李白
月と酒と剣があれば、 あとは何がいるのか?
月と酒と剣を詩の芯に据え、「詩仙」「謫仙人」と呼ばれた盛唐の漂泊詩人
- 謫仙人
- 月下独酌
- 詩仙
- 将進酒
栄華のきわみにあった都の足もとで、帝国を裂く大乱が静かに近づいていた — ひらく
時代の空気
唐玄宗の開元・天宝期(712-755)、長安と洛陽は人口百万の世界都市として最盛期を迎えていた。シルクロードは中央アジアの胡商と西域の伎楽を都に運び、玄宗は道教を国教とし司馬承禎ら道士を宮中に迎えた。742年に楊玉環が貴妃に冊立され、翰林供奉という非正規の文学侍臣の地位が詩人を宮廷に近づけた。蜀の険しい桟道、長江三峡の急流、江南の水郷は依然として広大な漫遊の舞台で、剣と酒と道教の神仙術は士人の素養として生きていた。755年、安禄山が范陽で挙兵し、永王李璘の南方蜂起と兄粛宗の討伐が、十一歳年下の杜甫と並ぶ盛唐の二大詩人をともに巻き込んでいく。
01罪人の舟 ― 長江をさかのぼる
757年、一人の罪人が長江をさかのぼっていた。行き先は夜郎。今の貴州省の奥地にあたる、流刑の地である。罪名は、反乱に加わった罪だった。
罪人の名は李白、56歳。ただの詩人ではない。十数年前には、玄宗皇帝みずからが都に迎えた男である。人びとは彼を謫仙人と呼んだ。天から地上へ流された仙人、という意味だ。
その仙人が、いま本物の流罪の身になっている。皇帝に愛された詩人は、なぜ罪人になったのか。それを知るには、時を56年前に戻さなければならない。
02どこから来た子か ― 謎の出自
701年、李白は生まれた。姓は李、名は白。成人後の呼び名(字)は太白、号は青蓮居士という。ところが、生まれた場所がはっきりしない。
一つは砕葉説。今のキルギス共和国トクマク近郊で、当時は唐の西のはて(安西都護府の管内)だった。もう一つは蜀説。今の四川省、綿州昌隆県(現在の江油市青蓮郷)である。後に李白の墓碑銘を書いた范伝正の記述は、砕葉説を支える。それによれば、5歳のとき父の李客に連れられて蜀へ移った。
父の李客も、正体がよく分からない。商人だった。漢の名将・李広の子孫だった。西域の血を引く。王族の末裔だった。どの説にも、確かな証拠がない。
この出自の不透明さが、少年の運命を左右したとされる。唐の制度では、商人の子は進士の試験に応じられない。役人になる正面の門、科挙が閉ざされていたのだ。かわりに少年が手にしたのは、剣と仙と書物だった。
蜀で育った李白は、10代で『詩経』『楚辞』から諸子百家まで広く読んだ。15歳で辞賦(韻を踏む文章)を作り、剣術も学んだと自分で記す(『与韓荊州書』)。学者の趙蕤(ちょうすい)には、帝王学や交渉の術を学んだと伝わる。20歳前後には峨眉山(がびざん)で道士と交わり、道教の神仙修行にも深入りした。正面の門を閉ざされた青年は、では、どの道から世に出るのか。
03剣を仗いて国を去る
724年、李白は蜀を離れた。長江を下る、帰らない旅の始まりである。彼自身の言葉が残る ―「仗剣去国、辞親遠遊」(剣を仗(つ)き国を去り、親に辞して遠く遊ぶ)。以後、故郷の蜀には二度と帰らなかった。
三峡の急流を下り、荊州、武漢、襄陽、金陵(今の南京)、揚州、会稽(今の紹興)を巡った。727年ごろ、安陸(今の湖北省)で結婚する。相手は元宰相・許圉師の孫娘、許氏だった。形は入婿で、都での出仕の足がかりを得る縁組みという面もあった。娘の平陽と息子の伯禽が生まれたが、李白は家に腰を落ち着けず、漫遊を続けた。
730年ごろ、初めて長安に上った。頼ったのは玉真公主。の妹で、道教に深く帰依していた人である。しかし、謁見はかなわなかった。
それでも、詩の名声は広まっていく。詩人の孟浩然と親しく交わった。道教の大師・司馬承禎はこう讃えた ―「子は仙風道骨、神遊八極の表を可とす」(仙の風と道の骨、精神は八極の外に遊ぶ)。そして老詩人の賀知章が長安で李白の詩を読み、「子は謫仙人(たくせんにん)なり」と叫んだという逸話が伝わる(後の時代の説話で、くわしくは終盤の章で扱う)。天から流された仙人。この呼び名が、李白の代名詞になった。
