朱熹
国に「偽物の学問」と呼ばれながら、 なぜ死の前日まで 筆を止めなかったのか?
「理」と「気」の形而上学で四書を注釈し、朱子学を東アジアの標準教学に押し上げた南宋の大儒
- 理
- 気
- 格物致知
- 四書集注
国土の半分を失った王朝で、学問の立て直しこそ国の立て直しだと信じられた時代。 — ひらく
時代の空気
華北を失った時代に生きた。靖康の変で金軍が開封を陥れ、宋王朝は南へ退いて臨安に都を据え直していた。失われた中原の記憶と、軍事的に劣位にある屈辱が、士大夫たちの背中にのしかかっていた。科挙で登る官僚制は成熟し、読書と論理と倫理が権力への階段だった。仏教と道教は民衆にも知識人にも深く浸透し、儒学はそれに応える体系を求められていた。気と理、太極と性、内省と格物——理論の塔を再建せねば倫理の足場そのものが流されてしまう、そう感じられる時代だった。
01死の前日の筆
1200年3月、南宋(なんそう)の福建、建陽(けんよう)の考亭(こうてい)。ここに滄洲精舎(そうしゅうせいしゃ)という学び舎があった。その奥で、一人の老学者が病の床についていた。名は朱熹(しゅき)。のちに「朱子」と尊ばれる人である。
このとき、彼の学問は国家から「偽学(ぎがく)」と呼ばれていた。偽物の学問、という意味である。門人たちは名簿に載せられ、官職を奪われ、閉じ込められた者までいた。それでも老人は筆を離さなかった。『大学』という古典の注釈を、死の前日まで直し続けたと伝えられる。
3月9日、朱熹は世を去った。禁令のさなかにもかかわらず、葬儀には千を数える門人と縁者が集まったと伝わる。国が「偽物」と断じた学問のために、人々は罰を恐れず集まったのである。
なぜ朱熹は、国に否定された学問を最後の一日まで磨き続けたのか。なぜ人々は、危険を冒してまで彼を見送ったのか。その答えを探しに、時を70年前へ巻き戻す。
02天の上には何があるか
1130年、朱熹は南宋の福建路尤渓(ゆうけい)県、いまの福建省尤渓に生まれた。四人兄弟の末っ子である。父の朱松(しゅしょう)は、科挙(かきょ、役人を選ぶ国家試験)に合格した学者役人だった。北方の金(きん)という国との講和に反対し、御史(ぎょし、皇帝に意見を述べる役)の職から左遷された硬骨の人である。母は祝氏といった。
『朱子年譜』という記録は、この子の早熟ぶりを伝えている。4歳のとき、父に「天の上には何があるか」と尋ねた。父が「天の上には天がある」と答えると、「ではその上は何か」とさらに押したという。なお成人後の字(あざな、本名の代わりの呼び名)は元晦(げんかい)、のち仲晦。号(ごう、学者としての別名)は晦庵(かいあん)・考亭・紫陽、晩年は晦翁(かいおう)・滄洲病叟(そうしゅうへいそう)とも名のった。
1143年、父が世を去る。少年は母とともに、福建建陽の母方の祖父の家に身を寄せた。父の遺言に従い、胡憲・劉勉之・劉子翬(りゅうしき)という三人の先生に学ぶ。三人とも父の友人で、(じゅがく、孔子に始まる学問)の同じ流れをくむ人たちだった。
若い朱熹は、禅(ぜん、仏教の一派)にも道教にも深入りした。そのかたわらで科挙の準備を進め、1148年、進士(しんし)の試験に合格する。3年後には福建の同安(どうあん)という町の主簿(しゅぼ、記録係の役人)となった。だが心の中は、まだ定まっていなかった。禅か、道教か、父から受け継いだ儒学か。その迷いを断ち切る人物に、彼はまもなく出会う。
03延平の老師
1153年、朱熹は(りとう)という老学者を訪ねた。延平(えんぺい)先生と呼ばれる人である。李侗は、北宋の兄弟学者・程顥(ていこう)と程頤(ていい)――あわせて「二程」と呼ばれる――の教えを受け継ぐ正統の門人だった。二程の弟子である楊時(ようじ)から数えて、三代目にあたる。
