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宗教的思索

空海(弘法大師)

Kūkai·774–835·日本·

唐の密教の頂点は、なぜ 日本から来た無名の僧を「待っていた」のか?

長安で恵果から密教を受法し、即身成仏を説いた真言宗の開祖、高野山の大師

  • 真言
  • 即身成仏
  • 密教
  • 高野山
遣唐使の船が命がけだった、平安はじめの日本 — ひらく

時代の空気

平安遷都(794年)前後、桓武・嵯峨朝が律令体制と仏教を国家の柱に据え直していた時期。地方郡司の子は大学寮で儒学を修めて官吏となる道が標準で、空海もその軌道を一度は歩んだ。延暦23年(804年)の遣唐使船は最澄も同船し、長安は青龍寺の恵果を頂点に密教の正統が伝持されていた。帰国後の弘仁年間、嵯峨天皇は唐風文化と新仏教を積極的に容れ、高雄山寺・東寺の付嘱や満濃池修築の国家動員を可能にした。

01「ずっと待っていた」

805年、初夏の長安。師から弟子へ、儀式と修行を通してだけ手渡される秘密の教え ― という。唐の都でその頂点に立つ老師、恵果けいかのもとを、一人の外国人僧が訪ねた。日本から来た、31歳の無名の留学僧である。名を空海といった。

は千人を超える弟子を抱えていたと伝わる。その老師が、初対面の外国人にこう言ったと空海自身が書き残している。「我先よりして汝が来たるを知り、相待つこと久し」。私は前からあなたが来ることを知っていて、ずっと待っていた ― という意味だ。

恵果はその年の暮れに亡くなる。自分の命が長くないことを、彼は知っていたのかもしれない。老師は、会ったばかりのこの外国人に、わずか3ヶ月で密教の正統のすべてを渡した。

なぜこの人だったのか。話は31年前、讃岐の海辺の村から始まる。

02エリートの道を捨てた子

774年、讃岐国多度郡(現在の香川県善通寺市)に生まれた。幼い名は真魚(まお)。父は郡司(郡の首長)で、地方の有力者の家だった。

15歳で都に上り、18歳で大学寮に入った。国家の官僚を育てる、当時の最高学府である。地方の有力者の子が出世する、いちばん確かな道だった。だが真魚は、ほどなく大学をやめてしまう。

きっかけは、一人の修行僧との出会いだったと本人が書いている。僧から授かったのは(こくうぞうぐもんじほう)。星をしながら、決まった言葉を百万回唱える修行だ。青年は都を出て、阿波の山や土佐の室戸岬でこの行に打ち込んだ。室戸の洞窟で夜通し唱えていると、明星が口に飛び込んできた ― という有名な逸話がある。ただしこれは、後の時代の伝承として広まったものとされる。本人が書いたのは「明星来影」の四文字だけである。

24歳で『三教指帰さんごうしいき』を書いた。儒教・仏教・道教を登場人物にして戦わせ、仏教が勝つ、という戯曲仕立ての本だ。エリートコースを捨てた自分への、宣言の書でもあった。そこから約7年、彼の足取りは記録から消える。次に姿を現すのは、唐へ渡る船の上である。

03嵐の船、3ヶ月の継承

804年7月、31歳の空海は船に乗った。船は嵐で34日間漂流し、予定から大きく外れた中国南部の海岸に流れ着いた。地元の役人は、ぼろぼろの一行を海賊ではないかと疑い、上陸を許さなかった。

このとき、使節団を救ったのが空海の筆である。彼が代わりに書いた漢文の嘆願書は、役人の目の色を変えた。一行は正式な使節と認められ、長安への道が開けた。無名の留学僧の文章力が、国家の使節団を通したのである。

年末に長安へ着き、翌805年5月、空海は青龍寺の恵果の門を叩いた。そこからの3ヶ月は、密教の歴史でも異例の速さで進む。6月に、7月に ― 密教の二つの系統それぞれの(かんじょう、法を授ける儀式)を受けた。8月には伝法阿闍梨位でんぼうあじゃりい、つまり密教の正統な後継者の資格を受けた。恵果はその12月に没し、空海は弟子を代表して碑文を書いた。

