ガリレオ・ガリレイ
自分の目で見た真実を、 捨てろと言われたら?
望遠鏡を天に向け、教会と闘った近代科学の父
- それでも地球は回る
- 望遠鏡
- 二つの世界体系
聖書が宇宙の正解だった時代に、望遠鏡は別の答えを映してしまった。 — ひらく
時代の空気
1564年生まれ、対抗宗教改革下のイタリア。地動説はコペルニクス『天球の回転について』(1543)以来仮説として黙認されていたが、聖書記述との衝突は危険だった。1592年からヴェネツィア共和国庇護下のパドヴァ大学で18年間、1608年オランダで発明された望遠鏡を翌年改良し、1610年『星界の報告』でメディチ家フィレンツェ宮廷数学者に。1616年異端審問所がコペルニクス命題を「哲学的に不合理」と判定、1633年6月22日サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァで撤回宣誓、終身軟禁。
01ひざまずいた老人
1633年6月22日、ローマ。サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ修道院。審問の庭で、ひとりの老人が跪いていた。69歳。ピサ生まれの数学者、ガリレオ・ガリレイ。
彼は用意された宣誓の文を読み上げさせられた。 ― 地球のほうが太陽の周りを回っている、という説。それを撤回し、捨てると誓う文章だった。
この老人こそ、望遠鏡で初めて木星の衛星を見た人だった。月の山も、金星の満ち欠けも、自分の目で確かめた人だった。その人がいま、自分の見たものを「誤りでした」と誓っている。
なぜ、そんなことになったのか。時は69年前、ピサに戻る。
02音楽家の息子
1564年2月15日、ガリレオはピサに生まれた。奇しくもシェイクスピアと同じ年である。父ヴィンチェンツォ・ガリレイは楽理家(音楽の理論家)にして奏者だった。リュートという弦楽器の弾き手として革新をもたらし、弦の長さと音の高さの関係を実際に測って調べた。この実験好きは、のちの息子の先駆けだった。母ジュリア・アンマンナーティは気難しい人で、夫婦仲はしばしば険悪だった。
10歳前後で、一家はフィレンツェに移った。ガリレオはヴァロンブローザの修道院で基礎教育を受け、短い間、修道士を志した。だが父は実入りのよい医学の道を望んだ。1581年、17歳でピサ大学医学部に入る。
医学は退屈だった。伝えられる話では、彼は大聖堂で吊りランプの揺れを見つめた。揺れ幅が変わっても、一往復にかかる時間は変わらない。と呼ばれる性質に気づいたという(この伝承の出どころには注意がいる。終盤の章でふれる)。
彼は父の反対を押し切って数学に転じた。やがて授業料が払えなくなり、1585年、学位のないまま大学を去った。21歳。肩書も金もない。だが、世界を数字で測る目だけは持っていた。
その目はまず、「落ちる物」に向けられる。
03落ちる物の速さ
1589年、25歳でピサ大学の数学教授になった。月給は医学教授の約10分の1。苦しい暮らしの中で、若い数学者は研究を続けた。
当時の学問の基準は、古代ギリシャの大学者アリストテレスだった。「重い物体ほど速く落ちる」。二千年近く、そう信じられてきた。ガリレオはこれを疑った。傾斜面(ゆるい坂)に球を転がし、時間を測る。実験を重ねて、彼はにたどり着いた。落ちる速さの増え方は、物の重さによらず一定なのだ(1590年前後)。
「ピサの斜塔から大砲の弾と銃の弾を同時に落とした」という有名な話がある。だがこの伝承には、歴史的な証拠が乏しい(これも終盤の章でふれる)。実際の仕事は、坂と球によるもっと地道な測定の積み重ねだった。
1592年、パドヴァ大学に移る。ヴェネツィア共和国に守られたこの大学で、18年間(1592-1610)、もっとも創造的な時期を過ごした。振り子時計、温度計の原型、軍事コンパス。発明を重ね、水力学や音響学の講義で名声を築いた。
そして1608年、ヴェネツィアに一つの噂が届く。オランダで、遠くの物が近くに見える筒が発明されたという。