李侗は朱熹に、禅と儒学を混ぜてはならないと説いた。そして、心が動き出す前と後(未発已発)をよく見つめる工夫と、ふだんの暮らしの中にある天理(てんり、天の道理)を教えた。真理は遠い悟りの中ではなく、毎日の暮らしの中にある、というのである。
朱熹は以後10年近く、手紙のやり取りで李侗に学び続けた。やがて正式な弟子となり、1163年に李侗が世を去るまでに、程頤から伝わる「」――人の本性は天の理そのものだ――という立場を自分のものにした。
こうして朱熹は、北宋以来の学問の系譜につらなった。(しゅうとんい)、(ちょうさい)、二程から李侗へと流れてきた川である。だが、受け継ぐだけでは足りなかった。仏教や道教の深い理論に対抗できる、儒学自身の理論の柱がまだ無い。世界は、いったい何でできているのか。
04筋道と材料
朱熹が立てた答えは、二つの言葉に集約される。「理(り)」と「気(き)」である。理とは、すべての物事を貫く筋道、あるべき形のこと。気とは、物を実際に形づくる材料であり、力である。理は一つで、気はさまざま。この二本立てで世界を説明する考えを、と呼ぶ。
人の本性は理そのものだから、生まれつき善である。しかし人はそれぞれ、気の濁りや偏りを持って生まれてくる。だから善がうまく現れない人もいる。学問とは、この気の偏りを変えていくための営みだ、と朱熹は考えた。
では、どう学ぶのか。答えが「(かくぶつちち)」である。物事の一つ一つに向き合い、その理を突き止めていく。それを積み重ねると、ある日突然、すべてが一気につながって見える。朱熹はこの瞬間を「豁然貫通(かつぜんかんつう)」と呼んだ。
衆物の表裏精粗、到らざるなく、吾が心の全体大用、明らかならざるなし。
学びの方法は手に入った。次に必要なのは、その方法で読み抜くべき「教科書」である。だがその前に、朱熹は生涯最大の論敵と向き合うことになる。
05鵝湖のほとりで
1175年、江西の鵝湖寺(がこじ)という寺で、二人の学者が向かい合った。朱熹と、(りくきゅうえん)である。陸九淵は兄の陸九齢(りくきゅうれい)とともに臨んだ。仲介と調停をつとめたのは、友人の学者・呂祖謙(りょそけん)。のちに「」と呼ばれる対決である。
朱熹は言う。物事を一つ一つ調べ、広く学んでこそ理に届く。陸九淵は言う。理は初めから自分の心の中にある。まず自分の本心をしっかり立てることだ。互いに相手のやり方を批判し合い、会は物別れに終わった。
だが、この対立の種は数百年後まで芽を出し続けることになる。同じ1175年、朱熹は呂祖謙とともに、入門書『』も編んでいた。論争よりも、学びの場そのものを作ること。朱熹の力は、次第にそちらへ注がれていく。
06書院と四つの書
1180年、役人として江西に赴任した朱熹は、廬山(ろざん)のふもとに眠っていた学校、(はくろくどうしょいん)を建て直した。学びの心得を、自分の筆で学規として掲げた。1183年には、故郷福建の武夷山(ぶいさん)の九曲渓のほとりに(ぶいせいしゃ)を開き、弟子たちと寝食をともにした。のちの1194年には、湖南長沙の(がくろくしょいん)も改修している。朝廷で通らなかった理想を、彼は学校という場で形にしていった。
そのかたわらで、生涯をかけた注釈の仕事が進んでいた。『』『大学』『中庸』。朱熹はこの四つを「」としてひとまとめにし、儒学の入り口に据え直した。『大学』と『中庸』は、もともと『礼記』という書物の中の一篇にすぎなかった。それを独立させ、注釈をつけ、『』として完成させたのである。
読書は須(すべか)らく虚心にして義理を体認すべし。先入の意を以て強いて合わすべからず
思い込みを捨て、心を空にして書物そのものの道理を受け取る。この読書法自体が、彼の学問の実践だった。書物の世界で、仕事は着々と積み上がっていく。だが朝廷では、まったく別の風が吹き始めていた。
07七千字の直言