予定では20年の留学だった。空海は2年で戻る。膨大な経典とと法具を船に積んで。

虚しく往きて実ちて帰る

空海『御請来目録』(806)

からっぽで行き、満ちて帰ってきた ― 帰国報告書『御請来目録』の一句である。ただし持ち帰った教えの核心は、当時の日本の仏教の常識に、真っ向からぶつかるものだった。

04断られた一通 ― 最澄との訣別

帰国した空海を待っていたのは、歓迎ではなかった。20年の予定を2年で切り上げた違反者として、都に入ることを許されず、九州で数年を過ごした。転機は809年、嵯峨天皇の即位である。新しい天皇は空海の才を認め、都への道が開いた。

812年、高雄山寺(現在の神護寺)で空海は灌頂の儀式を行なった。受けに来た人々のなかに、最澄さいちょうがいた。の開祖であり、同じ遣唐使船団で唐に渡った、7歳年上の高僧である。当時の仏教界の第一人者が、年下の空海から法を受けた。

だが二人の関係は、一通の手紙で壊れる。813年、最澄は密教の経典『理趣釈経』を貸してほしいと空海に頼んだ。空海は断った。密教は書物を読んで分かるものではなく、師から弟子へ、身体の修行を通してしか渡せない ― それが断りの理由だったと伝わる。本を貸す貸さないの話に見えて、「学問はどう受け継がれるべきか」という方法をめぐる、二人の根本的な分岐だった。816年、最澄の高弟が空海のもとに留まって山に帰らず、訣別は決定的になる。

同じ816年、空海はを開くを得た。標高800メートルの山上盆地に、修行のための都市を建て始める。823年にはを授かった。都の根本道場と山の修行道場 ― 真言宗の骨格が、ここで揃った。では、彼が生涯かけて説いた教えの中身は、何だったのか。

05即身成仏 ― この身のままで

空海の思想の核心は即身成仏そくしんじょうぶつである。当時の仏教の主流()は、悟りにはという気の遠くなる時間を要すると説いた。何度も生まれ変わり、途方もない修行を重ねて、ようやく仏になる。密教はこれに対し、この身このままで、この一生のうちに仏になれると主張する。

根拠は六大・四曼・三密の体系である。六大は地・水・火・風・空・識の六つの根本要素で、宇宙と我が身は同じ六大から成る。四種の曼荼羅が宇宙の相の全体を示す。そして三密(身密・口密・意密)は、修行者が印を結び(身)、真言を唱え(口)、観想する(意)ことで、の三密と感応する。本尊の動き、言葉、心と、修行者の動き、言葉、心が一つとなれば、この身のまま本尊と一体化し成仏する ― これが三密加持さんみつかじの論理である。

空海は『即身成仏義そくしんじょうぶつぎ』『声字実相義』『吽字義』(三部作)、『秘密曼荼羅十住心論』(十段階の心の昇華論)、『弁顕密二教論』(顕教と密教の体系的比較)で、この密教の哲学を漢文で著述した。日本語ではなく、漢文で宇宙論と解脱論の体系書を書き上げた筆力は、語学的にも哲学的にも、並ぶものの少ない業績である。

六大は無礙にして常に瑜伽なり。四種曼荼各々離れず。

空海『即身成仏義』六大四曼三密頌

06ため池と学校と筆

思想家としての著述の一方で、空海の仕事は山の外にも広がった。821年、故郷讃岐の(まんのういけ)の修築を指揮した。当時最大級の灌漑用ため池が決壊したまま放置されていたのを、短期間で直した。宗教家が土木の現場監督を務めた記録である。

828年には京都に(しゅげいしゅちいん)を開いた。身分を問わず誰でも学べる、日本最初の私立学校とされる。経営は空海の没後に行き詰まって閉じたが、「誰もが学べる場」という発想は日本の教育史の先駆けになった。

書の名手でもあった。嵯峨天皇・橘逸勢と並ぶ「」の一人で、最澄に宛てた手紙は国宝、日本書道史の頂点とされる。「弘法筆を選ばず」という諺は後世の作で、むしろ空海は筆をよく選んだ、という逸話のほうが残っている。

