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風土の知恵

三島由紀夫

Mishima Yukio·1925–1970·日本·

言葉と体は、 一つになれるか?

戦後日本で「文武両道」を体現しようとし、45歳で市ヶ谷に散った二十世紀日本文学の極

  • 金閣寺
  • 文武両道
  • 豊饒の海
戦争で死にそこねた若者たちと、豊かさへ急ぐ戦後日本。そのずれの真ん中に彼は立っていた。 — ひらく

時代の空気

昭和初年に生まれ、戦時下の少年期を学習院で過ごす。1944年冬の徴兵検査で肺浸潤と誤診され即日帰郷となった屈辱は、戦地で散った同世代に対する負い目として刻まれた。敗戦と占領、1947年憲法下に文壇へ出て、1955年前後の戦後派文学興隆を担う。1960年安保闘争で知識人左派が主流化する一方、1964年東京五輪と高度成長のなか、保守側から戦後民主主義への抵抗思想が形を結ぶ。象徴天皇制と自衛隊の曖昧な位置を抱え、1968年全共闘の昂りを背景に楯の会が結成された。1970年大阪万博と高度成長の頂点で、戦後二十五年の節目が訪れる。

01市ヶ谷のバルコニー

1970年11月25日、午前11時ごろの東京・市ヶ谷。陸上自衛隊の東部方面総監部に、一人の作家が現れた。三島由紀夫、45歳。日本で最も名の知られた小説家の一人である。連れているのは、自らつくったら四人の若者だった。

三島たちは、総監の益田兼利を人質にとった。そしてバルコニーに立ち、集まった約千人の自衛隊員へ演説えんぜつを始めた。憲法を変えるために、共に立ち上がれ、という呼びかけだった。演説は約7分間。野次と嘲笑ちょうしょうにかき消され、届かなかった。

三島は総監室に戻り、割腹かっぷくして果てた。その日の朝、彼の最後の長編小説の最終原稿が、出版社に届けられていた。妻にも子にも、この日の計画は知らされていなかった。

なぜ、言葉の頂点に立った作家が、剣で死ななければならなかったのか。その答えを探すには、時を45年前に巻き戻す必要がある。

02祖母の部屋

1925年1月14日、彼は東京の四谷で生まれた。本名は平岡公威ひらおかきみたけ。父の平岡梓は農林省の役人で、のちに水産庁の局長まで務めた。母の倭文重しずえは、漢学者(中国の古典の学者)橋健三の娘である。

生後49日目、公威は祖母のなつ(夏子)の部屋へ連れて行かれた。夏子は、永井岩之丞という公家華族(朝廷に仕えてきた貴族)の家の娘である。身分の低い武士の出だった平岡家に嫁いだ、誇り高い人だった。

「男の子らしく外で遊んではいけない」。夏子は孫を、病弱な少女のように育てた。母の倭文重が母乳をあげに行けるのも、決められた時刻だけだった。この暮らしは12年間続いた。祖母の死後、公威はようやく母のそばで「遅れた少年時代」を過ごす。

閉ざされた部屋で育った少年は、外の世界の代わりに、言葉の世界へ入っていく。

03死にそこねた二十歳

1931年、公威はの初等科に入学した。は、華族(明治以来の貴族)の子どもたちのためにつくられた学校である。公威は秀才として注目された。学校の文芸誌『輔仁会雑誌ほじんかいざっし』に、詩や短歌や散文を次々と発表した。

16歳のとき、国語教師の清水文雄らの同人誌『文藝文化』に「」を発表する。このとき初めて、「三島由紀夫」という筆名が使われた。

1944年、19歳。学習院高等科を首席で卒業し、天皇から銀時計を授かった。同じ年、東京帝国大学(今の東京大学)の法学部に入学する。だが時代は、戦争の末期だった。徴兵ちょうへい検査(兵士にするための検査)では第二乙種合格となった。そして1945年2月、20歳のとき、肺浸潤しんじゅん(肺の病気)と誤診され、その日のうちに家へ帰された。

同じ世代の若者たちは、次々と戦地で死んでいった。自分は、医師の間違いひとつで家に帰された。戦争の末期は工場での勤労動員(学生を工場で働かせる制度)に駆り出され、敗戦のとき20歳だった。

1947年、東大を卒業して大蔵省(今の財務省にあたる役所)に入る。配属は銀行局の国民貯蓄課だった。だが1年足らずの1948年9月に役所を辞め、専業作家の道を選んだ。安定を捨てた23歳は、ペン一本で何者になろうとしていたのか。

04仮面と金閣

1949年、『』を河出書房から刊行する。24歳だった。「仮面」をかぶって生きる青年が、自分の内側をさらけ出す告白の形の小説である。同性への恋心、死と血へのあこがれ、女性を愛せない苦しみ。その率直さは戦後の文壇に衝撃を与え、太宰治のと並べて語られる作品になった。川端康成はこの作品を高く評価し、三島は以後、川端を師と仰いだ。

1954年、『』。ギリシャの古い物語『ダフニスとクロエ』を下敷きに、舞台を伊勢の神島に移した。漁師の若者新治と、海女の娘初江の素朴な恋の物語である。映画にもなり、国民的な人気を得た。

