モンテーニュ
すべてを疑いつづけた人は、 なぜ祈りのなかで死んだのか?
ボルドーの館の塔にこもり、内面の揺らぎを記録する文学ジャンルをつくった元市長
- エセー
- 懐疑
- 我何を知る
- ボルドー
- 内省
同じ神を信じる者どうしが殺し合う宗教戦争のただなか、フランスは引き裂かれていた。 — ひらく
時代の空気
16世紀後半のフランスは、ユグノー戦争(1562-98)の只中にあった。カトリック同盟、王党派(アンリ3世)、ユグノー(ナヴァール王アンリ)の三つ巴で、サン・バルテルミの虐殺(1572)、三アンリの戦い、リーグの跳梁が国を引き裂く。1588年ブロワ三部会、1589年アンリ3世暗殺と続く政治の崩落のなか、ボルドーでも宗派の緊張とペストの流行が交互に襲った。新大陸からの航海記、トルコや中国の習俗報告、印刷術によるラテン古典の流通が、ヨーロッパの自明性を相対化していた。
011592年9月13日、最期のミサ
1592年9月13日、フランス南西部。ボルドー近郊のサン・ミシェル・ド・モンテーニュ城館。館の主は59歳。喉の奥の腫れもの(扁桃腺膿瘍と推定される症状)で、死期を悟っていた。彼は自分の部屋でミサを開かせた。そして聖体拝領──パンを受ける儀式──の最中に、息を引き取った。
彼の名はミシェル・ド・モンテーニュ。生涯をかけて「疑うこと」を続けた人である。人間の感覚を疑い、理性を疑い、学問の権威を疑った。掲げた標語は「」。確かなことなど何も言えない、と書き続けた人だった。
その人が、最期の瞬間まで祈りを手放さなかった。すべてを疑った人が、なぜ信仰のなかで死んだのか。そしてなぜ彼は、自分の気分や病気ばかり記した本を、20年も書き続けたのか。
答えを探すために、時を59年前に巻き戻す。
02ラテン語を母語として
1533年2月28日、モンテーニュはペリゴール地方のモンテーニュ城館に生まれた。ボルドーの南東約50キロにある館である。父ピエール・エイケム・ド・モンテーニュは、イタリア戦役に従軍した軍人だった。そしてギリシャ・ローマの古典に学ぶルネサンス人文主義の教育に、強い理想を抱いていた。母アントワネット・ド・ルペスは、マラーノ(イベリア半島でキリスト教に改宗したユダヤ教徒)系の商人の娘と伝わる。
父は二つの変わった教育方針をとった。第一に、息子をラテン語で育てること。ラテン語しか話さないドイツ人の家庭教師ホルストアヌスと召使を雇った。両親も、息子の前ではラテン語を話した。モンテーニュは6歳までラテン語を母語として育ち、フランス語は後から学んだ。第二に、朝むりやり起こすことを嫌い、楽器の音で穏やかに目覚めさせた。
この育ち方は、後の文章に深く残る。古代ローマの思想家キケロやセネカ、ギリシャの伝記作家プルタルコス。その言葉が、成人後の彼の文章には呼吸のように自然に溶け込むことになる。
1539年、6歳でボルドーのギエンヌ学院に入り、すぐに飛び級した。教師のジョージ・ブキャナン、ムーレ、グルシウスは、いずれもヨーロッパ級の人文主義学者である。モンテーニュは早くから、古典を深く読む力を身につけた。ただし学校教育そのものには、後年の『』で手きびしい。「知識の詰め込みは頭を満たすが、心は育たない」と書いている。
このまま行けば、彼は地方の法律家として一生を終えるはずだった。だがボルドーの法廷で、人生を決める出会いが待っていた。
03ただ一人の友、ラ・ボエシ
1554年頃、21歳でペリグーの間接税査定法院の評定官となる。1557年には、ボルドー高等法院の判事に移った。以後13年間、彼はこの法廷の仕事にとどまる。法律家としての業績は目立たない。だがこの時期に、生涯を決める友情が結ばれた。
1558年、同じ高等法院の判事エティエンヌ・ド・に出会う。ラ・ボエシは当時28歳。若き日にすでに『(De la servitude volontaire)』という論文を書いていた(生前は世に出ず、1576年、宗教戦争のさなかに刊行される)。二人が分かち合ったのは、年齢や職業の近さ以上のものだった。キケロやプルタルコスの『』が描いた、古代ストア派的な友情の理想である。
なぜ彼が私を愛し、私が彼を愛したのか、もし語らねばならぬとすれば、こう答える以外にない。それが彼であったから。それが私であったから。
1563年8月、ラ・ボエシは赤痢で急死する。32歳だった。モンテーニュは6日間、看病と看取りを続けた。その臨終のようすを、父に宛てた手紙にくわしく書き残している。ラ・ボエシは自分の蔵書をモンテーニュに遺贈し、未刊の著作の編集をたくした。
