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風土の知恵

川端康成

Kawabata Yasunari·1899–1972·日本·

なぜ彼は、 ひとことも残さずに去ったのか?

孤児の子が雪国と古都に美を見出し、日本人初のノーベル文学賞に至った『川端康成』

  • 雪国
  • 新感覚派
  • ノーベル文学賞
地震で焼けた東京から、若い作家たちが新しい書き方を探し始めた時代。 — ひらく

時代の空気

大正末の1924年、関東大震災後の空気の中で横光利一・川端康成らが『文藝時代』を創刊し、自然主義とプロレタリア文学に抗う新感覚派が胎動した。昭和戦前の中央集権化と検閲のもと、川端は1934-37年に越後湯沢の温泉と芸者の世界で『雪国』を書き継ぐ。敗戦時46歳の「私は死んだ気持ち」から戦後が始まり、1948年から17年間日本ペンクラブ会長を務めた。1968年のノーベル文学賞は日本人初、サイデンステッカー訳が大きく寄与した。1970年11月25日の三島由紀夫自決の翌日には葬儀委員長を務め、1972年4月16日、逗子マリーナの仕事部屋でガス管を咥えた姿で発見される。

01遺書のない部屋

1972年4月16日の夕方。神奈川県逗子市の、逗子マリーナというマンション。その一室の仕事部屋で、一人の老作家が死んでいるのが見つかった。ガス管を口に咥えたくわえた姿だった。72歳。名は、川端康成という。

3年半前、彼は日本人として初めてを受けていた。を書いた、日本文学の頂点に立つ人である。しかし、遺書はなかった。直前の3日ほどは、ほとんど何も食べていなかったと伝わる。

一般には、ガスによる自殺と受け止められた。だが妻の秀子は「事故である」と言い続けた。本人は、何も語らないまま逝ってしまった。すべてを手にしたはずの作家は、なぜひとことも残さずに去ったのか。

その問いに近づくには、彼の始まりまで戻らなければならない。時は73年前。大阪の、ある医者の家である。

02失うことから始まった

1899年6月、川端康成は大阪市の医師の家に生まれた。父は栄吉、母はゲン。一つ上に姉の芳子がいた。代々続く、医者の家系だった。

しかし、この家はすぐに壊れていく。康成が2歳のとき、父が結核(当時は治すのが難しかった肺の病気)で死んだ。翌年、母も同じ病で亡くなる。康成は大阪の茨木いばらきのあたり、祖父母の家に引き取られた。

不幸は止まらなかった。7歳で祖母を失った。小学4年の頃には、離れて育っていた姉の芳子も亡くなる。そして15歳のとき、最後に残った祖父も死んだ。家族は、一人もいなくなった。

のちに康成は、自分の心の芯を「孤児みなしご根性」と呼んだ。家族を次々に失った子どもだけが持つ、独特の心のかたちである。祖父の死後は叔父の家に引き取られ、茨木の中学に通った。家も家族も持たない少年に残されたのは、本と言葉だけだった。その言葉が、やがて彼を東京へ連れて行く。

03伊豆の道、破られた約束

1917年、18歳の康成は東京の第一高等学校に入った。全国から秀才が集まる学校である。寮で暮らしながら、彼は書き始めていた。

翌1918年の秋、19歳の彼は一人で伊豆を旅する。修善寺から湯ヶ島へ、天城峠を越えて下田まで歩いた。その道中で、旅芸人の一座と連れ立つことになる。一座にいた14歳の踊子に、彼は淡い想いを抱いた。この旅の記憶が、8年後に一冊の小説になる。

1920年、東京帝国大学に入学した。学生のうちから新進作家として名を知られ、(雑誌を作った作家)に認められる。1923年の『文藝春秋』創刊にも関わった。

だが、この頃の彼には深い傷もできた。22歳のとき、浅草の茶店で働く16歳の伊藤初代と婚約する。ところが数ヶ月後、初代の側から一方的に取り消された。またしても、大切なものが目の前から消えた。この傷は、生涯の創作に影を落としていく。

