ヴォルテール
正しさが熱を帯びるとき、 笑いは武器になるか?
寛容を武器にカトリック教会と戦った啓蒙の剣客
- 寛容
- カンディード
- エクラゼ・ランファム
王と教会が言葉を見張り、本を書くことが牢獄と隣り合わせだった時代。 — ひらく
時代の空気
アンシャン・レジーム後期の重い空気だ。ルイ十四世晩年の戦費とリージェンス期の放縦を経て、ルイ十五世治世はガリカン教会と王権、ジャンセニストとイエズス会の暗闘に揺れていた。1762年にイエズス会は追放され、パルルマンと王権の綱引きが続いた。検閲はバスティーユ投獄として日常に居座り、出版は焚書と亡命を伴う賭けだった。海峡の向こうの立憲君主と宗教的寛容、そしてニュートン、ロックの理性が眩しく見えた一方、リスボンの大地震と公開処刑の血は、ライプニッツ最善主義の薄さを露わにしていた。
01夜、運び出された棺
1778年5月30日の夜、パリ。ひとりの老人が、友人ヴィレットの屋敷で息を引き取った。83歳。名はヴォルテール。ヨーロッパでもっとも有名な文筆家だった。
ほんの数ヶ月前、彼はパリの群衆に迎えられたばかりだった。人々は街路を埋め、老いた彼を凱旋将軍のようにたたえた。劇場では、彼の胸像に冠がささげられた。それほどに、愛された人だった。
ところが教会は、彼の葬儀を拒んだ。遺体は夜のうちに、親族と友人の手でパリから運び出された。遠いシャンパーニュ地方の修道院の墓地に、ひそかに葬られた。教会式の体裁だけを、どうにか整えて。
これほど愛された老人が、なぜ夜にまぎれて運ばれなければならなかったのか。彼は生涯をかけて、誰と、何を戦ったのか。時は84年前にさかのぼる。
02アルエ家の末っ子
1694年11月21日、パリ。裕福な家に男の子が生まれた。名はフランソワ=マリ・アルエ。「ヴォルテール」は、まだこの世にない名前だ。父フランソワ・アルエは、王室にも出入りする上位の公証人(契約や証書を扱う法律の専門家)だった。母マリー・マルグリット・ドマールは、ポワトゥー地方の小さな貴族の家系の出だった。
母は1701年に世を去った。幼いフランソワ=マリは、厳格で実務家肌の父のもとに残された。兄アルマンは、のちに敬虔なジャンセニスト(厳格なキリスト教の一派)寄りとなり、高等法院(裁判所を兼ねた大きな役所)の書記になった。機知と懐疑を糧に育つ弟とは、生涯うまくいかなかった。
10歳で、(カトリックの修道会)の名門校コレージュ・ルイ=ル=グランに入った。ラテン文学、弁論の技、悲劇の朗唱。のちに敵となるイエズス会から、彼は一生ものの文章の骨格を受け取った。父は法律家になることを望んだ。だが彼は詩作と、貴族のサロン(社交の集まり)に夢中だった。
鋭い風刺(権力をからかう批評)で、若者は名を上げていく。「ヴォルテール」の筆名は1718年頃から使い始めた。本名のつづり替えとも、母方の土地の名に由来するとも言われる。しかし、王族をからかう笑いは、ただでは済まなかった。
03牢獄と、海の向こう
1717年、22歳。摂政(幼い王の代わりに政治を行う人)オルレアン公を風刺した匿名の詩が、彼の作とされた。5月、バスティーユ監獄に投獄される。独房での11ヶ月、彼は悲劇『オイディプス』を書き継いだ。釈放後の1718年11月に初演すると、45日連続上演の大成功となった。詩人ヴォルテールの名声は、牢獄から始まった。
1726年、事件が起きる。社交界で、貴族のロアン騎士に公然と侮辱された。言い返した数日後、彼は騎士の家来たちに路上で殴打された。ヴォルテールはフェンシングを学び、決闘を申し込んだ。だが捕まったのは、殴られた側の彼だった。
ロアン家が手を回し、彼は再びバスティーユに入れられた。釈放の条件は、英国へ出ていくこと。わずか2週間での放り出しだった。法は、身分と血統に従って曲がる。この屈辱は、彼のなかで生き方の芯に変わった。
1726年からの約3年、英国での日々は決定的だった。1727年3月には、ニュートン(万有引力を説いた科学者)の国葬に居合わせた。一介の市民の学者が、王のように葬られる。その光景は彼を貫いた。ロックの『』(人の知は経験から作られると説いた本)にも触れた。
