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風土の知恵

清少納言

Sei Shōnagon·966頃–1025頃·日本(平安)·

いちばん大切な人を失ったのに、 なぜ書き残した本は明るいのか?

一条天皇の中宮定子に仕え、『枕草子』で「をかし」という美意識の輪郭を日本語に刻んだ平安随筆文学の祖

  • 枕草子
  • をかし
  • 春はあけぼの
藤原一族の権力争いのかげで、后に仕える女性たちが、仮名の文章に自分の声を残しはじめていた。 — ひらく

時代の空気

平安中期、一条天皇の世。摂関家の頂で藤原道隆が娘定子を中宮に立て、定子サロンが後宮で最も華やかな機知の場となった。だが995年に道隆が没し、翌年の長徳の変で兄伊周・弟隆家が左遷、定子は出家を強いられ、叔父道長の御堂流が台頭する。1000年、定子は媄子内親王出産の翌日に崩御し、中関白家の短い春は終わる。漢詩文を公の言語とする宮廷の傍ら、後宮では女房たちが仮名で和歌と散文の境を行き来した。歌学の家清原氏に育った清少納言は、漢籍の素養を即興の機知に転じ、悲運の只中でも夜明けや蛍をすくい取る軽やかな眼差しを書き留めた。

01涙のない本

1000年の12月、都の冬。中宮ちゅうぐう定子ていしという女性が亡くなった。中宮とは、天皇の后のこと。定子はの后で、まだ二十代半ばだった。子を産んだ、その翌日の死だった。

遺骸は都の東、鳥辺野とりべのという葬送の地へ送られた。定子には、7年あまりそばに仕えた女房にょうぼう(宮廷で働く女性)がいた。清少納言せいしょうなごんである。主君を失った彼女は、どれほど泣いただろう。

ところが、彼女が書き残した『(まくらのそうし)』を開くと、不思議なことに気づく。嘆きの言葉が、ほとんど無いのだ。あるのは夜明けの空、夏の夜の蛍、冬の朝の炭火。主君の悲運を、この本は正面から描かない。むしろ、どのページも明るい。

いちばん大切な人を失った人が、なぜこんなに明るい本を書けたのか。その答えを探すために、時を7年ほど巻き戻そう。

冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし

『枕草子』第一段。「冬は早朝がよい」と、雪の朝に急いで炭火を運ぶ姿を挙げる一節

02歌人の家の娘

清少納言は966年ごろに生まれたとされる。父は清原元輔きよはらのもとすけ。天皇の命で和歌集『後撰和歌集』を選んだ、名の知られた歌人である。曾祖父の清原深養父きよはらのふかやぶも歌人だった。つまり彼女は、和歌の名門の娘として育った。

「清少納言」は本名ではなく、のちの宮廷での呼び名である。「清」は清原の清、「少納言」は役職の名前。本名は諾子なぎこという説があるが、確かではない。

幼いころから和歌に親しみ、漢籍(かんせき=中国の書物)も学んだ。当時、漢籍は男性のものとされていたから、これは珍しい素養だった。やがて橘則光たちばなののりみつという歌人と結婚し、男の子をもうけた。だがこの結婚は、長くは続かなかったらしい。

30歳を前にしたころ、彼女の人生は大きく動く。都の中心、宮廷から声がかかったのである。

03雪明かりの初出仕

993年ごろ、清少納言は宮廷に上がった。仕える相手は中宮定子。関白(かんぱく=天皇を支える最高の役職)藤原道隆みちたかの長女である。定子は清少納言より十歳あまり年下の、十代の后だった。それでいて機知に富み、宮廷でいちばん華やかな人だった。

初出仕のころのことを、清少納言はのちに書いている(「宮にはじめてまゐりたるころ」の段)。緊張のあまり、顔を隠して縮こまる新入りの女房。その姿のまま、雪明かりのなかではじめて定子と向き合った。文学史に残る、有名な場面である。

定子のまわりには、兄の藤原伊周これちか、弟の隆家たかいえら一族が集まった。この一族を中関白家なかのかんぱくけと呼ぶ。栄華の真ん中にある、明るい社交の場。そこで清少納言は、機知の腕を磨いていく。

