孟子
人の心は生まれつき、 善いのか悪いのか?
「性善説」を唱え、仁義の王道政治を諸侯に説いた戦国儒家の第二の聖人
- 性善説
- 浩然の気
- 王道
- 四端
周王の力は名ばかり。七つの大国が武力と策略で天下を奪い合う時代だった。 — ひらく
時代の空気
戦国中期、周王室の権威は名目化し、魏(梁)・斉・楚・秦・趙・韓・燕の七雄が覇を競った。富国強兵と縦横の外交策が常で、覇道の論理が宮廷を支配する。斉の都臨淄では宣王が稷下の学士館に各家の学者を集め、王道と覇道、性善と性悪をめぐる論争が公然と交わされた。孟子はBC320年代から梁の恵王、斉の宣王、滕の文公らを遊説して回り、戦火と税の重さに疲弊する民を背に、孔子の仁を性善・四端へと組み直す言葉を諸侯に投げ続けた。
01震える牛と、ひとこと
戦いの絶えない時代のこと。東の大国・斉(せい)の宮廷で、王が堂の上から一頭の牛を見た。牛は牽かれていく途中だった。このまま殺される定めである。
王、すなわち斉の宣王(せんおう)は言った。「觳觫(こくそく、おののくさま)、罪なくして死地に就くに若し」。おびえて震えている、罪もないのに死に場所へ向かうようではないか。そして牛を助け、代わりに羊を使えと命じた。
この出来事を、王との対話で取り上げた老学者がいる。名は孟軻(もうか)。後の世に孟子(もうし)と呼ばれる人である。彼は王のふるまいを指して言った。「是乃仁術なり」。それこそが仁、人を思いやる道のわざです、と。この対話は、の梁恵王上という篇に伝わっている。
戦に明け暮れる王の、ほんの小さな憐れみ。孟子はなぜ、そこに国を救う道を見たのか。なぜ「人の心は生まれつき善だ」と言い切れたのか。その答えを探すには、時をおよそ五十年あまり、さかのぼらなければならない。
02引っ越しを繰り返した母
紀元前372年ごろ(諸説あり)、孟軻は鄒(すう、現在の山東省鄒城)に生まれた。鄒は孔子の故郷・魯のすぐ南にある。孔子の教え、すなわちが土地に根づいた場所だった。孟軻は幼いころに父を亡くし、母の手で育てられた。
この母には有名な話が残る。孟母三遷の逸話である。墓地のそばに住むと、子は葬式の真似ばかりする。市場のそばに住むと、商売の真似ばかりする。母は最後に学塾のそばへ引っ越し、子はようやく礼儀を学び始めた、と伝わる。
もう一つ、孟母断機の話もある。学問を途中で投げ出した息子に、母は織りかけの布の糸を断ち切って見せた。学びを途中でやめるのは、これと同じことだ、と。どちらも漢の時代の『列女伝』(劉向編)など、後の書物が伝える話である。事実か、教えのための物語かは、はっきりしない。
それでも少年が学問の道へ進んだことは確かだ。目指す先には、百年以上前に世を去った一人の巨人がいた。
03孔子の孫の流れをくむ
歴史書『』の孟子荀卿列伝は、孟軻が「子思の門人に受業した」と伝える。は孔子の孫で、祖父の教えを整理したとされる人物だ。つまり孟子は、孔子から続く流れの中で学んだことになる。ただし、この学統の細かな実態には諸説がある。
孔子が説いた中心は、仁。人を思いやる心だった。孟子はそれを受け継ぎ、さらに一歩踏み込んだ。仁は、いったいどこから来るのか。彼の答えはこうだ。人の心には生まれつき、四つの善の芽がある。かわいそうと感じる「」。悪を恥じる心。人にゆずる心。善悪を見分ける心。この四つを「」と呼ぶ。芽を育てれば、仁・義・礼・智という徳が実る。これが「」の中身である。
だが時代は、孔子のころよりさらに荒れていた。宮廷には、国を富ませ兵を強くせよと説く声が満ちる。は「」、誰をも等しく愛せと唱えた。(ようしゅ)は、自分のために生きよと説いた。善の芽の話など、聞く耳を持つ王がいるのか。孟子は五十歳前後からともいわれる壮年期、弟子を率いて旅に出る。最初の大きな相手は、魏(梁)の恵王だった。
04王よ、なぜ利を語るのか