742年、その名声はついに宮廷へ届く。都から、使いが来た。
04皇帝のそばで ― 栄光の2年余り
742年、李白は玄宗皇帝に召され、長安に入った。推挙したのは玉真公主や、道士の呉筠と伝わる。玄宗はみずから李白を迎え、翰林供奉に任じた。正式の官職ではない。詔勅の下書きや詩文を担う、宮廷の文学侍従である。
沈香亭で牡丹を観る宴でのことだった。玄宗と楊貴妃の前で、李白は清平調詞三首を即席で詠んだ ―「雲想衣裳花想容、春風払檻露華濃」(雲は衣裳を想わせ花は容を想わせる)。の美しさを雲と花に重ねたこの詩は、以後千年、牡丹と美女を詠う詩の手本となる。
だが、宮廷の暮らしは長く続かなかった。権力者の宦官・高力士との確執など、有名な逸話がいくつも伝わる(その史実性も終盤の章で扱う)。確かなのは、李白と宮廷の間にずれが生じていたことだ。744年、李白は金を賜って長安を去る。賜金放還という。皇帝のそばの詩人という頂点にいたのは、正味2〜3年だった。
花間一壺酒、独酌無相親。挙杯邀明月、対影成三人
にぎわいの都を出た李白を、洛陽で一人の若い詩人が待っていた。
05杜甫との夏 ― 詩仙と詩聖
744年の夏、李白は洛陽で杜甫と出会った。杜甫は11歳年下で、まだ官職もない。かたや李白は、並ぶ者のない謫仙人である。二人はその夏から秋を、共に旅して過ごした。後に名将となる高適(こうてき)も加わり、梁宋(今の河南省商丘・開封のあたり)で狩りと酒と詩作を重ねた。
杜甫は当時をこう詠んでいる ―「酔眠秋共被、携手日同行」(酔うて秋の被に眠り、手をとって日々共に行く)(『与李十二白同尋范十隠居』)。同じ布団で眠り、手を取って歩く。11歳の差を越えた、兄弟のような近さだった。
745年、二人は兗州(えんしゅう)で再会し、別れた。それが最後の対面になる。以後は手紙で詩を送り合った。杜甫は李白への詩を十数首残し、最高の評価を与えている ―「白也詩無敵、飄然思不群」(白や詩に敵なし、飄然として思い群せず)。詩仙と詩聖。中国の詩の二つの頂を結ぶ友情は、たった一つの夏から生まれた。
だがその10年後、二人が生きた盛唐の世は、音を立てて崩れる。
06乱と誤算 ― ふたたび罪人の舟
755年、武将の安禄山が范陽で反乱を起こした。である。都は混乱し、玄宗は蜀へ逃れた。李白はこのとき、廬山(ろざん)に隠れ住み、『』を詠んでいた。
そこへ、玄宗の十六番目の子・永王李璘が現れる。永王は江南で兵を集めており、李白はその幕僚に加わった。『永王東巡歌』十一首を詠み、王の正義を讃えた。だがそれは、政局を読み誤った選択だった。都では玄宗が退き、兄の粛宗が即位していた。二つの朝廷が並び立つ、危うい過渡期だったのである。
粛宗は永王の行動を反逆とみなし、757年に討伐した。李白は連座して潯陽(今の江西省九江)で投獄され、夜郎への流刑を命じられた。冒頭の、長江をさかのぼる罪人の舟である。天から流された仙人は、こうして地上でも流された。
759年、舟が白帝城(今の重慶奉節、巫山の西に近い)まで進んだとき、大赦が届いた。放免である。李白はその場で『』を詠む ―「朝辞白帝彩雲間、千里江陵一日還。両岸猿声啼不住、軽舟已過万重山」(朝に白帝を辞す彩雲の間、千里の江陵を一日に還る)。赦免の歓びと長江の雄大さが、28字に凝縮されている。だがこのとき、李白に残された時間は3年しかなかった。
07月に還る
赦免後の李白は病み衰え、各地を転々とした。761年、当塗(今の安徽省馬鞍山市)にたどり着く。頼ったのは、当塗の県令を務める父方の親族(族叔)、李陽冰だった。李陽冰は、李白の詩の原稿を整理する役目を引き受ける。
762年11月、李白は当塗で世を去った。数えで62歳(満61歳)。正史は病没とだけ記す。しかし後の時代、別の物語が広まった。采石(さいせき)の川の上で月を捕らえようとして、水に落ちて死んだ ― という伝説である。月下独酌の詩人が、月に溶けて消えた。史実ではない。それでも人びとは、この最期こそ李白にふさわしいと感じ続けてきた。
花間一壺酒、独酌無相親。挙杯邀明月、対影成三人。