その腕前が語りぐさになる事件が、ある雪の日に起きる。

04香炉峰の雪

雪がたいそう高く積もった日のこと。定子が女房たちに問いかけた。「いかならむ」。香炉峰こうろほうは中国の山の名前である。

清少納言は答える代わりに、簾(すだれ)をさっと巻き上げた。外には一面の雪景色。定子は「わが心得たり」とばかりに微笑した、と清少納言は書いている。

種明かしをしよう。中国の詩人白楽天はくらくてんの詩に、「香炉峰雪撥簾看」という一句がある。「香炉峰の雪は、簾をはね上げて看る」と詠んだ句だ。定子の問いはこの詩のなぞかけで、清少納言は言葉でなく動作で答えたのである。

当時、貴族の女性は漢籍を表立って読まないものとされていた。清少納言はその決まりごとのなかで、知識を軽やかな機知に変えてみせた。この「香炉峰の雪」の逸話は、彼女の代名詞になる。

だが、この輝かしい日々には、すでに終わりが近づいていた。

05崩れていく春

995年4月、定子の父、関白が病で世を去った。まだ40代前半だった。関白の座は弟の道兼みちかねに移ったが、道兼もわずか7日で病死する。人々は「七日関白」と呼んだ。権力は、定子の叔父にあたる藤原道長みちながの手に渡っていく。

翌996年1月、決定的な事件が起きる。長徳の変ちょうとくのへんである。定子の兄伊周と弟隆家が、退位した天皇をめぐる事件を起こし、都から遠くへ左遷された。定子は髪を削いで出家した。まだ二十歳前のことである。

の栄華は、あっけなく崩れ落ちた。この時期、清少納言も宮廷を離れ、実家に下がっていたとみられる。それでも彼女は、ふたたび定子のもとへ戻り、仕え続けた。

そして1000年の12月。物語は、冒頭のあの冬にたどり着く。

06それでも、明るく書く

1000年12月15日、定子は三人目の子、媄子びし内親王を産んだ。だが翌16日、産後の病で息を引き取った。一条天皇は深く嘆き、遺骸はへ送られた。清少納言が仕えた約7年の大半は、主君の一族が没落していく年月だった。

それなのに、『枕草子』は明るい。なぜか。

手がかりは、本の終わり近くにある。この本は、定子の兄伊周から賜った紙に書かれた、と記されているのだ。つまり『枕草子』は、定子のそばで生まれた本である。書かれているのは、この社交の場がいちばん輝いていた日々。雪の日の機知、若い后の笑顔、はずんだやりとり。

悲しい出来事を、清少納言はほとんど書かない。書かないことで、主君の明るさだけを永遠に残す。それが彼女なりの忠義だった ― 今ではそう読む人が多い。嘆きに呑まれず、世界の美しいところに目を留めること。その見方を、彼女はという言葉で貫いた。

をかしとは、単なる「面白い」ではない。目に留まったものに、心が軽やかに動くことだ。春の夜明け。夏の夜の蛍。秋の夕暮れに渡る雁(かり)。冬の早朝の炭火。『枕草子』の冒頭「春はあけぼの」は、その眼差しの結晶である。

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

『枕草子』第一段。四季それぞれに、いちばん心の動く時間を挙げた冒頭の書き出し

07考証 ― 生涯・成立・写本・受容

生没年は確定していない。966年頃(康保3年頃)誕生とする説が通説だが、964年頃から968年頃までの幅で諸説ある(1025年頃没とするなら逆算で966年生が整合的だが、複数の歌集の人名注記から推定する方法に依拠するため確定は難しい)。父(908-990頃)は『後撰和歌集』撰者・三十六歌仙。曾祖父清原深養父は『古今和歌集』入集の歌人。母・兄弟についての記録は乏しく、同母の兄弟に為成(ためなり)・戒秀(法師)・致信の存在が断片的に伝わる程度。「清少納言」の女房名は通例、実家の男性親族の官職に由来するが、「少納言」が父・夫・兄のどの官職に由来するかは不明で諸説あり、本名を諾子とする説も史料的確証は弱い。元輔は任地(周防・河内・肥後)へ娘を連れて赴いたとの推測があり(『枕草子』にみえる地方回想から)、出仕前に地方の風物を経験した可能性がある。

婚姻については、初婚の橘則光(歌人、958-1028頃)との間に長男則長(生年982年頃、諸説あり)をもうけた。離別の時期は諸説あるが、『枕草子』中の則光との「同僚」的な会話(「すさまじきもの」段など)は、離別後も交流があったことを示唆する。再婚として藤原棟世(摂津守)との間に小馬命婦(こまのみょうぶ、女流歌人)をもうけたとする説が有力。出仕は正暦4年(993年)前後とする説が現在最も支持され(980年代後半説もある)、966年生とすれば27歳前後の出仕となる。定子(977-1001)は16歳で一条帝に入内したとされ、才気煥発で中関白家の栄華の象徴だった。

