ライプニッツ
この世界は本当に、 ありえた中でいちばん良いのか?
モナドと予定調和で宇宙を設計した、微積分を独立発見した汎知(はんち)の天才
- モナド
- 予定調和
- 微積分
- 最善世界
長い戦争で砕けた小国の集まりドイツが、学問と外交の力で大国に並ぼうとしていた時代 — ひらく
時代の空気
三十年戦争(1618-1648)の傷が残る神聖ローマ帝国は数百の領邦に分かれ、ライプニッツが生まれた1646年はまだ講和直前だった。ルイ14世のフランスが東方拡大を続けるなか、マインツ・ハノーファー・ベルリンの諸宮廷は外交と科学アカデミー創設で対抗し、1700年にはライプニッツ自身がベルリン科学アカデミーを開いた。カトリック・ルター派・改革派の和解は神学外交の課題であり、王立協会(1660)・パリ科学アカデミー(1666)を結ぶ書簡共和国の中で、ニュートンとの微積分優先権論争が国家の威信と絡みながら進行した。
01誰も来なかった葬儀
1716年11月14日、ドイツ北部の町ハノーファー。一人の老人が、自宅で息を引き取った。痛風と腎臓結石の悪化だった。70歳。名を、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツという。
ただの老人ではなかった。今も世界中の教科書に載る微積分の記号を作った数学者。ベルリン科学アカデミーを開いた初代院長。ヨーロッパ各地の宮廷を渡り歩いた外交官でもあった。
それなのに、臨終に立ち会ったのは身近な筆記者と医師だけだったと伝わる。ハノーファー宮廷は喪を発しなかった。長年仕えた王からの弔問もなかった。葬儀に身分ある参列者として名が残るのは、助手を務めた歴史家エックハルトくらいだった。
彼が自ら開いたベルリン科学アカデミーさえ、開祖の死を公式には発表しなかった。追悼演説をしたのは、外国のパリ科学アカデミーだけだった。葬儀は簡素で、墓には長いあいだ目印さえなかった。
なぜ、これほどの人物が、これほど静かに見送られたのか。その答えを探すために、時は70年前に戻る。1646年、ライプツィヒ。
02父の書庫で育った少年
1646年7月1日、ライプニッツは学問の町ライプツィヒに生まれた。父フリードリヒ・ライプニッツは、ライプツィヒ大学の道徳哲学の教授だった。だが父は、ゴットフリートが6歳のとき(1652年)に世を去る。残されたのは、法律・神学・古典文学・歴史の本が並ぶ蔵書だった。
少年はやがて、その書庫への自由な出入りを許された。父の本を相手に、独りでラテン語に親しんだ。十代の初めにはギリシア語にも手を広げた。「あの子は毎日ラテン語の本と暮らしている」。近所の奥さんたちがそう噂したという逸話が残る。
15歳でライプツィヒ大学に入学し、哲学と法律を修めた。19歳で博士号の取得を申請したが、「若すぎる」と却下される。1666年、ニュルンベルク近郊のアルトドルフ大学で博士号を取得した。大学は教授の職を用意したが、彼は断った。
このころ彼の心には、すでに大きな夢があった。あらゆる学問を一つの枠組みでつなぐ「普遍学(scientia universalis)」である。博士論文と並行して『組合せ術について(De Arte Combinatoria)』を書き、のちの記号論理につながる、学の最も早い試みを行った。では、大学に残らなかった青年は、どこでその夢を追うのか。
03パリで数学の最前線へ
答えは、宮廷だった。1667年、元外交官ボイネブルクとの出会いから、マインツ選帝侯(皇帝を選ぶ権利を持つ領主)の宮廷へ道が開けた。彼は法律を整理し直す法典編纂の仕事に関わっていく。並行して、プロテスタントとカトリックの教会を再び一つにするという、壮大な夢も追い始めた。この夢は、デカルト主義・・ルター派神学の間を縫う、微妙な外交の腕を要求した。
1672年、外交使節としてパリへ派遣された。表向きの任務は、フランス王ルイ14世の矛先をドイツからエジプトへ向けさせる計画の提案だった(実現はしなかった)。だが4年におよぶパリ滞在(1672-1676)は、彼にとって数学と物理学の本当の学校になった。
当時のヨーロッパ最高の数学者・物理学者クリスティアーン・ホイヘンス(1629-1695)の指導を受け、彼は17世紀数学の最前線に追いついた。そして1675年の秋、独自に微積分の基本定理と記法を発見する。彼の考えた記号(dx、∫)は、今も世界中の教科書で使われている。
だがこのとき、海の向こうのイギリスには、同じものをすでに見つけていた男がいた。
04もう一人の発見者
その男が、アイザック・ニュートンである。1665年から翌年、ペストの流行で大学が閉まっていた間に、当時22歳のニュートンは「流率法(fluxions)」と呼ぶ形で微積分をすでに発見していた。だが彼は、それを長く発表しなかった。1684年にライプニッツが微積分を最初に印刷公表したときも、ニュートンは沈黙していた。
