ケプラー
たった8分の誤差のために、 2000年の常識を捨てられるか?
ルター派の逃亡者、楕円軌道三法則で天球の古い形を解いた数理天文学者
- 三法則
- 新天文学
- 調和の世界
- 楕円軌道
宗教戦争が国を裂き、魔女狩りが村を焼いた時代。星を計算する力だけが、彼の命綱だった。 — ひらく
時代の空気
三十年戦争(1618-48)前夜から中盤の神聖ローマ帝国——ルター派・カルヴァン派・カトリックが絡み合う宗教改革第二世代の南ドイツである。トリエント公会議後の対抗改革が圧を強め、ルター派の彼はグラーツを追われ、リンツを去り、宮廷数学官の地位だけが命綱となった(ルドルフ二世→マティアス→フェルディナント二世)。プラハではティコ・ブラーエとの確執を抱えつつ観測データを継承し、占星術と暦法、コペルニクス受容と異端視が同居していた。母カタリーナへの魔女告発(1615-21)は、この時代の影そのものだった。
011630年、最後の旅
1630年、一人の男が旅をしていた。行き先はレーゲンスブルク。ドナウ川沿いの、帝国議会が開かれる都市である。時代はのただ中。道は荒れ、旅は困難を極めた。
男の年は58。生まれつき体は弱く、目にも障害を抱えていた。旅の目的は、未払いの給料の請求だった。相手は神聖ローマ皇帝フェルディナント2世。ドイツ一帯の帝国の、頂点に立つ君主である。
男の名はヨハネス・ケプラー。皇帝に仕える帝国数学者だった。惑星が太陽をどう回るか、その法則を解き明かした人である。400年後の今も、惑星の運動はその法則で記述される。その男が、給料を取り立てる旅で命を削っていた。
彼は生前、自分の墓碑銘をラテン語の詩で書き残していた。天空を測り続けた男は、なぜここまで追いつめられたのか。そして、なぜそれでも測ることをやめなかったのか。時は59年前、1571年の冬に戻る。
02未熟児の少年、天を見上げる
1571年12月27日、ヨハネス・ケプラーは神聖ローマ帝国の小さな町に生まれた。ヴュルテンベルク公国のヴァイル・デア・シュタット。現在のドイツ南部、バーデン=ヴュルテンベルク州にあたる。八ヶ月の早産で、未熟児として生まれた。体は生涯を通じて弱かった。
4歳のとき、天然痘にかかった。視力と両手の動きに後遺症が残った。ものが二重に見え、視力も弱い。星を観測する者にとって、これほど皮肉な体の条件はなかった。
父ハインリヒは傭兵(お金で雇われる兵士)だった。家を空けることが多く、1588年、再び戦場に出たまま行方不明になった。死亡したと推定されている。ケプラーが16歳のときである。
母カタリーナは、薬草で人を治す治療師だった。町での評判は複雑だった。この薬草の知識と独り身がちな暮らしぶりが、のちに一家の運命を揺さぶることになる。
それでも少年は、天を見上げていた。幼い日、母に抱かれて1577年の大彗星を見た。1580年には月食を観測した。この二つの記憶を、彼はのちに自叙伝の覚え書きに記している。貧しく病弱な少年の目に、天空の異変は強い印象を残した。
目を病んだ少年が、どうやって天文学者になるのか。道を開いたのは、一人の教師との出会いだった。
03チュービンゲンの神学生
1584年、ケプラーは公費留学の試験に合格した。ルター派(宗教改革者ルターの流れをくむ一派)の神学校に進む。1589年にはチュービンゲン大学に入った。目指す道は、牧師だった。
その大学に、ミヒャエル・(1550-1631)という数学・天文学の教授がいた。マエストリンは表向き、従来のを教えていた。地球を宇宙の中心に置く、古代以来の天文学である。だが私的な授業では、太陽を中心に置くコペルニクス体系を信じていた。
ケプラーは師のひそかな信念に強く動かされ、を心から受け入れた。しかも彼の理解は神学的だった。太陽は神の象徴であり、惑星は中心の太陽から引き寄せられて神の力を映す。をルター派神学の内側で抱えるという矛盾は、生涯、彼の文章の影として残り続けた。
1591年に文学部の修士号を取り、神学部に進んだ。牧師になるはずだった。ところが1594年、グラーツ(現オーストリア南部)のプロテスタント学校から、数学教師として招かれた。神学部は「行くべきだ」と勧めた。本人は嫌だったが、従った。故郷を離れ、初めての職に就く。
グラーツでの六年間(1594-1600)、彼は数学と天文学を教えた。副業として地方暦を作り、占星術(星の配置から運勢を読む術)の年運も書いた。占いと数理天文学が同じ机に並ぶのが、当時の数学者の現実だった。そしてその机の上で、彼は生涯を決める一つの幻を見る。
