アルベルト・アインシュタイン
時間の流れは、 誰にとっても同じなのか?
特殊・一般相対性理論で物理学を塗り替えた特許局の元職員
- 相対性
- 光速不変
- 神はサイコロを振らない
電気が街を照らし始め、二つの大戦が科学者を巻き込んでいく時代。 — ひらく
時代の空気
ヴィルヘルム期ドイツのユダヤ人家庭に生まれ、19世紀末の電気化と原子論勃興の只中で育った。1905年の奇跡の年は特許局の片隅で、1914-18年第一次世界大戦のさなかにベルリンで一般相対性理論を完成。1919年の日食観測が世界的名声をもたらしたのはヴァイマル共和国の混乱期、反ユダヤ主義の高まりとも重なった。1933年1月のナチス政権掌握により米国へ亡命、プリンストン高等研究所で22年を過ごす。1939年ルーズヴェルト宛書簡で原爆開発を促し、戦後はマッカーシズムと核軍拡の中で世界連邦と公民権運動を支持し続けた。
01死の前夜の計算用紙
1955年4月、アメリカのプリンストン病院。76歳の老人が運び込まれた。腹部大動脈瘤(お腹の太い血管にできるこぶ)の破裂だった。医師は緊急手術を提案した。だが老人は断った。
「人工的に命を引き延ばすのは趣味が悪い。自分の役割は終えた。エレガントに去るべきだ」
役割は終えた、と彼は言う。それなのに、ベッドの上では計算を続けていた。死の前夜まで、の式を紙に走らせていたのだ。重力と電磁気の力をひとつにまとめる、30年かけても完成しなかった理論である。机にはイスラエル独立7周年記念演説の草稿も、未完のまま残されていた。
4月18日午前1時15分。彼はドイツ語で何かを呟き、息を引き取った。そばにいた看護師はドイツ語が分からなかった。最期の言葉は、誰にも届かなかった。彼の名はアルベルト・アインシュタイン。20世紀で最も有名な科学者である。
なぜ彼は、終わりの見えない計算を最期の夜まで手放さなかったのか。答えを探しに、時を76年前へ巻き戻そう。
02羅針盤の少年
1879年3月14日、南ドイツの町ウルムに生まれた。父ヘルマンは電気関係の町工場を営む技師。母パウリーネは音楽を愛する人だった。一家はユダヤ人で、まもなくミュンヘンへ移り住む。父と叔父ヤコブはそこで電気機械の工場を始め、バイエルン鉄道の入札で当初は成功した。
幼いアルベルトは、言葉を話し始めるのが遅かった。家族が知的発達を心配したほどだ。4、5歳のころ、父が羅針盤(方角を知る磁石の道具)を見せてくれた。何も触れていないのに、針がひとりでに向きを変える。物のないところに、力が働いている。この驚きは、のちに「場」の理論を考え続ける長い旅の出発点になる。
ミュンヘンのギムナジウム(日本の中学・高校にあたる学校)では、ラテン語と数学は優秀だった。だがプロイセン式の軍隊的な規律には反発する生徒だった。15歳のとき、家族の工場が破産し、一家はイタリアへ移った。アルベルトは一人ミュンヘンに残り、学業を終えるよう求められた。しかし彼は学校を離れ、家族のもとへ向かった。
イタリアの明るい空気の下で、少年は物理学に夢中になっていく。学校を捨てた少年は、この先どうやって科学者になるのだろうか。
想像力は知識より大切だ。知識には限りがあるが、想像力は世界を包む
03特許局の無名の青年
1896年、17歳でドイツの市民権を捨てた(以後5年間は無国籍)。スイスのチューリヒ連邦工科大学に入学する。数学と物理の教員を育てる課程だった。同級生にがいた。セルビア出身で、クラスでただ一人の女性。二人は恋に落ちた。
1900年に卒業したが、就職はうまくいかなかった。指導教授のヴェーバーと険悪な関係にあり、他の教授たちにも敬遠された。望んだ大学助手の職は、どこからも来なかった。2年間の苦しい失業ののち、1902年、友人の父の口ききでベルン特許局に就職した。発明の書類を審査する三等技術審査官。年俸は3,500スイスフランだった。1906年には二等技術審査官に昇格し、1909年まで特許出願の合否を判定する仕事を続けた。
