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風土の知恵

李白

Li Bai·701–762·中国(唐)·

月と酒と剣があれば、 あとは何がいるのか?

月と酒と剣を詩の芯に据え、「詩仙」「謫仙人」と呼ばれた盛唐の漂泊詩人

  • 謫仙人
  • 月下独酌
  • 詩仙
  • 将進酒
栄華のきわみにあった都の足もとで、帝国を裂く大乱が静かに近づいていた — ひらく

時代の空気

唐玄宗の開元・天宝期(712-755)、長安と洛陽は人口百万の世界都市として最盛期を迎えていた。シルクロードは中央アジアの胡商と西域の伎楽を都に運び、玄宗は道教を国教とし司馬承禎ら道士を宮中に迎えた。742年に楊玉環が貴妃に冊立され、翰林供奉という非正規の文学侍臣の地位が詩人を宮廷に近づけた。蜀の険しい桟道、長江三峡の急流、江南の水郷は依然として広大な漫遊の舞台で、剣と酒と道教の神仙術は士人の素養として生きていた。755年、安禄山が范陽で挙兵し、永王李璘の南方蜂起と兄粛宗の討伐が、十一歳年下の杜甫と並ぶ盛唐の二大詩人をともに巻き込んでいく。

01罪人の舟 ― 長江をさかのぼる

757年、一人の罪人が長江をさかのぼっていた。行き先は夜郎やろう。今の貴州省の奥地にあたる、流刑るけいの地である。罪名は、反乱に加わった罪だった。

罪人の名は李白りはく、56歳。ただの詩人ではない。十数年前には、玄宗げんそう皇帝みずからが都に迎えた男である。人びとは彼を謫仙人たくせんにんと呼んだ。天から地上へ流された仙人、という意味だ。

その仙人が、いま本物の流罪の身になっている。皇帝に愛された詩人は、なぜ罪人になったのか。それを知るには、時を56年前に戻さなければならない。

02どこから来た子か ― 謎の出自

701年、李白は生まれた。姓は李、名は白。成人後の呼び名(字)は太白、号は青蓮居士という。ところが、生まれた場所がはっきりしない。

一つは砕葉さいよう説。今のキルギス共和国トクマク近郊で、当時は唐の西のはて(安西都護府の管内)だった。もう一つはしょく説。今の四川省、綿州昌隆県(現在の江油市青蓮郷)である。後に李白の墓碑銘を書いた范伝正の記述は、砕葉説を支える。それによれば、5歳のとき父の李客に連れられて蜀へ移った。

父の李客も、正体がよく分からない。商人だった。漢の名将・李広の子孫だった。西域の血を引く。王族の末裔だった。どの説にも、確かな証拠がない。

この出自の不透明さが、少年の運命を左右したとされる。唐の制度では、商人の子は進士の試験に応じられない。役人になる正面の門、科挙が閉ざされていたのだ。かわりに少年が手にしたのは、剣と仙と書物だった。

蜀で育った李白は、10代で『詩経』『楚辞』から諸子百家まで広く読んだ。15歳で辞賦(韻を踏む文章)を作り、剣術も学んだと自分で記す(『与韓荊州書』)。学者の趙蕤(ちょうすい)には、帝王学や交渉の術を学んだと伝わる。20歳前後には峨眉山(がびざん)で道士と交わり、道教の神仙修行にも深入りした。正面の門を閉ざされた青年は、では、どの道から世に出るのか。

03剣を仗いて国を去る

724年、李白は蜀を離れた。長江を下る、帰らない旅の始まりである。彼自身の言葉が残る ―「仗剣去国、辞親遠遊」(剣を仗(つ)き国を去り、親に辞して遠く遊ぶ)。以後、故郷の蜀には二度と帰らなかった。

三峡の急流を下り、荊州、武漢、襄陽、金陵(今の南京)、揚州、会稽(今の紹興)を巡った。727年ごろ、安陸(今の湖北省)で結婚する。相手は元宰相・許圉師の孫娘、許氏だった。形は入婿いりむこで、都での出仕の足がかりを得る縁組みという面もあった。娘の平陽と息子の伯禽が生まれたが、李白は家に腰を落ち着けず、漫遊まんゆうを続けた。

730年ごろ、初めて長安に上った。頼ったのは玉真公主。の妹で、道教に深く帰依していた人である。しかし、謁見はかなわなかった。

それでも、詩の名声は広まっていく。詩人の孟浩然もうこうねんと親しく交わった。道教の大師・司馬承禎はこう讃えた ―「子は仙風道骨、神遊八極の表を可とす」(仙の風と道の骨、精神は八極の外に遊ぶ)。そして老詩人の賀知章がちしょうが長安で李白の詩を読み、「子は謫仙人(たくせんにん)なり」と叫んだという逸話が伝わる(後の時代の説話で、くわしくは終盤の章で扱う)。天から流された仙人。この呼び名が、李白の代名詞になった。