04筒の先に見えた宇宙
1609年夏、45歳のガリレオは噂を頼りに筒の構造を推測した。独自に改良を重ね、倍率20倍の望遠鏡を作り上げる。まずヴェネツィア元老院に披露した。船をいち早く見つけられる軍事装置として、である。終身雇用と昇給を勝ち取った。
だが同じ年の秋から冬、彼はその筒を海ではなく、天に向けた。が始まる。見えたものは、人類の宇宙観を一変させた。
- 月は、つるりとした完全な球ではなかった。地球のように山と谷のある天体だった
- 天の川は、無数の星の集まりだった
- 木星の周りを、四つの衛星が回っていた(イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト。後にガリレオ衛星と呼ばれる)
- 金星は、月のように満ち欠けした。天が地球の周りを回るというの体系では説明できず、コペルニクスの体系なら必然だった
- 太陽には黒点があり、太陽自身が回転していた
1610年3月、観測をまとめた『星界の報告(Sidereus Nuncius)』を出す。薄い小冊子だが、これはコペルニクスの地動説を観測事実で支えた最初の本だった。同年、フィレンツェ大公コジモ2世・デ・メディチの宮廷数学者兼哲学者に迎えられ、パドヴァを離れた。
見ることと、言うことは、別の問題だった。この空の事実を「本当のこと」だと言った瞬間、彼は教会とぶつかることになる。
051616年の警告
地動説そのものは、新しい考えではなかった。コペルニクスの(1543)以来、計算のための仮説としてなら黙認されてきた。危険なのは、それを事実だと主張することだった。聖書には「ヨシュアは太陽に止まれと命じた」(ヨシュア記10:13)とある。動いているのは地球ではなく太陽だ、と読める記述である。教会はこの言葉を重んじた。
1610年代、ガリレオは少しずつ地動説を守る立場を明確にしていく。1613年の『太陽黒点書簡』。1615年には、クリスティーナ大公妃に宛てて手紙を書いた。聖書の文字通りの解釈と、自然の探究とは分けられる、という神学の議論だった。
感覚と理性と知性を与えた神が、私たちにそれらを用いないよう望まれるとは、私には思えない
だが、それは危険な綱渡りだった。1616年2月、異端審問所 ― 教会の裁判所が、コペルニクスの説を審査した。結論は「哲学的に不合理」。枢機卿(教皇を支える最高位の聖職者)がガリレオを呼び出し、この説を「保持・擁護してはならない」と口頭で通告した。3月5日には『天球の回転について』が、訂正を条件にに置かれた。
ガリレオは沈黙を約束した。以後17年、彼は地動説を公の場で主張しなかった。その沈黙を破る鍵は、思いがけない場所から現れる。
06旧友が教皇になった日
1623年、知らせが届いた。友人のマッフェオ・バルベリーニ枢機卿が、として教皇に即位したのだ。ガリレオは新教皇に歓迎され、地動説を仮説として論じる本の許可を得たと信じた。同じ年に刊行した『黄金計量者』で、彼は自らの学問の核心をこう宣言している。
哲学は、この宇宙という巨大な書物の中に書かれている。しかしその書物は、まず言語を理解し、それが書かれた文字を読み取らなければ理解できない。それは数学の言語で書かれ、文字は三角形、円、その他の幾何学図形である。
1624年ごろに本格的に書き始め、1630年ごろに草稿を終えた。検閲と刊行の手続きを経て、1632年2月、フィレンツェで『二つの世界体系についての対話』(Dialogo)を刊行する。イタリア語で書かれた、三人の登場人物による四日間の対話劇である。サルヴィアーティはコペルニクス派で、ガリレオの代弁者。サグレドは中立の聞き手。シンプリチオはプトレマイオス派の頑固者で、名前は「単純」を意味した。
表向きは中立の対話だった。だが読む人の心には、コペルニクス説の勝利が明らかだった。さらに問題を深くしたことがある。教皇自身の慎重論が、愚鈍なシンプリチオの口から語られていたのだ(わざとか偶然かは、今も論争がある)。旧友に信頼されて書かれた本が、旧友を怒らせる本になった。