04新しい感覚 ― 『文藝時代』の仲間たち

1924年10月、25歳の康成は仲間と雑誌を創刊した。中心には(の顔となる作家)がいた。集まった書き手は14名。彼らは「新感覚派」と呼ばれるようになる。

当時の文学には、二つの大きな流れがあった。ありのままの現実を書く自然主義と、働く人々の闘いを描くプロレタリア文学である。新感覚派は、その両方に逆らった。理屈より先に、感覚そのものを言葉にしようとしたのだ。都会的で、実験的な文章の運動だった。

川端はこの運動の理論を支える一人でもあった。だが彼自身の小説は、実験よりも静かな方向へ進む。少女への眼差しと、失うことの感覚。それを澄んだ文体で書きとめる道である。1926年、伊豆の旅をもとにしたを『文藝時代』に発表した。同じ年、松林秀子と結婚する。

その後も『浅草紅団』などを発表し、彼は昭和の文壇の中心に立った。家具や古美術を集める趣味を持ち、目利きめききとしても知られた。そして次に彼が向かったのは、雪深い温泉の町だった。

05『雪国』 ― 13年がかりの一冊

1935年1月、雑誌『文藝春秋』に「夕景色の鏡」という作品が載った。これが、のちの『雪国』の冒頭になる。川端は35歳だった。以後、いくつもの雑誌に、少しずつ章を書き足していく。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

『雪国』冒頭。1935年に「夕景色の鏡」として発表され、日本文学で最も知られた書き出しの一つになった

舞台は、越後湯沢の温泉町である。東京から来た島村が、芸者の駒子と、肺を病む娘の葉子に出会う。筋書きらしい筋書きはない。雪と、むなしさと、美しさが静かに絡み合っていく。1937年に最初の単行本が出たが、川端は書き足しをやめなかった。決定版が完成したのは1948年。実に13年がかりの一冊だった。

その完成の3年前、日本は戦争に敗れている。46歳の川端は、そのとき「私は死んだ気持ちでいる」と記した。彼の戦後は、この言葉から始まる。

06死んだ気持ちで書く

敗戦のあと、川端は戦争で死んだ人々の魂を背負うつもりで書くと決めた。日本の古典を深く読み直し、そこから四つの長編に向かっていく。『雪国』以来の静かな喪失感は、かたちを変えて現れた。

1949年、の連載が始まった(完結は1954年)。鎌倉に住む62歳の信吾が主人公である。息子の嫁の菊子に心惹かれながら、老いと死の気配を受け止めていく。戦後の日本の家庭が静かに崩れていく様子を描き、第1回野間文芸賞を受けた。

同じ頃に書かれたの舞台は、茶道の世界である。父の愛人だった女、その娘、そして自分の妻となる娘。禁じられた関係と美しさが、茶碗を挟んで連鎖していく。

1960年からのは、さらに際どい場所へ進んだ。眠らされた若い女の傍らで、老人が一夜を過ごす宿の物語である。死と性と記憶が鋭く交わる、晩年の代表作となった。1961年からの『古都』では、京都で生き別れた双子の姉妹、千重子と苗子を描いた。祇園祭や北山杉など、京都の四季が精密に織り込まれている。これらの作品は、やがて翻訳されて海を越える。スウェーデンからの知らせは、すぐそこまで来ていた。

07世界が見つけた日本の美

1968年10月17日、知らせが届いた。ノーベル文学賞である。日本人では初めて、アジアでもタゴール(インドの詩人)以来2人目の受賞だった。対象作は『雪国』『千羽鶴』『古都』とされた。

この受賞には、影の立役者がいた。エドワード・G・というアメリカの翻訳家である。彼の英訳が、川端の文章の繊細さを世界に伝えた。川端は賞金の半分をサイデンステッカーに贈ったと伝わる。

12月、ストックホルムの授賞式のあと、川端は記念の受賞講演じゅしょうこうえんを行った。題は『 ― その序説』。「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷えしろく」。道元(鎌倉時代の禅の僧)の歌を引きながら、西行や一休など、日本の美の伝統を語った。

