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I
知の革新

アイザック・ニュートン

Isaac Newton·1643–1727·イングランド·

落ちるリンゴと空の月は、 同じ力に引かれているのか?

万有引力と運動の三法則で天と地を統合し、近代科学の地平を決定づけた孤高の巨人

  • プリンキピア
  • 万有引力
  • 微積分
王の首が落ち、ペストと大火が街を焼いた。揺れる島国で、人々は天の秩序を探し始めていた。 — ひらく

時代の空気

ピューリタン革命の渦中、王と議会が銃火を交わすイングランドに生まれた。チャールズ一世は処刑され(1649)、共和政と護国卿政、王政復古(1660)を経て、カトリック国王ジェームズ二世への警戒が宮廷と教会を引き裂いていた。腺ペストとロンドン大火が街を二度殺し(1665-66)、その復興と並行して創立された王立協会が、ガリレオ・ケプラー・デカルトの遺産を継ぐ自然哲学の場となった。非国教徒の圧、暦の混乱、科学革命の高潮——揺れる島国の上で、彼は計算と神学を同時に書き続けた。

01答えは、もう計算してあった

1684年8月。ケンブリッジ大学に、一人の客が訪ねてきた。天文学者のである。彼は一つの問いを携えていた。

「逆二乗の引力のもとで惑星はどんな軌道を描くか」。逆二乗とは、距離が2倍になると力が4分の1になる関係のことだ。太陽がそういう力で惑星を引くなら、惑星の道はどんな形になるのか。

迎えた男は41歳の数学教授だった。答えは即座だった。「」。すでに計算したことがある、と彼は言った。だが、その紙は見失ってしまった、とも。

ハレーは驚いた。宇宙の惑星の道筋を、この男はとうに解いていたのだ。しかも発表もせず、計算の紙をなくしたままにしていた。なぜ解けたのか。そして、なぜ黙っていたのか。

その答えを探しに、時は42年前へ戻る。イングランド東部の、小さな村へ。

02未熟児と、去っていった母

1642年12月25日(当時の暦)、リンカンシャー州の村ウールスソープの小さな農地主の家に、男の子が生まれた。ガリレオ・ガリレイ(イタリアの天文学者)が死んだ年である。国では王と議会が戦争をしていた。

父は同じ名のアイザック・ニュートン。息子が生まれる3ヶ月前に死んでいた。生まれた子は未熟児だった。母ハンナは後に「1リットルのマグに入るほど小さかった」と語ったと伝えられる。生き延びられるかどうかも、危ぶまれた。

3歳のとき、母は再婚した。相手は60代の牧師バーナバス・スミス。母は幼いアイザックを母方の祖母に預け、家を出て行った。

母に捨てられたという傷は、生涯癒えなかった。12歳のとき、自分の「罪の一覧」にこう書き残している。「継父と母に対し家に火をつけて焼き殺すと脅したこと」。母と継父の間に生まれた妹弟たちへの複雑な思いも、生涯続いた。

この傷を抱えた少年を、まず待っていたのは学校だった。

03農夫にはならない

10歳頃、近くの町グランサムのグラマースクール(古典を教える学校)に通い始めた。下宿先は薬剤師クラーク家。内気で、級友とぶつかることもあったが、学業では少しずつ頭角を現した。

14歳のとき、継父が死に、母が戻ってきた。母は息子を農夫にして、家業を継がせようとした。だがアイザックは羊の世話を放り出して本を読んだ。水車の小さな模型を作った。風車の模型の中にネズミを入れて「粉屋」と呼んだ。

見かねた大人が二人いた。叔父のウィリアム・エイスコフ(ケンブリッジ出身の地方牧師)と、グランサム校の校長ストークスである。二人は母を説得し、アイザックは学校に戻ることを許された。

1661年、18歳。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。サブサイザー、つまり食事の給仕などをして学費を抑える、貧しい学生としてだった。

そこで彼を待っていたのは、古い学問と、まだ誰も答えを知らない新しい本たちだった。

04ペストがくれた18ヶ月

大学の正式な授業は、アリストテレス(古代ギリシャの哲学者)の哲学と、ユークリッドの幾何学が中心だった。だがアイザックは、そこでは止まらなかった。デカルト『幾何学』、ガリレオ『二大世界体系についての対話』、ケプラー『』、ウォリス『無限小算術』。当時の最先端の本を、独学で読みあさった。1664年にはスカラー(奨学生)に選ばれた。