自由な出版、議会での政治、異なる宗派の共存。フランスの王権とカトリック支配が、どれほど知を窒息させているか。比較を通して、彼は痛感した。帰国後、この経験は『哲学書簡(英国書簡)』(1734)として結実する。当局はこの本を発禁にし、公衆の前で焚書(本を焼く処分)を命じた。彼は再びの投獄を恐れて逃亡した。その逃亡の先で、彼は生涯でいちばん深い出会いをする。
04エミリーとの十五年
1734年以降、ヴォルテールはロレーヌ地方シレーの城館に身を隠した。城の主は、侯爵夫人。物理学者であり数学者でもある人だった。夫の侯爵が認めるかたちで、エミリーとヴォルテールは恋人であり、研究の相棒だった。当時の貴族社会では珍しくない配置だったが、二人はそれを学問の共同経営に作り変えた。
シレーで二人は、科学実験、ニュートン物理学、聖書批判、歴史叙述へと手を広げた。エミリーによるニュートン『プリンキピア』のフランス語訳と注解は、彼女の死後に出版され、18世紀フランス科学の金字塔となる。ヴォルテールは1738年に『ニュートン哲学要説』を出し、デカルト主義が主流だった大陸に、ニュートン力学を本格的に紹介した。「私が公にしたのはエミリーの仕事の影に過ぎない」と、後に彼は何度も書いている。
1749年9月、別れは突然だった。エミリーは詩人サン=ランベールとの晩年の関係から妊娠し、出産後の産褥熱で急死した。42歳だった。ヴォルテールは慟哭した。「私は半身を失った。私という体の半分は彼女と共に葬られた」。
悲しみの底にいた彼のもとへ、北の国の王から誘いが届く。
05王との蜜月、そして決裂
プロイセン王(大王)は、皇太子の頃からヴォルテールの崇拝者だった。二人は即位前から数百通の手紙を交わしていた。1750年7月、ヴォルテールはポツダムのサンスーシ宮殿に迎えられた。年1万8千ターラーの年金を受ける、王の「哲学の友」として。フランス語で語り、フランス語の詩を共に磨く。啓蒙絶対君主(理性で国を治めようとする王)の理想が、ここでだけは形を取って見えた。
しかし、二人の距離は近すぎた。互いの辛辣さと虚栄心。王としての気まぐれ。ヴォルテールがベルリン在住のユダヤ人銀行家と起こした怪しい債券訴訟。宮廷数学者モーペルチュイを匿名でからかったパンフレット。摩擦は二年で、耐えられない量に達した。
1753年6月、帰国の途上、彼はフランクフルトでプロイセン当局に拘束された。口実は、王から贈られた詩集を返せというものだった。1ヶ月以上の屈辱的な軟禁。解放されたとき、彼はフランスからもプロイセンからも歓迎されない身だった。新しい居場所を、国境の上に探すしかなかった。
その矢先、大地が揺れた。
06大地震と『カンディード』
1755年11月1日、諸聖人の日の朝。リスボンを大地震が襲った。教会でミサが捧げられている最中の崩落。続く津波。数日続いた大火。死者は数万に上った。
当時、ライプニッツ派(この世界は最善にできている、と説く哲学の一派)の楽観主義者たちは言っていた。これもまた、最善の秩序の一部なのだと。ヴォルテールは即座に『リスボン大震災に寄せる詩』を書いた。「これが最善の世界なら、他の世界はどれほどか」と、哀しげに問うた。
1759年1月、彼は短い哲学小説を匿名で出す。『カンディード、あるいは楽観主義』。主人公カンディードは、「すべては最善のために起こる」と教える楽天家パングロス博士とともに旅をする。戦争、地震、異端審問(教会による裁判)、奴隷制、宗教的な虐殺、海賊。あらゆる災厄が、滑稽な物語のなかに詰め込まれた。
それは見事な言葉だ、とカンディードは答えた、しかし我々は我々の庭を耕さねばならぬ
生き残った者たちがたどり着くのは、「我々の庭を耕さねばならない(il faut cultiver notre jardin)」という静かな結論だった。巨大な理屈で世界を説明するのではなく、目の前の労働と共同体に専念する。その倫理がそこにあった。本はパリ、ジュネーヴ、ローマで即座に発禁となり、半年で2万部以上が地下に流通した。
だが、笑いだけでは足りない。彼は戦う場所を、自分の手で作ることにした。
07フェルネーの家長
1758年末、ヴォルテールはスイス国境近くのフランス領に土地を買い、城館を建てた。ジュネーヴ側にも別邸「レ・デリス」を構えた。カトリック当局の手が伸びれば、数時間で国境を越えられる。そういう地理を選んだのだ。以後20年、彼は「フェルネーの総主教」を自称し、交信の中心となった。王族、哲学者、亡命者、作家が訪れ、書簡は2万通以上が現存する。村には時計工場と絹工場を起こし、数百人の雇用を生んだ。庭を耕す倫理は、文字通り実践された。