04五つの立体の幻——『宇宙の神秘』
1595年7月19日、授業の最中だった。ケプラーは突然、ある幾何学の幻に打たれた。五つの正多面体——立方体、四面体、十二面体、二十面体、八面体。これを惑星の軌道を包む球の殻の間に、入れ子状に置いたら。各惑星の軌道の間隔が、それで説明できるのではないか。
コペルニクス体系の惑星は六つ。水星・金星・地球・火星・木星・土星である。「なぜ惑星は六つなのか」という問いに、彼は「正多面体が五つだからだ」と答えた。神の設計図を幾何学で読む、神学と数学が一体の解答だった。この着想から、最初の主著『』(1596)が生まれた。
モデルは、実際の観測とは合わなかった。それでも彼はこの幻を生涯忘れなかった。彼にとって天文学とは、神が幾何学を用いて創造した宇宙の数学的調和を発見する営みだったからだ。観測データと幾何学の美。この二つの間で揺れ続けることが、彼の仕事の特徴になる。
幾何学は神の精神そのものに属する。人間はそれを学ぶことで、神の思考の影をわずかに辿ることができる
1597年、バルバラ・ミュラーと結婚した。だが平穏は続かない。カトリック側の巻き返し(対抗改革)が、グラーツを含むインナーエスターライヒ地方に及んだ。1600年、大公フェルディナント——後の皇帝フェルディナント2世——はルター派の教師を領内から追放した。改宗を拒んだケプラーは、職と町を失った。残された活路は一つ。プラハの宮廷だった。
05ティコ・ブラーエの遺産
1600年2月、ケプラーはプラハへ向かい、(1546-1601)に会った。神聖ローマ皇帝に仕える宮廷数学者で、当時ヨーロッパ最大の天文観測者である。ティコはデンマーク王の支援のもと、ヴェン島のウラニボリ天文台で30年以上も精密観測を続けた。その膨大なデータを携えて、皇帝のもとに移ってきていた。彼はケプラーを助手として採用した。
二人の関係は、緊張に満ちていた。ティコは自分のデータを惜しみ、少しずつしか渡さなかった。ケプラーはすでにコペルニクス派。ティコは独自のティコ体系を守っていた。太陽と月は地球を回り、他の惑星は太陽を回る、という複合の体系である。世代も気質も違う二人をつないだのは、火星の運動という難問だけだった。
1601年10月、ティコが急死した。宴会の席でトイレに立てず我慢したための膀胱破裂、と伝わる病だった。死の床で彼はケプラーに「私の人生が無駄でなかったようにしてくれ」と言ったとされる。ケプラーは皇帝付きの数学官として後任となった。そして遺族との長い争いを経て、ティコの遺産を正式に引き継いだ。
その遺産の中で最も精密だったのが、火星の観測データだった。ティコ自身、火星の動きの説明には40年以上苦しんでいた。ケプラーは「8日で解決する」と宣言して取り組んだ。結果は、8年である。その8年の果てに、彼は誰も直面したことのない壁にぶつかる。
068分の誤差——円との別れ
壁は、小さな数字の形をしていた。1605年頃のことである。火星の軌道を、古典的な円軌道と(円の上に小さな円を重ねて動きを合わせる、古代からの工夫)で計算する。すると観測データとの間に、どうしても角度で8分——約0.13度の誤差が残った。
普通なら「観測のずれ」で片づける小ささである。だがケプラーは、ティコの観測の精度が2分以内だと知っていた。この誤差を「ティコの観測のせい」にすることは、不可能だ。データが正しいなら、間違っているのは2000年信じられてきた前提の方である。
彼は最大の決断を下した——火星の軌道は、円ではない。
一年以上の試行錯誤の末、彼は軌道が楕円であることを発見した。楕円には焦点と呼ばれる点が二つあり、太陽はその一方に位置する。これが後に、ケプラーの第一法則と呼ばれる。の発見である。同時に彼は第二法則も見つけた。惑星と太陽を結ぶ線は、等しい時間に等しい面積を描く。つまり惑星は、太陽に近いとき速く、遠いとき遅く動く。
1609年、成果は『』(正式名称:火星の運動に関する原因論に基づく新天文学)としてハイデルベルクで刊行された。全70章。誤った仮説を立てては捨てる試行錯誤の過程を、そのまま読者に追体験させる稀有な構成の書である。彼は、太陽の「磁気的な力」が惑星を動かしているのだろうとも推測した。力の正体を言い当てることは、まだ誰にもできなかった。