その才能に気づいた教授がいた。。ルカス教授職という数学の特別な椅子の、初代の主である。バローの講義と個別の指導、そして自分の哲学ノート「ある哲学的な問い」(Quaestiones Quaedam Philosophicae)を通じて、ニュートンは17世紀数学の最前線に追いついた。

1665年、ペスト(せんペスト)がロンドンに広がった。ケンブリッジ大学は休校になり、彼は生家ウールスソープへ戻った。1666年までの約18ヶ月。後に「奇跡の年」(annus mirabilis)と呼ばれる時間である。

一人きりの書斎で、発見が次々に芽生えた。二項定理の一般化。流率法りゅうりつほう、つまり微積分の初期の形。プリズムで光を分けると、白い光がいろいろな色の光の混合だと分かること。そして、月を地球のまわりに留める力は、リンゴを地面に落とす力と同じではないか、という考え。距離の二乗に反比例する、あの逆二乗の力である。

リンゴの逸話は、後年に本人がウィリアム・ステュークリに語ったものだ。庭のリンゴの木の下にいて、実が落ちるのを見て思いついたという。創作ではなく本人の証言だが、劇的なひらめきの一瞬というより、長い考察の引き金だったらしい。

22歳の青年は、宇宙の秘密の入り口に立っていた。だが彼は、それをすぐには世界に見せなかった。

05光の論文と、最初の傷

1667年、大学に戻り、フェロー(正式な研究員)に選ばれた。1669年、バロー教授は後任にニュートンを推薦して、自ら椅子を降りた。26歳で、ルカス教授職の第2代となった。この椅子には、ずっと後にホーキングも座ることになる。

1671年、自作の反射望遠鏡を王立協会(イングランドの科学者たちの集まり)に献上した。翌年、会員に選ばれた。1672年、協会の雑誌に「光と色についての新理論」を発表する。プリズムで白い光を分け、また一つに戻す実験の報告だった。白色光は単色光の混合であり、色は物の側で作られるのではなく、光そのものの性質である。この主張は、当時の常識だったアリストテレスやデカルト流の色の理論を、ひっくり返すものだった。

真正面から反論した男がいた。。王立協会で実験を仕切る、主席実験官である。フックは光を波と考え、光を粒と考えるニュートンの理解を批判した。ニュートンは過敏に反応し、深く傷ついた。以後、フックへの敵意は生涯消えなかった。

有名な「巨人たちの肩」の言葉は、この時期にフックへ送った手紙の中にある。謙虚な言葉に見えるが、背の低かったフックへの皮肉だったという説もある(諸説あり)。

もし遠くを見えたとすれば、それは巨人たちの肩の上に立ったからだ。

光の論争のさなか、ロバート・フックへ送った書簡(旧式暦1675年2月5日、グレゴリオ暦1676年2月15日)

傷ついた教授は、公表から遠ざかっていく。その頃、彼の実験室では、夜中まで別の火が燃えていた。

06秘密の書斎

世間が知るニュートンは、理性の科学者である。だが本人の書斎の時間の大半は、錬金術と神学に注がれていた。

彼は賢者の石けんじゃのいしを探した。金属を別の金属に変えるという、伝説の物質である。水銀を金属の間で変化させる実験を繰り返し、実験室の火は夜中まで消えなかった。助手のハンフリー・ニュートン(血縁はない)は「先生は夢中になると食事をするのも忘れる」と証言している。水銀の蒸気を大量に吸い込んだことが、晩年の神経の発作の一因だという説もある。

もう一つの秘密は、信仰だった。彼は反三位一体論はんさんみいったいろんの膨大な手稿を書いた。キリストは神と一つの実体ではなく、父なる神に従う存在だ、という考えである。これは英国国教会の公式の教えに反する異端だった。しかも彼の職場は、その名もトリニティ(三位一体)・カレッジ。公にすれば地位を失う信念を、彼は生涯ひそかに抱き、出版しなかった。聖書のダニエル書と黙示録もくしろく預言よげんの解釈にも、膨大な紙を費やした。

計算も、実験も、信仰も、彼は隠した。その隠された扉を、やがて一人の客がたたくことになる。

07ハレーの問い、ふたたび

1684年8月。物語は冒頭の場面に戻る。ハレーの問いに「楕円軌道」と即答した男は、41歳になっていた。答えは約18年前、ペストの年の一人きりの思索から育っていた。では、なぜ彼は答えを持ちながら黙っていたのか。ここまでの物語を読んだあなたには、もう想像がつくはずだ。

ハレーは、体系的な論文を書くよう強く勧めた。ニュートンは書き始めた。2年半の執筆ののち、1687年7月5日、『自然哲学の数学的諸原理』が刊行された。通称プリンキピア。出版の費用は、ハレーが自分の財布から出した。