彼の戦いの中心には、教会と王権による宗教的な不寛容があった。1762年3月、南フランスの町トゥールーズで、プロテスタントの商人ジャン・カラスが処刑された。息子の自殺を、「カトリックへの改宗を父が殺して阻んだ」とする偽りの告発。判決は、車裂きという残酷な処刑だった。
ヴォルテールはカラスの未亡人と次男をかくまった。3年に及ぶ調査と訴えのキャンペーンを展開した。そして1765年3月、国王顧問会議による判決の破棄と、名誉回復を勝ち取った。同じ手法で、無実の宗教裁判だったシルヴェン事件にも介入した。1766年に斬首されたラ・バール騎士の事件にも動いたが、彼の命は生前には救えなかった。
我々は互いに寛容であるべきだ。なぜなら我々はすべて脆く、矛盾し、変わりやすい存在だからだ。
この戦いの中で書かれた(1763)と(1764)は、ヨーロッパにおける宗教的迫害への記念碑的な批判となった。書簡の合言葉は「Écrasez l'infâme(卑劣なものを叩き潰せ)」。「卑劣なもの」とは、狂信・迷信・宗教的不寛容そのものを指した。
だが、この寛容の戦士の足元には、影も落ちていた。
08寛容の人の光と影
思想の布陣を確かめておこう。(、)とは共闘した。多くの匿名項目を寄稿し、検閲との攻防を共にした。一方で、ディドロの唯物論や、より急進的な無神論には距離を置いた。ヴォルテールはあくまで(deism)の人であり ― 教会の啓示ではなく、理性と自然の秩序から神を考える立場だ ― 「神は社会の秩序のために必要だ。もし存在しなければ発明する必要がある」と書いた。啓蒙の陣営の内部にも、彼は独自の線を引いていた。
疑いは愉快な状態ではない、しかし確信は滑稽な状態である
ただし、彼の戦線は一様ではなかった。聖書批判の道具として用いられた『哲学辞典』「ユダヤ人」項などには、ユダヤ人共同体への嘲弄と本質主義的な蔑視がにじむ ― 彼自身がアムステルダムのユダヤ人銀行家との金銭訴訟で苦汁をなめた経歴も影を落とす。フェルネーの財政は植民地交易にも組み込まれた東インド会社株や公債で支えられ、奴隷貿易を伴う事業からの利得を批判しつつも完全に切り離せていなかった ― 自身の資産運用にカディスの奴隷貿易商人と組んだ記録も残る。寛容の代弁者の足元には、寛容ではない振舞いの記録が残されている。隠さずに併記しておくべき影だ。
なお、よく引用される「私はあなたの意見には反対だ、しかしあなたがそれを言う権利を命を賭けて守る」という名言は、20世紀初頭にが彼の態度を要約した言葉であり、ヴォルテール自身の原典は存在しない。
光も影も抱えたまま、老人は最後の旅に出る。
09二月の凱旋、五月の夜
1778年2月10日、28年ぶりにパリへ戻った。83歳。馬車は群衆に止められ、人々は街路を埋め尽くして老哲人を凱旋将軍のように迎えた。アカデミー・フランセーズでの会見。自作の悲劇『イレーヌ』の初演と、劇場での胸像戴冠。渡仏中のベンジャミン・フランクリン(アメリカ独立の立役者)との「自由と寛容」の対面。過密な日程は、老いた体に堪えた。
教会との和解のための告解問答にも応じた。だが最後まで、「私はキリストを愛するが、それでもキリストの主張する神性は信じない」という態度を崩さなかった。生涯をかけて狂信と戦った男は、死の床でも自分の線を譲らなかったのだ。
1778年5月30日、パリのヴィレット邸で息を引き取った。83歳。教会は教会葬を拒んだ。 ― ここで、あの夜に戻る。遺体は親族と友人の機転で、夜間、シャンパーニュ地方シェリエール修道院の教区墓地へ密かに運び出され、教会埋葬の体裁で葬られた。彼が生涯、誰と何を戦ったのかを知った今、あの夜の意味は、もうあなたに見えているはずだ。
フランス革命後の1791年7月、国民議会の決議により、彼の遺骸はパリのパンテオンに改葬された。棺を見送る行列には、後年、ルソーの遺骸も並ぶことになる。
もし今、あなたの周りで「正しさ」が熱を帯び、異論が敵意として処理されはじめたら。あなたはその熱に、何を差し出すだろうか。怒りか、沈黙か ― それとも、笑いか。