1903年、ミレヴァと結婚した。結婚前の1901年から1903年にかけて、二人の間に娘リーザールが生まれていたと推定される(養子に出されたとも死亡したとも諸説あるが、詳細は不明)。1904年には長男ハンス・アルベルトが生まれた。
特許局の仕事は、一見「退屈」だった。だが実は、彼の思索にとって理想の環境だった。電気技術の特許は、電磁場の本質を考える絶好の教材になった。書類を片付けたあとの自由時間に、彼は相対性と量子の問題を練り上げていく。無名の役人の机の上で、物理学をひっくり返す準備が静かに進んでいた。
04奇跡の年1905
1905年、26歳のアインシュタインは、4本の論文を専門誌『物理学年報』(Annalen der Physik)に投稿した。のちに「Annus Mirabilis(奇跡の年)」と呼ばれる一年である(月は投稿・受理時期、掲載は同誌の同年各号)。
- 3月投稿 ― (光電効果の説明)。光はエネルギーの粒(量子)として不連続に吸収・放出されるという考え。量子論の端緒になった。
- 5月投稿 ― の説明。静止した液体に浮かぶ微粒子の不規則な動きを、熱運動する分子との衝突で統計的に説明した。原子の実在を実験で確かめる道を開いた。
- 6月投稿 ― (「運動物体の電気力学について」)。光速の不変性と相対性原理から、時間と空間の絶対性を捨て去った。
- 9月投稿 ― (「物体の慣性はその含むエネルギーに依存するか?」)。質量とエネルギーの等価性を示した。
特許局の三等技術者が、たった一年で物理学の土台を揺るがした。ヨーロッパの物理学界は戸惑った。だが大物理学者プランクとローレンツが支持に回り、評価は徐々に変わっていく。1908年にベルン大学の私講師、1909年にチューリヒ大学員外教授、1911年にプラハ大学教授。1914年にはベルリン大学教授兼プロイセン科学アカデミー会員として招かれ、1917年に設立されたカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の初代所長も兼ねた。
だが彼の頭の中では、特殊相対性理論はまだ完成形ではなかった。重力が、抜け落ちていたのである。
05一般相対性理論 ― 10年の格闘
特殊相対性理論が扱えるのは、同じ速さで動き続ける観測者どうしの関係だけだった。加速する場合はどうか。重力がある場合はどうか。1907年、彼は一つの着想を得る。「落下するエレベーターの中の人は、重力を感じない」。このから、重力は時空の曲がりとして描き直せるのではないか、と彼は考えた。
以後8年間の格闘が続いた。リーマン幾何学という曲がった空間の数学を学び、旧友の数学者マルセル・グロスマンと協力した。方程式を何度も書いては捨てた。水星の軌道のずれ、重力による光の屈曲。予言と観測が合うか、試行錯誤を重ねた。1915年11月、プロイセン科学アカデミーで4週連続の講演を行う。そして11月25日、最終形の重力場方程式を発表した。の完成だった。
1919年5月29日、皆既日食(太陽が月に完全に隠れる現象)の日。英国の観測隊が、太陽のそばを通る星の光が予言どおりに曲がることをとらえた。天文学者が率いた西アフリカ・プリンシペ島の隊と、ダイソンが送り出したブラジル・ソブラルの隊である。二地点の結果は同年11月6日、英王立協会・王立天文学会の合同会議で公表された。アインシュタインは一夜にして世界的な有名人になった。『タイムズ』紙は「科学における革命」と報じた。
だが名声の頂点で、彼は物理学の新しい主流と衝突し始める。相手は、自分自身がその扉を開けた量子論だった。
量子力学は印象深い。しかし内なる声が、それがまだ本当のものではないと私に告げる。理論は多くを説明するが、実際には古き者の秘密に近づいていない。いずれにせよ、神はサイコロを振らないと私は確信している。
06ノーベル賞、量子論との不和