川端は、文壇の世話役でもあった。1948年から17年間、の会長を務めた。の選考委員も、第1回から死の年まで続けている。中でも大きいのは、三島由紀夫を世に出したことだ。1946年、まだ無名だった三島の『煙草』に推薦すいせん文を寄せ、雑誌への掲載を後押しした。三島はその後、などで時代を代表する作家となり、川端を師と仰ぎ続けた。その三島との絆が、2年後、突然断ち切られる。

08ふたつの死

1970年11月25日、三島由紀夫が東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決した。川端のノーベル賞受賞のときには、推薦文を記したとされる弟子である。知らせを受けた川端の衝撃は深かった。翌日の告別式こくべつしき弔辞ちょうじ(別れの言葉)を読み、のちに葬儀委員長そうぎいいんちょうを務めた。「三島君の死は私の心にも空洞を残した」。周囲には、そう語ったと伝えられる。

そして1972年4月16日の夕方。物語は、冒頭の逗子マリーナに戻る。ガス管を咥えた姿。遺書のない部屋。3日近い絶食。世間の言う自殺と、妻の言う事故。川端自身は何も説明しないまま、72年の生涯を閉じた。

墓は鎌倉にある。戒名かいみょう(死後に贈られる仏教の名)には「孤山」の二文字が入った。川端自身が好んで使った号で、孤児根性と雪の山を重ねた名である。2歳で父を失った日から、彼はずっと何かを失い続けてきた。その果てに見出したものを、彼は「美しい日本」と呼んだのだった。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった

『雪国』冒頭。作者が世を去ったあとも、この一行だけは失われずに読み継がれている

では、その美しさは、彼を救ったのだろうか。答えを書いた紙は、どこにもない。残されたのは、彼の書いた静かな文章だけである。

09考証 ― 孤児根性から「美しい日本」まで

出自と孤児根性の形成。川端は1899年6月11日(戸籍は6月14日届)、大阪市北区此花町1丁目(現大阪市北区天神橋1丁目)の医師川端栄吉と妻ゲンの長男として生まれ、康成の名は祖父三八郎の兄から取られた。2歳で父、3歳で母を結核で失い、7歳で祖母、小学4年頃に姉芳子、15歳で祖父を亡くす連鎖的な家族喪失が、「孤児根性」と自称する独特の心理の核を形成した。育ったのは大阪府三島郡豊川村(現茨木市)で、豊川小学校、大阪府立茨木中学校に学んだ。

新感覚派の理論と実作の距離。『文藝時代』(1924年10月創刊、金星堂、1927年5月に全32冊で終刊)は、プロレタリア文学と自然主義の双方に対抗する前衛運動の拠点だった。川端は『新進作家の新傾向解説』(1925年)などで主知的な批評を展開した理論家だが、彼自身の創作は派の実験性よりも、少女への眼差しと喪失の感覚を静かな文体で定着させる方向に向かった。東京帝国大学では英文学科に入学し、翌年国文学科に転科しており、古典への沈潜は早くから始まっている。

『雪国』の成立史。1935年1月『文藝春秋』の「夕景色の鏡」を起点に、『改造』『日本評論』『中央公論』『文藝春秋』などに断続的に章を発表し、1937年6月に初版刊行。1947年にさらに「雪中火事」を加え、1948年12月の決定版『雪国』(創元社)で完結した。プロットよりも感覚、行為よりも印象。以来の日本的叙情と、新感覚派の感覚実験が、雪国の白い舞台で静かに融合した。

戦後作品の系譜。『山の音』は戦後日本家庭の微細な崩壊を山鳴りと夢と自然のモチーフで描き、第1回野間文芸賞を受けた。『千羽鶴』では茶碗・水指・茶杓に込められた「もののけ」のような美学が物語の底を流れる。『眠れる美女』はのちにガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』の題辞となり、『古都』は「古都」という語そのものを戦後京都の代名詞として広めた。