742年、その名声はついに宮廷へ届く。都から、使いが来た。

04皇帝のそばで ― 栄光の2年余り

742年、李白は玄宗皇帝に召され、長安に入った。推挙したのは玉真公主や、道士の呉筠と伝わる。玄宗はみずから李白を迎え、翰林供奉かんりんぐぶに任じた。正式の官職ではない。詔勅の下書きや詩文を担う、宮廷の文学侍従である。

沈香亭で牡丹を観る宴でのことだった。玄宗と楊貴妃ようきひの前で、李白は清平調詞せいへいちょうし三首を即席で詠んだ ―「雲想衣裳花想容、春風払檻露華濃」(雲は衣裳を想わせ花は容を想わせる)。の美しさを雲と花に重ねたこの詩は、以後千年、牡丹と美女を詠う詩の手本となる。

だが、宮廷の暮らしは長く続かなかった。権力者の宦官・高力士との確執など、有名な逸話がいくつも伝わる(その史実性も終盤の章で扱う)。確かなのは、李白と宮廷の間にずれが生じていたことだ。744年、李白は金を賜って長安を去る。賜金放還しきんほうかんという。皇帝のそばの詩人という頂点にいたのは、正味2〜3年だった。

花間一壺酒、独酌無相親。挙杯邀明月、対影成三人

李白『月下独酌』其の一 ― 花の間に酒壺ひとつ、杯を挙げて月を招き、影と合わせて三人になる

にぎわいの都を出た李白を、洛陽で一人の若い詩人が待っていた。

05杜甫との夏 ― 詩仙と詩聖

744年の夏、李白は洛陽で杜甫とほと出会った。杜甫は11歳年下で、まだ官職もない。かたや李白は、並ぶ者のない謫仙人である。二人はその夏から秋を、共に旅して過ごした。後に名将となる高適(こうてき)も加わり、梁宋(今の河南省商丘・開封のあたり)で狩りと酒と詩作を重ねた。

杜甫は当時をこう詠んでいる ―「酔眠秋共被、携手日同行」(酔うて秋の被に眠り、手をとって日々共に行く)(『与李十二白同尋范十隠居』)。同じ布団で眠り、手を取って歩く。11歳の差を越えた、兄弟のような近さだった。

745年、二人は兗州(えんしゅう)で再会し、別れた。それが最後の対面になる。以後は手紙で詩を送り合った。杜甫は李白への詩を十数首残し、最高の評価を与えている ―「白也詩無敵、飄然思不群」(白や詩に敵なし、飄然として思い群せず)。詩仙しせん詩聖しせい。中国の詩の二つの頂を結ぶ友情は、たった一つの夏から生まれた。

だがその10年後、二人が生きた盛唐の世は、音を立てて崩れる。

06乱と誤算 ― ふたたび罪人の舟

755年、武将の安禄山あんろくざんが范陽で反乱を起こした。である。都は混乱し、玄宗は蜀へ逃れた。李白はこのとき、廬山(ろざん)に隠れ住み、『』を詠んでいた。

そこへ、玄宗の十六番目の子・永王李璘えいおうりりんが現れる。永王は江南で兵を集めており、李白はその幕僚に加わった。『永王東巡歌』十一首を詠み、王の正義を讃えた。だがそれは、政局を読み誤った選択だった。都では玄宗が退き、兄の粛宗が即位していた。二つの朝廷が並び立つ、危うい過渡期だったのである。

粛宗は永王の行動を反逆とみなし、757年に討伐した。李白は連座して潯陽じんよう(今の江西省九江)で投獄され、夜郎への流刑を命じられた。冒頭の、長江をさかのぼる罪人の舟である。天から流された仙人は、こうして地上でも流された。

759年、舟が白帝城(今の重慶奉節、巫山の西に近い)まで進んだとき、大赦たいしゃが届いた。放免である。李白はその場で『』を詠む ―「朝辞白帝彩雲間、千里江陵一日還。両岸猿声啼不住、軽舟已過万重山」(朝に白帝を辞す彩雲の間、千里の江陵を一日に還る)。赦免の歓びと長江の雄大さが、28字に凝縮されている。だがこのとき、李白に残された時間は3年しかなかった。

07月に還る

赦免後の李白は病み衰え、各地を転々とした。761年、当塗とうと(今の安徽省馬鞍山市)にたどり着く。頼ったのは、当塗の県令を務める父方の親族(族叔)、李陽冰りようひょうだった。李陽冰は、李白の詩の原稿を整理する役目を引き受ける。

762年11月、李白は当塗で世を去った。数えで62歳(満61歳)。正史は病没とだけ記す。しかし後の時代、別の物語が広まった。采石(さいせき)の川の上で月を捕らえようとして、水に落ちて死んだ ― という伝説である。月下独酌の詩人が、月に溶けて消えた。史実ではない。それでも人びとは、この最期こそ李白にふさわしいと感じ続けてきた。