1956年、『』。1950年に実際に起きた、金閣寺の放火事件を素材にした長編である。主人公は、吃音(言葉が思うように出ないこと)に悩む青年僧の溝口。美しさそのものに苦しめられ、ついに金閣に火を放つまでの心が描かれる。この作品で、三島の名は世界にも知られていく。

美は、私にとって仇敵の如きものであった。

『金閣寺』(昭和31年『新潮』連載)

美をたたえるのではない。美を、敵と呼ぶ。この一行を書いた作家は、そのころ、原稿用紙の前ではない場所に通い始めていた。

05肉体をつくり直す

1955年ごろ、30歳の三島はボディビルを始めた。玉利齋らのジムに通い、ダンベルとバーベルで体を鍛え上げた。子どものころ、「病弱な少女のように」育てられた体である。それをつくり直す試みは、まるで少年時代への復讐のように、死の直前まで約15年続いた。

ボクシング、剣道、居合道、空手も習った。1960年代には、上半身裸の写真のモデルにもたびたびなった。写真家細江英公の写真集『』(ばらけい、1963年)は、三島の肉体美を芸術写真として残している。

「文武両道」。学問と武芸、その両方の道。三島はこの言葉を好んだ。ペンと剣、言葉と肉体を一つにすること。それが、この後の生涯を貫く目標になっていく。1968年のエッセイ『』では、頭で考えるだけだった自分が肉体を取り戻していく道のりを綴った。

1958年、33歳で杉山瑤子と結婚し、長女紀子と長男威一郎を授かった。家族との生活、執筆、体の鍛錬。三つを並行する、異様な密度の日々が続いた。鍛え上げたその体で、三島はどこへ向かおうとしていたのか。

06天皇と、楯の会

1959年、長編『』を刊行する。戦後のけだるさを、画家・ボクサー・俳優・実業家の四人の青年に託した野心作だった。だが批評家の評判は冷たく、三島自身も挫折として受け止めた。このころから、三島の政治的な立場がはっきりしてくる。

1961年、短編『』。1936年の(青年将校たちが起こした反乱)を題材にした作品である。命令を受けないまま反乱から取り残された武山中尉夫婦が、切腹して死ぬまでを細部まで描いた。のちに三島自身が脚本と主演で映画にもしている(1966年)。

1966年の中編『』では、二・二六の青年将校と特攻隊員の霊が語る。「などてすめろぎは人間となりたまひし」――なぜ天皇は人間になってしまわれたのか。戦後、天皇が「人間宣言」で自ら神であることを否定した。この作品は、それへの正面からの抗議だった。

1968年、評論『』を雑誌『中央公論』七月号に発表する。天皇を、政治の仕組みとしてではなく、日本の文化を守り続ける中心として考える論である。同じ年の10月、(たてのかい)を結成した。大学生や社会人からなる民間の組織で、自衛隊の富士学校で定期訓練を受けた。三島自身も前年の1967年、42歳で陸上自衛隊富士学校に44日間の体験入隊をしている(マスコミは「自衛隊入隊」と呼んだが、厳密には体験入隊である)。

作家が、私兵(自分のための兵)を持った。残るのは、最後の長編と、最後の日だけだった。

07最後の長編『豊饒の海』

1965年、40歳の三島は、生涯最後の大長編『』四部作を書き始めた。第一巻『春の雪』は、大正の初め、華族の令嬢との恋。第二巻『奔馬』は、昭和の初め、昭和維新運動に身を投じる青年将校。第三巻『暁の寺』は、戦後のタイの王女。第四巻『天人五衰』は、現代の孤児の少年。生まれ変わり(転生)を通じて、同じ魂が四度あらわれるという構想である。

四度の生まれ変わりを見届けるのは、本多繁邦という弁護士(のちに元判事)である。『豊饒の海』は、「最後の長編」というはっきりした自覚のもとに書かれた。その執筆と並行して、の活動と自衛隊での訓練が進んでいた。

1970年11月25日の朝。第四巻『天人五衰』の最終原稿が、新潮社の編集者小島千加子のもとへ届けられた。第一巻『春の雪』から5年半。四部作は、最後の最後まで書き上げられていた。そしてその日の昼、三島は市ヶ谷に立っていた。

08ふたたび市ヶ谷 ― 文と武の果て

物語は、冒頭の場面 ― のちにと呼ばれる一日 ― に戻る。1970年11月25日、三島は森田必勝・古賀浩靖・小賀正義・小川正洋の四人を率いて市ヶ谷に向かい、総監益田兼利を人質に、バルコニーから改憲決起を呼びかけた。演説は約7分で野次と嘲笑に途絶え、三島は総監室で割腹した。介錯かいしゃくに当たった森田必勝の刀は首を落とせず、古賀浩靖が最後の一刀で介錯を完了した。三島45歳。森田必勝も続いて同じく割腹し、古賀が介錯した。25歳。古賀・小賀・小川は投降し、のち反乱・殺人予備などで有罪判決を受けた()。

