本文へスキップ
φPhiloGlyph
T

ホッブズ

Thomas Hobbes·1588–1679·イングランド·

人は生まれつき、 狼か?

自然状態は「万人の万人に対する戦い」― 近代政治哲学の始祖

  • リヴァイアサン
  • 自然状態
  • 社会契約
王が処刑され、戦争が日常だった時代。「人はなぜ殺し合うのか」は、窓の外の光景だった。 — ひらく

時代の空気

暴力が常に傍らにあった時代だ。無敵艦隊が迫る年に生まれ、青年期にヨーロッパは三十年戦争の破壊に入り、壮年期には祖国が内戦に裂け、王が処刑された。宗教改革の余熱は冷めず、カトリックとプロテスタントの血は欧州中に流れ続けていた。ホッブズは貴族家の家庭教師として暮らし、大陸に亡命した王党派と交わり、パリでメルセンヌやデカルトと議論した。主権はなぜ必要か、人はなぜ互いを殺しうるか——その問いは、抽象ではなく日常の窓から見えていた光景だった。

01神罰と呼ばれた大火

1666年、ロンドンは大きな火事に焼かれた。人々はこれを「神罰」と語った。議会では、罰を招いた原因を探す声が上がった。やり玉に挙げられたのは、一冊の本である。『』。78歳の哲学者トマス・ホッブズが書いた本だった。

「神を信じていない」という疑いは、裁判の危険さえ帯びた。老哲学者は一時、自分の草稿のいくつかを焼いたと伝わる。恐怖から逃れて平和を作る方法を、一生かけて考えた男である。その男が、恐怖に追われて、自分の言葉を火にくべた。

なぜ彼の哲学は、これほど恐怖にこだわるのか。なぜ彼は、恐怖のことを誰よりも知っていたのか。答えは、彼が生まれた日にまでさかのぼる。時は78年前に戻る。

02恐怖と双子で生まれた

1588年4月5日、イングランド南西部の村マルムスベリーの近くに生まれた。スペインのがイングランドに迫っていた、あの年である。母は難産で、恐怖のあまり早産になったと伝わる。ホッブズは後に自叙伝の中で、「私は恐怖と双子で生まれた」と書いた。

父は村の教区牧師だったが、喧嘩けんか早い人だった。近くの牧師と乱闘騒ぎを起こし、村を去って行方をくらました。少年の養育は、商人だった叔父フランシスが引き受けた。貧しくはなかったが、父のいない少年期だった。

それでも少年はよくできた。ラテン語とギリシャ語を早くに身につけた。14歳で、オックスフォードのモードリン・ホールに入学する。だがこの大学は、少年を退屈させることになる。

03退屈な教室と、一冊の本

大学の授業はが中心だった。スコラ哲学とは、中世から続く伝統的な学問の型である。教わるのはアリストテレスの論理学と、(決まった形で結論を導く議論の型)。ホッブズはこれを退屈と感じた。本人の回想によれば、授業よりも地図を眺め、航路と国境を追うほうに時間を使ったという。

1608年に卒業すると、名門貴族キャヴェンディッシュ家に家庭教師として入った。教え子は長男のウィリアム。この縁が、彼の人生を決めた。ホッブズは手紙を管理する秘書となり、政治の議論にも加わる立場を得た。この家との関係は、生涯続くことになる。

転機は、大陸への旅の途中で来た。フランスとイタリアへ向かう道すがら、友人の書斎でユークリッドの『原論』を偶然開いたと伝わる。ユークリッドは古代ギリシャの数学者である。目に入ったのは、ピタゴラスの定理。「これは嘘だ」と思った。だが証明を一歩ずつさかのぼって読むうち、反論できなくなった。

一つの確かなことから、鎖のように積み上げていく。人間の知識も、この方法で組み立てられるはずだ。彼はそう確信した。

もう一つの仕事も、彼を変えた。古代ギリシャの歴史家の『歴史』の英訳である(1629年刊)。そこには、民主政の都市アテナイが、人々をあおる政治で自滅していく様子が書かれていた。ホッブズはそれを、他人事として読めなかった。彼の国も、同じ道を歩み始めていたからである。