花間一壺酒、独酌無相親。挙杯邀明月、対影成三人。

李白『月下独酌』其の一 ― 月を友に独り酌んだ詩人は、月をつかもうとして死んだと語り継がれた

花の間に酒壺ひとつ。杯を挙げて月を招き、影を連れて三人。月と酒と剣があれば、あとは何がいるのか。李白は、答えを書き残さなかった。あなたなら、何と答えるだろうか。

08考証 ― 伝説の生まれ方とテキストの旅

李白をめぐる有名な逸話の多くは、後代の説話としてその成立史を検討する必要がある。が李白の詩を一読して「子は謫仙人なり」と叫んだという逸話は、『本事詩』など晩唐〜宋以降の説話に伝わるもので、対象となった詩にも『』説と『烏棲曲』説など諸説があり、史実性には諸説がある。高力士に靴を脱がせた、楊貴妃を詠じた詩を高力士が讒言して恨んだ、などの宮廷逸話も『松窗雑録』『本事詩』など中唐以降の筆記による伝承で、史実ではなく後代の説話として扱うのが妥当である。ただし、期の李白と宮廷との間に齟齬が生じていたこと自体は動かない。

采石の水死伝説も同様である。正史『旧唐書』『新唐書』はいずれも病没とのみ記す。五代の『唐摭言』などに早期の説話が現れ、明の『警世通言』などで通俗文学として広く流布するに至った。史実ではないが、この伝説は李白の詩的自画像と分かちがたく結びついている。

テキストの伝承をたどると、李陽冰が編んだ『草堂集』10巻は散逸したが、李陽冰は李白の死後『草堂集序』を書いて後世への手渡しを行なった。宋代の宋敏求・曾鞏らによって『李太白文集』30巻に整理され、今日まで約1000首の詩が伝わる。李白の詩は古体(古風な自由体)と楽府がふ(歌謡体)を得意とし、近体詩の規則に縛られない。七言歌行の『』『蜀道難』『夢遊天姥吟留別』などは中国詩史の最高峰とされる。飛流直下三千尺、朝辞白帝彩雲間、天生我材必有用、千金散尽還復来 ― 一句だけで千年を生き延びる詩句が、彼の詩集には無数にある。

09主要な出来事と著作

  1. 生まれる(砕葉または蜀綿州、諸説あり)。幼くして蜀に移住
  2. 15歳で辞賦を作り、剣術を学ぶ。趙蕤に縦横家の術
  3. 蜀の峨眉山・大匡山で道士と交遊、道教修行
  4. 24歳、蜀を出て長江を下り漫遊の生涯を開始
  5. 安陸で許氏(前宰相許圉師の孫娘)と結婚
  6. 長安に初上京、玉真公主への謁見を望むも成らず
  7. 賀知章に「謫仙人」と呼ばれたと後代の説話に伝わる(史実性には諸説あり)。詩名が長安に広まる
  8. 玄宗に召されて翰林供奉となる、『清平調』三首を沈香亭で詠む
  9. 長安を辞す(賜金放還)。夏に洛陽で杜甫と出会い梁宋を漫遊
  10. 兗州で杜甫と再会、これが二人の最後の直接の対面
  11. 安史の乱。廬山に隠棲後、玄宗十六子の永王李璘の幕僚に加わる
  12. 永王李璘討伐に連座し潯陽で投獄、夜郎流刑となる
  13. 白帝城で大赦、『早発白帝城』を詠む
  14. 当塗の族叔李陽冰のもとに身を寄せる
  15. 11月、当塗で没。数え62(満61)。正史は病没、後代に采石の水死伝説が広まる

残した思想の輪郭

  • 謫仙人 ― 天から落とされた仙人という自己像、道教的自由と俗世超越の美学
  • 月・酒・剣 ― 三つの芯の周りに回る詩世界、『月下独酌』に凝縮される孤独と祝祭
  • 古体との大家 ― 自由な古風体で七言歌行を最高峰へ、近体詩の規則に縛られない
  • 天生我材必有用 ― 天与の才は必ず用がある、自負と憂愁が同居する生命観
  • 漂泊と政治への憧憬 ― 宰相になりたい志と宮廷への嫌気、生涯往還する二重の欲望
  • 杜甫との友誼 ― 744〜745年の交遊、の出会いが中国詩史の二つの頂を結ぶ
  • 采石の月の伝説 ― 史実ではないが詩人の生涯そのものを象徴する詩的な死の物語
宝応元年(762年)11月、安徽当塗の族叔李陽冰のもとで没。62歳。採石で月を捕らえようとして溺死したという伝説は後代の作で、正史の病没に重なる。

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李白が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

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