1921年のノーベル物理学賞は、1922年にアインシュタインに授与された(受賞理由は相対性理論ではなく光電効果の法則 ― 委員会は相対性理論を「論争的」として避けた)。賞金の大部分は離婚したミレヴァへの慰謝料となった(ベルリン移住は1914年、ミレヴァとの離婚と従姉エルザとの再婚は1919年)。
1920年代、量子力学が若い世代の物理学者たち(ハイゼンベルク、ボーア、シュレーディンガー、ボルン)によって建設された。確率的解釈とは、自然界の根源に非決定性を置く解釈だった。アインシュタインは、自身が量子論の創始者の一人でありながら、この確率解釈には最後まで異議を唱えた。「神はサイコロを振らない」として日本で定着しているこの言葉は、1926年12月4日の宛書簡に由来する。原文は "Jedenfalls bin ich überzeugt, daß der Alte nicht würfelt"(「ともあれ私は、あの老人[神]がサイコロを振らないと確信している」)であり、宗教的告白ではなく、量子の確率解釈の暫定性を訴える文脈での発言だった。
1930年代のボーア=アインシュタイン論争、1935年のEPR論文(アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼン)は、量子力学の完全性を問う思考実験だった。アインシュタインは誤っていたという評価が長らく支配的だったが、クラウザー(1970年代)、アスペ(1980年代)、ツァイリンガーらに至るベルの不等式・量子エンタングルメント実験(2022年ノーベル物理学賞)は、むしろEPRの指摘した奇妙さの存在を実験的に確認した ― ただしアインシュタインが望んだ局所実在論の救済という結論ではなく、彼の提起した問題が深いものだったことを示す形で。
しかしこの論争の続きを、彼はベルリンで見届けることができなかった。祖国が、彼の居場所を奪ったからである。
07亡命、プリンストン、原爆書簡
1933年1月30日、ナチスが政権を握った。アインシュタインはユダヤ人であり、公然の反戦論者だった。同年3月、ベルリン近郊カプートの別荘が捜索され、蔵書と書類は押収された。彼はそのとき講演旅行でアメリカにいた。もうドイツには戻らない。そう決意し、ドイツ国籍とプロイセン科学アカデミー会員籍を捨てると表明した。
(IAS、1930年設立の研究機関)が、彼を教授として迎えた。以後22年間、彼はプリンストンで静かな研究生活を送る。1939年、ハンガリー出身の物理学者レオ・シラードの説得を受け、ルーズヴェルト大統領宛の書簡()に署名した。原爆開発を促す内容で、のちの(米国の原爆開発計画)の端緒となる。戦後、彼はこれを後悔した ― 「もしドイツが原爆を持たないと知っていたら、私は指を上げなかった」。
戦後の彼は、政治的発言を続けた。世界連邦政府の提唱。ヘブライ大学創設への尽力に代表される文化的シオニズムと、ユダヤ人の市民権擁護(ただし排他的な民族国家主義には距離を置き、ユダヤ・アラブ共存を望んだ)。1952年のイスラエル大統領就任打診の辞退。公民権運動への支持と、マッカーシズム批判。FBIの盗聴ファイルは、彼の死の時点で1,400ページに及んだ。
そして研究室では、統一場理論の探求(重力と電磁気力の幾何学的統合)に余生を捧げていた。成功は、最後まで訪れなかった。こうして物語は、1955年4月のプリンストン病院へ戻っていく。
神は狡猾だが、悪意はない(Raffiniert ist der Herrgott, aber boshaft ist er nicht)
08ふたたび、最期の夜
ベッドの上で統一場理論の式を書き続ける、76歳の姿に戻ろう。なぜ彼は計算をやめなかったのか。もう、答えの輪郭は見えているはずだ。
4、5歳の彼をとらえたのは、何もない空間に働く力の不思議だった。特許局の机でも、ベルリンでも、亡命先のプリンストンでも、彼は同じ問いを追い続けた。世界は、ばらばらの規則の寄せ集めではないはずだ。「神はサイコロを振らない」という量子論への異議も、未完の統一場理論も、この同じ確信から出ている。自然の奥には、狡猾だが悪意のない秩序が隠れている ― 少年の日の羅針盤から死の前夜の計算用紙まで、一本の線がつながっている。