この死は、モンテーニュの人生を二つに割った。彼は後にこう書く。「ラ・ボエシを失って以来、私はただ朦朧として生きている。私の魂は半分しかなかった」。魂が半分しかない──そう書く男は、残りの半分をどこに探せばよいのか。
04塔の書斎と『エセー』の誕生
1568年、父ピエールが死去する。モンテーニュは長男として城館を相続した。1570年、37歳で高等法院判事の職を辞める。翌1571年、城館の円い塔(tour)の3階に書斎を構え、隠居と執筆の生活に入った。天井と梁には、54の古典の警句を彫り込ませた。多くはキケロ、テレンティウス、プロペルティウス、伝道の書、聖書の言葉である。この塔の書斎は、いまも訪れることができる。
最初の仕事(1572年頃)は、ラ・ボエシの遺稿の編集と、自分の思索の断片の書きとめだった。当初はセネカ風の道徳論文を目指していた。古代ストア派の徳目を、自分の人生に当てはめる短編集である。しかし書き進めるうちに、方向がずれていく。他人の説く徳ではなく、自分の動揺・矛盾・気分が、記述の中心になっていった。
1580年、初版『エセー(Essais)』第1・2巻を、ボルドーで刊行する。全94章。「エセー」は当時のフランス語で「試み、吟味、経験」を意味した。さまざまな主題で自分の判断力を「試す」本、という名づけである。これが、今日のエッセイという文学ジャンルの起点となった。
私は私自身を描くのだ。読者よ、もしもそれに値しない人物を主題に選んだと思うなら、あなたの時間は失われるだろう
自分しか描かない、と扉で言い切る本。この奇妙な本の心臓部には、短い問いがひとつ刻まれていた。
05我何を知る?──生き方としての疑い
『エセー』の哲学の核は、第2巻第12章「」にある。表向きは、中世スペインの神学者レーモン・スボン(1385年頃没)の自然神学を擁護する論文である。だが実際の中身は、西洋哲学史上まれに見る規模で「疑い」を展開した章だ。モンテーニュはここで、人間の感覚・理性・判断・言語のすべてを疑っていく。
まず、象や狐や犬のかしこい行動の例を並べる。すると、人間の理性だけが特別だとは言えなくなる。次に、新大陸やトルコや中国の暮らしと習わしを並べる。キリスト教の道徳だけが当たり前だ、とも言えなくなる。さらに、ストア派、エピクロス派、懐疑派という哲学の学派どうしの対立を並べる。どれも決め手を欠く。こうして彼は、古代(疑いをつらぬく古代ギリシャの哲学)の判断停止────に行き着く。
この章の本文で、モンテーニュは秤の意匠(devise d'une balance)とともに、標語「Que sçay-je?(我何を知る?)」を掲げた。これが彼の疑いの紋章となる。
ただし、彼の疑いには向かわない先があった。人間の知は疑っても、神への信仰そのものは疑いの外に置いたのである。古代の懐疑をキリスト教の信仰と両立させる、彼独特の読み替えだった。
後のデカルトの疑いとは、根本から違う。デカルトのは、疑えない一点(=「我思う」)にたどり着いて終わる。モンテーニュの疑いは生涯続く実践であり、たどり着く地点を持たない。彼にとって判断停止は学説ではなく、生き方である。毎日の気分の揺らぎを書きとめ、矛盾する自分を隠さず記す。それが疑いの実践だった。
私は人間の状態を描くのではない、私はミシェル・ド・モンテーニュを描くのだ。
自分を書く対象にすること。これがモンテーニュの発明である。自分について書いた本は、前にもあった。アウグスティヌス(古代キリスト教最大の思想家)の『告白』である。だがそれは、神への回心の物語だった。モンテーニュは、成り行きのままの自分を記す。今日の気分、昨日の読書、幼い日の記憶、腎結石の痛み、性欲の衰え。すべてが同じ重さで並ぶ。中心を持たない自己の描写である。
塔の哲学者に、やがて外の世界がふたたび声をかける。
06旅、市長、宗教戦争のただなか
1580年、『エセー』刊行と同じ年。慢性化した腎結石と胆石の苦しみを和らげるため、モンテーニュは旅に出る。ドイツ、スイス、イタリアをめぐる、一年半(1580-81)の旅だった。ローマ滞在中、初版『エセー』は教皇庁の検閲官から一部削除を命じられる。ただし大筋は認められた。彼はこのことを、後で皮肉まじりに書き込んでいる。
旅の途中、ボルドーから知らせが届く。市長への就任要請だった。国王アンリ3世の求めもあり、彼は帰国する。1581年から1585年まで二期4年、モンテーニュはボルドー市長を務めた。
