ルーミー
自分が死ぬ日を「婚礼の夜」と呼んだ人がいる。 なぜ、そう呼べたのだろう。
スーフィー最大の詩人、『マスナヴィー』六巻で愛と合一の道を詩に刻んだ
- マスナヴィー
- スーフィズム
- シャムス・タブリーズィー
- 旋舞
- メヴレヴィー教団
モンゴルの軍馬が故郷を焼き、学者も詩人も書物も、西へ西へと逃れた時代。 — ひらく
時代の空気
13世紀前半のホラーサーンはモンゴル侵攻の影に揺れた。一家は1212-1216年頃にバルフを離れ、1221年チンギス・ハーンの軍が町を焼く前に逃れる。バグダードやダマスカスを経て1228年頃セルジューク朝ルーム王国の首都コンヤに定住。アラーウッディーン・カイクバード一世がペルシア語学術と神秘主義を庇護し、アナトリアではペルシア・アラブ・トルコ・ギリシアの諸語が交差した。1258年のバグダード陥落前後、東方の難民と書物が集まる。
01死の日を「婚礼の夜」と呼んだ人
1273年12月17日。コンヤという町で、一人の老人が死を迎えようとしていた。コンヤは今のトルコ中央部にある町だ。老人の名はルーミー。66歳だった。
集まった人々は泣いた。だが、本人は微笑んだと伝わる。「あなたがたは嘆くが、私はこれから愛するひとに会うのだ」。死んでいく本人だけが、うれしそうだった。
彼が亡くなったこの日は、のちに「シャベ・アルース」と呼ばれるようになる。「婚礼の夜」、つまり結婚式の夜という意味だ。自分が死ぬ日が、結婚の夜。なぜ、そんな呼び方が生まれたのだろう。
答えは、この人の一生の中にある。時を66年前に戻そう。場所は、ここからはるか東の町だ。
02燃える故郷から西へ
1207年、ルーミーは中央アジアのバルフに生まれた。今のアフガニスタン北部にあった大きな町だ。本名はムハンマド・ジャラールッディーン。父バハーウッディーンは名高い学者であり、説教師だった。人々は父を「学者の王(スルタン・ル=ウラマー)」と呼んだ。
少年は父のもとで学問を身につけていく。イスラム教の聖典クルアーン。法学。アラビア語の文法。そしてスーフィーの古典。スーフィーとは、イスラム教の中で、神と一つになることを求める修行者たちのことだ。
ルーミーが5歳から9歳の頃(1212年から1216年頃)、父は一家と弟子たちを連れて町を出た。理由には諸説ある。土地の王朝との政治的な対立。あるいは、迫りくるモンゴル軍からの避難。どちらにせよ、この決断が一家を救った。1221年、チンギス・ハーンの軍はバルフを焼き払い、住民の大半を殺した。そのとき一家は、すでに遠く離れていた。
旅は長く続いた。ニシャプールという町では、老いた詩人に会ったという伝説がある。神秘の詩で知られたアッタールが、少年に『神秘の書』を贈ったと語り継がれるのだ(事実かどうかには諸説あるが、後の教団では大切な物語となった)。一家はバグダードを経て、聖地メッカへの巡礼も果たし、ダマスカスなどを巡った。
ラレンデという町(今のカラマン)に滞在していた頃、17-18歳のルーミーはゲヴヘル・ハトゥンと結婚する。1226年には長男が生まれた。そして1228年頃、一家はコンヤに定住する。セルジューク朝ルーム王国という国の首都だ。王のアラーウッディーン・カイクバード一世は、学者としての父を重く用いた。
冒頭の場面の、あのコンヤである。ルーミーはこの町で、人生の残りのすべてを生きることになる。
03学者の王の、跡継ぎとして
1231年、父が亡くなった。24歳のルーミーは、父の説教壇を受け継いだ。それからは父の高弟ブルハーヌッディーンについて、九年間、本格的なスーフィーの修行を積む。シリアのダマスカスとアレッポにも二度学びに出て、当時最高の学者たちから法学と神秘主義を学んだ。
1240年代の前半、ルーミーはコンヤで最も尊敬される学者の一人になっていた。数百人の学生を抱え、王の宮廷にも出入りした。父と同じ「学者の王」の道を、まっすぐ順調に歩んでいた。