10主要な出来事と著作
- パリに誕生。本名フランソワ=マリ・アルエ
- 母マリー死去(7歳)
- コレージュ・ルイ=ル=グラン(イエズス会)で古典教育
- 摂政風刺詩でバスティーユ監獄に11ヶ月投獄。獄中で『オイディプス』を執筆
- 『オイディプス』初演で大成功。「ヴォルテール」の筆名を用い始める
- ロアン騎士事件で再投獄、英国追放
- 英国亡命。ニュートンの国葬を目撃、ロックを読む
- 『哲学書簡(英国書簡)』刊行、当局により発禁・焚書
- シャトレ侯爵夫人と共にシレーの城館で研究生活
- 『ニュートン哲学要説』刊行
- シャトレ夫人、産褥熱で死去
- フリードリヒ2世の宮廷(ポツダム)。決裂後フランクフルトで拘束
- リスボン大地震。『リスボン大震災に寄せる詩』
- フェルネーに移住、城館を建てる
- 『カンディード』刊行、即座に各地で発禁
- カラス事件再審運動を主導、1765年に名誉回復
- フランスでイエズス会追放
- 『寛容論』刊行
- 『哲学辞典』刊行
- ラ・バール騎士事件、救援間に合わず
- 28年ぶりにパリ帰還。熱狂的歓迎の中、5月30日に死去。享年83。教会葬は拒否され田舎の教区墓地に密葬
- 革命後、遺骸がパンテオンに改葬
残した思想の輪郭
- 寛容(tolérance) ― 信仰の違いを理由に人を迫害しない社会の最低限の良識
- 自然神論(deism) ― 教会の啓示ではなく理性と自然の秩序から神を考える立場、無神論とは距離を取る
- 風刺と闘争の文体 ― 重い形而上学を軽やかに批判する武器としての笑い
- 「庭を耕す」倫理 ― 抽象的啓蒙や楽観論への対抗としての、具体的な労働と共同体の肯定
- 不寛容への反撃 ― カラス、シルヴェン、ラ・バール各事件に代表される司法的迫害への、法廷外の世論運動
- 影として残るもの ― 『哲学辞典』のユダヤ人項にみえる本質主義的な蔑視、植民地交易・奴隷貿易を伴う事業を含んだ資産運用 ― 寛容の代弁者でありながら、足元の不寛容を完全には抜け切れなかった人物として併記する
つながり
- ジョン・ロック
先駆 — 亡命中のヴォルテールが熟読し「人間精神の解剖者」と呼んだ哲学者。
- ルソー
対比 — 文明は進歩か、退廃か。リスボン地震を機に啓蒙の内部で袂を分かった論敵。
- モンテスキュー
同時代 — 「すべての人がそれを知っているが、誰も読んでいない本」と揶揄された側。それでも寛容の擁護では同じ陣営に立った。
さらに読むならFurther Reading
ヴォルテールの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門カンディード 他五篇
ヴォルテール / 訳: 植田祐次 / 岩波文庫
Amazonでこの版を探す →副読哲学書簡
ヴォルテール / 訳: 林達夫 / 岩波文庫
Amazonでこの版を探す →原著 / 英訳Candide
Voltaire / 訳: Theo Cuffe / Penguin Classics
Amazonで原著を探す →
※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。
生きた跡を辿るPlaces
ヴォルテールが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- フェルネー=ヴォルテール(ヴォルテール邸)住居
フェルネー=ヴォルテール, フランス
スイス国境近く、晩年 20 年を過ごした邸宅。フランス国立記念地
- パンテオン(ヴォルテールの墓)墓所
パリ, フランス
1791 年、革命政府により改葬されたヴォルテールの石棺。ルソーと向かい合う
さらに辿るならExternal References
ヴォルテールを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ヴォルテール」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Voltaire"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Voltaire"