生涯の最後に、彼はもうひとつ、誰もしなかったことをする。自分の死の日付を、あらかじめ告げたのである。

07終わらぬ禅定

834年、61歳の空海は病を押して宮中で国家安泰の修法を執り行ない、以後の朝廷の年中行事として定着させた。そして翌835年3月21日に高野山で入定にゅうじょうする、と自らの終わりを予告し、穀物を断ち、水を断った。

予告どおり、835年3月21日の明け方、空海は高野山奥の院で没した。62歳。真言宗の伝承では、これは死ではない。 ― 深い禅定ぜんじょうに入ったまま、今も生き続けているとされる。86年後の921年、弘法大師の名が贈られたとき、勅使が御廟の扉を開くと、空海は禅定の姿のまま端坐していた ― と諸伝は記す。

この入定信仰は千年続いた。高野山奥之院では今日も朝夕、空海に食事を運ぶ「生身供(しょうじんぐ)」の儀礼が続けられている。1200年前に「この身のままで仏になれる」と説いた人は、伝承のなかで、いまもこの身のまま座り続けている。教えと伝承がここまで一致した宗教者は、ほとんど例がない。

四国八十八箇所を歩く遍路が笠に書く「同行二人」の二人目は、空海である。あなたがもし、遠い完成を待たずにこの身のままで変わりたいと願うなら ― その願いに1200年前に形を与えた人が、ここにいる。

08主要な出来事と著作

  1. 讃岐国多度郡に生まれる。幼名真魚、佐伯家の子
  2. 15歳で上京、叔父阿刀大足のもとで儒学・漢学を学ぶ
  3. 18歳、大学寮明経科に入学するもほどなく中退
  4. 阿波の大滝嶽・土佐の室戸岬で虚空蔵求聞持法を修行
  5. 24歳、『三教指帰』(旧題『聾瞽指帰』)を著す
  6. 31歳、遣唐使船で入唐。肥前を発ち福州に漂着、長安へ
  7. 長安青龍寺で恵果阿闍梨から胎蔵界・金剛界の灌頂と伝法阿闍梨位を受ける
  8. 帰国、博多着。『御請来目録』を朝廷に提出
  9. 嵯峨天皇即位で入京が認められる
  10. 高雄山寺で金胎両部の灌頂、最澄らに灌頂を授ける(結縁・受法の灌頂)
  11. 高野山の開創を嵯峨天皇から勅許される
  12. 讃岐満濃池の修築を指揮
  13. 嵯峨天皇から東寺(教王護国寺)を給預される(真言の道場として付嘱)
  14. 『即身成仏義』『秘密曼荼羅十住心論』『弁顕密二教論』等を著述
  15. 京都九条に綜芸種智院を開く
  16. 宮中で真言院御修法(後七日御修法)を執行
  17. 3月21日寅の刻、高野山奥の院で入定。数え62(満61)
  18. 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

残した思想の輪郭

  • ― この身このままで成仏する、顕教の三大阿僧祇劫を超える密教の到達点
  • 六大・四曼・三密 ― 宇宙と身体の共通構造と、身口意の感応による成仏の論理
  • 十住心 ― 『十住心論』で異教から密教までの心の十段階を体系化
  • ― 恵果から正統を受法し、日本に根付かせた宗派の開祖
  • 高野山と東寺 ― 修行道場と根本道場の二極体制、現代まで続く真言宗の骨格
  • 三筆の一人 ― 嵯峨天皇・橘逸勢と並ぶ平安三筆、『風信帖』は書道史の頂点
  • 社会事業 ― 満濃池の修築と綜芸種智院、宗教家の技術と民衆教育の実践
  • 入定信仰 ― 死ではなく禅定に入り続けるという伝承が、千年の民衆信仰を支える
承和2年(835年)3月21日寅の刻、高野山で没。62歳。真言宗の伝承では「入定」として禅定に入り続けているとされ、現在も弥勒下生まで禅定にあると信じられてきた。

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

空海(弘法大師)が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

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