このときの彼は、まだ詩を書いたことがなかった。詩人ルーミーは、まだこの世にいないのだ。
1244年11月29日。コンヤの街角で、一人の男が彼の前に現れる。
04四十日の密室
その男の名は、。イランのタブリーズ出身の、放浪のスーフィーだった。60歳前後。粗末な黒いフェルトの帽子に、修行者の衣をまとっていた。
二人の出会いを、伝承はさまざまに語る。最もよく語られるのはこうだ。書物に囲まれ、従者を連れて歩くルーミーに、シャムスが問いを投げた。「あなたの書物と、ムハンマドの学問と、バーヤズィード・ビスターミー(初期スーフィーの巨人)の体験――どちらが偉大か」。ルーミーは答えに迷った。シャムスはそのためらいの中に、この大学者の心の渇きを見抜いたのだという。
それから40日間、二人は密室にこもった。誰にも会わず、対話だけを続けた(チッレと呼ばれる四十日の修行である)。40日が終わったとき、コンヤの学者ルーミーは消えていた。残っていたのは、詩人であり、愛の神秘家であるルーミーだった。彼は学生を帰し、説教をやめた。シャムスと共にある時間だけを、生きるようになった。
弟子たちは嫉妬した。シャムスを邪魔者として、追い払おうとした。1246年、シャムスは突然コンヤを去る(追放されたともいう)。ルーミーは深い悲しみに沈んだ。そして、このとき初めて、詩が彼からあふれ出したのである。
ルーミーは息子スルタン・ヴェレドに手紙を持たせ、シリアにいたシャムスを呼び戻した。1247年の初め、シャムスはコンヤに戻る。だが同じ年の12月、シャムスは再び姿を消した。今度は、二度と戻らなかった。弟子の一部に殺されたという説が、現在は最も有力だ(次男の関与も疑われている)。ただ放浪に戻っただけだ、という説も残る。
ルーミーはシャムスを探して、ダマスカスへ二度旅した。その帰り道、彼は悟った。「私が探しているのは、シャムスの外貌ではない。シャムスは私の内にいる。私は彼そのものになった」。
失った人の名は、このあと彼が歌うすべての詩の、署名になっていく。
05署名は、シャムス
ペルシア語のという短い詩には、決まりがある。詩の終わりに、詩人が自分の名前を入れるのだ。だがシャムスを失ったルーミーは、そこに自分の名を書かなかった。愛する人の名、シャムスを、署名として使い続けた。
こうして生まれたのが、通称ディーワーンである。
あなたがいなくなった日から、私は酒場の戸口で酔いどれの乞食になった。肩の衣は破れ、心の衣はもっと破れた。これを見てください、私はあなたのために狂ったのです――世の誉れも財も、すべて灰のように吹き飛ばして。
これらの詩は、机の上で練り上げられたものではない。詩は突然あふれ出し、従者が追いかけるように書き留めたと伝わる。街路で、庭で、風呂屋で、説教の合間に。彼の内からわき上がるものが、そのまま詩の形をとったのだ。
かつて数百人に法学を講じた男が、今は恋の詩を歌い続けている。だが彼の中では、恋人への言葉と神への言葉は、もう分かれていなかった。
50歳を過ぎたある頃、最も忠実な弟子が、彼に一つの願いを差し出す。
06葦笛の歌
その弟子の名は、。彼は心から願い出た。修行の道を教え導く、まとまった詩を残してほしい、と。1258年頃から亡くなるまでの約十五年、ルーミーはこの願いに応え続けた。彼が語り、フサームッディーンが書き取る。そうして生まれたのが全六巻である。「霊的二行詩集」という意味だ。途中には、フサームッディーンの妻の死による二年間の中断もあった。
その冒頭の十八行は、「葦笛の歌(ナイ・ナーメ)」と呼ばれる。スーフィーの詩の中で、最も有名な一節だ。
聴け、葦笛がいかに嘆くかを。別離の物語を、葦笛が語るのを。葦原から切り取られてから、男も女もその嘆きに泣いている。私は別離に引き裂かれた胸を求める――そうしてこそ切望の痛みを分かち合えるのだから。