『美しい日本の私』とその応答。1968年の受賞理由は「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現した」。サイデンステッカー(1921-2007)の英訳が決定的な寄与をなした。受賞講演は道元の歌を引きつつ、西行、明恵、一休、良寛と禅と和歌の伝統を語り、川端の美学の総括として日本語と英訳の双方で広く読み継がれる。1994年にが『あいまいな日本の私』と題したノーベル賞記念講演を行ったのは、川端への応答と差異化を意識した命名だった。

文壇の門番として。日本ペンクラブ会長は1948年から1965年まで17年間務め、1957年には東京国際ペン大会を主宰した。芥川賞選考委員は1935年の第1回から1972年の自死まで務め、全67回中38回に出席。菊池寛の後押しで文壇入りした若き日の縁を返すように、戦後は現代日本文学の門番となった。三島由紀夫については、1946年『人間』6月号への『煙草』掲載にあたり推薦文を寄せ、1949年の長編『仮面の告白』(河出書房)も舞台裏で支えている。

死の両論。1972年4月16日夕刻の死は遺書がなく、一般にはガスによる自殺とされるが、妻の秀子は「事故である」と主張し、事故説も残された。直前の約72時間は絶食に近い状態だったと伝わる。事実関係は川端自身の沈黙とともに、今も両論のまま歴史に残る。墓は鎌倉霊園にあり、戒名は「文鏡院殿孤山康成大居士」。失うことから始まり、美に行き着いた72年の生涯 ― その美が彼自身を救ったのかどうか。その問いだけが、読む者の手に残される。

10主要な出来事と著作

  1. 大阪市北区此花町に誕生。医師川端栄吉の長男
  2. 父母祖父母姉を相次いで失い、「孤児根性」を自称
  3. 第一高等学校、東京帝国大学入学
  4. 伊豆を一人旅、後の『伊豆の踊子』の原体験
  5. 『文藝時代』創刊、新感覚派運動に参加
  6. 『伊豆の踊子』発表、松林秀子と結婚
  7. 第1回芥川賞選考委員就任(以後1972年まで)
  8. 『雪国』を13年がかりで完成(決定版1948年)
  9. 三島由紀夫の『煙草』を推薦、文壇への道を開く
  10. 日本ペンクラブ第4代会長(17年)
  11. 『山の音』連載(第1回野間文芸賞)
  12. 『千羽鶴』
  13. 東京国際ペン大会を主宰
  14. 『眠れる美女』連載
  15. 『古都』連載
  16. ノーベル文学賞受賞、日本人初。『美しい日本の私』を講演
  17. 三島由紀夫の自決に衝撃、告別式で弔辞・葬儀委員長
  18. 4月16日、逗子マリーナの仕事部屋でガス管を咥えた状態で死亡。享年72(通説はガス自殺、妻は事故説)

残した思想の輪郭

  • 孤児根性 ― 幼年期の連鎖的家族喪失が作品の底流を作った、「生きていて済まない」感覚
  • 新感覚派の感覚 ― プロレタリア文学と自然主義の両方を越える感覚的・実験的散文の追求
  • 雪と白の美学 ― 『雪国』に結晶した、感覚と虚無と美の三重奏
  • 戦後日本家庭の崩れ ― 『山の音』『千羽鶴』に描かれた老いと禁忌と茶道の美
  • 老いの眼差し ― 『眠れる美女』で死と性と記憶を鋭く交差させた晩年の手つき
  • 美しい日本の私 ― ノーベル賞記念講演で提示した、道元・西行・一休に連なる日本的美の系譜
  • 文壇の門番 ― 日本ペンクラブ会長と芥川賞選考委員として、三島由紀夫らの登場を支えた戦後文学界の中心
  • ガスによる死 ― 逗子マリーナでの死は通説ではガス自殺、遺書はなく事故説も残り、本人の沈黙とともに両論のまま歴史に残された
昭和47年(1972年)4月16日、逗子マリーナのマンションでガス管を咥えた状態で死去。72歳。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

川端康成の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

川端康成が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

さらに辿るならExternal References

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