マリ・キュリー
自分の体をむしばんだものを、 なぜ彼女は最後まで恐れなかったのか?
ピッチブレンドから放射性元素を取り出し、二分野のノーベル賞を得た科学者
- ラジウム
- ノーベル物理学賞
- ノーベル化学賞
国を奪われ、学ぶことも許されない。その少女の前で、科学はまだ見ぬ光を見つけ始めていた。 — ひらく
時代の空気
19世紀末ロシア帝国支配下のワルシャワでマリアは少女期を送り、ポーランド語禁止のロシア化政策のもとフローティング大学で学んだ。1891年パリのソルボンヌに渡り、1895年ピエール・キュリーと結ばれる。前年レントゲンがX線、翌年ベクレルがウラン塩の自発放射を発見、原子物理学の黎明だった。1898年ピッチブレンドからポロニウム(祖国Polskaに因む)とラジウムを発見、1903年物理学賞、1911年化学賞。同年ランジュヴァン不倫がタブロイドに暴かれ社会は糾弾した。第一次大戦では前線X線車を組織、1921年米国メロニーの呼びかけで1グラムのラジウムが寄贈され、ワルシャワに研究所が育った。
01鉛の箱のノート
1934年7月4日、フランス・サヴォワ地方の療養所。一人の科学者が息を引き取った。66歳だった。診断は再生不良性貧血。血を作る力が失われていく病である。原因は、長年あびつづけた放射線と考えられている。
彼女の名はマリー・キュリー。放射線を出す元素を、世界で初めて取り出した人だ。つまり彼女は、自分が発見したものに命を削られたことになる。それでも本人は晩年まで語り続けた。「ラジウムが私を傷つけたとは信じない」と。
彼女が残した実験ノートは、今も強い放射線を帯びている。鉛の箱に保管され、読むには防護同意書が必要だ。自分の体をむしばんだものを、なぜ彼女は恐れなかったのか。その答えを探しに、時を67年巻き戻す。
02言葉を奪われた街で
1867年11月7日、彼女はロシア領ワルシャワに生まれた。本名はマリア・サロメア・スクウォドフスカ。父ヴワディスワフは物理と数学の教師。母ブロニスワヴァは女子校の教師で校長だった。五人きょうだいの末っ子である。
当時のポーランドはロシアに支配されていた。学校でポーランド語を使うことも禁じられていた。それでも一家は、祖国を愛する知識人の家庭だった。マリアは4歳で、姉の練習を盗み見て文字を覚えた。神童と呼ばれた。
しかし少女時代に、別れが続く。1876年、姉ゾフィアがチフスで亡くなった。1878年には母が結核で世を去る。10歳のマリアは深い悲しみの中で、宗教への信仰を失った。かわりに科学への信念を固めていく。
父はロシア当局とぶつかり、監督職と給料を減らされた。家計を補うため、自宅を男子の寄宿学校として営んだ時期もある。1883年、マリアはワルシャワ女子高等学校を金メダルで卒業した。だが当時のワルシャワ大学は、女性を受け入れなかった。
マリアは「」に通った。当局に隠れて開かれた、非合法の夜学であり、知的運動の場である。同時に家庭教師をして、学費を貯めた。そこには姉妹の約束があった。姉ブロニスワヴァが先にパリで医学を学び、その間マリアが働いて支える。次は自分の番が来る、という順番だった。
1886年から三年間、マリアはシチューキ村のジョラフスキ家で住み込みの家庭教師をした。その家の息子カジミェシュとの婚約まで進んだが、家柄を理由にこばまれた。学べない。結ばれない。この街に、彼女の場所はどこにあったのだろうか。
03屋根裏のパンと紅茶
1891年、24歳のマリアはパリに渡った。ソルボンヌ大学(パリ大学理学部)に入学する。屋根裏部屋で寒さに震えながら、パンと紅茶だけで日々を過ごした。1893年に物理学の学位を首席で取得。1894年には数学の学位を次席で取得した。
1894年の春、友人の紹介でに出会う。8歳年上、理工高等学校の実験室主任だった。結晶を押すと電気が生まれる「圧電効果」の発見者でもある。二人は互いの知性に惹かれあった。1895年7月、パリ郊外ソーで質素な市民結婚式を挙げた。新婚旅行は、自転車でブルターニュ地方を巡る旅だった。
同じころ、科学の世界が揺れていた。1895年、が正体不明の光「X線」を発見した。翌1896年には、物理学者ベクレルがウラン塩から自然に放射が出ていることを見つけた。誰もその理由を説明できなかった。
マリーは博士論文のテーマに、このベクレル放射を選ぶ。1897年、娘イレーヌを産んだ直後から、本格的な研究を始めた。ただし、その舞台は大学の立派な実験室ではなかった。
04四トンの鉱石、0.1グラムの光