1690年代、争いが始まる。のちに「」と呼ばれる争いである。ライプニッツは、ニュートンの仕事を知らずに独立に発見したと主張した。ニュートン派は、ライプニッツが1673年と1676年のロンドン訪問時にニュートンの未発表ノートを見て剽窃(盗み写し)したと主張した。
1711年、ライプニッツはロンドン王立協会に抗議の書簡を送った。これをきっかけに翌1712年3月6日、協会は公式の調査委員会を設置し、4月24日に報告をまとめた。だが、協会の会長はニュートン本人だった。委員は全員ニュートン派で、氏名は非公開。最終報告書は、ニュートン自身が匿名で執筆した。
同1712年末に刊行された報告書『Commercium Epistolicum』(往復書簡集)は、ニュートンの優先権を認め、ニュートン派のジョン・キールの主張を擁護する形で、ライプニッツへの剽窃疑惑を強く示唆した。報告書は翌1713年以降、広く流布した。
現代の学史の結論はこうだ。二人は独立に発見した。ただし記法と公表はライプニッツが先、着想と応用はニュートンが先。しかし当時、そのような公平な裁きはなかった。論争はライプニッツの晩年を精神的に消耗させ、死後何十年もイギリスとドイツの数学者を分断した。イギリスは愛国心からニュートンの記法に固執し、結果として18世紀のイギリス数学は大陸に遅れを取ることになる。
それでも、ライプニッツの手は止まらなかった。彼には、ハノーファーという仕事場があった。
05ハノーファーの「何でも屋」
時を少し戻す。1676年、パリからの帰り道、ライプニッツはオランダに立ち寄った。ハーグの町で、哲学者スピノザ(1632-1677)を訪ねている。数日にわたる対談と、未刊の主著『』の原稿の閲覧があったと、本人の書簡は伝える。神と自然を一つと見るスピノザの「」の一元論は、ライプニッツが取らなかった道として、しかし無視できない思考の相手として、その後の思想形成に影響した。
その足で彼はハノーファー(現在のドイツ・ニーダーザクセン)に入った。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ヨハン・フリードリヒに、宮廷図書館長・宮廷史家として仕えるためである。以後40年、この町が彼の本拠になった。
そこでの働きぶりは、驚くほど幅広かった。
- 加減乗除ができる機械式計算機「」の設計・試作(1673年・1694年)
- 二進法(0と1だけで数を表す方法)の研究。フランス人宣教師ブーヴェが1701年の書簡に添えた易経六十四卦の図を1703年に受け取り、二進法との対応を見出した
- ハルツ銀山の水力機械の改良計画(10年かけて失敗)
- ベルリン科学アカデミーの創設(1700年、初代院長)
- ブラウンシュヴァイク家の史書編纂(一族の由来を中世まで辿る大プロジェクト、未完)
- キリスト教諸派の統一計画(カトリックのボシュエとの長い書簡、カトリック・ルター派・改革派の和解)
- ロシア近代化の提案(ピョートル大帝への書簡と、1711・1712・1716年の面談)
そして1714年、転機が来る。仕えていたハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが、ジョージ1世としてイギリス王の座に就いたのだ(1701年の王位継承法により、プロテスタントの血筋が王位を継ぐことが決まっており、カトリック系の近親請求者は排除されていた)。ライプニッツもロンドンへの同行を期待した。だが王は、ニュートン派のイギリス学界に配慮し、68歳のライプニッツをハノーファーに置き去りにした。これは静かな屈辱だった。
置き去りにされた老人の頭の中には、しかし、生涯をかけて磨いた一つの宇宙像があった。それは、晩年の二冊の書物に凝縮されている。
06『弁神論』と『モナドロジー』――思想の核心
晩年の二冊が、彼の思想を最も明確に提示する。
1710年、『弁神論(Essais de Théodicée)』がアムステルダムで刊行された。この書は親交のあったプロイセン王妃ゾフィア・シャーロッテとの対話に始まり、ピエール・ベイルの『歴史批評辞典』が突きつけた信仰と理性の緊張、悪の問題への懐疑に応答した神義論の大著で、「この世界は可能な全ての世界の中で最善である」という有名なテーゼを展開した。
我々が住むこの世界は、可能な全ての世界の中で最善である
神は無限の可能世界を見通し、その中で最大の完全性と調和を含む世界を選んで創造した。悪は神が許容するものとして、全体の最善の相貌の中に位置づけられる、と。この楽観主義は1755年のリスボン地震後にヴォルテール『カンディード』(1759)で徹底的に諷刺され、18世紀啓蒙思想の攻撃対象となった。
1714年、ウィーン滞在期に書かれた90節の小篇『モナドロジー(単子論)』は、後期ライプニッツ哲学の凝縮である。
には窓がない。何も内に入って来ず、何も外に出ていかない。偶有性はスコラ学者の可感的形象のように、一つの実体から離れて別の実体へ移動することもない。