三巻構成だった。第1巻は(慣性、力=質量×加速度、作用反作用)を出発点の決まりとして置き、さまざまな力の下での運動を幾何学で解いた。第2巻は流体(水や空気のように流れるもの)の中の運動を扱い、デカルトの渦動説かどうせつが数学的に成り立たないことを示した。第3巻「世界の体系」では、の法則を使った。宇宙のあらゆる二つの質量は、距離の二乗に反比例する力で引き合う。この一つの法則から、ケプラーの惑星運動の三法則、月の運動、彗星の軌道きどう潮汐ちょうせき(潮の満ち引き)までが、まとめて導かれた。

天の惑星と、地上のリンゴは、同じ法則に従う。天と地は別の世界だという、アリストテレス以来の見方はここで終わった。一つの物理学が誕生した。科学革命の完成である。

同じ1687年、カトリックの国王ジェームズ2世が、ケンブリッジ大学に修道士への修士号の授与を強要した。ニュートンは大学側の代表者として、拒否を表明した。1688年の(王が追放され、議会が力を持った政変)を経て、1689年には大学選出の議員として議会に送られた。ホイッグの席に座り、目立った演説はしないまま、窓を閉めるよう係員に頼んだことだけが議事録に残る、とも伝わる(諸説あり)。

本を書き終えた男に、次は国家が仕事を求めてくる。だがその前に、彼の心が一度、壊れる。

08造幣局長官の追跡

1693年、50歳。深刻な神経衰弱しんけいすいじゃく(心の激しい消耗)に陥った。友人のサミュエル・ピープスやジョン・ロックに、激しい被害妄想の手紙を送りつけた(後に謝罪している)。回復すると、彼の関心は学問から公務へ移っていった。

1696年、王立造幣局ぞうへいきょく(国の貨幣を作る役所)の監事かんじ(Warden)に任命され、ロンドンへ移住した。彼は英国貨幣を作り直す大事業(大改鋳)を指揮し、偽造犯ぎぞうはんを自ら追いかけた。偽造犯ウィリアム・チャロナーを変装までして追跡し、証拠を積み上げ、1699年3月にタイバーンで絞首刑こうしゅけいに処させた。同じ年の暮れ、長官(Master)に昇進した。科学者の精密さが犯罪捜査に応用された、珍しい例である。

1703年、王立協会の会長に選ばれ、死ぬまで務めた。1704年、フックの死を待ったかのように『光学』(Opticks)を英語で刊行し、と光の粒子説を改めて公にした。1705年にはアン女王からナイトの称号を受け、「サー・アイザック・ニュートン」となった。科学的功績ではなく政治的判断による叙勲とも言われるが、科学者として叙勲された最初期の例である。

1713年、『プリンキピア』第2版が刊行された。巻末に新しく「」(General Scholium)が付され、そこに有名な一行がある。「私は仮説を立てない」(Hypotheses non fingo)。重力がなぜあるのか、その原因はまだ分からない。分からないことを、勝手な想像で説明しない。そういう宣言だった。

私はまだ重力のこれらの性質の原因を現象から導き出すことができていない、そして私は仮説を立てない(Hypotheses non fingo)

『プリンキピア』第2版(1713)巻末「一般注解」。重力の原因を問われ続けた末の言葉

1727年3月20日(当時の暦)、ロンドンのケンジントンで、膀胱結石ぼうこうけっせきの悪化により死去した。84歳。遺体はウェストミンスター寺院に、荘厳な国葬こくそうで埋葬された。国王ジョージ1世もこれを承認した。墓碑にはこう刻まれている。「このような偉大な人類の誉れがかつて存在したことを喜べ」。

だが、この墓碑の讃辞は、彼の全てを語ってはいない。

09巨人は何の上に立っていたのか

晩年の栄光の陰では、微積分の優先権論争がゴットフリート・ライプニッツとの間で激化していた。ニュートンはを1665-66年に発見していたが未公表のまま、ライプニッツは1675年頃に微分を独立に発見し、1684年に公表した。ニュートン派は剽窃を告発し、王立協会の調査委員会——実質はニュートン自身が裏で主導した——が1712年に『Commercium Epistolicum』としてライプニッツ不利の報告書を出した。この論争はイギリス数学を大陸のライプニッツ流表記から隔絶させ、18世紀のイギリス数学の停滞を招いた。

