空海(弘法大師)
唐の密教の頂点は、なぜ 日本から来た無名の僧を「待っていた」のか?
長安で恵果から密教を受法し、即身成仏を説いた真言宗の開祖、高野山の大師
- 真言
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遣唐使の船が命がけだった、平安はじめの日本 — ひらく
時代の空気
平安遷都(794年)前後、桓武・嵯峨朝が律令体制と仏教を国家の柱に据え直していた時期。地方郡司の子は大学寮で儒学を修めて官吏となる道が標準で、空海もその軌道を一度は歩んだ。延暦23年(804年)の遣唐使船は最澄も同船し、長安は青龍寺の恵果を頂点に密教の正統が伝持されていた。帰国後の弘仁年間、嵯峨天皇は唐風文化と新仏教を積極的に容れ、高雄山寺・東寺の付嘱や満濃池修築の国家動員を可能にした。
01「ずっと待っていた」
805年、初夏の長安。師から弟子へ、儀式と修行を通してだけ手渡される秘密の教え ― という。唐の都でその頂点に立つ老師、恵果のもとを、一人の外国人僧が訪ねた。日本から来た、31歳の無名の留学僧である。名を空海といった。
は千人を超える弟子を抱えていたと伝わる。その老師が、初対面の外国人にこう言ったと空海自身が書き残している。「我先よりして汝が来たるを知り、相待つこと久し」。私は前からあなたが来ることを知っていて、ずっと待っていた ― という意味だ。
恵果はその年の暮れに亡くなる。自分の命が長くないことを、彼は知っていたのかもしれない。老師は、会ったばかりのこの外国人に、わずか3ヶ月で密教の正統のすべてを渡した。
なぜこの人だったのか。話は31年前、讃岐の海辺の村から始まる。
02エリートの道を捨てた子
774年、讃岐国多度郡(現在の香川県善通寺市)に生まれた。幼い名は真魚(まお)。父は郡司(郡の首長)で、地方の有力者の家だった。
15歳で都に上り、18歳で大学寮に入った。国家の官僚を育てる、当時の最高学府である。地方の有力者の子が出世する、いちばん確かな道だった。だが真魚は、ほどなく大学をやめてしまう。
きっかけは、一人の修行僧との出会いだったと本人が書いている。僧から授かったのは(こくうぞうぐもんじほう)。星をしながら、決まった言葉を百万回唱える修行だ。青年は都を出て、阿波の山や土佐の室戸岬でこの行に打ち込んだ。室戸の洞窟で夜通し唱えていると、明星が口に飛び込んできた ― という有名な逸話がある。ただしこれは、後の時代の伝承として広まったものとされる。本人が書いたのは「明星来影」の四文字だけである。
24歳で『三教指帰』を書いた。儒教・仏教・道教を登場人物にして戦わせ、仏教が勝つ、という戯曲仕立ての本だ。エリートコースを捨てた自分への、宣言の書でもあった。そこから約7年、彼の足取りは記録から消える。次に姿を現すのは、唐へ渡る船の上である。
03嵐の船、3ヶ月の継承
804年7月、31歳の空海は船に乗った。船は嵐で34日間漂流し、予定から大きく外れた中国南部の海岸に流れ着いた。地元の役人は、ぼろぼろの一行を海賊ではないかと疑い、上陸を許さなかった。
このとき、使節団を救ったのが空海の筆である。彼が代わりに書いた漢文の嘆願書は、役人の目の色を変えた。一行は正式な使節と認められ、長安への道が開けた。無名の留学僧の文章力が、国家の使節団を通したのである。
年末に長安へ着き、翌805年5月、空海は青龍寺の恵果の門を叩いた。そこからの3ヶ月は、密教の歴史でも異例の速さで進む。6月に、7月に ― 密教の二つの系統それぞれの(かんじょう、法を授ける儀式)を受けた。8月には伝法阿闍梨位、つまり密教の正統な後継者の資格を受けた。恵果はその12月に没し、空海は弟子を代表して碑文を書いた。
予定では20年の留学だった。空海は2年で戻る。膨大な経典とと法具を船に積んで。
虚しく往きて実ちて帰る
からっぽで行き、満ちて帰ってきた ― 帰国報告書『御請来目録』の一句である。ただし持ち帰った教えの核心は、当時の日本の仏教の常識に、真っ向からぶつかるものだった。
04断られた一通 ― 最澄との訣別