私はブラーエの金字塔の上にわずかな石を積み上げたにすぎない、しかしそのわずかな石が宇宙の形を変えた
2年後の1611年には『』を出した。ガリレオの望遠鏡による発見を受け、凸レンズ二枚を組み合わせる「ケプラー式望遠鏡」の原理を示した書である。宇宙の形を書き換えた男は、仕事の頂点にいた。だが人生は、ここから彼に試練を浴びせ始める。
07母の魔女裁判
1611年、妻バルバラが病死した。三人の子のうち二人も、天然痘で失った。夫妻にはほかにも数人の子がいたが、いずれも幼くして亡くなっている。翌1612年には皇帝ルドルフ2世が退位し、マティアスが即位した。ケプラーはプラハを追われ、ドナウ河畔の町リンツに移る。1613年、24歳のスザンナ・ロイティンガーと再婚し、後にさらに七人の子を授かった。
1615年、故郷ヴァイル・デア・シュタットの兄から知らせが届いた。母カタリーナが、魔女として告発された——。きっかけは、隣人ウルズラ・ライインガーの訴えだった。「カタリーナから飲まされた飲み物のせいで病気になった」というのである。当時のドイツは魔女狩りの最盛期。告発は、死刑に直結しかねない重大事だった。
ケプラーは学者としての名声のすべてを、母の弁護に注いだ。6年間、書簡を送り、専門家の証言を集め、法廷文書を書き続けた。1620年、母は捕らえられ、拷問台の前まで連れて行かれた。実際には拷問は行われず、「言葉による威嚇」(territio verbalis)という段階で止められた。母は74歳。一年以上の尋問に耐え、最後まで罪を認めなかった。
1621年、ついに判決が下った——無罪。しかし釈放された母は心身ともに衰え、半年後の1622年4月に息を引き取った。この6年間、ケプラーは天文学の仕事を半分中断していた。魔女裁判の弁護文書の束は、天文表や楕円の方程式と同じ机の上で書かれた。を語る手と、老母の命乞いを綴る手が、同じ一つの手だった。
そしてその最悪の年月のさなかに、彼は生涯で最も美しい法則を書き上げていた。
08『世界の調和』——第三法則
1619年、『世界の調和』全5巻が完成した。若き日の『宇宙の神秘』の夢を、成熟した形で結実させた書である。リンツでの研究を支えたのは、1612年に得た上オーストリア州数学官の年給だった。それにリンツ司教領の地誌作成と、暦法の仕事が加わる。
その第5巻で、彼は第三法則を発表した。惑星が太陽を一周する時間(公転周期)の2乗は、太陽からの平均距離の3乗に比例する。式で書けば T² ∝ a³。ここでの距離は、正確には楕円の長半径である。異なる惑星の軌道を、たった一つの式が貫いた。
この書物全体には、神秘的な色彩が濃い。惑星の速さと音楽の音程を対応させる「惑星の歌」。五つの正多面体との関係。神の幾何学的な知恵への讃歌(たたえる歌)。彼にとって数学・音楽・天文・神学は、すべて一体の「調和」の表現だった。並行して1618年から1621年には『コペルニクス天文学概要』全七巻を書き継ぎ、自らの到達点を教科書の形に残している。
残る仕事は、一つだった。死んだ師ティコとの、あの約束である。
09ルドルフ星表、ふたたびレーゲンスブルクへ
1627年、『ルドルフ星表』がウルムで刊行された。ティコ・ブラーエとケプラー、二人の共同の成果の集大成である。1005個の恒星の位置と、惑星の位置の予測表を収めた。当時最も精密な天文表であり、17世紀の航海と天文学の実用的な基盤となった。「私の人生が無駄でなかったようにしてくれ」。師の遺言に、彼はこうして応えた。
物語は、冒頭の旅に戻る。1630年、ケプラーはレーゲンスブルクの帝国議会へ向かった。三十年戦争のさなか、ヴァレンシュタイン将軍の保護を失い、家計は逼迫していた。皇帝フェルディナント2世に、未払いの給料を請求するための旅である。かつて彼をグラーツから追放した、あの君主だった。
レーゲンスブルクに着いた後、11月2日頃から熱病にかかった。そして11月15日、死去。58歳だった。遺体は聖ペーター墓地に葬られた。だがその後の戦乱で墓地そのものが破壊され、遺骨は今も行方が分からない。残ったのは、彼が生前に自分で書いた墓碑銘だった。
私は天空を測っていた、今は影を測る。
私の精神は天空に属していた、肉体の影は大地に眠る。
追放されても、母を裁かれても、給料が途絶えても。彼はそのたびに机に還り、天空を測り続けた。その生涯の答え合わせは、彼の死から57年後に訪れる。