朱熹の学問は支持を広げたが、政治の道は挫折の連続だった。要職に就いても、政敵との対立で短く終わる。1188年には、孝宗(こうそう)皇帝に向けて七千字におよぶ意見書、(ぼしんふうじ)を密封して差し出した。君主みずから心を正すこと。賢い人材を用い、悪をおさえ、民をいたわること。真正面からの直言だったが、聞き入れられなかった。
1194年、新しい皇帝・寧宗(ねいそう)が即位すると、朱熹は皇帝に講義する侍講(じこう)として都に召された。新帝に『大学』を講義し、儒学の理想の政治を説いた。しかし在任わずか46日。皇帝の外戚(がいせき、皇帝の母や后の一族)である実力者・(かんたくちゅう)らの策略で、職を追われた。
さらに追い打ちが来る。1195年から、朝廷の政争の中で朱熹の学問そのものが攻撃の的になった。1196年、「偽学」の禁令が本格化する。1198年には、趙汝愚(ちょうじょぐ)をはじめ門人ら59名が「偽学逆党」として名を連ね、官職を奪われ、禁錮された。世に言う(けいげんとうきん)である。
朱熹は福建建陽の考亭に退き、『楚辞集注』『儀礼経伝通解』などの著述を続けた。追われた老学者が、山の学び舎でなお守り抜こうとしたもの。それはどんな学問だったのか。ここで一度、その全体の設計図を見ておきたい。
08朱子学の設計図
朱熹の形而上学の核心は理気論(理気二元論)である。理とは万物を貫く規範・条理・本質。気とは万物を構成する材質・力・流動。理は「形而上の者にして生物の本」、気は「形而上の上に非ず、生物の具」(『』)。理は一つで気は多様。理があるから事物はあるべくしてあり、気があるから事物は具体的にある。
人の性は理である(性即理、程頤の継承)。しかし現実の人は気質の濁清に偏りを持つため、本性の善が現れにくい。学問は気質の変化のためにある。天地の性(本然の性)と気質の性を区別したこの二元論は、孟子のと荀子のの長い対立を調停する枠組みとなった。
性即理ゆえに、心を修める方法は「格物致知」――物に格(いた)りて知を致す――である。朱熹は『大学』の「格物」を「事物の理を窮める」と解し、『大学章句』に補伝を書き入れた(古本には脱文があるとの判断による補訂で、後にが異論を唱えることになる)。一事一物に即して理を窮め、その積み重ねによってある日「豁然貫通」の悟りに至る、というのが朱熹の修養構想である。居敬(つねに慎み敬する心構え)と窮理(事物の理を探求する)を車の両輪とするの工夫がそれを支え、読書もまた窮理の一方法として、古典を繰り返し精読して字義と道理を味わうことが勧められた。
鵝湖の会での対立も、この方法論の対立だった。陸九淵は朱熹の方法を「支離事業」(断片的)と批判し、朱熹は陸の方法を「空疎簡略」(禅的簡略)と批判した。この対立は、後に陸九淵の系譜を継いだ王陽明(おうようめい、明中期)との朱陸論争へ展開し、東アジアの儒学を二分する構造的論争となる。が性即理・外から内への方向を取るのに対し、陸王学は心即理・内から外への方向を取る。ただし両者とも儒家の正統を自任していた点は共通する。
学統の面では、儒家正統の学脈――周敦頤(太極図説)→張載(正蒙)→程顥・程頤(二程)→楊時・羅従彦・李侗→朱熹――の継承を、朱熹は道学(宋学)の名のもとで総合した。1175年に呂祖謙と共編した『近思録』は、周敦頤・張載・二程の語録を選び抜き、初学者が四書へ進むための階梯とされた。
制度史の帰結も大きい。元の仁宗が1313年に詔を発し、1315年の延祐復科(えんゆうふっか)をもって、科挙の試験範囲は四書と朱子集注に実施レベルで定まった。この制度が明清を通じて存続した結果、朱熹の注釈は六百年にわたり東アジア――朝鮮・ベトナム・日本(近世の林羅山から伊藤仁斎まで)――の知識人が必ず通る関門となった。一哲学者の注釈が、これほど長期にわたり試験体系の根幹を占めた例は世界史に類を見ない。この壮大な体系こそ、朝廷が「偽」と断じたものだった。場面を、考亭の病床へ戻そう。
09最後の筆