帰国した空海を待っていたのは、歓迎ではなかった。20年の予定を2年で切り上げた違反者として、都に入ることを許されず、九州で数年を過ごした。転機は809年、嵯峨天皇の即位である。新しい天皇は空海の才を認め、都への道が開いた。
812年、高雄山寺(現在の神護寺)で空海は灌頂の儀式を行なった。受けに来た人々のなかに、最澄がいた。の開祖であり、同じ遣唐使船団で唐に渡った、7歳年上の高僧である。当時の仏教界の第一人者が、年下の空海から法を受けた。
だが二人の関係は、一通の手紙で壊れる。813年、最澄は密教の経典『理趣釈経』を貸してほしいと空海に頼んだ。空海は断った。密教は書物を読んで分かるものではなく、師から弟子へ、身体の修行を通してしか渡せない ― それが断りの理由だったと伝わる。本を貸す貸さないの話に見えて、「学問はどう受け継がれるべきか」という方法をめぐる、二人の根本的な分岐だった。816年、最澄の高弟が空海のもとに留まって山に帰らず、訣別は決定的になる。
同じ816年、空海はを開くを得た。標高800メートルの山上盆地に、修行のための都市を建て始める。823年にはを授かった。都の根本道場と山の修行道場 ― 真言宗の骨格が、ここで揃った。では、彼が生涯かけて説いた教えの中身は、何だったのか。
05即身成仏 ― この身のままで
空海の思想の核心は即身成仏である。当時の仏教の主流()は、悟りにはという気の遠くなる時間を要すると説いた。何度も生まれ変わり、途方もない修行を重ねて、ようやく仏になる。密教はこれに対し、この身このままで、この一生のうちに仏になれると主張する。
根拠は六大・四曼・三密の体系である。六大は地・水・火・風・空・識の六つの根本要素で、宇宙と我が身は同じ六大から成る。四種の曼荼羅が宇宙の相の全体を示す。そして三密(身密・口密・意密)は、修行者が印を結び(身)、真言を唱え(口)、観想する(意)ことで、の三密と感応する。本尊の動き、言葉、心と、修行者の動き、言葉、心が一つとなれば、この身のまま本尊と一体化し成仏する ― これが三密加持の論理である。
空海は『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』(三部作)、『秘密曼荼羅十住心論』(十段階の心の昇華論)、『弁顕密二教論』(顕教と密教の体系的比較)で、この密教の哲学を漢文で著述した。日本語ではなく、漢文で宇宙論と解脱論の体系書を書き上げた筆力は、語学的にも哲学的にも、並ぶものの少ない業績である。
六大は無礙にして常に瑜伽なり。四種曼荼各々離れず。
06ため池と学校と筆
思想家としての著述の一方で、空海の仕事は山の外にも広がった。821年、故郷讃岐の(まんのういけ)の修築を指揮した。当時最大級の灌漑用ため池が決壊したまま放置されていたのを、短期間で直した。宗教家が土木の現場監督を務めた記録である。
828年には京都に(しゅげいしゅちいん)を開いた。身分を問わず誰でも学べる、日本最初の私立学校とされる。経営は空海の没後に行き詰まって閉じたが、「誰もが学べる場」という発想は日本の教育史の先駆けになった。
書の名手でもあった。嵯峨天皇・橘逸勢と並ぶ「」の一人で、最澄に宛てた手紙は国宝、日本書道史の頂点とされる。「弘法筆を選ばず」という諺は後世の作で、むしろ空海は筆をよく選んだ、という逸話のほうが残っている。
生涯の最後に、彼はもうひとつ、誰もしなかったことをする。自分の死の日付を、あらかじめ告げたのである。
07終わらぬ禅定
834年、61歳の空海は病を押して宮中で国家安泰の修法を執り行ない、以後の朝廷の年中行事として定着させた。そして翌835年3月21日に高野山で入定する、と自らの終わりを予告し、穀物を断ち、水を断った。
予告どおり、835年3月21日の明け方、空海は高野山奥の院で没した。62歳。真言宗の伝承では、これは死ではない。 ― 深い禅定に入ったまま、今も生き続けているとされる。86年後の921年、弘法大師の名が贈られたとき、勅使が御廟の扉を開くと、空海は禅定の姿のまま端坐していた ― と諸伝は記す。