10ニュートンへ——科学革命の橋
ケプラーの三法則は、やがてアイザック・ニュートン(1642-1727)が『プリンキピア』(1687)での法則から導出した。逆二乗の距離に従う引力があれば、惑星は楕円軌道を取り、等面積速度で動き、周期と距離の2/3乗の法則を満たす——これは完璧にケプラーの三法則を再現する。
ケプラー自身は引力の正確な法則を知らず、磁気的な力の比喩を使った。しかし彼の「惑星は物理的な力で動いている」という直感、そして数式で軌道を記述する方法論は、ニュートン力学を準備した決定的な一歩だった。『新天文学』が体現した転回——天文学を幾何学の記述から力学的説明へ移す画期——は、物理的原因で天体を動かすという発想自体がコペルニクス・ガリレオの段階を超える革命であり、第二法則はその中で、運動量の方位保存(後のニュートン力学における角運動量保存)の最初の幾何学的表現として位置づけられる。
第三法則は、惑星軌道の量的関係を一つの簡潔な式にまとめた、科学史上最も美しい法則の一つである。異なる惑星の軌道データを一つの式で統一する、観測天文学から数理物理学への決定的な一歩だった。他方『世界の調和』の神秘主義的側面を純粋な神秘主義として片付ける見方もあるが、ケプラーにとって数学・音楽・天文・神学は全て一体の「調和」の表現であり、その到達は『コペルニクス天文学概要』によって体系的な教科書として後代に受け渡された。光学においても『屈折光学』(Dioptrice、1611)がケプラー式望遠鏡の原理を確立し、観測装置の系譜に名を残している。
現代天文学では、「ケプラー」はNASAの系外惑星探査衛星(2009-2018打ち上げ・運用)の名前にも使われている。楕円軌道の発見から400年、人類は別の恒星を回る数千の惑星を発見した。その全ての運動が、今もケプラーの三法則で記述される。
もしあなたの計算に、どうしても消えない「8分の誤差」が残ったら。それを観測のせいにして、丸めてしまうだろうか。それとも、2000年信じられてきた前提の方を疑うだろうか。
11主要な出来事と著作
- ヴュルテンベルク公国ヴァイルに誕生
- 6歳で大彗星を目撃
- チュービンゲン大学入学、マエストリンに師事
- グラーツのプロテスタント学校で数学教師
- 『宇宙の神秘』刊行
- プロテスタント迫害でグラーツを追われ、プラハでティコ・ブラーエの助手に
- ティコ急死、皇帝付き数学官に
- 『新天文星(超新星論)』、光学の主著『天文学への光学』刊行
- 火星軌道の苦闘、楕円軌道の発見
- 『新天文学』刊行(第一・第二法則)
- 『屈折光学』刊行、妻バルバラ病死
- プラハを去りリンツへ
- スザンナ・ロイティンガーと再婚
- 母カタリーナの魔女裁判
- 『世界の調和』刊行(第三法則)
- 『コペルニクス天文学概要』全七巻刊行
- 『ルドルフ星表』刊行
- レーゲンスブルクで死去。享年58
- ニュートン『プリンキピア』で三法則を万有引力から導出
残した思想の輪郭
- 第一法則:惑星の軌道は太陽を一つの焦点とする楕円
- 第二法則:惑星と太陽を結ぶ線は等しい時間に等しい面積を掃く
- 第三法則:周期の2乗は長半径の3乗に比例する
- 物理的天文学の誕生 ― 天体の運動を幾何学ではなく力(磁気・後の引力)で説明する方法論
- 数学と神秘の接点 ― 『世界の調和』、惑星の歌、幾何学的神学の最後の体系
- 『ルドルフ星表』 ― 17世紀航海・天文学の実用基盤、精度の新段階
- 科学者の勇気 ― 観測データの精度に屈して、2000年続いた円軌道を捨てた決断
つながり
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ケプラーの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
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生きた跡を辿るPlaces
ケプラーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ケプラー博物館生誕
ヴァイル・デア・シュタット, ドイツ
ケプラーの生家に設けられた博物館、著作と天文器具を展示
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