この死の「なぜ」に、単一の答えはない。だが45年の生涯には、いくつもの糸が走っている。第一に、戦争を生き延びたことの意味である。同世代の青年が次々と戦地に散っていくなか、医師の誤診のひと言で帰された20歳は、数年後の短編「中世」や『』で、死に損ねた者の位置から繰り返し書き出すことになる。「生き残った者」の負い目は、本人が生涯そうと認めたわけではないが、戦後の作品の多くが戦中を生き延びたことの意味を問い直す構えで立ち上がっていく。

第二に、幼年期である。12年間の祖母との同居と、祖母の死後の母の側での「遅れた少年時代」が、公威の感受性を特異に形作った。自伝的小説でこの幼年期が克明に描かれる。なお作中で開示される性的指向は語り手「私」のものであり、平岡公威自身が生前に同性愛者であると公に表明した記録は限定的にとどまる ― この距離をどう読むかは、作品史の問いとして開かれている。

第三に、美の問題である。では「美は、私にとって仇敵の如きものであった」の一行に凝縮されるように、美と憎悪、破壊と救済の逆説が追究された。

美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ。

『金閣寺』で、主人公の溝口が美への敵意を口にする言葉(要旨訳)

第四に、天皇である。『』は経済中心主義を痛烈に批判し、政治制度ではなく日本文化の連続性を保証するものとして「」を擁護した。三島のが最も体系的に示された論考である。における戦後の象徴天皇制と人間宣言への抗議、楯の会という私兵組織による政治的実践は、この思想と地続きにある。

そして「文武両道」。ペンと剣、言葉と肉体を一つに統合する営みは、ボディビル以後の生涯を貫く枠組みだった。『』は、観念から始まった自分が肉体を獲得し直す過程を、筋肉と言葉の対話として綴っている。『豊饒の海』の執筆と並行して楯の会の活動と自衛隊訓練が進む ― 文武を一つに接合する実験そのものが、四部作の裏側にあった。その実験の終点が、原稿の完成と決起を同じ朝に置いた11月25日だった。

妻瑤子と長女紀子・長男威一郎は、当日の決行を事前に知らされていなかった。本名平岡公威ではなく、「三島由紀夫」として死を選んだ45年の生だった。

言葉の頂点に立った人が、なぜ最後に、体で語ろうとしたのか。冒頭のこの問いに、いまのあなたなら、どう答えるだろうか。そして ― 言葉と体は、一つになれるのだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. 東京四谷に誕生(本名平岡公威)。生後49日目から祖母夏子の部屋で育てられる
  2. 16歳、学習院中等科で『花ざかりの森』、筆名「三島由紀夫」始まる
  3. 学習院高等科首席卒業、天皇から銀時計を賜る。東大法学部入学
  4. 2月、徴兵検査で肺浸潤と誤診され即日帰郷。8月、敗戦時20歳
  5. 東大卒業、大蔵省入省、1年足らずで退官して専業作家へ
  6. 『仮面の告白』刊行、文壇的地位を確立
  7. 『潮騒』発表、映画化で国民的人気
  8. ボディビル開始、以後15年の身体鍛錬の時期
  9. 『金閣寺』発表
  10. 瑤子と結婚、のち長女紀子・長男威一郎を授かる
  11. 『鏡子の家』刊行、批評は冷淡だった
  12. 『憂国』発表、二・二六事件の切腹の美学
  13. 細江英公『薔薇刑』出版
  14. 『豊饒の海』四部作連載・執筆
  15. 『英霊の聲』発表。同年『憂国』を自身の脚本・主演で映画化
  16. 陸上自衛隊富士学校に44日間体験入隊
  17. 『文化防衛論』『太陽と鉄』発表、楯の会結成
  18. 11月25日朝『天人五衰』最終原稿を新潮社へ送付。同日昼、市ヶ谷自衛隊東部方面総監部で演説後に割腹。森田必勝の介錯は成功せず、古賀浩靖が完了。享年45

残した思想の輪郭

  • 文武両道 ― ペンと剣、言葉と肉体を一つに接合しようとした30年の試み
  • 仮面の告白 ― 戦後文学に自己暴露の一つの頂点を据えた『仮面の告白』
  • 美と破壊 ― 『金閣寺』に結晶した、美そのものへの憎悪と破壊の逆説
  • 身体改造 ― 15年にわたるボディビル・剣道・空手、「病弱な少年」への復讐としての肉体の鍛錬
  • と楯の会 ― 「文化概念としての天皇」を中心に据えた戦後批判、私兵組織による政治的実践
  • 市ヶ谷の自決 ― 45歳、演説と割腹を一続きに遂げた、日本近代文学史で最も異常な死
昭和45年(1970年)11月25日、東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で演説後に割腹。森田必勝の介錯は成功せず、古賀浩靖が介錯を完了。45歳。

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三島由紀夫の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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三島由紀夫が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 多磨霊園(三島由紀夫墓所)墓所

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    平岡家墓所に眠る三島由紀夫

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  • 山中湖文学の森 三島由紀夫文学館記念館

    山中湖, 日本

    山中湖村立の文学館、三島の自筆原稿・書簡・蔵書を収蔵

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