孟子の遊説の旅は、魏(梁)、斉、宋、滕(とう)、薛(せつ)と続き、二十年以上に及んだと見られている。孔子にならった生き方だが、時代はすでに戦国。力がすべての世である。
魏(梁)の恵王は、孟子をこう迎えた。「老先生、はるばる千里をいとわず来てくださった。わが国にどんな利益をもたらしてくれるか」。孟子は正面から切り返した。「王よ、なぜ利を語るのか。仁義あるのみ」。『孟子』という書物の、いちばん最初に置かれた場面である。
恵王は戦に敗れ、人口と兵力を取り戻したがっていた。孟子はたとえ話で返す。戦場で五十歩逃げた兵が、百歩逃げた兵を臆病者と笑う。逃げたことに変わりはない。民を苦しめる政治を改めないまま、隣の国と比べても同じことだ、と。
では、孟子の言う正しい政治とは何か。農作業の時期に民を駆り出さない。魚や材木を取り尽くさない。年寄りに絹を着せ、民を飢えさせない。壮麗な理想論ではなく、税や労役の細かな手当てだった。やがて孟子は、東の大国・斉へ向かう。冒頭の牛の一件は、この斉で起きる。
05牛は見て、羊は見ず
孟子が最も長くとどまった国は斉だった。斉の宣王は、都・臨淄(りんし)の稷下という学問の館に、各地の学者を集めて厚遇した王である。孟子も客卿、つまり客分の高い位で迎えられた。
ここで、冒頭の場面に戻る。牛を羊に替えさせた王へ、孟子は「是乃仁術なり」と告げた。続けてこうも言う。「王は牛は見て羊を見ざりしのみ」。王は震える牛を目の前で見たが、羊は見ていない。だから牛だけを憐れんだのだ、と。孟子はこの心の動きを責めない。むしろ、そこに望みを見た。目の前の牛に動いた心を、目の前の民へ向ければよい。それが王道、思いやりによって民を安んじる政治の出発点になる。
その反対が覇道、力で人を従える政治である。孟子は言う。「力をもって仁を仮るは覇、徳をもって仁を行なうは王」。そして国で何がいちばん重いかを、はっきり言い切った。
民を貴しと為し、社稷これに次ぎ、君を軽しと為す
いちばん大切なのは民。次が社稷(しゃしょく)、つまり土地と穀物の神。君主は、いちばん軽い。民の支持を失った君は、もはや君ではない。天命を失えば王朝が交代するのも天の意志だ、という理屈である。この考えは後にとして理論化され、中国の政治思想の背骨となった。
一方で孟子は、王の音楽や狩りそのものを禁じなかった。民が飢える中で王だけが楽しめば、怨みになる。だが民とともに楽しむなら、王の楽しみは政治の徳に変わる。「与民同楽」の教えである。孟子は楽しみの敵ではない。王の楽しみが民の暮らしから切り離される瞬間だけを、見逃さなかった。では、牛を憐れむような心は、本当に誰にでもあるのか。それを正面から疑う論敵が現れる。
06水は下へ、人は善へ
論敵の名は(こくし)。人の本性、つまり生まれつきの性質には善も悪もない、と説いた学者である。告子は言う。「性は湍水のごとし、東に決すれば東に流れ、西に決すれば西に流る」。湍水(たんすい)とは、渦を巻く激しい水のこと。堤を東に切れば東へ、西に切れば西へ流れる。人の性も、導き方しだいでどちらにも向かう、というのだ。
孟子は切り返す。「水に東西の分かれはないが、上下の分はある。水が下へ流れるように、人の性は善へ向かう。外的な力で逆流させられることはあっても、本性は善である」。
証拠はどこにあるのか。孟子は身近な場面を挙げる。幼い子が井戸に落ちかけるのを見れば、誰でもはっとして助けようとする。名誉のためでも、ほうびのためでもない。理屈より先に心が動く。この事実の上に、孟子は性善説を立てた。
惻隠の心、人皆これ有り。羞悪の心、人皆これ有り。辞譲の心、人皆これ有り。是非の心、人皆これ有り。