花の間に酒壺ひとつ。杯を挙げて月を招き、影を連れて三人。月と酒と剣があれば、あとは何がいるのか。李白は、答えを書き残さなかった。あなたなら、何と答えるだろうか。
08考証 ― 伝説の生まれ方とテキストの旅
李白をめぐる有名な逸話の多くは、後代の説話としてその成立史を検討する必要がある。が李白の詩を一読して「子は謫仙人なり」と叫んだという逸話は、『本事詩』など晩唐〜宋以降の説話に伝わるもので、対象となった詩にも『』説と『烏棲曲』説など諸説があり、史実性には諸説がある。高力士に靴を脱がせた、楊貴妃を詠じた詩を高力士が讒言して恨んだ、などの宮廷逸話も『松窗雑録』『本事詩』など中唐以降の筆記による伝承で、史実ではなく後代の説話として扱うのが妥当である。ただし、期の李白と宮廷との間に齟齬が生じていたこと自体は動かない。
采石の水死伝説も同様である。正史『旧唐書』『新唐書』はいずれも病没とのみ記す。五代の『唐摭言』などに早期の説話が現れ、明の『警世通言』などで通俗文学として広く流布するに至った。史実ではないが、この伝説は李白の詩的自画像と分かちがたく結びついている。
テキストの伝承をたどると、李陽冰が編んだ『草堂集』10巻は散逸したが、李陽冰は李白の死後『草堂集序』を書いて後世への手渡しを行なった。宋代の宋敏求・曾鞏らによって『李太白文集』30巻に整理され、今日まで約1000首の詩が伝わる。李白の詩は古体(古風な自由体)と楽府(歌謡体)を得意とし、近体詩の規則に縛られない。七言歌行の『』『蜀道難』『夢遊天姥吟留別』などは中国詩史の最高峰とされる。飛流直下三千尺、朝辞白帝彩雲間、天生我材必有用、千金散尽還復来 ― 一句だけで千年を生き延びる詩句が、彼の詩集には無数にある。
09主要な出来事と著作
- 生まれる(砕葉または蜀綿州、諸説あり)。幼くして蜀に移住
- 15歳で辞賦を作り、剣術を学ぶ。趙蕤に縦横家の術
- 蜀の峨眉山・大匡山で道士と交遊、道教修行
- 24歳、蜀を出て長江を下り漫遊の生涯を開始
- 安陸で許氏(前宰相許圉師の孫娘)と結婚
- 長安に初上京、玉真公主への謁見を望むも成らず
- 賀知章に「謫仙人」と呼ばれたと後代の説話に伝わる(史実性には諸説あり)。詩名が長安に広まる
- 玄宗に召されて翰林供奉となる、『清平調』三首を沈香亭で詠む
- 長安を辞す(賜金放還)。夏に洛陽で杜甫と出会い梁宋を漫遊
- 兗州で杜甫と再会、これが二人の最後の直接の対面
- 安史の乱。廬山に隠棲後、玄宗十六子の永王李璘の幕僚に加わる
- 永王李璘討伐に連座し潯陽で投獄、夜郎流刑となる
- 白帝城で大赦、『早発白帝城』を詠む
- 当塗の族叔李陽冰のもとに身を寄せる
- 11月、当塗で没。数え62(満61)。正史は病没、後代に采石の水死伝説が広まる
残した思想の輪郭
- 謫仙人 ― 天から落とされた仙人という自己像、道教的自由と俗世超越の美学
- 月・酒・剣 ― 三つの芯の周りに回る詩世界、『月下独酌』に凝縮される孤独と祝祭
- 古体との大家 ― 自由な古風体で七言歌行を最高峰へ、近体詩の規則に縛られない
- 天生我材必有用 ― 天与の才は必ず用がある、自負と憂愁が同居する生命観
- 漂泊と政治への憧憬 ― 宰相になりたい志と宮廷への嫌気、生涯往還する二重の欲望
- 杜甫との友誼 ― 744〜745年の交遊、との出会いが中国詩史の二つの頂を結ぶ
- 采石の月の伝説 ― 史実ではないが詩人の生涯そのものを象徴する詩的な死の物語
つながり
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生きた跡を辿るPlaces
李白が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 李白墓園(青山)墓所
馬鞍山, 中国 — 李白墓
当塗県青山に営まれた李白の墓園、詩人の愛した景勝地
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「李白」項
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