米
  10. 塾を芝新銭座に移し「慶應義塾」と命名
  11. 義塾を三田に移転
  12. 『学問のすすめ』全17編刊行、シリーズ340万部超
  13. 『文明論之概略』刊行、半開から文明への国民の気風を論じる
  14. 『時事新報』創刊、独立不羈の言論機関を目指す
  15. 『時事新報』社説「脱亜論」(無署名、福沢の筆とされる)
  16. 脳溢血で一時倒れる。『福翁自伝』口述
  17. 『修身要領』29か条、「独立自尊」を中核の倫理に
  18. 2月3日、再発の脳出血で三田の自邸に没。享年66

残した思想の輪郭

  • 独立自尊 ― 国の独立は国民一人ひとりの独立の精神から生まれるという一貫した主題
  • 実学 ― 漢学的教養主義ではなく、実生活に役立つ学問(数学・物理・経済・法律)を重視
  • 文明化と国民の気風 ― 制度だけの西洋化ではなく、精神の文明化が独立の条件
  • 民間の士 ― 官職を終生辞退、慶應義塾と時事新報を民間の言論機関として育てた
  • 慶應義塾 ― 日本最初期の近代私塾から総合大学へ、三田に拠点を定めた教育事業
  • 啓蒙書の巨大な射程 ― 『学問のすすめ』『文明論之概略』『西洋事情』が明治日本の精神風土を決定づけた
  • 『脱亜論』をめぐる論争 ― 時事新報社説として今日まで評価が割れる、福沢思想の翳の部分
明治34年(1901年)2月3日、東京三田の自邸で脳出血により没。66歳。時事新報の一編集員の死として報じられ、盛大な葬列を望まなかった遺志が守られた。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

福澤諭吉が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 福澤諭吉旧居・福澤記念館生誕

    中津市(大分県), 日本

    1歳半で戻り育った中津藩・留守居町の旧居。少年期の学問の出発点を伝える記念館を併設

  • 慶應義塾 三田キャンパスゆかり

    東京(港区), 日本

    1868年、戊辰戦争のさなかにここへ塾を移し「慶應義塾」と改称。福澤諭吉像、旧図書館、独立自尊の書が残る

さらに辿るならExternal References

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