1633年、ウルバヌス8世の命令で、ガリレオはローマに召喚された。69歳、病身の旅だった。異端審問所の審理は四ヶ月続いた。そして、6月22日の朝が来る。
07それでも ― アルチェトリの闇と光
物語は冒頭の場面に戻る。サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァの審問庭。老人は跪き、地動説を撤回し放棄する宣誓を読み上げた。判決は『対話』の禁書と終身刑。刑は翌日、自宅軟禁に緩められた。
「それでも地球は回る(Eppur si muove)」。彼がそう呟いたという伝説がある。実際の法廷での発言ではないと、今の歴史家は考えている(次の章でふれる)。だがこの言葉が伝説として生き残ったのは、その後の彼の日々が、まさにそう語っていたからかもしれない。
判決の後、シエナの大司教邸を経て、フィレンツェ近郊アルチェトリの自宅に軟禁された。隣接する修道院には、愛する長女の修道女がいて、父を支えた。だがその娘は1634年、32歳で病死する。父は深く傷ついた。
それでも、ガリレオは研究をやめなかった。1638年、(Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze)を刊行する。イタリアでは出版できないため、オランダのライデンからだった。落体の運動と物体の強度を扱ったこの本は、古典力学の真の誕生とされる。物体は外から力を受けなければ運動を保つ、という慣性の直観もここにあり、のちのニュートンの第一法則へ受け継がれた。ニュートンはこの本を読んで育ち、『プリンキピア』の土台とした。
1637年、彼は完全に失明した。望遠鏡で天空を見た最初の人間が、最後の数年は闇の中で、口述筆記(口で述べ、人に書き取らせること)によって研究を続けた。1642年1月8日、アルチェトリで死去。77歳。教皇庁は豪華な葬儀と記念碑を禁じたため、遺体はサンタ・クローチェ教会の目立たない別室に葬られた。
95年後の1737年、ようやく彼の遺骸は同じ教会の大聖堂内、ミケランジェロの墓の向かい側に正式に改葬された。そして1992年10月31日、ヨハネ・パウロ2世は教皇庁科学アカデミーでの演説で、当時の神学者側の誤りと相互誤解を認め、ガリレオ事件を公式に終結扱いとした ― 死から350年を経ていた。
では、あの法廷では本当のところ何が起きていたのか。残された記録を読み直してみよう。
081633年の法廷を読み直す ― 記録と伝説のあいだ
まず1616年の判定を正確に見る必要がある。異端審問所の神学顧問会議はコペルニクス的命題を評価し、「太陽は動かず」を哲学的に不合理かつ形式的異端、「地球が動く」を哲学的に不合理で少なくとも信仰上誤りと区別して判定した。これは命題レベルの評価であって、ガリレオ本人を断罪するものではない。ベラルミーノ枢機卿の通告も、口頭では「保持・擁護してはならない」だったが、「教導もしてはならない」という強い文言の書面がもう一通存在し、この文書の真偽は現代の歴史家によって疑われている。
1633年の審理の核心は、まさにこの1616年の警告文書の解釈だった。「擁護してはならない」と書かれた文書と、「教導してもならない」という強い文書の違いが争点となったのである。判決も、ガリレオ本人を異端者と断罪したのではなく、「異端の嫌疑、強し(vehementer suspectus de haeresi)」としてコペルニクス説の放棄を強い、『対話』の禁書、終身刑(翌日、自宅軟禁へ緩和)、三年間の週一回の七つの悔悛詩篇の朗唱を命じるものだった。
伝説の側も検証に耐えない部分が多い。「それでも地球は回る(Eppur si muove)」という呟きは、1757年のジュゼッペ・バレッティの記述に初めて登場するもので、1633年の法廷での実際の発言ではないと現代の歴史家は考えている。それでもこの言葉は、彼の静かな抵抗を象徴する伝説として残った。「ピサの斜塔から大砲弾とマスケット弾を同時に落とした」という伝承も、弟子ヴィヴィアーニによって彼の死後に書かれたもので、歴史的証拠に乏しい。ガリレオ自身の記録はむしろ傾斜面実験による定量化に重きを置く。大聖堂のランプに振子の等時性を見たという逸話も、自伝的な孫の書簡に由来する伝承で、実際の発見時期はより後と見る歴史家もいる。伝説は象徴的な光を持つが、科学的実態はもっと慎重で地道な作業の積み重ねだった。