この入定信仰は千年続いた。高野山奥之院では今日も朝夕、空海に食事を運ぶ「生身供(しょうじんぐ)」の儀礼が続けられている。1200年前に「この身のままで仏になれる」と説いた人は、伝承のなかで、いまもこの身のまま座り続けている。教えと伝承がここまで一致した宗教者は、ほとんど例がない。
四国八十八箇所を歩く遍路が笠に書く「同行二人」の二人目は、空海である。あなたがもし、遠い完成を待たずにこの身のままで変わりたいと願うなら ― その願いに1200年前に形を与えた人が、ここにいる。
08主要な出来事と著作
- 讃岐国多度郡に生まれる。幼名真魚、佐伯家の子
- 15歳で上京、叔父阿刀大足のもとで儒学・漢学を学ぶ
- 18歳、大学寮明経科に入学するもほどなく中退
- 阿波の大滝嶽・土佐の室戸岬で虚空蔵求聞持法を修行
- 24歳、『三教指帰』(旧題『聾瞽指帰』)を著す
- 31歳、遣唐使船で入唐。肥前を発ち福州に漂着、長安へ
- 長安青龍寺で恵果阿闍梨から胎蔵界・金剛界の灌頂と伝法阿闍梨位を受ける
- 帰国、博多着。『御請来目録』を朝廷に提出
- 嵯峨天皇即位で入京が認められる
- 高雄山寺で金胎両部の灌頂、最澄らに灌頂を授ける(結縁・受法の灌頂)
- 高野山の開創を嵯峨天皇から勅許される
- 讃岐満濃池の修築を指揮
- 嵯峨天皇から東寺(教王護国寺)を給預される(真言の道場として付嘱)
- 『即身成仏義』『秘密曼荼羅十住心論』『弁顕密二教論』等を著述
- 京都九条に綜芸種智院を開く
- 宮中で真言院御修法(後七日御修法)を執行
- 3月21日寅の刻、高野山奥の院で入定。数え62(満61)
- 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる
残した思想の輪郭
- ― この身このままで成仏する、顕教の三大阿僧祇劫を超える密教の到達点
- 六大・四曼・三密 ― 宇宙と身体の共通構造と、身口意の感応による成仏の論理
- 十住心 ― 『十住心論』で異教から密教までの心の十段階を体系化
- ― 恵果から正統を受法し、日本に根付かせた宗派の開祖
- 高野山と東寺 ― 修行道場と根本道場の二極体制、現代まで続く真言宗の骨格
- 三筆の一人 ― 嵯峨天皇・橘逸勢と並ぶ平安三筆、『風信帖』は書道史の頂点
- 社会事業 ― 満濃池の修築と綜芸種智院、宗教家の技術と民衆教育の実践
- 入定信仰 ― 死ではなく禅定に入り続けるという伝承が、千年の民衆信仰を支える
つながり
- 最澄(伝教大師)
対比 — 同じ船団で唐へ渡った二人は、経典の借覧拒否を経て、やがて袂を分かった。
- ナーガールジュナ(龍樹)
先駆 — 空海が真言付法の祖師と仰いだ人。即身成仏の土台には「空」の論理がある。
- 南方熊楠
共鳴 — のちの紀州で、曼荼羅を粘菌と民俗の学に重ねた博物学者がいる。
さらに読むならFurther Reading
空海(弘法大師)の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
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生きた跡を辿るPlaces
空海(弘法大師)が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 高野山奥之院墓所
高野町, 日本
空海が入定したとされる御廟、真言密教の聖地、世界遺産
- 東寺所属
京都, 日本
嵯峨天皇から空海に下賜された真言密教の根本道場、世界遺産
- 善通寺生誕
善通寺, 日本
空海誕生の地に建つ四国霊場総本山、生誕院を擁する
さらに辿るならExternal References
空海(弘法大師)を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「空海」項
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空海が開いた高野山真言宗の総本山