遺言に従い、葬儀は簡素だった。遺骸は火葬された。ただし病理解剖にあたった病理医トマス・ハーヴェイが、家族の事前同意なしに脳を摘出して長く保存した。後に条件付きで追認を得たが、学術的・倫理的な論争を呼び続けた。遺灰は翌日、デラウェア川に散骨された ― 場所は家族と親友の判断で伏せられた。
最期にドイツ語で呟かれた言葉は、永遠に分からない。ただ、彼が死の前夜まで追っていた問いは、いまも残されている。世界は本当に、一つの単純な秩序で書き切れるのだろうか。もし書き切れるとしたら ― あなたは、その答えを知りたいだろうか。
09主要な出来事と著作
- ドイツ・ウルムに誕生。ユダヤ系電気技師の家庭
- ドイツ市民権放棄。チューリヒETH入学
- ベルン特許局に就職
- ミレヴァ・マリッチと結婚
- 奇跡の年。4本の論文(光量子・ブラウン運動・特殊相対論・E=mc²)
- ベルリン、カイザー・ヴィルヘルム研究所長
- 一般相対性理論の最終形を発表
- エディントンの日食観測で光の屈曲を確認、世界的名声
- ノーベル物理学賞(1922年授与、光電効果による)
- ナチス台頭により米国亡命、プリンストン高等研究所へ
- ルーズヴェルト宛の原爆開発促進書簡に署名
- イスラエル大統領就任打診を辞退
- 4月18日、プリンストン病院で腹部大動脈瘤破裂により死去。享年76
残した思想の輪郭
- 特殊相対性理論 ― 光速不変と相対性原理から時間・空間の絶対性を否定
- E=mc² ― 質量とエネルギーの等価性、原子核エネルギーの理論的基盤
- 一般相対性理論 ― 重力を時空の湾曲として幾何学的に再定式化
- 光量子仮説 ― 光を粒子性を持つ量子として扱う量子力学の端緒
- 局所実在論への信念 ― 量子力学の完全性への疑い、EPR論文、隠れた変数理論への期待
つながり
- アイザック・ニュートン
先駆 — 「実験と理論を一人で統一した最大の知性」——そして脱出すべき「牢獄」でもあった。
- マリ・キュリー
伴走 — ソルベー会議で出会い、アルプスを共に歩きながら量子論と放射能を語り合った生涯の友。
さらに読むならFurther Reading
アルベルト・アインシュタインの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門アインシュタイン 相対性理論
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生きた跡を辿るPlaces
アルベルト・アインシュタインが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- アインシュタインハウス(ベルン)住居
ベルン, スイス
1903-1905年、「奇跡の年」に特殊相対性理論を書き上げた居室
- アインシュタイン博物館記念館
ベルン, スイス
ベルン歴史博物館内の常設展。生涯と業績を時代背景と共に網羅する
さらに辿るならExternal References
アルベルト・アインシュタインを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「アルベルト・アインシュタイン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Albert Einstein"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Einstein's Philosophy of Science"
公式EnglishThe Collected Papers of Albert Einstein(Princeton University Press)
アインシュタイン全集のデジタル版