同じころフランスは、(カトリックとプロテスタントの内戦)の絶頂期にあった。カトリック同盟(ギーズ家)、王党派(アンリ3世)、そしてユグノー(後のアンリ4世となる)。三つどもえの争いが国を裂き、ボルドーも両派の緊張に揺れていた。
モンテーニュは中道派()として動いた。カトリックとして信仰を守りつつ、ユグノーのナヴァール王アンリと手紙を交わし、両派の間を取り持とうとした。1585年、ペストの流行と政治の混乱のなかで市長の任期を終え、城館へ戻る。1587年には、(国王の母)とナヴァール王アンリの交渉を仲介した。1588年には『エセー』第5版(第3巻13章を追加)をパリで刊行する。同年のブロワ三部会の前後にも、王党派とナヴァール派をつなぐ立場で動いた。
1588年のパリでは、もう一つの出会いがあった。22歳のである。マリーは『エセー』に心酔し、モンテーニュを精神の父として慕った。後に「モンテーニュの娘」を自称し、彼の死後に『エセー』の決定版を編むことになる編集者である。
1590年、ナヴァール王アンリ(カトリック改宗前)から、側近として仕えよという要請が届く。彼は健康を理由に断った。最後まで地方貴族として、戦争の傍観者と和解の仲介者との中間に立ち続けたのである。そして彼にはまだ、書き足したいことが残っていた。
07経験について──そして最期の日へ
『エセー』第3巻(全13章)は、第1・2巻の書き直しと拡張に並行して書かれ、1588年版で初めて世に出た。円熟期の巻である。章は長くなり、自分を見つめる深さが増している。
その最終章、第3巻第13章「経験について」は、全体のフィナーレとして彼の到達点を示す。アリストテレスや医学や神学といった学問の権威より、自分の経験を信じる。腎結石の痛み、性欲の衰え、食事の好み。自分の身体を、素直に記す。そして平凡な日常のなかに、人間の尊厳を見いだす。「世界の最も美しい人生は、私の見るところ、平凡で人間的で秩序あるもの、奇跡も誇張もないものだ」と彼は書いた。
人は何にでもなれる──ルネサンスの思想家ピコは、そう人間を讃えた。モンテーニュは逆を向く。人は何にでもなれるかもしれない。だが、毎日の気分と身体から離れて生きるわけではない。その認識に、彼は腰を据えた。
そして1592年9月13日。冒頭の場面に戻る。扁桃腺膿瘍の発作と推定される症状で死期を悟ったモンテーニュは、自室にミサを執行させ、聖体拝領の最中に息を引き取った。59歳。カトリックの信仰は、最期まで保たれていた。彼の疑いがどこへ向かい、どこへは向かわなかったか。塔に掲げられた標語を思い出すなら、この最期の姿は、もう謎ではないはずだ。
遺体は、城館のそばのフイヤン教会に葬られた。遺骨は1614年にボルドーの修道院へ移り、フランス革命の後はボルドー大学の構内へ。今日は、ボルドー美術館近くの記念墓に眠る。
マリー・ド・グルネーは、晩年の追記を含む決定版『エセー』(1595年版)を編集し、刊行した。この版は、20世紀まで標準として読み継がれる。だが1912年、(Exemplaire de Bordeaux)の写真版が刊行されると、流れが変わった。モンテーニュ自身が1588年版に最後の追記を書き込んだ手稿である。死後フイヤン修道院を経て、1789年にボルドー市の公共コレクションへ渡っていた。20世紀以降の校訂版の多くは、これを底本に選んでいる。
確信ではなく、揺らぎを書く。矛盾する自分を、隠さずに見つめる。モンテーニュが59年の生涯で残したのは、その一つの構えだった。では、あなたはどうだろう。今日の自分の揺らぎを、飾らずに書き残せるだろうか。
08近代エッセイの祖、懐疑と内省の長い系譜
モンテーニュの影響は広範である。
パスカルは『エセー』を熟読し、『パンセ』にはモンテーニュへの言及が頻出する。パスカルは「モンテーニュの自己描写は許せない自己愛だ」と批判しつつ、同時に彼の人間観察の鋭さを認め、「人間の悲惨」の章でその洞察を神学的に引き受け直す。パスカルの『サシとの対話(エピクテートスとモンテーニュに関するパスカルとサシとの対話)』は、モンテーニュ的懐疑の継承と乗り越えの記録である。
デカルトは方法的懐疑をモンテーニュから継承しつつ、コギトという不動点で懐疑を終わらせる。デカルトは公然とモンテーニュを引用しないが、『』の自伝的語り口と旅路の記述は、明らかに『エセー』の残響である。
シェイクスピアの(1611)のゴンザーロのユートピア演説は、モンテーニュ「食人種について」(第1巻第31章)のフロリオ英訳(1603)からの直接の言い換えである。の懐疑的独白にもモンテーニュ読書の痕跡が濃い。