葦笛は、葦を切って作る笛だ。つまり、本来の居場所である葦原から、切り離された存在である。だからその音は、嘆きに聞こえる。ルーミーは言う。人もまた「存在の葦原」から切り取られた葦なのだ、と。故郷を失った人。恋人を失った人。神から離れて生きる人。その別れの嘆きこそが、美しい音楽になる。
『マスナヴィー』の中身は、物語集の形をとる。聖典の話。インドやペルシアの民話。町の世間話に、思わず笑ってしまう話まで。だがどんな話の下にも、魂の旅の一段階が隠されている。ルーミー自身は、これを「外皮の下に隠れた真珠」と呼んだ。
切り取られた葦は、帰りたがって嘆く。では、もし帰れる日が来たとしたら。それは、悲しむべき日なのだろうか。
07婚礼の夜へ、ふたたび
1273年12月17日に戻ろう。死の床で微笑んだ、あの場面だ。
彼にとって死は、別れではなかった。別れの、終わりだった。葦笛がついに葦原へ帰る日。探し続けた愛するひと――それはシャムスであり、神であった――と、一つになる日。スーフィーの言葉では、自分が消え去ることを「」と呼ぶ。そして消えた先で、神の中に生き続けることを「」と呼ぶ。ルーミーが詩で指し示し続けたのは、この到達点だった。だから人々は、彼の死を待ち望んだ合一の成就と解釈し、この日を「シャベ・アルース(婚礼の夜)」と名づけたのである。
ルーミーの死後、長男スルタン・ヴェレドが中心となり、師の教えを継ぐ組織を作り上げた。である。『マスナヴィー』を書き取ったフサームッディーン・チャレビーが、初代の後継者としてこれを支えた。「メヴレヴィー」とは「われらの師(マウラーナー)」という意味で、ルーミーの別名マウラーナーに由来する。
教団を象徴するのが、と呼ばれる旋舞(回転の舞)だ。白い長い衣に高い帽子の修道士が、音楽に合わせてゆっくりと回り続ける。右手は上へ――神から受け取るために。左手は下へ――地上へ分かち与えるために。それは踊りである以上に、体で行う祈りだ。天体の回転と、魂が神へ帰っていく動きとを、一つの所作で表している。
オスマン帝国の時代、メヴレヴィー教団は帝国文化の中心と深く結びついた。アヤソフィア(イスタンブールの大聖堂)の周辺にあった修道場は、音楽と詩と書道の中心地となり、スルタンにも熱心な会員が多かった。1925年、トルコ共和国は全ての修道教団を禁止する。だが1954年、コンヤのセマーは「文化行事」として復活した。現在はユネスコの無形文化遺産に登録されている。
そして今も、毎年12月17日。世界中のメヴレヴィー教団で、人々は回る。師の「婚礼の夜」を祝うために。
葦笛の嘆きは、750年を越えて鳴り続けている。あなたにも、切り取られる前の葦原があるだろうか。あるとすれば、それはどこだろう。
08詩性と宗教性――どちらが主か
ルーミーは詩人として読まれるべきか、宗教家として読まれるべきか。この問いはそれ自体、誤った二者択一である。
まず規模を確認しておく。『シャムセ・タブリーズィー詩集(ディーワーネ・シャムセ・タブリーズィー)』は約40000行、3500篇を超えるガザル(短詩)と1983篇のルバーイー(四行詩)を含む、ペルシア語詩の最高峰の一つである。この詩集の特徴は、恋愛の抒情詩がそのまま神秘思想の核心である点にある。ペルシア詩の伝統では、恋人(ヤール)は同時に神でもあり、酒(メイ)は神的陶酔であり、酒場(ミェイハーネ)は修道の場である――この二重性の最も深い展開が『ディーワーネ・シャムセ』だ。詩は即興で発せられ、従者が筆写したと伝わる。書斎で推敲された詩ではなく、存在の状態そのものが詩として現れたものである。
ペルシア語圏の古典詩――、サアディー、ニザーミー、ウマル・ハイヤーム――の伝統では、詩は宗教の装飾ではなく、神秘思想が最も濃密に現れる媒体である。散文の神学書では書けない真理が、詩の曖昧さと多義性の中でのみ語り得る、という了解が千年続いた。ルーミーはこの伝統の頂点にいる。