モナドは宇宙の究極の単位である。物質的な原子ではなく、力を持つ精神的な単純実体。空間的な部分を持たず、他のモナドと物理的に作用し合うことはない。それでも全てのモナドはそれぞれの明晰さの度合いで宇宙全体を表現しており、予定調和(harmonia praestabilita)によって神の創造の瞬間から完全に同期している。
これは世界の多元的統一のビジョンだった。無数のモナドがそれぞれに宇宙を映しながら、しかし全体の秩序は神の設計により完全に調和している。デカルトのとスピノザの一元論の間で、ライプニッツは質的多元論を提示した。
07ふたたび、1716年11月14日
こうして時は、冒頭の場面に追いつく。1716年11月14日、ハノーファー。ロンドンの宮廷からも、自ら開いたアカデミーからも遠く離れて、ライプニッツは世を去った。
なぜ、誰も来なかったのか。もう、その理由は見えているはずだ。ニュートンとの論争は、新しい王の国イギリスで彼の名を傷つけていた。教会の統一も、家の史書も、銀山の機械も、多くの計画は未完のままだった。あらゆる分野に足を置いた人は、どの分野からも「身内」として見送られなかったのかもしれない。
だが、物語はそこで終わらなかった。彼の膨大な遺稿――約15,000通の書簡と、50,000枚以上の手稿――はハノーファー王室図書館に引き継がれ、ほとんどが未整理のまま200年以上眠った。1923年からベルリン科学アカデミーによる『ライプニッツ全集(Academy Edition)』の編纂が始まり、100年経った現在もまだ完結していない。
ライプニッツの全体像は、死後徐々に見えてきた。カント、ヘーゲル、ラッセル、フッサールが次々に彼を再読した。20世紀、計算機と論理学の発展のなかで、彼は記号論理と数理論理学の先駆者として再評価された。ノーバート・ウィーナーは『サイバネティクス』でライプニッツを「情報理論の守護聖人」と呼んだ。
葬儀に誰も来なかった人が、300年後の教科書と計算機の中に生きている。では、あなたはどう考えるだろう。失敗も、争いも、置き去りも含んだこの世界を――それでも「可能な世界の中で最善」と呼べるだろうか。
08主要な出来事と著作
- ライプツィヒに誕生
- 父没、6歳
- 15歳でライプツィヒ大学入学
- アルトドルフ大学で博士号、『組合せ術について』
- パリ外交使節。ホイヘンスに師事、微積分独立発見(1675)
- ロンドン訪問(後に剽窃疑惑の口実とされる)
- ハーグでスピノザに面会、ハノーファーへ
- 微積分の論文を『アクタ・エルディトルム』に公表
- ニュートンとの優先権論争が始まる
- ベルリン科学アカデミー創設、初代院長
- 中国の易経と二進法の関連を発見(ブーヴェの書簡)
- 『弁神論』刊行
- ライプニッツが王立協会に抗議、論争が公的段階へ
- 王立協会が調査委員会を設置し報告、『Commercium Epistolicum』刊行
- パトロンがジョージ1世として渡英、ライプニッツはハノーファーに残される
- 『モナドロジー』執筆
- ハノーファーで死去。享年70
残した思想の輪郭
- ― 宇宙の究極単位は窓のない精神的な単純実体、質的多元論
- ― モナド同士は直接作用せず、神の創造時の同期だけで宇宙の秩序が成立する
- ― 神はの中で最大の完全性と調和を含む世界を選んで創造した、楽観的神義論
- 微積分 ― 独立発見、
dx∫の記法は現代数学の標準 - 二進法 ― 0と1だけで全数を表記する理論、計算機科学の先駆
- ― いかなる事実にも十分な理由がある、形而上学の基礎原理
- 記号論理・の構想 ― 「計算しよう(calculemus)」、思考を形式計算に還元する夢
つながり
- デカルト
先駆 — 心身二元論も運動量保存則も、ライプニッツの標的はまずこの人だった。
- スピノザ
対比 — ハーグで数日、未刊の『エチカ』を見せた相手。一なる実体か、無数の実体か。
- カント
批判的継承 — モナドと予定調和を批判的に組み替え、超越論哲学として再起動した人。
さらに読むならFurther Reading
ライプニッツの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門モナドロジー 他二篇
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生きた跡を辿るPlaces
ライプニッツが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
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Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Gottfried Leibniz: Metaphysics"