言葉は賢者にとっては計算の標(しるし)であり、愚者にとってはそれだけで貨幣である

『リヴァイアサン』第4章 ― 言葉の役割を論じた一節

04パリへ逃げる

1640年、イングランドは内戦の瀬戸際にあった。国王チャールズ一世と議会の対立が深まっていた。ホッブズは『法の元本』という草稿を貴族院議員に回覧させた。国王の絶対的な権威を守る内容である。王の側の人間と見なされることは、明白だった。

身の危険を感じた彼は、1640年末にパリへ亡命した。52歳。滞在は11年におよぶことになる。

亡命生活は、頭の中では豊かだった。天文学者ガリレオとは手紙を交わし、自然を機械の仕組みとして捉える見方を磨いた。哲学者デカルトとは、直接ぶつかった。デカルトが『』で「・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」により内側からの確実性を打ち立てたのに対し、ホッブズは「思考も物質の運動にすぎない」と押し返した。二人に友情は生まれなかった。だが哲学史に残る鋭い対話の一つが、そこに刻まれた。

1647年には天然痘にかかり、生死をさまよった。回復した彼が机に向かい、書き始めたもの。それが、祖国が内戦に裂け、王が処刑された時代への、彼の答えだった。

05『リヴァイアサン』― 恐怖から国家を設計する

1651年、ホッブズ63歳のときに刊行された『リヴァイアサン』は、近代政治哲学の起点となる書物である。その核心は三つの概念で組み立てられている。

自然状態。政府も法もない状態で人間はどう振る舞うか。ホッブズの答えは冷徹だ。人は本性として自己保存を求め、欲望に限りがなく、互いを恐れる。国家がなければ、各人は各人と戦う。これが「bellum omnium contra omnes ― 」である。自然状態の生は「孤独で貧しく、不潔で獣的で、そして短い」。

社会契約。この恐怖から逃れるために、人々は互いに合意する。自分のを一つの主権者(個人または合議体)に譲渡し、代わりに平和と保護を得る。この契約によって生まれるのが人工的な「国家(コモンウェルス)」である。旧約聖書の怪物の名を冠した国家 ― リヴァイアサン。

絶対主権。契約が成立すれば、主権者の命令には服従せねばならない。さもなければ契約の意味がない。さらにホッブズは、教会権力が世俗権力に干渉することを強く批判した。キリスト教の神権政治しんけんせいじへの挑戦は、宗教的な政敵を多数生み出すことになった。

恐怖に生まれた男が、恐怖を土台に平和を設計した。だがこの本は、彼自身に平和をもたらしただろうか。

このような状態においては、勤勉のための場所はない。なぜなら、その成果が不確実だからである。したがって、地の耕作も、航海も、海路によって輸入されうる品物の使用も、便利な建物もなく、多くの力を要する物を動かす器具もなく、地の表面に関する知識もなく、時の計算もなく、技芸も、文芸も、社会もない。そして最悪なのは、絶えざる恐怖と、暴力的死の危険があることだ。そして人間の生は、孤独で貧しく、不潔で獣的で、そして短い。

『リヴァイアサン』第13章(自然状態の記述)

06帰国、そして炎の年

1651年末、ホッブズはイングランドに戻った。皮肉なことに、『リヴァイアサン』の刊行がパリ亡命を終わらせた。本の中でカトリック教会を強く批判したため、フランスの聖職者たちの敵意を買い、パリにいられなくなったのである。イングランドでは、の率いる共和政が続いていた。ホッブズは「実力で支配を保っている政府には、従う理由がある」という論理で、帰国を正当化した。

1660年ので、状況は一変する。王政復古とは、追放されていた王家が王座に戻ったことをいう。新しい王チャールズ二世は、亡命中のパリでホッブズが数学と哲学を教えた、あの若者だった。王はホッブズを懐かしみ、年100ポンドの年金を与え、宮廷への出入りを認めた。二人は一緒にテニスをしたと記録にある。

だが議会と教会の敵意は消えなかった。そして1666年、ロンドン大火が起きる。冒頭の場面である。「神罰」の原因探しが始まり、『リヴァイアサン』がやり玉に挙げられた。神を信じない者という疑いは、裁判の危険さえ帯びた。78歳のホッブズは一時、いくつかの草稿を焼いたと伝わる。