ただし四端は、完成した徳ではない。惻隠は仁の端、羞悪は義の端、辞譲は礼の端、是非は智の端。端とは糸口であり、芽である。放っておけば弱り、欲や恐怖でふさがれる。だから孟子は、人が悪を行う現実を軽く見ない。飢えた年に民が盗みを働くのは、本性が悪いからではない。安定した暮らし(恒産)を失い、安定した心(恒心)を保てなくなったからだ。性善説は、政治の責任を軽くする説ではない。かえって重くする説だった。では、心の芽は、どうすれば育つのか。
07引き抜いてはならない芽
『孟子』公孫丑上に、弟子の公孫丑(こうそんちゅう)との問答がある。先生の長所は何ですか、と問われて、孟子は答えた。「を善く養う」。浩然の気とは、天地に満ちる、この上なく大きく強い気のこと。正しい行い(義)と道を積み重ねることで、人の内に育つ。体の生命力であり、同時に、正しいことを貫く勇気でもある。
育て方を誤るとどうなるか。孟子は一つの笑い話で警告する。宋の国の男が、苗の伸びの遅さを心配し、一本一本引っぱり上げた。日暮れに帰って言う。「今日は疲れた、苗の成長を助けてやった」。息子が走って見に行くと、苗はみな枯れていた。この故事を(えつびょうじょちょう)という。急いで伸ばそうと引き抜いても、放って省みなくても、気は損なわれる。内側から自然に育つものを、外から引き抜いてはならない。
孟子自身の旅も、思いどおりには進まなかった。それでも彼は、苦しみを無駄とは考えない。『孟子』には、こんな言葉が残されている。
天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、其の体膚を餓しめ、其の身を空乏にし、行ひ其の為す所に払乱せしむ
天が大きな役目を与える前には、必ずその人の心と体を苦しめ、鍛える。苦難の中でこそ気を養う、という彼の考えを凝縮した言葉として読み継がれてきた。だが、斉での日々にも、やがて終わりが近づく。
08故郷への帰り道
紀元前312年前後、孟子は斉を去った。故郷に近い魯へ戻り、政治の場から退く。そして弟子たちと、書物づくりに残りの力を注いだ。『史記』は「退きて万章の徒と孟子七篇を作った」と記す。こうして残ったのが『孟子』七篇である。
ここまで来れば、冒頭の問いに答えられるはずだ。孟子はなぜ、一頭の牛への憐れみに国を救う道を見たのか。人の心には生まれつき善の芽があり、王の心も例外ではないからだ。震える牛に動いた小さな心は、育てて民へ向ければ王道になる。彼が二十年を超える旅で諸侯に説き続けたのは、結局この一点だった。
紀元前289年ごろ、84歳前後で世を去ったと伝わる(諸説あり)。墓は今も鄒城に残る。後の世、孟子は「亜聖」、孔子に次ぐ聖人と呼ばれるようになる。だが、その言葉の旅は、むしろ死後のほうが長い。
09残された言葉のゆくえ
思想史的に見れば、孟子は孔子の仁に性善という存在論的基礎を与えた人物である。徳は外から教え込まれるものではなく、自分の内に発見し育てるもの — この転回が、儒学のその後の展開を規定した。儒家二代目世代の仕事は、祖師の言葉を守ることではなく、墨家の兼愛、楊朱の為我、法家・兵家の富国強兵が競う戦国の言論市場で、折れずに語り直すことだった。・断機の伝承が史実か教訓譚か断じがたいにもかかわらず長く孟子の入口に置かれたのも、性善説を家庭の時間へ引き戻す読みの装置としてであった。なお伝記史料は総じて薄く、姓は孟、名は軻、字は子輿とも伝えるが字については諸説あり、生年の伝統説(周烈王4年=BC372年)にも史料的確証はない。子思門流という学統の実態も不詳だが、『孟子』本文の構想が孔子—子思の系譜を自覚していることは明らかである。
『孟子』七篇 — 梁恵王・公孫丑・滕文公・離婁・万章・告子・尽心 — は、師弟の問答・諸侯との論争・修養論を集成する。梁恵王篇は王道政治、公孫丑篇は浩然の気と弁論、滕文公篇はと古制、離婁篇は仁義の実践、万章篇は古聖王の伝承解釈、告子篇は性善論争、尽心篇は天命と修養を主に扱う。孟子と弟子たちの関与までは裏づけられるが、現行本が本人監修で確定したとまでは言いにくい。