パリ市理工学校の、廃屋となった物置。隣り合う粗末な作業小屋。そこがキュリー夫妻の実験室だった。二人はピッチブレンド(ウラン鉱)を調べ、あることに気づく。ウランそのものより強い放射を出す「何か」が、中に隠れている。まだ誰も知らない元素があるはずだった。
1898年7月、二人は新元素「」(Polonium)の発見を発表した。名前は祖国ポーランドにちなむ。同じ年の12月には、さらに強い放射を示す元素「ラジウム」(Radium)の存在を発表する。「放射能(radioactivité)」という言葉自体も、マリーの造語である。
だが発表だけでは、世界は納得しない。実物を取り出して見せる必要があった。夫妻はボヘミアのヨアヒムスタール鉱山から、ウラン抽出後の残渣(ピッチブレンド残渣)を数トン取り寄せた。そして巨大な鉄鍋で、来る日も来る日も鉱石を煮詰め続けた。
およそ四年の労働。推定で四トン規模の。1902年、マリーはついに約0.1グラムの塩化ラジウムを純粋に取り出す(単離)ことに成功した。原子量は225(後に226に訂正)。
1903年、マリーはソルボンヌから物理学博士号を取得した。女性としては初めてである。12月には、、ピエールとともにを受賞――現象の研究に対して。マリーは史上初の女性ノーベル賞受賞者となった。ただし授賞式には参列せず、王立科学アカデミーへ書簡を送った。健康と貧しさのためだった。小さな光をつかんだ二人に、しかし残された時間は長くなかった。
人生はどんな人にとっても楽ではない ― だから何なのだ。私たちは忍耐を、そして何よりも自分自身への自信を持たねばならない
05雨の日の事故と、二つ目の賞
1904年、次女エーヴが生まれた。ピエールはソルボンヌの物理学教授に就任する。しかし1906年4月19日、雨のパリで悲劇が起きた。ピエールは馬車と荷馬車の間を横切ろうとして、頭を車輪にひかれ即死した。46歳だった。
マリーは深い悲しみの中で、夫の後任としてソルボンヌの教壇に立った。ソルボンヌ初の女性教授である。事故から数週間後、彼女は私的な手記をつづり始めた(のちに次女エーヴが伝記『』で一部を公開している)。そこには、ピエールを失った日々の凍てつくような孤独が記されている。それでも研究と娘たちを手放さない覚悟も、また記されていた。1908年、正教授に昇格。二人の娘を育てながら、研究と教育を同時に担った。
1910年、金属ラジウムの単離に成功する。1911年、ノーベル化学賞を受賞した――「ラジウムとポロニウムの発見およびラジウムの単離と化合物の研究に対して」。史上初、そして現在に至るまで唯一の、二つの異なる科学分野(物理学・化学)でノーベル賞を受賞した人物となる(後にライナス・ポーリングは化学賞と平和賞を受けたが、科学の二分野という意味ではキュリーが唯一)。
だが同じ1911年、彼女は別の嵐に巻き込まれる。既婚の物理学者ポール・ランジュヴァンとの関係が、タブロイド紙に暴かれたのだ。フランス社会は彼女を激しく非難した。報道は外国人女性・ユダヤ系への偏見をまといながら家を取り囲み、子どもたちは一時、友人の家に避難する事態となる。
皮肉にも、騒動はノーベル賞の発表と重なった。アカデミーは受賞の辞退を示唆した。マリーは「私の私生活と業績はべつのものだ」と書き、ストックホルムへ赴いた。授賞式に出席し、受賞講演を行った。不倫という枠組では受け止めきれない、夫を喪った科学者の孤独と、世間の制裁の重さが重なる時間だった。その三年後、今度はヨーロッパ全体が嵐に包まれる。
06戦場を走るX線車
1914年、第一次世界大戦が始まった。マリーは科学者としての知識を、前線の医療に投じる。移動X線車、通称「」を20台組織した。負傷した兵士の骨折や弾片の位置を、その場で素早く調べる仕組みである。自ら運転免許を取った。長女イレーヌ(当時17歳)とともに前線を巡回し、看護師にX線の技術を教えた。推定100万人以上の負傷兵が、この診断網の恩恵を受けた。
戦後の1921年、アメリカの女性記者マリー・メロニーが呼びかけた。アメリカの女性たちから寄付が集まり、1グラムのラジウム(当時10万ドル相当)が購入され、マリーに贈られた。ハーディング大統領からの授与式ののち、1929年には再び渡米する。フーヴァー大統領夫妻のもとでも歓迎を受けた。二度目に寄贈された1グラムのラジウムは、祖国ワルシャワの(1932年開設)に贈った。
1922年にはパリ国際連盟知的協力委員会に招かれた。アンリ・ベルクソン、アインシュタインらとともに、国際的な学術協力に関わった。祖国に研究所を、戦場に診断網を残した人生である。だがその体の中では、静かに代償が積み上がっていた。