だが同時に、ルーミーにおいて詩は目的ではない。彼は晩年、自分の弟子たちに「詩を書きたくはない。しかし彼ら(弟子たち)が詩しか受け取れないので、詩を口にするのだ」と漏らしている。彼にとって詩は道具であり、指し示す先は「愛における消尽(ファナー)」と「神における存続(バカー)」――スーフィー修道の核心である。
『マスナヴィー・マアナヴィー』六巻25000行もまた、この二重性の上に立つ。各物語が神秘主義的教説の例証として解釈されていく物語集の形式は、表層が通俗的で滑稽な物語であっても、その下に必ず魂の旅の一段階が示されるという重層構造を持つ。『マスナヴィー』は後世「ペルシア語のクルアーン」と呼ばれるほどの権威を獲得し、スンナ派・シーア派の別を問わず、アナトリアから中央アジア、インド亜大陸、バルカン半島まで、ペルシア語圏全域の精神的共通財となった。
20世紀後半のアメリカで、コールマン・バークスらによる英訳(散文的・自由詩的再構成)を通じて、ルーミーは「アメリカで最も売れる詩人」となった。ただしこの受容には、イスラム教的文脈を削ぎ落とし、普遍的スピリチュアリティーとして受け取る傾向が強い。元のペルシア語詩はクルアーンとハディースの引用で満ち、五行の礼拝・断食・巡礼への言及を欠かさない。ルーミーの「愛」は、厳密にイスラムの枠の中の愛である。詩性と宗教性は、彼においては切り離せない一つの光である。
09主要な出来事と著作
- 中央アジア・バルフに生誕、父バハーウッディーンの薫陶を受ける
- 家族と共にバルフを離れ西へ(モンゴル侵攻の避難)
- モンゴル軍がバルフを破壊(一家は既に遠く離れていた)
- ラレンデ(現カラマン)で17-18歳のルーミー、ゲヴヘル・ハトゥンと結婚
- 長男スルタン・ヴェレド誕生
- コンヤ(セルジューク朝ルーム王国首都)に定住
- 父バハーウッディーン没、24歳で説教壇を継承
- ブルハーヌッディーン門下でスーフィー修行、シリアにも遊学
- 37歳、コンヤでシャムス・タブリーズィーと邂逅
- シャムス、コンヤを一度去る
- シャムス、シリアから呼び戻される
- シャムス、再び失踪(殺害説有力)。『ディーワーネ・シャムセ』の詩群が溢れ出す
- 愛弟子フサームッディーンとの深い交わり、『マスナヴィー』の口述開始
- 『マスナヴィー・マアナヴィー』六巻25000行を完成
- コンヤで没、享年66。シャベ・アルース(婚礼の夜)
- スルタン・ヴェレドがメヴレヴィー教団を組織化
- トルコ共和国が教団を禁止
- コンヤのセマー儀礼が文化行事として復活
- メヴレヴィー旋舞儀礼が国連ユネスコ無形文化遺産へ
残した思想の輪郭
- シャムス・タブリーズィーとの邂逅 ― 法学者から詩人へ、一人の人間の全面的転回
- 『シャムセ・タブリーズィー詩集』 ― 喪失と愛の抒情、ペルシア語ガザル詩の最高峰
- 『マスナヴィー・マアナヴィー』六巻 ― 物語形式によるスーフィー神秘道の体系的教導詩
- ― 本来の居場所からの別離の嘆きとして存在を描く比喩の原型
- ファナーとバカー ― 神における自己の消尽と、その中での存続という修道の到達点
- メヴレヴィー教団と旋舞(セマー) ― 身体を通した観想、宇宙と魂の回転を一つの所作に
つながり
- ガザーリー
先駆 — コンヤの説教と『マスナヴィー』の土台に、『宗教諸学の再興』の実践体系を据えた神学者。
- トレゲネ・ハトン
同時代 — コンヤで神秘主義の詩が深まる背後には、この摂政が率いた帝国の圧力があった。
- ファーティマ・ハトゥン
同時代 — 同じ征服が、もう一つの生を東へ投げた。カラコルムへ連れられ、一句も残さなかった女性。
さらに読むならFurther Reading
ルーミーの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門ルーミー語録
ルーミー / 訳: 井筒俊彦 / 岩波書店
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ルーミーの主著『精神的マスナヴィー』の解説