中関白家凋落の経緯は以下の通り。長徳元年(995年)4月、関白藤原道隆が病死(飲水病=糖尿病説、享年43)。5月に藤原道兼が関白就任後わずか7日で没し(「七日関白」)、6月にが左大臣・内覧となって政権を握った。長徳2年(996年)1月のでは、伊周・隆家が花山法皇をめぐる事件(従者による花山法皇への矢射など、恋愛問題を絡めた諸説あり)を契機に失脚し、伊周は大宰権帥(だざいごんのそち)に、隆家は出雲権守に左遷、定子は落飾(髪を削いで出家)した。定子は同年12月に修子内親王(しゅうし、後一条帝の姉)を出産。長保2年(1000年)12月15日に媄子内親王(のち周子/しゅうし内親王と名を改める)を出産し、翌16日崩御(享年24、実年齢は25とも)。清少納言は寛弘2年(1005年)前後に宮中を退出したとみられる。

『枕草子』の成立は諸説あるが、長徳〜長保年間(995-1001)に主要部分が書かれ、寛弘初年(1005)前後に最終整理、とする説が有力。成立経緯については、跋文(最終段近くの自註)に「内の大臣の奉り給へりける草子を…」と、から賜った紙に書いたことが記される。形式は随筆(随想・章段)だが、大きく(「山は」「虫は」のように項目を列挙)、(宮廷の出来事の回想)、随想段(「春はあけぼの」のような感想)の三種に分かれる。

類聚章段は、「すさまじきもの」(興ざめなもの)、「うつくしきもの」(かわいらしいもの)、「にくきもの」(腹立たしいもの)、「ありがたきもの」(稀なもの)、「山は」「虫は」「花は」など、項目ごとに具体例を列挙する形式。例えば「うつくしきもの」段は、「瓜に描きたる稚児の顔。雀の子の、ねず鳴きするに、踊り来る。二つ三つばかりなる児の、急ぎて這ひ来る道に…」と続く。抽象的な定義ではなく、例を積み重ねることで輪郭を立ち上げる、清少納言独特の方法である。この列挙の形式は随筆の先駆として独自のもので、後世の兼好『徒然草』、芭蕉の俳文、近代では寺田寅彦・幸田文の随筆まで、日本の随想文学の根底の形を準備した。中核概念「をかし」は、目に留まって心がゆるゆると動く軽やかな感興、しゃれた風情を指し、感傷や嘆きに傾かない眼差しとして、(紫式部の世界)とは異なる平安美学のもう一方の極をなす。

写本は能因本(三巻本系)、堺本(二巻本系)、前田家本、春曙抄本(江戸期注釈)など複数系統があり、章段の数と配列は写本ごとに異なる(現在流布する角川ソフィア版などは三巻本系が多い。「香炉峰の雪」の章段番号が写本系統により異なるのもこのためである)。最終段には「人がこれを読みて嘆かん事こそ恥づかしけれ」と書き手が秘匿を願う跋文があるが、写本として広まったのは成立後早期と見られる。

「香炉峰の雪」の挿話(「雪のいと高う降りたるを」段)は、平安女性が漢籍をどの程度読み書きできたかをめぐる古典的論点の中心にある。表向き、平安貴族女性は漢文を直接読むことを控えるべきとされ、には紫式部が漢籍を読むことを抑える苦労が記される。清少納言は公然と白楽天()の漢詩『香炉峰下 新卜山居 草堂初成 偶題東壁』の「香炉峰雪撥簾看」の一句を応答の隠し元に使うことで、知識を機知として使う平安女房の知的文化を最も鮮明に示した。この才気の見せ方を、紫式部は『紫式部日記』で「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名(まな=漢字)書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」と辛辣に批判した。二人が宮廷で同時に仕えた時期が重なる可能性は低いが(紫式部の出仕は寛弘2〜3年、1005-1006頃、清少納言の退出後の可能性が高い)、清少納言の存在は紫式部のなかで意識の対象であり続けた。紫式部が批判した「したり顔」の書きぶりは、定子の悲運を直接描かない『枕草子』の軽やかさへの違和感とも関係するだろう。しかし清少納言にとって、定子サロンの明るさを書き遺すことが、失われた主君への最大の忠誠だった、と解する読み方が現代には強い。