人生に恐れるべきものなど何もない。理解すべきものがあるだけだ。
07鉛の箱に戻る
物語は、1934年7月のサヴォワの療養所に戻る。マリーの命を削ったのは、長年の放射線被曝だった。とりわけ初期のラジウム精製と、第一次大戦中のX線車での作業が主因と考えられている。四年間煮詰め続けた鉱石も、100万人を救った診断網も、血を作る力と引き換えだった。それでも彼女は「ラジウムが私を傷つけたとは信じない」と語り続けた。
学ぶことを禁じられた街で、隠れて学んだ少女。屋根裏で震えながら、誰も知らない光を追った学生。夫を失っても、教壇と実験台を手放さなかった科学者。その歩みをたどってきた今、冒頭の「なぜ」に、あなた自身の答えが浮かんでいるはずだ。
翌1935年、長女が夫フレデリック・ジョリオとともにノーベル化学賞を受賞した。人工放射能の発見に対してである。母と娘、ともにノーベル賞受賞という珍しい連鎖となった(ただしイレーヌ自身も1956年、白血病のため58歳で死去、同じく放射線被曝と考えられる)。次女エーヴは音楽家・ジャーナリストとして、母の伝記『キュリー夫人』(1937)を書いた。
1995年、マリーとピエールの遺骨はパリのに改葬された。女性として、自身の業績により埋葬された初の人物である。彼女のノートは、今も鉛の箱の中で放射線を放ち続けている。もしあなたの前に、正体のわからないものが現れたら。恐れて箱を閉じるか、それとも理解しにいくか。
08主要な出来事と著作
- ロシア領ワルシャワに誕生。父は物理・数学教師
- パリのソルボンヌ大学に入学
- ピエール・キュリーと結婚
- ポロニウム、続いてラジウムの存在を発表
- 0.1グラムの純粋な塩化ラジウムの単離に成功
- ソルボンヌで博士号取得。ノーベル物理学賞(ベクレル、ピエールと共同)
- ピエールが馬車事故で死去。ソルボンヌ初の女性教授に就任
- ノーベル化学賞単独受賞。二つの分野で受賞した最初の人物
- 第一次大戦、移動X線車「プティ・キュリー」を組織
- アメリカ女性たちからの寄付で1グラムのラジウム贈呈
- ワルシャワのラジウム研究所開設
- 7月4日、サンスロームで再生不良性貧血により死去、66歳
- 長女イレーヌが人工放射能でノーベル化学賞受賞
- 遺骨がパリのパンテオンに移葬
残した科学と生の輪郭
- 放射能の発見と命名 ― 「放射能(radioactivité)」そのものを名づけ、ポロニウム・ラジウムを単離
- 女性初のノーベル賞 ― 1903年物理学賞、1911年化学賞。二つの科学分野での受賞は現在まで唯一
- 移動X線車 ― 戦場医療に科学を投じた実践家としての顔
- 祖国と科学の連環 ― ポーランド(ポロニウム命名、ワルシャワ研究所)と母国フランスを結ぶ
- 家族の科学連鎖 ― 長女イレーヌも夫婦でノーベル化学賞、孫娘エレーヌも物理学者
つながり
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マリ・キュリーの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
副読キュリー夫人伝
エーヴ・キュリー / 訳: 川口篤/河盛好蔵/杉捷夫/本田喜代治 / 白水社
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生きた跡を辿るPlaces
マリ・キュリーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- マリア・スクウォドフスカ=キュリー博物館生誕
ワルシャワ, ポーランド
1867年誕生の生家(新市街フレタ通り16番地)を博物館化。放射能研究を始めるまでの青春を伝える
- パンテオン(パリ)墓所
パリ, フランス
1995年、業績を讃えてピエールと共に遺骨がパンテオンへ移葬。自らの功績で入堂した初の女性
さらに辿るならExternal References
マリ・キュリーを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「マリ・キュリー」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Marie Curie"
公式FrançaisMusée Curie(パリ・キュリー博物館)公式サイト
キュリー夫妻の研究室跡を公開する博物館