「一般注解」もまた、単なる方法論の宣言ではない。物理法則の背後に、宇宙を秩序づける賢明にして万能の存在としての神を語るこの注解は、機械論的世界観への批判への応答であり、私的な反三位一体論とは別に、公の場で語った彼の神観だった。

20世紀、経済学者ケインズがサザビーのオークションでニュートンの手稿を大量に買い取り、解読した。そして書いた。「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、魔術師たちの最後の人だった」。合理と魔術、公表と秘匿、法則と神。ニュートンという知性は、その両方を一人の中に抱え込んでいた。推論と観測を往復させる方法論が物理学を『プリンキピア』以後の姿へ決定づけた一方で、その両方を貫いていたのは、宇宙に隠された秩序を読み解きたいという一つの渇望だったのかもしれない。

私は自分が世の人の目にどう映るのか知らない。ただ自分には、真理の大海が目の前に広がっているのに、浜辺でより滑らかな小石や美しい貝殻を拾って遊んでいる少年のように思えるのだ

晩年の言葉として伝えられる(伝承)

天と地をつなぐ答えを拾いながら、彼は長いあいだそれを見せずに握っていた。もしあなたが、誰も知らない真理を一つ浜辺で拾ったなら——すぐに世界に見せるだろうか。それとも、握りしめたまま歩き続けるだろうか。

10主要な出来事と著作

  1. ユリウス暦12月25日、リンカンシャー・ウールスソープで未熟児として誕生(グレゴリオ暦1643年1月4日)
  2. 母ハンナが再婚、アイザックは祖母のもとに残される
  3. ケンブリッジ・トリニティ・カレッジに入学(サブサイザーとして)
  4. トリニティのスカラー(奨学生)に選出
  5. ペスト休校中に奇跡の年、流率法・光学・万有引力を着想
  6. ケンブリッジに復帰、トリニティ・フェローに
  7. 26歳でルカス教授職就任
  8. 反射望遠鏡を王立協会に献上
  9. 王立協会会員、『光と色の新理論』発表、フックと論争
  10. ハレーの訪問、『プリンキピア』執筆開始
  11. 『プリンキピア』刊行、ハレーが出版費用を負担。ジェームズ2世の大学干渉に拒否で立つ
  12. ケンブリッジ大学選出議員として議会に召集される(1690年解散まで)
  13. 深刻な神経衰弱、友人に奇怪な手紙を送る
  14. 王立造幣局の監事(Warden)としてロンドンへ
  15. 造幣局長官(Master)に昇進。偽造犯チャロナーを絞首刑に追い込む
  16. 王立協会会長に選出
  17. 『光学』(Opticks)刊行
  18. アン女王によりナイト叙勲、サー・アイザック・ニュートンに
  19. 王立協会が『Commercium Epistolicum』でライプニッツ不利の調査報告を刊行、微積分優先権論争の転機
  20. 『プリンキピア』第2版に「一般注解」(General Scholium)を追補、Hypotheses non fingoの一節を残す
  21. 3月20日(ユリウス暦)、ロンドンで膀胱結石により死去。ウェストミンスター寺院に国葬

残した思想の輪郭

  • 運動の三法則 ― 慣性、F=ma、作用反作用、という古典力学の公理群を明示的に定式化した
  • 万有引力 ― 宇宙のあらゆる質量は距離の二乗に反比例する力で引き合い、天と地の運動を同じ法則で統一する
  • 流率法(微積分) ― 瞬間速度と接線問題を統一的に扱う解析学、ライプニッツと独立に発見した
  • 光学の粒子説 ― 白色光は単色光の合成であり、色は光固有の性質で媒質に依存しない
  • 錬金術と神学 ― 公表著作の裏で賢者の石探求と反三位一体論の膨大な手稿を書き続けた両義的な知性
  • 実験と数学の結合 ― 推論と観測を往復させる方法論で、物理学を『プリンキピア』以後の姿へ決定づけた
1727年3月20日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では3月31日)、ロンドンのケンジントンで膀胱結石の悪化により死去。84歳。ウェストミンスター寺院に埋葬された。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

アイザック・ニュートンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ウェストミンスター寺院墓所

    ロンドン, イギリス

    ニュートンが国葬で埋葬された霊廟、身廊入口近くの記念碑

  • ウールスソープ・マナー生誕

    ウールスソープ, イギリス

    ニュートン生家、伝承のリンゴの樹が残る National Trust 保存地

  • トリニティ・カレッジ(ケンブリッジ)所属

    ケンブリッジ, イギリス

    ニュートンが学び教えたカレッジ、礼拝堂に大理石像

さらに辿るならExternal References

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