宮廷退出後(寛弘2年頃、1005年前後、40歳前後)の晩年については、史料がきわめて少なく、複数の後世説話集が不整合な伝承を伝える。(1)阿波説 ― 『古事談』『無名草子』『古本説話集』系の伝承で、再婚相手藤原棟世の任地摂津、あるいは娘小馬命婦の赴任地阿波に下り、その地で没したとする。(2)月輪(つきのわ)説 ― 父清原元輔の菩提寺月輪寺跡(京都東山、泉涌寺近辺)の近くに隠棲したとする口承。(3)鳥辺野説 ― 定子が葬られた鳥辺野(京都東山、古代からの火葬地)近くに庵を結んだとする中世説話。晩年の清少納言を「定子のもとに行かむ」と鳥辺野を彷徨する姿や、「むかしの宮中を恋ふ」歌を詠む老女として描く説話(『無名草子』『今鏡』系)は、後世の文学的脚色が強い。確実なのは、寛仁2年(1018年)前後に娘小馬命婦の歌が他の集に見えること、万寿2年(1025年)前後を没年とする説が『権記』『小右記』の周辺から推測されること程度である。

大切な人を失ったとき、嘆きを書くか、輝いていた日々を書くか。千年前の一人の女房は、後者を選んだ。では、あなたの目は、世界のどこに留まるだろうか。

08主要な出来事と著作

  1. 歌人清原元輔の娘として誕生(諸説あり、964-968の幅)
  2. 橘則光と結婚、長男則長を出産(諸説)
  3. 中宮定子の女房として宮廷に出仕、「清少納言」の女房名を得る
  4. 「香炉峰の雪」の挿話、白詩を踏まえた才気で定子を感嘆させる
  5. 関白藤原道隆死去、中関白家の失勢始まる
  6. 長徳の変、伊周・隆家左遷、定子出家
  7. 12月15日に定子が媄子内親王出産、翌16日に産後の病で崩御(享年24)
  8. 『枕草子』主要部分を執筆、三巻本系と二巻本系に分かれる
  9. 宮廷を退出(正確な時期は諸説)
  10. 娘小馬命婦の歌が勅撰集周辺に見える(在世の傍証)
  11. 没するとされるが確定せず。阿波・摂津・月輪・鳥辺野の諸説あり

残した思想の輪郭

  • をかし ― 目に留まって心が軽やかに動く美意識、もののあはれとは別の平安美学の極
  • 随筆という形式 ― 類聚章段・日記的章段・随想段の三層構造、後世の徒然草・俳文・近代随筆の母胎
  • 列挙の方法 ― 抽象的定義ではなく具体例を連ねて輪郭を立ち上げる書き方
  • 漢籍の女房的使用 ― 「香炉峰の雪」に象徴される白詩・漢籍の機知としての運用
  • 定子への忠 ― 中関白家凋落の悲運を直接描かず、サロンの明るさを遺す仕方での忠誠
  • 『枕草子』 ― 平安中期の宮廷生活を最も鮮やかに伝える、一千年読み継がれる随筆
  • 晩年の諸説 ― 阿波・摂津・月輪・鳥辺野、死後の伝承が後世の説話文学に吸収された
  • 紫式部による批評 ― 『紫式部日記』の辛辣な評言が、二大女流の対比の出発点となる
生没年は諸説あり、没年は1025年頃(万寿2年前後)とする説が有力だが確定しない。晩年は阿波・摂津・月輪・鳥辺野近辺に隠棲したとする諸伝承が残り、父清原元輔の菩提寺である月輪寺跡(京都東山)に縁を求める説、阿波に下向して没したとする『古事談』『無名草子』系の説などが併存する。

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生きた跡を辿るPlaces

清少納言が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 泉涌寺(清少納言歌碑)ゆかり

    京都, 日本

    東山の泉涌寺塔頭・月輪陵近く、清少納言の父・清原元輔ゆかりの地に歌碑が立つ

    地図で見る →確認 2026-04-19

この人が描かれた作品Portrayals

清少納言が登場する、または題材になった作品。 物語で出会った姿から、実際に生きた跡へ。

  • 登場光る君へ

    大河ドラマ / 2024 — ファーストサマーウイカが清少納言を演じる。

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