思想史の座標で見れば、晩年の「経験について」の姿勢は、ルネサンス人文主義の一つの帰結である。ピコが人間の可変性を讃えたのに対し、モンテーニュは人間の日常の不変性に回帰した。人間は何にでもなれるかもしれないが、毎日の気分と身体から離れて生きるわけではない──この認識が、彼の懐疑の着地点だった。
18世紀のルソー『告白』、19世紀のエマソン『エッセイズ』、20世紀のヴァージニア・ウルフ、トーマス・マン、日本の小林秀雄、批評という文学ジャンルに至るまで、「自分の揺らぎを書くこと」が文学になりうるという発明は、モンテーニュから始まる長い系譜を形成した。
彼自身が『エセー』で示した立場──確信より揺らぎ、体系より断片、普遍より自分自身──は、近代的知性のもう一つの可能性として、体系哲学の裏で生き続けている。
09主要な出来事と著作
- ペリゴールのモンテーニュ城館に誕生
- ボルドー・ギエンヌ学院に入学
- ペリグー間接税査定法院評定官
- ボルドー高等法院判事に転任
- エティエンヌ・ド・ラ・ボエシと出会う
- ラ・ボエシの死(32歳)、6日間の看取り
- 父ピエール死去、城館相続
- 高等法院判事を辞任
- 城館の塔の書斎に退く
- 『エセー』執筆開始
- 『エセー』第1・2巻をボルドーで初版刊行
- ドイツ・スイス・イタリア旅行(17ヶ月)
- ボルドー市長(二期4年)
- 『エセー』第5版(第3巻13章追加)、マリー・ド・グルネーと出会う
- モンテーニュ城館で死去。享年59
- マリー・ド・グルネー編の決定版『エセー』刊行
- ボルドー写本の写真版刊行、20世紀校訂版の底本に
残した思想の輪郭
- Que sçay-je?(我何を知る?) ─ 生涯続く判断停止の実践、学説でなく生き方としての懐疑
- 自己を描く ─ アウグスティヌス以来の自伝を「回心なき日常の記述」へ開き、エッセイを発明
- 経験と身体 ─ 権威・書物より自分の腎結石・食欲・性欲を信じる姿勢
- 中心なき自己 ─ 矛盾する自分を隠さない記述、「成り行き」としての人間像
- 中道派(ポリティーク) ─ 宗教戦争の只中で両派の調停を試みた実務倫理
- ピュロン主義の復興 ─ 古代懐疑派をキリスト教信仰と両立させるフィデイズム的読み替え
- エッセイ(試み) ─ 体系を書かず、断片を積む文学ジャンルの創始
つながり
- ピコ・デラ・ミランドラ
共鳴 — 『人間の尊厳について』 — 人間の可変性という主題で、『エセー』と遠く響き合う書の著者。
- パスカル
批判的継承 — その懐疑を認めた上で、「神なき人間の悲惨」として神学的に乗り越えようとした思想家。
さらに読むならFurther Reading
モンテーニュの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門エセー 1
ミシェル・ド・モンテーニュ / 訳: 原二郎 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
モンテーニュが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- シャトー・ド・モンテーニュ住居
サン=ミシェル=ド=モンテーニュ, フランス
モンテーニュが『エセー』を書いた塔(書斎塔)が現存する領地
- アキテーヌ博物館(モンテーニュ墓)墓所
ボルドー, フランス
モンテーニュの墓が安置されているボルドー市立博物館
さらに辿るならExternal References
モンテーニュを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ミシェル・ド・モンテーニュ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Michel de Montaigne"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Michel de Montaigne"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Michel de Montaigne (1533—1592)"
Project GutenbergEnglishEssays of Michel de Montaigne — Complete(Charles Cotton 英訳)— Project Gutenberg
『エセー』完訳