1200年3月、考亭の滄洲精舎。冒頭の場面である。病の床の朱熹は、『大学』の「誠意」の章の注釈を直し続けていた。誠意とは、意(こころ)を誠にすること。自分を偽らないことである。国から「偽物」と呼ばれた学者が、最後まで磨いていたのは、偽らない心についての注釈だった。
3月9日、朱熹は世を去った。葬儀には、禁令をものともせず千を数える門人と縁者が集まった。8年後の1208年に党禁は解かれ、「文公」というおくり名(諡号)が贈られる。1241年には孔子廟にまつられ、以後「朱子」と尊称された。そして1313年から1315年、元王朝は科挙の範囲を四書と朱子の注に定める。「偽物」と呼ばれた学問は、その後六百年、東アジアの「標準」であり続けた。
朱熹は、この未来を知らずに死んだ。出世のためでも、名誉のためでもないとしたら、彼が死の前日まで筆を直し続けたのは、何のためだったのだろう。そして、あなたがいま「正しい」と教わっている知識も、いつか誰かが、こうして逆風の中で磨き続けたものではないだろうか。
10主要な出来事と著作
- 福建路尤渓県に生まれる(旧暦9月15日)。父朱松は宋学の影響を受けた進士官
- 14歳で父朱松死去。母祝氏とともに福建建陽に寄寓し、胡憲・劉勉之・劉子翬に学ぶ
- 19歳で進士及第。1151年から福建同安主簿として初の任官
- 24歳、李侗(延平先生)と初対面。以後書簡で師事
- 34歳、李侗没。二程の学統を引き継ぎ、孝宗即位で官途が再開
- 鵝湖の会。陸九淵と格物窮理vs心即理で対決。呂祖謙と『近思録』を共編
- 知南康軍として江西廬山の白鹿洞書院を再興、自筆の学規を掲げる
- 福建武夷山九曲渓畔に武夷精舎を開く。集注の校訂と門弟教育を続ける
- 孝宗皇帝に七千字の戊申封事を進上、君心の正と任賢・抑奸・恤民を直言
- 『四書集注』を完成、『大学章句』に格物致知補伝を書き入れる
- 知潭州として湖南長沙の岳麓書院を改修、講学を再興
- 寧宗即位とともに煥章閣待制兼侍講として『大学』を進講(在任46日で罷免)
- 韓侂冑らの主導で慶元党禁。朱熹の学は「偽学」と烙印される
- 趙汝愚以下59名が『偽学逆党籍』に列せられ官を奪われ禁錮
- 3月9日(旧暦)、福建建陽考亭の滄洲精舎で没。享年71
- 党禁解除、「文公」の諡号を追贈
- 孔子廟に従祀。以後「朱子」と尊称される
- 元の仁宗が詔を発し延祐復科で科挙を四書・朱子集注の範囲に定める
残した思想の輪郭
- 理気論 ― 万物は形而上の理と形而下の気から成り、理は一・気は多様という二元的構造
- 性即理 ― 人の本性は天理そのもの、気質の偏りが現実の人の性を生む
- 格物致知 ― 事物の理を一つずつ窮めることで、ある日豁然と貫通する修養の方法
- 居敬窮理 ― 慎み敬する心構えと理の探求、両輪による学問の道
- 四書集注 ― 論語・孟子・大学・中庸を四書として一体化、朱子注を科挙の標準教本に
- 道学の総合 ― 周敦頤・張載・二程の宋学を統合し、儒家正統の学統を構築
- 慶元党禁と復権 ― 生前は偽学として禁じられたが、死後の再評価で東アジア六百年の教学基礎に
つながり
- 孟子
先駆 — その性善説はのちに「本然の性」と再定義され、東アジア科挙儒教の正統となった。
- 王陽明
批判的継承 — 「格物致知」を竹に試して倒れ、龍場の大悟で「心即理」へ反転した人がいる。
- 本居宣長
反発 — その理気の思弁を「漢意」と呼び、古代日本語の音と感情へ還ろうとした人がいる。
- 董仲舒
先駆 — 儒教を宇宙論と結んで国教化し、宋明理学の前提を準備した漢儒。
さらに読むならFurther Reading
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さらに辿るならExternal References
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