後世への影響は二筋ある。第一に修養論。宋明の、朱熹の工夫論、王陽明のは、いずれも四端・浩然の気の再解釈として展開した。第二に正統論。唐の韓愈は孟子を儒家の道統の正統継承者と位置づけ、南宋の朱熹が『孟子集注』を著して『』『大学』『中庸』とともにの一つに列したことで、孟子の思想は科挙の標準教典として東アジア全域に浸透した。日本では江戸初期、易姓革命や「君を軽し」とする語が幕府秩序に危険視され、講読を避ける空気もあった。『童子問』などをめぐる論争では、の枠を越えて孟子をどう読むかが、学問と政治の境目を照らした。
孟子の言葉は、王のいない時代にもまだ問いかけてくる。幼い子が転びそうになった瞬間、あなたの手は理屈より先に動くだろうか。動いたとして — その小さな芽を、あなたは今日、どこまで育てるだろうか。
10主要な出来事と著作
- 鄒(現山東省鄒城)に生まれる(生年には諸説あり)
- 父を失い母に育てられる。孟母三遷・断機の故事は後代の教訓譚
- 孔子の孫・子思の門流に学ぶ(『史記』孟子荀卿列伝)
- 諸国遊説を開始。魏(梁)の恵王を訪れ「王何ぞ必ずしも利を曰わん」
- 斉の宣王のもとで客卿、王道と浩然の気を説く
- 魯に帰り、弟子団と『孟子』七篇を編纂
- 没(享年には諸説あり、84歳前後とされる)
- 唐・韓愈が道統論で高く評価、南宋・朱熹が四書に列し科挙の必修に
残した思想の輪郭
- 性善説 ― 人の本性には四端(惻隠・羞悪・辞譲・是非)という善の芽が生まれつき備わる
- 四端から四徳へ ― 四端を拡充することで仁・義・礼・智という徳が実現する
- ― 力の覇道に対し、仁徳による王道政治を諸侯に説く
- 民本主義 ― 「民を貴しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」、天命としての易姓革命
- 浩然の気 ― 義と道に配う至大至剛の気を養う修養論、後の理気論の源流
- 亜聖 ― 孔子に次ぐ聖人として後世に尊称され、朱子学を通じて東アジアの標準教典に
つながり
- 孔子
先駆 — その孫・子思の学統に、孟子は自ら連なると記した。仁はここから性善説へ深まる。
- 荀子
対比 — 性善説を名指しで「是れ然らず」と退けた論敵。正統からは長く傍流とされた。
- 朱熹
継承 — 『孟子』を四書に定めた人。その注釈は没後、600年を超える科挙の正統となる。
- 王陽明
継承 — 尽心上の「良知」の二字を核心に据え、四端を「致良知」の実践へ変えた人がいる。
- 董仲舒
継承 — 性善説と王道を陰陽五行と結合し、三綱五常の枠組みへ再編した漢儒。
- 二宮尊徳
継承 — 孟子の四端を、荒れた村を立て直す仕法として制度に落とした農政家がいる。
さらに読むならFurther Reading
孟子の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門孟子 (上)
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生きた跡を辿るPlaces
孟子が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
孟子を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「孟子」項
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Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Mencius"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Mencius (c. 372—289 B.C.E.)"