こうして読み直すと、冒頭の場面の意味が見えてくる。ガリレオは法廷で屈し、書斎では屈しなかった。撤回の宣誓は記録として残り、落体の法則と『新科学対話』もまた残った。そして350年後、教会のほうが誤りを認めた。自分の目で確かめた真実を、世界のすべてが否定するとき ― あなたなら、何を守り、何を手放すだろうか。
09主要な出来事と著作
- ピサに誕生。父は音楽理論家ヴィンチェンツォ・ガリレイ
- ピサ大学医学部、中退
- ピサ大学数学教授。落体運動の研究
- パドヴァ大学教授、もっとも創造的な時期
- 独自の望遠鏡を製作、天体観測開始
- 『星界の報告』刊行。木星の四衛星を発見。フィレンツェへ
- 『太陽黒点書簡』
- 枢機卿会議がコペルニクス的命題を「哲学的に不合理、少なくとも信仰上誤り」と判定。ベラルミーノの警告を受ける
- 旧友バルベリーニがウルバヌス8世として教皇即位。『黄金計量者』刊行
- 『二つの世界体系についての対話』刊行
- 異端審問。6月22日に地動説撤回の誓約、終身軟禁
- 『新科学対話』(オランダ・ライデン)刊行
- 失明下で口述筆記の研究継続
- 1月8日、アルチェトリで死去。享年77
- 10月31日、ヨハネ・パウロ2世が当時の神学者側の誤りを認め事件を終結扱いとする
残した思想の輪郭
- 落体の法則 ― 自由落下の加速度は物体の重さによらず一定
- 数学的自然観 ― 自然は数学の言語で書かれており、その文字は幾何学図形である
- 観測による天体論 ― 木星の衛星・金星の満ち欠け・太陽黒点で地動説を観測事実で支える
- 慣性の直観 ― 物体は外力なければ運動を保つ(後のニュートンの第一法則に継承)
- 教会と科学の対立の原型 ― 真理と権威、観測と教義の歴史的衝突の象徴的事件
つながり
- アイザック・ニュートン
継承 — その落体の研究を、『プリンキピア』の運動法則へ定式化した後継者がいる。
- コペルニクス
先駆 — 望遠鏡が証拠を集めた仮説は、六十年余り前の一冊に書かれていた。
- アンドレアス・ヴェサリウス
先駆 — ガリレオがパドヴァに来る半世紀前、同じ大学で人体を切り開き、観察の学風を築いた解剖学者がいた。
- ウィリアム・ハーヴィー
同時代 — 同じ頃パドヴァに学び、ガリレオ的な計測を心臓と血液に応用した医学者。
さらに読むならFurther Reading
ガリレオ・ガリレイの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門天文対話(上・下)
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生きた跡を辿るPlaces
ガリレオ・ガリレイが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- サンタ・クローチェ聖堂 ガリレオ記念墓墓所
フィレンツェ, イタリア
1642年没の約1世紀後、1737年に正式にこの地に記念墓として移葬。天文と幾何の寓意像、望遠鏡を掲げるフォッジーニ作の胸像
- ガリレオ博物館記念館
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メディチ・ロレーヌ両家の科学機器を核とする博物館。ガリレオの望遠鏡、対物レンズ、彼の指の遺物を展示
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公式EnglishMuseo Galileo(フィレンツェ)公式サイト(英語)
ガリレオ望遠鏡など原資料を展示