恐怖と双子で生まれた男は、晩年にもう一度、恐怖と向き合わされたのである。それでも彼は、書くことも争うこともやめなかった。数学者との論争も続いていた。ホッブズは円積問題(円と同じ面積の正方形を作図する問題)を解いたと主張し、ウォリスは繰り返し誤りを指摘した。この論争は数十年続き、彼が死ぬまで決着しなかった。哲学の巨人が、数学では頑固に誤り続けた。残された時間で、老人は何を書いたのか。

07闇への跳躍

晩年のホッブズは、キャヴェンディッシュ家の本拠地、ダービーシャーのチャーツワース邸で多くの時間を過ごした。その長命は同時代の人々を驚かせた。70代になっても論争の矢を放ち、80代になっても書き続けた。ラテン語で自叙伝の詩を書き、87歳で散文の自伝も仕上げた。老いを感じながらも、「無駄に生きるつもりはない」という気概が文面から伝わる。

88歳のとき、の『イリアス』と『オデュッセイア』を英語に翻訳した。ホメロスは古代ギリシャの詩人である。批評家は訳の出来を問うたが、本人は気にしなかった。「これほど高齢でこれほどの仕事をした者は他にいない」と言ってのけた。若い頃にトゥキュディデスの翻訳で世に出た男が、ホメロスで締めくくる。ギリシャの言葉に始まり、ギリシャの言葉に終わった。

1679年12月4日、チャーツワース近くのハードウィック・ホールで死去。91歳だった。死の直前、脳卒中で言葉を失ったとも伝わる。最期の言葉として記録されているのは、「私は闇の中への大きな跳躍をする」。信仰のあつい人の言葉でないことは確かだ。だが死を前にして、恐怖から目をそらさない理性の意地が、そこに宿っている。

恐怖とともに生まれ、恐怖を見つめ、恐怖を土台に国家を設計した。草稿を焼いたあの年の振る舞いも、恐怖を知り抜いた者の、生き延び方だったのかもしれない。では、私たちはどうだろう。今日、隣人と争わずにいられるのは、人が生まれつき善いからだろうか。それとも、誰かが恐怖を見つめて設計した仕組みが、私たちを守っているからだろうか。

08主要な出来事と著作

  1. ウィルトシャー州マルムスベリー近郊に誕生。無敵艦隊来航の年、早産
  2. オックスフォード卒業。キャヴェンディッシュ家の家庭教師に就任
  3. 大陸旅行。ユークリッド『原論』との出会いで幾何学的方法に目覚める
  4. トゥキュディデス『歴史』英訳を刊行
  5. イタリアでガリレオと会見
  6. 『法の元本』草稿回覧。身の危険を感じパリへ亡命
  7. デカルト『省察』に対する『第三反論』を執筆、論争
  8. 『市民論』刊行(ラテン語版は1642年)
  9. 『リヴァイアサン』刊行。イングランドに帰国
  10. 王政復古、チャールズ二世から年金を授与される
  11. 議会による著作調査。ウォリスとの数学論争が続く
  12. ハードウィック・ホールにて死去、享年91

残した思想の輪郭

  • 自然状態(bellum omnium contra omnes) ― 国家なき状態では万人が万人と戦い、生は「孤独で貧しく、不潔で獣的で、短い」
  • 社会契約 ― 恐怖から逃れるため、人々は自然権を主権者に譲渡することで合意する
  • 絶対主権 ― 契約が成立すれば主権者の命令への服従が平和の条件であり、分割は許されない
  • 唯物論的人間観 ― 思考も欲望も感覚も、すべて物質の運動として説明できる
  • 人工国家 ― 国家は自然の産物ではなく、人間の理性と恐怖が作り上げた「人工的人間」である
1679年、91歳の長命。最期の言葉「私は闇の中への大きな跳躍をする」。

つながり

全体のつながりを見る →

さらに読むならFurther Reading

ホッブズの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。

生きた跡を辿るPlaces

ホッブズが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • セント・ジョン・バプティスト教会(オールト・ハクノール)墓所

    ダービシャー, イギリス

    ホッブズが晩年を寄寓したハードウィック・ホール近傍の教会、墓石あり

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

ホッブズを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。